第2話
2 猛々しき美しい「もの」
車内に薄く漂うタバコの匂いが不快だった。
目隠しをされ、手足を縛られ、軽バンの後ろの荷台スペースに荷物のように転がされていては、なおさらだった。ちなみに財布も携帯も取り上げられている。
漫画研究会のつるし上げから解放されてから自宅に帰ろうとしていた駐輪場で自転車のカギを取り出そうとポケットに手を入れた時だった。
「おい」
と聞き覚えのある声が聞こえた。
久々津英真の弟君の声だった。英磨君だったか。
振り返ると、英磨君がいた。ナイフを握っていた。
お姉ちゃんにこれ以上会えば、殺すと言っていたが、とうとう実力行使に出たということか。
それにしても、なぜこの駐輪場でばかり、トラブルに巻き込まれるのか。
今度は刺されるのか。
本気度は英磨君の方が高い気がした。
だから、こうして促されるままに軽バンの荷台に転がされているわけだ。
しかし、どうするつもりなのか。このまま崖にでも連れていかれて落とされかねない。
「英磨君」
恐る恐る声を掛けてみる。
「なんじゃい、コラ」
明らかにガラの悪い応答をする。
「どこまで行くつもりなの」
「お前の知ったことかいや」
「まさか関西じゃないよね」
「だぁっとけダボ」
「今は高速?」
「それがどうしたんじゃ」
「ガソリンは大丈夫なの」
「……何の心配しとんじゃ。ボケ」
「こんなのが転がってたら。スタンドの店員さんどう思うだろうね」
「…………」
沈黙が答えだった。
ほんの少しの問答でだいぶ分かった。
この車はおそらく関西に向かっていること。高速道路を使っていること。どうやら、ガソリンが心もとなくなっているようであること。
「逃げないよ」
先手を打って言う。
「信用できるか」
「信用しないと関西まで行けないでしょ。誰かに言われてこんなことしてるのか、英磨君が自分で考えてしてるのか分からないけど、僕だって怪我したり、まして殺されるのは嫌だし、黙ってついてくれば何もしないっていってくれるなら、そうするよ。サービスエリアで置き去りにされても困るし」
「…………」
今度の沈黙は長かった。ような気がする。
「完全には信用してへんからな」
目隠しと手足の戒めを解かれた私はなぜか運転することになっていた。
「免許もってるんやったらしてもらおか」
助手席でナイフを突きつけながら英磨君がヘラヘラ笑う。
「お姉さんには会ったの?」
ムカついて思わず口にする。
タバコに火を着けかけていた手がぴたりと止まる。
「あぁ?」
生返事。明らかに動揺しているのがわかる。
「今度会ったら殺すって言ってたよ。言っておいてって言われたから言うけど」
すでに夜は更け12時になろうとしている。ガソリンのメーターはそろそろエンプティを指そうとしている。
「次のサービスエリアでガソリン入れないと、やばいよ」
返事がないので横を見れば英磨君は頭を抱えている。
「英磨君」
の問いかけにも答えずに、手を振っている。入れということなのだろうか。
入るよ、と念のため一声かけてサービスエリアへの車線に変更する。
「ちょっと休もか」
ため息をついて英磨君が言う。暗がりで見る英磨君の横顔は陽光の下よりも久々津英真に似ていた。
他に駐車している車のない駐車スペースに停めて、二人して休憩所に入る。英磨君はもうナイフを持ってもいない。
傍から見れば、ただの友達同士が夜のドライブをしているようにしか見えないだろう。
隣を歩く、どう見てもしょげ返っている英磨君に私は少し親しみを感じていた。ナイフで脅された件はひとまず措いておくが、うやむやにはしないつもりだった。
サービスエリアも夜ともなるとコンビニくらいしか開いていない。
コンビニに入るや英磨君はカゴを私に押し付ける。
「適当に払っといてくれや」
と言って財布をかごの中に放り込む。思いのほか、ずしっと重い。手に取って中身を見ると一万円札が百枚ほど入っている。初めて見る枚数だった。それ以外は何もない。運転免許証くらいあると思ったが、それもない。
本当に札束だけだった。やっぱり英磨君が嫌いになった。
遠慮することもないかと適当に目についたものをカゴに放り込む。英磨君もその辺の商品をかごに放り込んでくる。
会計を済ませてコンビニを出る。商品の袋を持つのも私だった。
節電のためか、照明が半分ほどに落とされた休憩スペースの窓側に座る。思い思いに自分の買ったものを黙々と食べる。休憩スペースには自分たち以外に他に誰もいない。
「なあ」
ふいに英磨君が話しかけてきた。
「姉ちゃん、ホンマに殺すって言うたんか?」
少し媚びるような調子。
「言ったよ」
弁当のハンバーグをほおばりながら私は言う。
「そうか、ホンマに言うたんか……」
半分ほど食べたペペロンチーノをフォークでつつきまわしながら何度も、言うたんか、言うたんかとつぶやいている。
「そんな本当に殺されるわけでもないでしょ。関西弁の社交辞令みたいなもんじゃないの」
「はっ」
ホンマにおまえはわかってへん、とでも言いたげだった。
「ホンマにおまえはわかってへん。姉ちゃんはやる言うたらやるんや」
「そおやな、ようわかっとるやないか。英磨」
休憩スペースの暗がりから声がした。女の声。もちろん聞き覚えはあるが、あまりの場違いさに現実が受け入れられない。なぜここにいる?
