第14話 経験の差

 私は森の最奥で目を見開いた。


 暗澹とした森の中で、さらに漆黒の外套を纏った彼は唐突に立ち止まる。豪壮な剣を腰に差しながら、地味目な印象を抱かせる濃紺の色を持つ髪。鮮やかな紫の双眸は正面を見据え、彼は――


 そして、確かに私を睨んだ。


 暗闇の中、煌びやかに紫鮮色の双眸が光る。

 そこで愚鈍な私は漸く気づく。

 この絶海の孤島に誘い込まれていたことを。


 黒衣の彼は村長宅から出てきて迷わず森へ向かった。つまり、その時から私の存在を認知していたのだろう。もしくはその前からか。


 凍てつくような冷たさで、私を芯まで凍らせる。

 身体が小刻みに震え、動作の自由が利かない。

 戦慄したのは人生で初めてだ。あの悪夢が始まった時でもこれほどまでの恐怖はなかった。あの時は悲嘆していたからか、今はただ眼前の彼が恐ろしい。


 怖くて逃げだしたいのに。しかしどうして、私はこんなにも彼に魅了されるのか。


 ――――ゾクリ、と私の何かがときめいた。


 そうか、


 ――このひとは私と同類なんだ。


 と――理解した時、不意に彼は視線をずらし別の場所を睨む。先程の一瞥よりも強い意志を感じられる文字通りの眼力。


「出て来いよ、相手してやるから。それが望みなんだろ?」


 森という自然の魔境に発せられた異端の音色は、あらゆる生物を圧迫させる覇気を含む。


 彼が向ける視線の先から今朝の青年が顔を見せる。黒髪の気味が悪い青年だ。

 どうやら彼も私と同じようにつけていたらしい。

 しかし、黒髪の彼は冒険者ではなかったのか。はたまたこちらが非冒険者なのか。もしくは冒険者どうしの仲間割れか。


 村では見たことがないので、てっきりそうとしか思わなかった。

 冒険者として村長が招いたのは三人。その中に黒髪の青年はいなかった。

 それはつまり、奴がこの村の異物――怪物の正体なのか。


 どちらにしても、冒険者の彼は私を見逃した。そして、標的は青年へ。


 木々によって空からの光は拒絶され、夜の帳が降りるほどに森はおぞましいほどの暗闇を再現させる。視界が黒のみの完全な無へと。


 その暗く深い森の奥底で、彼らはやむなく邂逅した。


 私は彼らの行く末を見届けるために最悪の日々を繰り返したのだと確信する。

 この時のために、村の連中を殺害し続けたのだ。

 冒険者である彼をこの村に招くために。


 軽く手をかけられた剣は今にも飛び出し敵を葬るだろう。

 私はその様がみたくて、みたくてたまらない。


 黒髪の青年は紫鮮色の双眸に睨まれ一歩後退る。

 襲撃者は本当の獲物が自分だったと漸く認識したのだ。


 しん、と音がない世界――。


 葉擦れの音も、生物の動作も、森のざわめきすら無に帰す。


 聞こえるのは私の高鳴る鼓動のみ。


 静謐とした前哨戦は、やはり音もなく始まる。


 ――――はずだった。


 そのとき、私は駆け出していた。


 私はその最後を切望していた筈なのに。私の不幸を断ち切る刃を見たかったのに。それはきっと何よりも欲するものの筈なのに。

 なのに、私は彼の殺気に反射させられた。


 心但寒からしめる殺気は周囲を氷結の世界へと転換させるように、万物の動きすら静謐と停止させるように。この場所にいたら命以前に魂が破壊されるような鋭さで刺殺されてしまう。そんな理性の彼方へと追いやられた生物的な逃避本能が早鐘を叩く。

