第5話 チクタク時計ワニ

「あの…本当にありがとうございます。」

商談が終わりに差し掛かった頃に茉白があらためてお礼を言った。

「本当は昨日の商談で断られても仕方ないってわかってるんです。雪村専務の…バイヤーの立場だったら数字が全てなのは当たり前ですし。なので、あらためてこんな機会をいただけて、注文まで—」

「何か勘違いしてるみたいだけど」

茉白のお礼の言葉に被せるように遙斗が口を開いた。

「俺は別に数字が全てだなんて思ってない。」

「え…」

「このポーチみたいに質が良くても、スケッチとか本人の弁に熱い想いがあっても、それだけじゃ俺が会社や店舗スタッフを納得させられない。その質と想いの裏付けに数字やデータが大事だって思ってるだけだ。俺だって熱い想いみたいなものは大事だと思ってる。」

遙斗は茉白の目をまっすぐ見て言った。

「LOSKAさんの熱い想いがこの場を作ったんですよ。」

米良が言った。

「あ!」

「何?」

茉白が何かを思い出したような声を出したので、遙斗が怪訝けげんな顔をした。

「あの…私の名前はLOSKAじゃないです。真嶋です。」

そう言って、茉白は昨日も渡した名刺をまた遙斗に差し出した。昨日名刺を交換しなかった米良にも渡した。

「マシマ…マシロ?」

遙斗が初めて見るような顔で名刺を見た。

「はい。」

(やっぱり名前なんて全然覚えられてなかった…メールも送ったのに…)

「なんかマシュマロみたいな名前だな。」

遙斗が言った。

「あ、それ嬉しい方です。」

「嬉しい方?」

「よく“にんにくマシマシ”とか言われるので。マシュマロだったらかわいいから嬉しいです。」

「覚えやすい良い名前ですね。」

米良がにっこり笑って言った。

「本当ですか?母がつけてくれた大好きな名前なので、覚えてもらえたら嬉しいです!」

茉白はまた、米良に笑顔を見せた。


「ところで、その絵は何ですか?」

米良が茉白の手元の資料に描かれたラクガキについて質問すると、茉白はギクッとした。その反応に、遙斗が興味を示した。

「何それ?俺も気になる。虫?」

「虫…ではないです…」

茉白の言葉の歯切れが悪くなる。

「じゃあ何?」

「……ワニ…です…」

———ぷっ

「本当に下手だな。」

遙斗が笑って言った。

「なんでワニなんですか?」

米良も笑いを堪えているのがわかる。

「………」

「なんなんだよ。黙られると余計気になる。商談中にラクガキなんて失礼なんだから理由くらいは言ってもらわないとな。」

「…ゆ、雪村専務を見てたら…ワニを思い出して…何か商品にならないかな…と…」

「は?俺?」

茉白は気まずそうにコクっと頷いた。

「笑ってるのに、目が笑ってなくてワニ…ぽいです…」

茉白は遠慮がちに小さな声で言った。


———プッあはは


今度は米良が声をあげて笑った。

「おい!」

「似てる似てる!ワニだな!」

「笑いすぎだ。だいたいワニってもっとかっこいいだろ…なんだよこれ…」

遙斗は茉白が描いた虫にしか見えないワニの絵をまじまじと眺めながら眉間にシワを寄せた。

「しかもなんか持ってるな、こいつ。時計?」

「…時間に追われてお忙しそうなので…ピーターパンの…チクタク時計ワニかなぁ…って…」

「誰のお陰で朝から忙しいと思ってるんだよ!」

「す、すみません〜!だから言いたくなかったんです…」

二人のやり取りに、米良はますます大きな声で笑っている。


(でも、昨日会った時よりはワニみたいに怖くない…かも…)


7時50分

「では、本日中に私から発注のメールを送ります。これ、私の名刺です。」

商談の終わりに茉白をドアの側に誘導しながら米良が言った。

「はい、よろしくお願いします。サンプル各1個置いていきますので、お手数ですが要返却でお願いします。」

「はい。」

「あ、そうだ。」

茉白がまた何かを思い出した。

「あの、これ…良かったら。」

そう言って茉白がバッグから取り出したのは蒸気が出るタイプの使い捨てアイマスクだった。

「今日は朝早くからお時間を頂いてしまってありがとうございました。今日これから22時までお二人ともご多忙だと思うので、移動の時とかに使ってください。…あ!もしかしてこれって賄賂とかになります?」

「もう今回の注文は確定してますし、このくらいじゃ賄賂にはなりませんよ。」

米良が、可笑しそうに笑いながら言った。

「自分が使った方が良いんじゃねーの?」

「え」

茉白を見送ろうとドアの側に立っていた遙斗が、茉白の顔を上から覗き込んだ。

「クマが酷い。」

徹夜の影響がしっかり顔に出ていた。

(う…そんな至近距離で見ないで…)

遙斗の美しい顔面に圧倒され、思わず赤面してしまう。

「あ、あの、自分の分もあるので大丈夫です!」

「じゃあ、ありがたく頂戴しますね。」

「はい。えっと、今日は朝早くから—」

「さっき聞いた。」

「そうでした…えっと今後ともどうぞよろしくお願いします!」

そう言って茉白は今回も深々とお辞儀をし、商談ルームを後にした。



「おもしろい子だったな。茉白さん。」

商談ルームに残った米良が遙斗に言った。

「お前、下の名前で呼ぶなよ。トラブルの元になるぞ。」

遙斗がどこか不機嫌そうに言った。

「でもLOSKAの社長は彼女の父親らしいから、LOSKAの真嶋は二人いる。」

「調べたのか?」

「まぁ秘書の役目として、一応。株式会社LOSKA、創業30年で安定した業績を保っていたみたいだけど、この3年ほどで経営状況が悪化しているみたいだよ。」

「へぇ…頑張る本当の理由、か。」

遙斗は茉白が渡したアイマスクを見ながらつぶやいた。

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