「ひっ!」
声に反応したのは英磨君だった。テーブルの下にもぐりこんでしまう。
「おう、英磨。何隠れとんねん」
ふと窓の外を見ると、軽バンの横に黒塗りの車が止められている。車種はわからないが高級車であることはわかる。
「てっきり姉ちゃんは英磨が姉ちゃんに喧嘩を売っとんかと思おとったったんや。やるやんか。英磨、自分でもそう思うやろ」
あくまでも口調は静かだ。
「違うんや。姉ちゃん」
「何が違うんや」
「俺は姉ちゃんが、東京に行った姉ちゃんが心配で……」
「おう、ありがとうな。で、何が違うんや」
女の声は言葉を重ねるごとに凄みを増していく。
テーブルの下の英磨君は目の端に涙を浮かべ、泣く寸前だった。涙をこらえるのに精一杯で何も言えないのだろう。
「そやから、何が違うんやって聞いてんねん」
いらだちがその口調に少し混じる。何が何でも自分が納得するまで問い詰める気だ、というのがわかる。
「まあ、そんなとこおらんと出てきいな。それから話ししよ」
もう、英磨君は泣いている。嗚咽がテーブルの下から聞こえてくる。
「泣いてんのか、英磨。お前は昔から泣き虫やったな。な、英磨、姉ちゃんはな怒ってへんねんで。そやから泣かんでもええねん」
嘘だ。ということは私にもわかる。噴火寸前の火山みたいな緊張感がある。英磨君も動けないように、私も動けなかった。
「なあ、英磨。姉ちゃんはな、なんで英磨があたしの大学の友達を拉致したんやっていうことを聞きたいだけやねん。英磨、あんたも大きいんやからやってエエこととアカンことはわかるやろ」
言葉数が多くなっていると同時に感情の噴火へのカウントダウンが着々と進んでいることが感じ取れる。
私はいたたまれなかった。
「何の冗談かと思ったで。無免許の拉致犯が携帯のGPSも切らんと、のんきに東名を走っとるんやからな。そんなに見つけてほしかったんか。喧嘩を売っとるかと思ったんはそれなんやで」
「ちゃうねん。ちゃうねん」
英磨君はひたすらに泣きべそをかいて繰り言を繰り返している。
私は英磨君が無免許というところに衝撃を受けていた。
ふ、と暗がりの女の雰囲気が変わった。浜の湯で襲われた直後と同じ雰囲気。あの烈しい殺気だった。
「えいまぁああああああ!」
突如、怒声が休憩スペースに響き渡る。
「人が優しゅうしとったら、どこまで調子に乗るんじゃ。ああ! 何がちゃうんじゃ! 説明してみい!」
怒声はどこまで響き渡ったのか、コンビニの店員が何事かと休憩スペースにまで見に来た。
休憩スペースの入り口にはいつの間にか黒いスーツ姿の男が立っていて、何事かを店員に話している。それに納得したのかしないのか、釈然としない顔で店員はコンビニの方へ戻っていった。
コンビニ店員が戻っていくのを見て、くらがりから足音がして、女が姿を現す。
やはりというか、当然というか女は久々津英真だった。黒づくめの服装は暗がりでは余計に見つけにくい。待ち伏せするには、おあつらえ向きだ。
久々津英真は憤怒の表情でさえ美しい。
久々津英真は同卓の私に目もくれずにテーブルに右手をかける。
英磨君はテーブルの支柱にしがみついていた。
久々津英真はテーブルを抱えていたわけではない。ただ、テーブルの端を右手でつかんでいただけだ。
テーブルはそれ自体の重量と英磨君の体重を合わせたら、60キロ以上はあるだろう。それを久々津英真はウチワでも持ち上げるような気軽さで、私の目の前で右腕一本で英磨君ごとテーブルを持ち上げた。テーブルの上に載せていた食べ物、飲み物が床に落ちる。
その光景を見て私は「え?」も「あ?」も何の感嘆も口にできなかった。目を見開き、まさに二の句が継げない状態だった。
「行こか、英磨」
もう、テーブルの下は安全地帯ではない。それでも英磨君は支柱にしがみついている。そのポケットから箱と何か小さいものが落ちる。久々津英真がそれを一瞥するや、目が鋭くなる。
その間もテーブルは持ち上げられたままだ。
「なあ、それ取ってくれへん」
私に声を掛けてきた。まるっきり私に気づいていないわけではないようだった。