 凍てつく殺気は、むしろ沸騰するような熱気を帯びて遠くへと私を追いやっていく。


 青年も怪物にさせられたのだろう。姿カタチがケモノへと変貌する。

 私が知りたかったモノの答え合わせができたというのに、それに浸れる心の余裕が欠片もあるワケがない。


 黒髪の青年が怪物へと変貌する様を見届けることなく、ただただこの場から逃れたかった。それは抗いようのない奔流のように私の思考を支配した。


 最後に見たのは紫鮮色の瞳が歪に嗤う様だった。





 私は逼迫し過ぎて呼吸すら忘我し森を離脱したからか、或いは彼の殺気が精神に焼き付いてしまったのか、息を吐けども気息が整わない。


 時間をかけて緩やかに精神の落ち着きを取り戻した後、思考を展開させる。


 私の行く先は決まっていない。頼れる人などこの村にはいないし、頼りたいとも欠片ほど思わない。


 だから、深い意味はなくその扉をノックした。

 すると、赤髪の彼がゆっくりと扉を開け、私を見下ろした。


 彼の顔を見て、今朝この人に抱擁されていたことを思いだす。睡眠は昼間充分とっているのだが、昨日は内心焦ったし、彼もやらなければいけないのかと残念に思ったものだ。


 私は自由に動きたかったため、村長が邪魔だった。ついでに彼女も。

 一夜で二人はなかなか難易度が高いのだが、速やかに事が終わった。自分でも上手くできたと思うほどに。

 普段は暗いうちに血で汚れた服を井戸で洗い床に就くのだが、今回は外に何者かが徘徊していたため、外出を抑えたのだ。それは全くの予定外だった。


 そのうち死臭に導かれた魔獣が村長夫妻だったものを捕食しだす。私はその様を布団の中から観察した。

 これがデッドグリズリーか。鎧の様な硬い骨格があって、いうなれば大きな熊。爪は伸び過ぎてフォークのように内臓を刺して食べるのには不便そうだ。


 あ、直接口でいった。


 初めて魔獣の捕食シーンを見ることができて案外幸運だったと今でもしみじみ思う。

 巨大な体躯の魔獣は力強い印象があるため、濡れ衣を着せるには最適だった。この厳つい容姿で人を襲わないなんて想像し難いほどのギャップだからだ。


 しかし、私は一夜で二人という新記録に増長し、魔獣の姿を見ることができたという愉悦に浸ってしまったが故に、いつの間にか寝てしまっていた。

 食い散らかされた死体がある部屋で知らなかったと夜を開けるのは少々無理があるだろう。そして、布団の中にいるのに着ている服は血だらけだという違和感を残すという失態。それは人生最大のミステイクだった。


 しかし、意外にも疑われることはなく、私も自由に動けたのだから結果的には重畳だろう。


 冒険者たちが森から帰ってきた時、そんな筈はないと疑ったのだが、森に昨夜見た魔獣の死体があったため彼らは誰よりも信頼できる。

 信頼という面では怪物の正体が判明したのだから村人も同じなのかもしれないが、あの厳つい魔獣を討伐できる実力は好感が持てる。


 そうか、私は強い人が好きなのか。

 そうかもしれないが、弱い奴は心底嫌いだ。だから村人に対し、生理的に受け付けないのだろう。


 そんなことを悠長に思考していたら、赤髪の彼は困った顔をし、私に問う。


「こんな時間にどうしたの? コトリちゃん」


 さて、なんて言うべきか。

 人を騙すのは得意だが、もうその必要はない。だからこそ思考がまとまらないのだが。

 そもそも私はなんのために此処に来たのだろうか。

 彼に助けてもらいたいのだろうか。


 なにを――?


