第12話 依頼達成

 森にいんいんと響く轟音は小動物が危険を察知するには充分すぎる異常であり、ソレらは衝撃の反対方向に芋引いて一目散に逃げていく。

 高く笛の音のような鳴き声を上げながら羽ばたくもの、葉擦れの音だけを立てて軽快に地を這うもの。

 そして、音がする方へ駆ける何か。


 その副次的な異常も鑑みつつ、ノルンは衝撃の発生源を特定すべく集中する。


 木々がギシギシと喚き、森全体が騒がしい。

 それは強力なモンスターが獲物を追っている証左だ。

 しかし、ノルンにとってそれはさして問題ではない。


 獣人は元来自然の中で生きる種族であり、その世界において狩る側に位置する所謂強者である。大抵の魔獣なら獲物の対象にするという冒険者然とした種族なのだ。

 大自然の中生まれた彼女も大方、森での戦闘においては卓越した能力を発揮できる。

 たとえ敵がデッドグリズリーであっても同様。


 彼女は敗北などこれっぽっちも考えていない。それは驕りではなく、負けるワケがないほどの圧倒的実力差があるからだ。

 しかし、それは相手がデッドグリズリーである場合だ。奴は臆病な性格なので自ら進んで人里を襲うことはない。無論、単独の人間なら餌として都合がいいだろうが、少なくとも夜な夜な村に通い詰めるなんて事例は考えられない。


 であれば大方、村を襲った奴はデッドグリズリーではないのだろう。

 そんな思考は冒険者稼業において依頼内容の齟齬が別段珍しい事でもないからだ。

 村長の話を聞いた時に感じた違和感からの仮説はやはり正しそうだと、ノルンは敵を過大視し、慎重になるべきだと意識を改める。


 だが、やはりノルンは歩みを止めない。


 どんな敵であっても、この領域は自身のテリトリーであるのだから日和る必要はない。

 そんな余裕を抱きつつ、いついかなる時も警戒を怠らないという徹底ぶり。

 それ故、森でのノルンは強い。


 森を横断する唯一の林道で立ち止まった彼女はフードを脱ぎ払い、猫を思わせる両耳をピンと立て今なお続く音の余韻から痕跡を探る。


 そこに、デッドグリズリーの咆哮。


 音の正体とその方向を精確に捉え、ノルンはフードを深く被り。


「――そこか」


 と、静かに呟き森へ身を投げるように飛び込む。

 上へ前へと木の幹を蹴り、空中を走り抜けるように高速で林中を突き進む。

 びゅん、と放たれた一本の矢の如く直線的に、弾むように方向を変えながら緑の海を貫いていく。木々の樹葉が茂る空間はもはや彼女にとって居心地が良いというように障害になり得ない要素である。それは、軽やかに、速やかに、なにより美しい移動方法だ。


 先ほどの咆哮から音はすでに無いが、方向を掴んだノルンは迷いなく進むのみ。

 意外にもデッドグリズリーの咆哮だったため、なにかに襲われ絶命させられたのだろうか。デッドグリズリーなら容易いのだが、バジリスクやウェアウルフならノルンでも対策が必要なほどの大物。ノルンは正直割に合わないクエストだと思う。デッドグリズリーだと思い、挑み死んだパーティーが不憫である。鉄級すら足手まといになるほどの化物であれば、それも致し方ないことだが。


 どちらにせよ、正体が分からなければ対策の仕様がない。


 咆哮の鳴った目算の位置は近くなり、ノルンは警戒を極める。

 木から木へ、トントンと軽快な音を立て飛びめぐる。飛翔という言葉が相応しいそれは獣人の身体能力が為せる妙技だろう。


 その時、遠くの方においた目線は突如として陽だまりを捉える。それは自然的な要因によってできた間隙であり、草本植物が主に生息する生態系が乏しい場所である。

 その場に速やかに移動したノルンは樹上から辺りを見下ろす。


 ――――赤い。


 と、印象が先に来た。

 天から差す光は赤を反射し、それが一面にばらまかれているように散る。


 次に、虞だ。

 何が起こり、今後何が起こるのか。危惧せざるを得ずにノルンは鬼胎を抱く。


 反射するライトマゼンダの明かりは血生臭さと共に彼女を不快にする。そんな気味の悪い空間、一際目を引く赤黒い巨大な肉塊はデッドグリズリーのもので、その周囲の野草に鮮血が溜まっている惨状。魔獣は元の黒さと血液の赤が混ざり合い、全体を満たす。それ故、死骸は悲惨さの色を強める。


 必要以上に切り付けられたとみえる皮膚に、叩き割られた頭蓋。両の目が刳り貫かれ、頑丈な鎧のない腹からは臓物が腹圧により溢れ出ている。捕食された形跡のないことから、ノルンは非人道的かつ猟奇的な殺害衝動の餌食にされたものだと理解した。