箱と小さいものはタバコとライターだった。英磨君と目が合う。恨めしげだった。
それを久々津英真に手渡す。
「英磨、お前タバコ吸える年やったっけ」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「英磨、お前はホンマにアカンタレやな。とりあえず、そんなとこにサルみたいにしがみついとらんと降りいな」
英磨君は久々津英真の声におびえて却って強くしがみつく。
めんどくさいことこの上ないという表情の久々津英真は黙って、英磨君の耳元で
「降りろ」
と囁いた。
その声で英磨君は力なく支柱を放し、尻もちをついて床に落ちる。勢い余って仰向けに落ちたからか、軽く後頭部を打ったようだった。こつんと音がした。
「大丈夫かぁ。英磨ぁ」
大して心配していない、おざなりに声を掛け、足で英磨君をどける。女が足で完全に弛緩して寝そべっている人間をどけられるものなのか。その動作はあくまで軽い。どけたそのスペースにテーブルを置く。ウチワであおぐように何気ない動作だった。
「ちょっと手伝ってくれへん?」
私にそう言うと、久々津英真はしゃがみ込んで机から落ちた食べ物、飲料を拾い集めだした。
まだ開封していない食料もあるが、英磨君の食べていたペペロンチーノと私の弁当はものの見事に床にぶちまけられている。
その様子を見た黒スーツの男が、こちらに歩み寄ろうとするのを久々津英真は目で制する。
二人して開封してないものから先にテーブルに上げる。ペペロンチーノと弁当の中身はコンビニでホウキとチリトリを借りてこようとした。が、久々津英真はそれぞれの容器に手で拾い上げて戻していた。ためらいない動作だった。
「ホウキとチリトリ、今から借りてくるのに」
「ええねん」
先ほどまでの激昂は鳴りを潜めて、浜の湯でよく見た彫刻みたいな表情で黙々と拾う。指先が油まみれの残飯で汚れる。
私も横で自分の食べていた残飯を拾う。余ったビニール袋に残飯と容器を入れるように久々津英真に促す。腕まくりしたその袖口から波濤が描かれた刺青が目に入った。白い肌に鮮やかな青が映える。波しぶきの白は、その肌とはまた違う白だった。
その刺青に少しだけ違和感があった。
一通り入れ終わると私はサービスエリアのごみ箱にビニール袋を捨てに行く。
戻ると、久々津英真は何かの布で床を拭いていた。床に転がる英磨君は上半身裸だった。どうやら、久々津英真は英磨君の着ていたシャツをはぎ取って雑巾代わりにしたものらしい。容赦ない。
英磨君といえば放心状態で床に文字通り転がったままだ。身じろぎもしていない。
改めて、英磨君の刺青を見る。左胸から左肩にかけて虎が彫られている。見事なものだった。
「あたし、手、洗ってくるわ。あんたも手ぇ洗いいな」
「うん」
返事はするが私の視線が英磨君の刺青にあることを見て取ったのだろう。久々津英真は少し不快な顔をした。
気まずくなってあわてて、手洗い場に向かう。
外の手洗い場に向かうとき、黒スーツの男とすれ違った。何か格闘技かスポーツでもやっているのだろうか、やたらと体格が良かった。短髪に目つきは鋭い。見た目だけで判断してはいけないとわかってはいるが、反社という言葉が思い浮かぶ。
手洗い場まで久々津英真と並んで歩いた。
「ごめんな」
久々津英真が謝る。
「いいよ」
とは、さすがに言えなかった。明らかに自分は被害者なわけだ。どう返事したものか。
「ともかく、あのアホをどうするかはちょっと考えてくれへん?」
英磨君を殺しかねないほど問い詰めていた時の迫力とは打って変わったしおらしい、弟思いの姉といった風情。
大学構内でも浜の湯でも今まで一度も見たことのない愁いを含んだ伏し目がちな表情。
思わず、言っていた。
「いいよ」「よっしゃ!」
私の「いいよ」の「よ」を言い終わる前に久々津英真が快哉を叫んだ。
「はよ、手ぇ洗てしまおや」
もう、久々津英真のペースだった。
「考えるけど、考えるけど。拉致された身としては」