 私はあの二人の戦闘を見届けたい。

 だから、彼がいればそれが叶うだろう。

 私は無言で彼の手を引いた。



       ◇



 村長宅に着いたケイは今後の展望について思案するが、現状も現状だ。思考がブレて考えがまとまらない。


 今あの怪物が襲ってきても打つ手がないのであれば、やはり逃走が得策に思える。

 しかし、エルやノルンが今どういった状況下にあるのか不明な以上、下手に行動するのも上策ともいえない。


 ケイは迷った末、何も知らずに寝ているであろう村人を招集することにした。村人は十五人もいないのだから非難は容易だろう、という見立てがあってのことだ。

 なにより村の地理に詳しいコトリがいるのだから道に迷う心配がない。


「コトリちゃん、村人と共に村を脱出する。力をかしてくれる?」


 ケイの言葉に、


「私は……じゃない」


 コトリは力なく小さく呟く。

 ケイは聞き取れなかったため、再度耳を傾ける。


「いいけど、村人はきっと協力しない」


「それって……」


 コトリは無言でケイの手を引く。

 それに従ってケイは走り出す。今日は走ってばかりだなと内心呟きつつ。


 一分も経たないうちに足を止めるふたり。

 藁葺き屋根に木造りの家屋は内側から淡く温かい光が漏れる。それはつまり、人が住んでいる証左。少女は村人のいる家屋へと確かに案内してくれたようだ。


 ケイがノックすると、見知らぬ人が顔を見せた。初老の痩せている男性と少し遅れて同じく初老の女性だ。村長夫妻以外に面識がないのだから初対面は当然のことだが、ケイは少し気後れつつ声を絞り出す。


 この村は危険だと、だから村人を集めて皆で逃げるのだと。そんな趣旨で案外円滑に言葉を発することができた。


 すると、


「よそものは信用ならん」


 ぴしゃりと扉を閉じられてしまった。

 扉は鍵が掛かっているようでびくともしない。


 こうなってはいかんともし難い。一人一人に時間をかけている余裕はないのだから、ケイは他を当たることにした。それは言い換えれば、見捨てるという意味だ。だが、しかしそうでもしなければ皆生き残ることはできない。もし、本当にエルが負け、さらにノルンが負けたのならば、今手を打っておかないと取り返しのつかない事態にまで追い込まれる。


 そうなってはなにもかもが遅いのだ。

 ケイは九腸寸断の思いで決断した。

 もし誰かが信じてくれたらそれが伝播して結束できるかもしれないと、そんな心境で次を目指す。


 二件目も似たような家屋であり、また老人が顔を見せた。

 若者がいないというのは本当なのかと、危機感が誇大化する悪感を覚えつつ、ケイは先程と同様の内容を伝える。


「冒険者は魔獣から逃げる臆病者だ。わしらの故郷はこの村なんだ! 逃げはせん‼」


 ドスの効いた剣幕で睨まれ、またしても拒絶される。

 ケイは唖然とするが、こんなことに時間をかけるわけにもいかず、他を当ろうと再度気を取り直して訪ねに行く。


「おどれらのようなやっちゃどついたるけん‼」


 還暦をとうに過ぎた老婆も聞く耳を持たない。


 コトリが言うには現状村の世帯数は七世帯ほどいるらしいのだが、どれも一様に頑固で態度が悪いらしい。村長が穏やかだったのが不思議なくらいに。

 歳を取ると頑固になるのはあながち間違えでもないのだろうか。そんなことを思考しながらケイは次へと足を進める。


 事実、銀級冒険者パーティーが負けたため、冒険者の信用は地に落ちていた。それに加え、村人の大半は冒険者が戦わずに逃げて、町は村を見捨てたと思い込んでいるため、むしろ冒険者や町の者を毛嫌いしている。

 村長は過去に冒険者が負けたと言ったが、それも確認したことでなければ邪推は幾らでもできるものだ。森に行った冒険者が帰らなかったという事実はこの村に重大な不安要素を残したのだ。