 さしもの彼女でも原因は分からないが、それ以上にノルンを動揺させるものがそこには――ある。


 木漏れ日をキラキラと反射する光は血液の雫からであり、怪奇的かつ蠱惑的な空間。


 そこに、


「なぜ……あなたがここにいるんですか?」


 その端に彼はいた。


 ケイは木の幹に寄りかかって足を延ばし座っている。

 血だらけで傷だらけで、ぴくりとも動く気配がない。


 ノルンは彼が死んだものだと思ったが、心臓の鼓動が相も変わらずに鳴り響いていることで詰めていた息を吐く。耳が良い彼女だからこそ解る微かな命に感極まる。

 だが、同時に、恐らく彼は助からないだろう、という思考で彼女を不安にさせた。

 外傷が酷くポーションでも延命がやっとの重傷。

 パーティーメンバーの死は冒険者稼業をやっていたら嫌でも耳に入る話だが、ノルンがパーティーを組むのは今回が初めてなため、それらの気持ちが今やっと理解できた。


 切歯扼腕するだけで状況は変わらないし、過去に戻ることはできない。この悔しさは何処で何に対しぶつければいいのだろうか。多分それは誰にも分からないことで、だからこそ悲しくて苦しいのだろう。


 ケイが村のことを考えて感情的になったのは、きっと彼が素直だったからだ。村長が亡くなったことでデッドグリズリーを討伐しなければと焦り、実力もないくせに誰よりも勇敢に戦った。そして、自らを犠牲に敵を屠った。


 ノルンはそれが全くの想定外だった。

 まさか冒険者になって数日のケイが単独で行動に移すとは思わなかった。


 その結果がこれか。


 度し難い馬鹿だが、私くらいは賞賛するべきだろうか。それとも哀情をもって送ってやるべきか。そんな考えしか浮かばずにノルンは不快感を噛み締める。


 どんな言葉をかけるべきだろうか。

 そんな疑問の中、闖入者が現れる。


 彼女は後回しにするといった具合で待つ。


「間に合った……とは言えないですが、あなたが一匹仕留めたのなら、あれは私の獲物ですね」


 呟き、振り向く。そして、つがいだろう新たな魔獣に相対する。

 足取りはコンビニに行くように、負感情すらない泰然とした動作。

 その手にはケイによって折られた剣が逆手に握られている。


 それが気に食わなかったのだろう、新たなデッドグリズリーは喉を鳴らし、身を屈める。

 遠目からの目算だが、その体躯はこの場に転がる屍よりも一回りデカい。


 完全な戦闘態勢で身構え、ノルンという敵を睨み殺害の手段を吟味するように涎を垂らす。殺害方法を選定するように、のこのこと向かってくる彼女を嘗め回すように視姦する。


 剥き出しの牙は乙女の肉を容易に噛み千切り、突き出された腕は致死の一撃を。


 ――その油断の刹那、ノルンは魔獣の首に剣を突き立てた。


 彼女が為す目にもとまらぬ速さの慣性によって、鋭さの失った筈の短剣は難なく固い筋肉を斬り裂いた。


 苦しさ故か、悶え後退る魔獣は殺意の気配によって異変に気づく。

 それは狩る側と狩られる側の転換。

 凍てつくように殺伐と、沸騰するように熱烈と。

 そんな殺気が眼前の捕食者からにおう。


 かつてノルンはデッドグリズリーを頭が悪い魔獣だと言った。それは事実、彼女の感覚に基づく全くの本心である。

 相対する敵の力量すら判断できない無能さを持ち合わせながら、自然に生きるという馬鹿げた生態を嗤うように。


 どろりとした血液が首の裂傷から滂沱と流れ落ち、びちゃびちゃとノイズを立てながら緑の大地を赤く染め上げていく。それは壊れた蛇口のようにとどまることを知らない。


 ノルンはおもむろに眼鏡を外し、鮮やかな青い瞳を魔獣に向ける。

 その威圧は脆弱な獣に圧倒的な力量差があると明確に告げ、生まれてこの方味わったことのない感覚で頭蓋の内側を支配させた。


 それを――――ヒトは恐怖という。


 この状況に至って漸く、魔獣はノルンに畏怖した。

 狩られる恐怖は一度芽生えたら容易に排斥することはできない。その根源からの恐れがきっかけとなり、魂の起爆剤に破滅が着火する。


 じわじわと死へ近付く感覚はまたしても初の色彩。

 獣は悶えるほどに耐え難い負感情に呻吟することしか許されない。


 その様は、彼女の底なしの青が魂を喰らう様に。


「――――――死ね」


 短く発せられた言葉によって、デッドグリズリーは絶命した。



       ◇



 目覚めはいつも唐突で、一方的に訪れる理不尽のように抗うことが不可能な事象である。

 意識して起きることができる人はいないだろう。意識が覚醒した後でしか世界を認識することはできないのだから。しかし、何時に起きるのかを明確に意識して寝れば、その時間に起きられる人も一定数いる。