「分かってるって、分かってる」
鼻歌でも歌いかねない調子でこっちにペースをつかませない。手に負えなかった。
「刺青なんかに興味あるん?」
休憩スペースに戻りがてら久々津英真が言う。
「そういうわけじゃないけど」
「分かっとると思うけど、そんなええもんちゃうで」
そう言うあなたはどうなんですか、と聞きたくなったが、二十歳の女があの範囲の刺青を入れざるを得ない状況とはどんなものなのか。そう思うと、ずけずけとプライベートに踏み込みのはためらわれた。
「英磨のあれ見とったけど」
「うん」
「何でもすぐにあきらめるヘタレやのに、あれだけはやり切ったんや。アホやで。その根性を他のことに使えっちゅう話や」
憤懣やるかたない調子で久々津英真が言う。
「入れたところで何ができるっちゅうわけでもないのに」
私に言うわけでもない調子で、ぽつりとつぶやく。ひどく悲しげだった。
英磨君が入れた刺青の是非は別として、何もできないとは言いすぎではないかとは思う。
ふと、さっき気になっていたことを聞く気になった。
「久々津さん」
「何?」
「あの時、テーブル持ち上げてたよね」
「そうやったっけ」
「そうだよ」
「気のせいちゃうん」
「気のせいってそんなこと」
「そんなん見た人、誰もおれへんで」
しれっと言う。
久々津英真の関係者しかいないあの状況では、どうとでも言えるということだろう。
何を言ってもいなされるのに、私は業腹だった。だから、余計なことを口にしていた。
「刺青って、そんなところにまであったっけ? たしか龍だったよね。漫画研究会は菩薩様って言ってたけど」
「スケベ」
間髪入れない返事。
「ちょっ! はあ? なんで」
私が狼狽している間に、久々津英真は袖まくりしていたシャツの袖を戻す。
「あんた、言うてもおたな」
その口調は茶化すような調子ではない。
「言いふらしてへんやろな」
「言いふらすも何も今日の今日で何ができるんだよ」
「からかっとるわけとちゃうねんで。こんな言い方やけど心配してんねん」
何なんだ。更に久々津英真は続ける。
「キジも鳴かずば撃たれまいって言うやろ」
顔に似合わない分別臭いことを言う。
「大路さーん」
サービスエリアの売店の入り靴の前にいる黒スーツの男に呼び掛ける。男は大路さんというらしい。正確には今は黒スーツではない。傍らにいる上半身が裸の英磨君に上着をかけているからだ。英磨君もようやく、ダメージから立ち直ったものらしい。
久々津英真の声に大路さんと英磨君は振り向いた。そして久々津英真は私を指さして言う。
「この人も連れて行くから。家に連絡しとってくれへん?」
思いもかけなかったのだろう。遠目にも英磨君だけでなく大路さんはうろたえているのがわかった。それは私も同じだった。
「は? ちょっと!」
「は? と ちょっと! しか言えんの?」
憎たらしいことを言う。
「私がちょっと力持ちとかはな、どおでもええねん。刺青が問題やねん。分からんと思うけど」
「分からんことだらけだよ」
「それをな、よお言い含めんと安心できんねん」
あわてた様子の大路さんが駆け寄ってきた。
「英真様」
大路さんは「エマ様」ではなく「えいしん様」と言った。
「何、大路さん」
久々津英真は自分が「えいしん」と呼ばれても、何の動揺もない。それが当然のように応じる。
「反対です」
私の顔など見ずに久々津英真にだけ言う。私を連れて行くのは反対だということなのだろう。どこに連れていくつもりなのかは知らないが、ぜひ、説き伏せてほしいと思った。疲れていた。とりあえず家に帰りたかった。
「わたしかて連れていきたないねんけど。ちょっと厄介でな」
そう言うと右腕の袖をまくり上げた。
白くて細い腕だった。肘から上にさっき見た白い波濤に青い潮の刺青がある。
「私の『これ』が前に見たやつと違う言うてんねん。前に見たときは龍やって、その前は菩薩様やって言うねんで」
「それは君、見間違いだよね」