 村長が二度目の冒険者を呼べたのは村をまとめ上げる手腕があったからだ。そして、それを冒険者であるケイに感じさせない態度は彼なりの配慮か。


 ケイはそのことに気付き、今更ながら惜しい人を亡くしたと唇を噛んだ。

 村長がいればこの緊急事態を皆で乗り切れるのに、と。

 鉄の様な渋い味が口内に広がり、不快感が増す。


 そして、四件目。


「帰った帰った。あんたみたいな若いのに期待しないから、町へ帰りな」


 行く先々に謂れのない暴言を吐かれ、ケイは業を煮やした。

 閉じられた扉をガンガンと叩きまくる。このババア! と、そんな感じで。

 すると、斧を持った旦那が扉を開けた。


 ふたりは脱兎の如くその場から立ち去り、次は穏便にと気を取り直して期待する。


 ――五件目。


「もとはと言えばこの子の両親が死んでからだ、村がおかしくなったのは!」


 石を投げられ、ふたりは六件目へとまた訪ねる。


「忌み子なんて連れてくんじゃないよ! 不吉ったらありゃしない‼」


 ケイはともかく、コトリに暴言を言うのは些かやり過ぎだと、そこで違和感を覚えたケイはコトリに話を聞き村の状態を知る。


 なんと愚かなことに、この村には確執があったのだ。

 一番初めに森で死んだ男はコトリの父であり、村内で初めて死者が出たのはコトリの母であった。そして、彼女だけ生き残ったことで村八分という形をとって心の安寧を保とうとした。


 これは救えない……。

 村の業を一身に受けた少女はなお平然としている。

 ケイは胸糞の悪さに吐き気がした。そして、自らが村人を見捨てるという選択を思考してしまっている。町まで老人の足では無事に辿り着けまい。そう、合理的な思考で道徳を捨てようとしている。


 ――まだだ、まだ最後の家が残っているじゃないか。


 一人でも耳を傾けてくれたならば、それが伝播して村全体の疑念は泡となって消失する。そんな可能性だって大いにある筈だと可能性を望んで暗闇を走る。

 そんなケイの希望的観測に、この世界はこれっぽっちも応えてはくれなかった。





 最後の一軒は既に――破壊し尽くされていた。


 それを、ケイは知っている。

 今朝の惨状と同じ酸鼻を極める地獄絵図だということを。


 違うとするならば、夜であることと。


 ――そして、瑣末だが、彼が漆黒の怪物に成り果てていることか。


「ノルンの姿が見えないな……。ルウ、さっきの彼女はノルンっていう俺の相方なんだ」


 ケイはもはや殺すべき敵としてルウを見ている。

 戸惑いなどもはや皆無で、きっかけがあればいつ何時でも殺害ができる心境。それは覚悟や勇気などという見栄えの良いものではない。ただ、諦めたのだ。死はいつだって平等に無に帰すのだから。眼前の青年ならどんな最後でもいいのではないか、と。


 ケイの死生観はこうだ。命尽きる死に際が幸福であれば、人生の旅路を自らで祝福できる。もし辛酸な最後であったならば、その人生は全くの無駄だったのだと自らが肯定してしまうのだ。

 大人数に看取られても、結局自らの人生は当の本人にしか知り得ないものだ。

 だからこそ最後に人生を肯定したいと、そう思うべきであって、そうでなければ死が無駄なものを無に帰すだけの事象に成り果ててしまう。

 だから、悲惨さなどで他者を終わらせたくはない。終わってほしくない。


 そんなケイの本心を棄却し、殺すと決めたのだ。

 結果、彼にとって殺しは諦めでしかない。


 たとえそれが怪物だったとしても。否、あれは怪物などという超常的な存在ではない。

 あれは――ケモノだ。ケイが知らないだけの魔物。人間も動物であるという観点から見れば、ほら、同じようなものだろう。


 そんな思考だけでケイの勝率は跳ね上がる。無論、低いのは変わらないかもしれないが、それでも覚悟を決めた彼は躊躇することなく勝ちにいける。それは自分の方が強いという自己暗示ではなく、精神的な強固さで敵に勝つるためだ。