 そんな不可視の力に急き立てられ目覚めたケイは、ゆっくりと目を開け天井をしげしげと見やる。既視感を覚える視界と以前の記憶から現状を判断する。ここは村長宅の一室でつい今朝起きた場所だと。

 最後の記憶はなんだったか、鈍重で曖昧な思考に頭を悩ませつつも、必死に記憶を手繰り寄せてみる。


 確か、森にいた筈だ。

 そして、デッドグリズリーから逃げた。


 段々と想起される事象は今思うと夢の様である。


 ――あの瞬間、ケイは心の底から生きていると実感できた。

 一番自分らしいとリアルに所感できた。


 きっとあの場所での緊張感と非現実感に酩酊していたのだろう。

 だからあんな怪物に腰を抜かすことなく刃を向けることができたのだろう。


 正直自分があんなにも昂揚するなんて思わなかった。そんな思考は今だからこそできることだ。


 その結果、失敗したのだが、それもまったくもって自業自得だろう。

 無茶で馬鹿なことをしたと思うが、無駄なことをしたとは思わない。否、自分の覚悟が無駄であるわけがない、と思いたいだけなのだが。


 そんな回想の後、生を改めて実感する。この世界に来た当初は生を見失っていたというのに、皮肉にも死に際に直面してから気づくとは。


「そうか、俺……は、生きているのか」


 なぜ生きているのか、という答えはケイ自身でも知り得ないことだ。

 気づいたら此処にいたのだから、彼の疑問が尽きることはない。


 そして、なにより生きている。


 村人は大勢死んで、村長も無残に亡くなった。

 これが現実で事実なのだ。


 今を生きている人と救えた人達、死んだ人たち。

 皆に神の祝福を――と、ケイは黙祷を捧げる。

 そして、あの二人と時を進めるべく前を向く。


 村長によって設えられた個室から出るために、ケイは体を起こし難なくベッドから立ち上がる。

 すると、電撃のような痛みがずきりと身体を駆け巡り頭痛を催す。

 蹲りつつ、それが何に起因するものなのかを探るが、異常がないという異常にひどく当惑する。


 腕に巻かれた包帯は赤黒く染まっているが、動作に不具合はない。魔獣の突進によって粉砕された筈の肩甲骨も現在形を保っている。希望的観測として魔法か何かで完全回復、という信じ難い事象が考えられるが、どんな経緯でも大事にならなくて良かったとケイは安堵する。


 死んだらノルンに申し訳が立たず、エルにも勝手な行動で剣を折ってしまったし、思うところは色々あるのだ。

 つまるところ、今現在でも穴があったら入りたい気分。もっとも、死んでいたら掘削された大地に骨を埋めていただろうが。


 ぐちゃぐちゃになった筈の腕を伸ばし、居間への扉を引く。

 そこには既知の二人が静謐とした空間の中で椅子に腰かけていた。


 なにをしているのか――もとい、なにもしていないのだろう。

 嬉々とした様子以前に陰鬱とした様子すらなく、ただ無駄話をしないだけの無言空間。

 元々不愛想なノルンと同類である無愛想のエルを二人きりにした結果は静寂の沈黙だったようだ。話す必要があった夜ならいざ知らず、事が解決した現在はコミュニケーションの需要がない。