見間違いでした。そう言えという圧を感じた。改めて見るとワイシャツの上からでも鍛えているのがわかる。喧嘩が強そうだと思った。うなずけ、首を縦に振れ、という意味を込めた眼力で私を見る。節くれだった拳が握りしめられている。
「もともとこの刺青だったはずだ。君のために言ってるんだ」
「大路さん」
あまりの圧に、うなずきかけた私の機先を制するように久々津英真が言う。
「私が連れていく言うたら連れていきます」
「あまり、良い事にはなりませんよ。網元様が何というか」
「この話はもう終わり」
久々津英真が大路さんの目をまっすぐ見据えて言う。
「わかりました。連絡してまいります」
大路さんは踵を返す、その一瞬、私を見た。怒りだろうか哀れみだろうか、それとも両方か。そんな目だった。
行先はやはり関西だった。H県だという。
軽バンに私と久々津英真。高級車に大路さんと英磨君が乗っていくことになった。この振り分けに渋ったのが英磨君だった。
「運転やったら俺がするから。姉ちゃん俺の運転する方に乗りいな」
「おまえ免許無いやろが。ションベンたれ」
「まだ、漏らしてへん!」
ここだけ聞くと、姉が好きで好きで仕方ない弟とそんな弟など端から眼中にない姉のコントなのだろうが、
「お前と乗っとったら途中で気ぃ変わって殺してまいそうになるわ。お前は終わったことにしたいんかも知れんけど、まだ何にも終わってへんからな」
の一言で振り分けは決まった。
ガソリンを満タンにして出発した軽バンで、先を行く高級車の後ろをついていく。
しばらく、沈黙が続いていた。ただ、喋っていないだけで音はしていたが。
久々津英真が助手席でさっきコンビニで買った食料を食べていた。軽バンに乗ってからずっとだ。
英磨君と二人で買ったその量は、お金持ちの英磨君のオゴリとあって値段も何も気にせず買っただけあって相当なものだった。
それを手当たり次第に食べている。
決して食い散らかすように下品に食べているわけではないが、間断がない。 きれいに平らげて、かさばらないように畳んだりかさねたりして片付けてから、次の食べ物に手を伸ばす。その動作が途切れない。
少し腹に入れているぐらいに思っていた私は弁当2つとおにぎり4つを平らげ、サンドイッチの2つ目に手を伸ばした時からその健啖ぶりに目が離せなくなってきた。
「よく食べるね」
「ちょっと今日は動きすぎたからな。カロリーとらなあかんねん。まあ気にせんといて。ちゃんと前見て運転してよ」
平静を装って言ったが、それに輪をかけて、よくあることのように返される。そのあと、淡々とサンドイッチを2個、菓子パンを6個平らげてから、ペットボトルのお茶を飲み干し、ようやく人心地ついたようだった。
「ふう」
何気ない動作で腹をさする。その手で食料の入ったビニール袋を手に取り、中を覗き込む。
「まだ、食うの?」
と言う言葉が喉元まで出かかる。人間、食欲に関することに口出しすると、たとえ正論であっても腹が立つものだ。
久々津英真に対してそれを言うのは憚られた。
それを知ってか知らずか、それとも好みの食べ物がなかったのか、袋を後部座席に置く。
「また食うん、コイツって思ったやろ」
「まさか」
「ホンマかぁ」
「前見て運転してるだけだよ」
「へえ」
こちらに視線を感じた。
「疲れてへん?」
「疲れてないわけないでしょ」
ぶっきらぼうに答えすぎたか。
「ふぅん」
そう言うと、袖をまくってみせる。
「これなーんだ?」
何を言うやら、決まっているではないか。
「波しぶきと海かな」
見もせずに言う。
「ブッブー」
「は?」
思わず、隣の久々津英真を見る。
前に突き出された腕は、袖がひじの上あたりまでまくり上げられている。
そこにあるはずの波濤をモチーフにした刺青はなかった。
黒雲に稲光が走る刺青がそこにあった。
「えっ」
ハンドルを切り損ねる。一瞬蛇行した。何とか激突しなかったのは奇跡だった。
「驚いたか!」
実に嬉しそうな久々津英真の笑い声が車内に響く。
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