 敗北イコール死、勝利イコール殺。どちらも彼は心底嫌いだというのに、向かうべきはやはり茨の道だけだ。


 それはどのような感情なのか、ケモノには知る由もないだろう。


「そりゃそうだ、この血が視えないのかーぁ?」


 水浴びでもしたのか、毛先から滴る液体はルウに言わせればノルンの血液にあたるらしい。この闇の中では色の判別ができないが、確からしい粘性をもっていることは見て取れる。


 ケイは昂る感情を後回しに、常に全てを余すとことなく観察する。一挙手一投足は無論のこと、歯並び、耳の位置、筋肉のつき方から骨格構造の把握、四肢の長さから爪の射程距離、目線や立ち姿から心理状態まで、なにもかもありとあらゆる情報を頭に叩き込んで平静を装う。


 いついかなる時も油断なく確かに精確に行動できるよう、勝利への道を見失わずにどんな地点からでも這い上がれるように。今のうちに細い糸を編んでおくのだ。


 それはケイの長けた思考力と経験によって極まった戦闘センス。


 剣呑と漂う夜気は張り詰めて、息苦しい程に殺伐と場を支配する。


 ただ、目の前に鎮座している敵を殺すという自己実現の欲求によって、ケイは深く、深く自らを埋没させるように精神を落とし込む。

 もはやよそ見などあり得ない。だって、少女のことなどとっくに思考から放棄しているのだから。


「珍しいことを嗜好するんだな、君は。心底気色悪いよ」


「それはどうも、誉め言葉だよなぁー。お礼にお前が助けようとして訪ねた村人はみんな殺して、家屋は燃やしておいたからなぁー」


 それは、ケイの後をつけたルウが村人を皆殺しにしたという告白。

 今日まで生き残った村人は一夜で軒並み荼毘に付したという凄惨な真実。


 ケイは虫唾が走る感情を押し殺し、なおも平静を装う。敵の狙いが挑発であることは明白、自己の心理闘争などにかまけている余裕など彼には皆無なのだから。


「そうか、ご丁寧に火葬したのか。いい趣味してるな、それは」


 ケモノの貌は不機嫌な表情を張り付ける。

 売り言葉を意に介さないケイのスタンスが癪に障るからだ。扇情的に言った筈なのに、下等生物なのだからもっと慌てふためくべきだ。そんなルウの思惑をことごとく黙殺する彼が心底嫌いになりそうだった。