 概ね予想できたことだが、これほどまでに無音であるとケイという存在が場違いに感じられてしまう。


 ちらりと一瞥するエルと驚いた様子のノルン。

 そして、二人よりもいち早く、先手必勝とでもいうように明朗快活の謝辞を述べるケイ。


「悪い、エル。貸してもらった剣折っちゃった!」


 刀剣は高価なものだという固定観念からの謝罪。しかし、重々しい雰囲気もなければ後ろ暗い罪悪感の欠片もない態度。

 そんな彼の言葉に軽く笑みを見せてひらひらと手を振るエル。


「かまわん、安物だし弁償する必要はないさ」


 露骨なしたり顔でガッツポーズを決めるケイに、妙な視線を向けながら頭を捻るノルンは参ったというように問う。


「貴方、満身創痍で瀕死の重体でしたよね。なんで生きているんですか?」


 ホントになんで生きているんでしょうね、と言いたいケイは咄嗟に口を噤む。

 おそらく、ノルンが助けてくれたのだろうから、ここは感謝の意を示した方が良いだろうと。


「おかげさまで今を謳歌しております!」


 彼は九十度のお辞儀で誠意を示し、ノルンは疑問に頭を悩ませる。


「ポーションの効果でもここまで回復する例は無い筈ですが……」


「魔力を分けてやったからか? しかしまぁ、よく生きてたなオマエ。その生命力は昆虫以上だな」


「知ってますよ、見てましたから。私が言いたいのは魔力付与で完治する程度の軽傷ではないということですよ。だって治癒魔法ほどの効果ではないですか、これは」


 ケイの開口一番を皮切りに会話が開始されたのだが、その内容が非常に興味深い。

 魔法というファンタジーの王道に期待で胸を躍らせつつ、注意深く聞き入るケイ。


「確かに少量なら意味ないさ。だが、さっきも言ったが生きてるのが異常だ。オマエのスキルだったりするのか?」


「スキルってなんだ? それより魔法ってスゲーな! 俺も魔法使いたい、ウィザードになりたい! 魔法を教えてくれよ師匠‼」


「オレがいつオマエの師匠になったんだ……。まったく、三度目は無いぞ」


 初めて見かけたときもケイは瀕死だったなとエルは想起させる。

 そして、心底嫌という顰め面で溜息を吐き、やおらに立ち上がる。


「オレは散歩してくる。なにかあったらコイツを頼んだぞ、ノルン」


「今からどこ行くんだ? 外はもうすぐ陽が暮れるぞ」


 エルは彼らしく何も言わずに玄関から外へ、迷いなく消えていく。

 ノルンはけろっとしている。その様子はなんだか楽しそうだ。


 外への扉がぱたりと閉まり、ケイは取り残されたように呆然とする。逍遥を趣味にしているのか、はたまた徘徊癖があるのか。

 そんな彼にノルンは打って変わってからかうように笑みを見せる。


「私たちがクエストを受けた目的は信頼に足る仲間になれるかという試験的なものです。そんな中、エルは自分だけ行動しないことが耐え難いんでしょう。私たちは一体ずつデッドグリズリーを討伐し、貴方は大怪我を負って帰ってきた。だからですかね、村の事情なんてオレには関係ないなんて言ってたのに、きっと貴方の無茶に感化されて飛び出したんですよ。食後なのに、何を討伐してくるんですかね。彼が帰るまで期待して待っていましょうか」


 くすくすと笑いながら言ったノルンは今までで一番上機嫌である。

 確かに、他人に興味なさそうなエルが意固地になっているなんて痛快だろう。ケイは彼を冷淡でものぐさな奴だと思っていたが、見当違いであったことに正直驚いているし、可笑しくて笑える。


 事実として二日の付き合いだが、気丈で優れた奴だということはなんとなくだが分かる。

 自分すら確立できていないケイが精確に他人を測れるワケがないと自覚しているのだが、彼は相当な際物で色物だということは解る。素人目からでも、腰に差した豪壮な剣は相当な価値があるのが見て取れる。

 また、彼自身のオーラというのだろうか、初対面時に思い知らされた強者の風格は今も色褪せることがない。


 エルは一体何者なのだろうか。刺殺するような目つきの彼はこの世界でも稀有な存在であることを暗に物語っている。

 その疑問をケイは謎として心に留めておくことにする。今ここにいたならば気兼ねなく訊いていただろうが。


 ケイはノルンと他愛のない話をするべく、出されたシチューを食しながら話題を振る。シチューは素朴だが味わい深く、栄養補給に適っているように食べやすかった。


「なー、デッドグリズリーって元々森に住み着いていたんだろ? いきなり人を襲うようになるなんて怖いな。人が弱いって知ったらあんなにも狂暴になるんだもんなー」


 人を殺した熊は人を恐れなくなるため狂暴性が増すという事例がある。それはどの世界でも同じことで、心底恐ろしいなとケイが身震いしていると。


「確かに妙ですね、臆病な性格な筈ですし、毎日人を襲うほど食欲がある魔物ではない筈なんですが。それに昼行性なので村を襲うなら昼でもいい気がします。まるで人目を避けているような……」


 あの魔獣は昼寝していたが、本来夜行性ではなかったようだ。

 反撃できる人が村にいないのであれば、何時でも人を襲えるのではないかというノルンの考察は正鵠を射ている気もする。


 ……やめよう。終わったことなのだから、もっと楽しい話題で花を咲かそう。

 と、ケイは別の話題を振る。


「ノルンは趣味ないのか?」


 ケイは人付き合いが得意なのか、はたまた非社交的な陰の者なのか。

 趣味を聞くのは仲を深めることに効果的だろう、というもっともらしい彼の選択。


 しかし、


「特にありませんね」


 バッサリと袈裟に切られてしまった。

 会話が嫌いというわけではなさそうだが、続かないにも程がある。


 ケイは諦め、シチューを啜る。

 その味はやはり素朴で味わい深かった。

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