「お前らも火葬してやるよ! そしたらこの村は全滅‼ ゴミどもを狩り尽くせた俺の勝ちぃー!」


「さぞ楽しそうだな。君にとってこの世界は楽園かなにかか?」


 挑発に乗らず、淡々と返答するケイ。

 それはただの時間稼ぎかもしれない。

 しかしながら、どれだけ時間をかけても彼らは西の森から抜け出せない。

 それを知っているからこそルウは余裕を見せ驕り高ぶる。


「お前らにとっては、ジ、ゴ、ク、だけどねっ!」


「それはよかったよ、本当に。罪悪感の欠片も感じずに殺人ができる」


 ケイは敵を中心にして周に歩く。

 ゆっくりと敵の初動を見逃さないように、悟られないように。視線だけは捉えつつ、最適の位置を探る。


「ああ、人じゃないか君は。人間を騙すことでしか身を守れない俗物だもんな」


 ノルンの上質な挑発を付け足す。

 途端、ケイは片足を引き、背後へ逃走する姿勢を見せた。


 その瞬間、ルウは興醒めし、苛立ちのままに獲物を殺っちまおうと飛び掛かる。

 人間など文字通り軽く捻るだけで壊れてしまう玩具でしかないのだから、面白味が無ければただの音の出るゴミだ。敗色など皆無。一振りで煩わしさは無に帰す。


 そう思っていた――――


 放たれたのはケモノの豪腕、ではなく――目が眩むほど燦爛とした白色の閃光だった。


 咄嗟に目を瞑り、光源を掻き消す要領で片腕の大振りを放つ。

 手応えはあった。硬い何かが自らの爪によって粉砕する感覚。


 あの光はいったい……なんて思考よりも速くケイのハイキックが顎を突き刺し、髄液で満たされた宙ぶらりんの脳味噌をこれでもかというほど揺する。


 揺られた脳は左右の頭蓋に強打され続け、脳機能に支障きたす。


 ――それは、必然的に起こされた刹那の現象だった。

 狙いは脳震盪による意識消失。


 脳震盪とは、頭部に強い衝撃または急激な頭部の動きがあった場合に起こる脳の機能障害だ。脳が直接的または間接的に揺れることで、一時的に脳機能が影響を受ける。

 症状には、頭痛、めまい、吐き気、集中力の低下、感情の変動、眠気、記憶障害、そして――意識消失がある。

 これらの症状は全て一様に起こるわけではない。しかし、確定で起こる症状だけでも、一時的ではあるが、ノックアウトという形で敵を再起不能にまで落とすことができる。


 通常、哺乳類の殆どが脳震盪を起こすとされており、それはウェアウルフ――人狼でも例に漏れることはなかった。


 結果、怪物は昏倒し地を省みた。


 ケイはヒトの身でありながら怪物を地に墜とした。彼にとってはケモノだという認識。故に、生物に対し有効であると見た計画が見事刺さった。

 培った経験の差と技量で生物的に勝ったのだ。巨躯のケモノと小さな青年という不利な現状を打ち破ったのだ。彼自身、前世の記憶はないのだが、可能なこととそうでないことくらいは感覚で解るのだろう。

 それは全て思惑通りであり、されど無計画に躍りかかるような真似はしない。優位に立ってなお警戒を怠らずに次の一手を模索する慎重さは彼の作戦遂行能力の高さからだ。


 そんなことも露知らず、地に伏したケモノに駆け寄ったコトリは寝首を掻くべく服に仕込んだ鋒鋩を振り下ろす。一閃となって突き刺さった――ように思えたが、負けたのは鉄製の刃物だった。


 砕けた銀光は無慈悲にも少女の手段を消失させた。


 ケイはその様に強い違和感を覚える。

 少々毛深いといえども、鋭い鉄に生身が勝つか。先のジャンピングハイキックは問題なく蹴りぬくことができたというのに。


 斬撃無効なんて能力があるのか、であればエルによって切られた傷が残るのは矛盾する。

 あるいはナイフの劣化か。それを結論づけるのは少々危険だと考察を重ねながら、少女の手を引いて戦線離脱を図る。


 スマートフォンを失ったのは惜しいが、ベストな判断だったと割り切り走る。


「コトリちゃん、村長宅に戻りたい。できるだけ早道で案内してくれないか?」


 少女は大袈裟に首肯し、進路変更する。


 遠くに燃える明かりは、コトリに暴言を吐いて石を投げた家か。

 その奥の光は斧を持った爺さんが住む家か。

 目を引くものはどれも胸糞悪いものばかり。


 炎の海となった麦畑に照らされ、大炎の際で二人は影絵となって駆ける。

 この村に住む村人は十日前、四十五人いたそうだ。それが今となっては少女一人。


 この事実にケイは奥歯を強く噛んだ。村長に頼まれたことを何もできていないじゃないか、と。こんな自分は村長に怒られてしまうと、泣きそうになりながら走る。


 謝罪すら届かない現状に悔しさと寂寥感が精神の安定を一気に破壊する。冒険者としてこの村に来て、惨劇を目撃して帰るのか。敵から逃げて、他の村が襲われるとしても、保身によってそれを見て見ぬふりをするのか。


 しかし、死んだ人は戻らないのだ。そして、今生きている人は救うことができる。その耐え難い現実に、ケイは戦うことを決めた。


 残る村人は少女一人。もうこの地で人が住むことはないだろう。

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