第11話 冒険者の実力

 村には森が二つあるらしいが、ノルンが向かった先はおのずと一つに絞れる。

 昨晩、村長が再三の忠告をしていたのだ。西の森は立ち入ったら最後、絶対に森から帰ることはできないと。


 ケイはルウに教わった小道を辿り、目的の森に差し掛かる。

 そこから先は見晴らしが悪い道なき道、いつ襲われるかも分からない危険地帯。どろりと流れる汗が妙に粘っこいのは薄闇から未知のモンスターが飛び出してくるという懸念からか。それともここまで来てデッドグリズリーに臆しているのか。


 村長の軀は村で見つかった。故に安全など村の内であっても保証されていない筈なのだが、ケイは視覚的な変化に臆してしまう。


 生い茂る密林の闇に向かって戸惑いを払うよう脚を繰り出す。

 ノルンが先行しているのであればケイがデッドグリズリーに遭遇する確率は低い。が、やはり警戒を解くわけにはいかないと緊張感を再度高める。いつ何が起こるか、それは誰にも分からないのだから。


 キーキーとなにかが鳴く。

 パタパタとなにかが飛び去る。

 森全体が蠢くように葉擦れの音が重なる。


 そんな魔境を多少臆しながら、煩わしい草を払い退けて進んでいく。


 森に足を踏み入れて体感一時間程度。早くも灌木が生い茂る薄闇の中で漸くそれらしい獣を見つけた。


 ノルンはともかく、エルとケイはデッドグリズリーについて全くといっていいほど知らない。だが、ケイは目前のモンスターがソレだと確信した。


 彼女曰く、デッドグリズリーは臆病で頭の悪い大きな熊らしく、討伐難度は中の上ほど。それを聞いていたケイは内心、自分でも役に立てる相手だと侮っていた。しかし、それが驕りであったと――ソレが強大な敵であると認めざるを得ない。


 絶対に勝てない相手だと、認めたくない弱音が頭の中で沸騰するように熱を放つ。絶望感より不快感が勝り、認めないという矮小な反撃しか許されない。


 死を齎す熊――デッドグリズリーという名の如く、例えるなら熊が一番近しいだろう。しかし、その容姿は熊よりも派手過ぎる。身体に纏う黒い鎧は黒曜石の様に硬質で刺々しく、毛並みは黒銀の針を連想させる。加えて、片口から背中に辿る毛束は血を吸ったかの如く紅い。


 獰猛という荒々しさを連想させるその形容は、狂暴性を物々しく確かに表現している。爪はナイフのように鋭く、重厚な鉄板でも容易に貫けるほどの腕力が備わり、殺人など造作でもないという独善的な狂気が肌で感じられる。

 動物的な粗暴さは一目で理解でき、この見た目で温厚だとは極めて考えにくく、村を襲った奴であることは明白。


 ノルンがいない現状でケイにできることはない。

 その無力さを自覚しているからこそ、ケイはこれを千載一遇のチャンスだと見た。


 大熊は後ろ足をたたみ、前足――もとい腕を顎の下にしいて巨体を丸めている。

 そう、眠っているのだ。


 意識レベルの低下によってケイは認知されていない。

 それは先制攻撃が可能であることを意味する。


 一撃で殺しきるのがベストだが、敵が目覚め反撃する前に致命傷を与えられるだけでケイの勝利は揺るがない。

 つまり、ケイにとって今この時点が魅了されるほど悪魔的なタイミングなのである。


 巨体の割に閉じられた目は小さく可愛らしくもあるが、見開いた際の不気味さは熊特有の言い難い恐怖をもたらすだろう。

 一方的な先手を取れるのは好機であるが、仕損じた場合の最悪はケイにとっての死だ。

 それすら忘我し、彼は腰に差した剣に手をかけ音を立てずにゆっくりと引き抜く。


 剝きだしの諸刃は梢の隙間から差し込む一条の光を反射させ、白銀の輝きを薄闇の中で解き放つ。


 その光を手にしたことで敵愾心が麻酔されたのか、はたまた勝利への自由意志の錯覚か。

 それはコンピューター回路の不具合めいた自己暗示。

 この剣を手にした自分自身が狩る側の立場であるという確信。

 意気軒昂ではなく、思考の内部から燻る炎による冷淡な決意。


 それはまさしく狂気そのもの。


 ケイは事を起こす前に言葉も通じない獣に断っておく。

 まるで自分自身に語り掛けるように小さな声で。


「――ノルンが正しいんだ。自然に生きるモンスターを恨むのはお門違いだし、間違ってる。フェアじゃないのは俺が弱いからだが、少なくとも命を賭ける覚悟ができたから……」


 不意打ち狙いで寝首をかくという一方的な暴力。昨夜の村長を襲った理不尽の正体。

 それを非難できるのは本物の聖人だけで、頭ごなしに否定したケイは軽薄で無知蒙昧だっただけの話。記憶が数日しかない稚拙な赤子であっただけだ。

 そして、残念ながら彼は奇襲が悪手だという高尚な思考をする人間ではないらしく、矮小な器しか持ちえない凡俗が適切である。


 現実を知っただけでどこまでも無遠慮かつ姑息になれる日和見具合と、心の根底にある利己的な心情はもはや見事だ。とはいえ、戦闘が始まれば身の安全は保障できない。それは一種の自傷行為であるともいえる。


 度胸試しのリスクヘッジと一線を画す、命をチップにしたハイリスクハイリターンのギャンブル。

 アレを殺すという殺害衝動を動機として。

 自らの命を絶たんとするデストルドー。


 この世界で初めての戦闘。初陣での命の賭け合い。過去という自分が無い伽藍洞の誰か。

 そんな不確かな彼が、濃紺に潜水するような感覚と共に意識を研ぎ澄ます。


 ほどなくして、腹を決めたケイは剣を高く掲げるように構える。


 眼前には人間をゆうに超える圧倒的な怪物が静かに位置している。

 普段のケイならノルンと合流して寝込みを襲うという、合理的な他力本願ぶりで切り抜けるだろうか。しかしてそれはノルンを信頼して任せる、というエルが言う依頼を受けた趣旨に沿っており、状況を鑑みて一番適切で最良な判断であることは明白。


 しかし、ケイは単独での戦闘を委細構わずに敢行しようとしている。

 それは無謀で無論、彼自身の意志だ。しかし、胸中にあるどんな感情が起因したのかが己でも今一よく分からないといったちぐはぐさ。

 村長を殺った奴に対する憎悪か、村の害を一早く排除しなければという焦燥感に駆られた責任か。


 そんな曖昧で混沌とした感情のまま望んで口火を切るのだ。

 剣を振るという動作はエルに手ほどきされながら何度か繰り返した。

 だが、この一撃は今までと一線を画す本物の剣戟。

 狙うは鎧のない頸椎、対象を狩るという生意気な自信によって、一気に鈍色に瞬く剣尖を大熊の首に叩きつける。


 描いた軌道の尖鋭、その境界が丸太の様な頸に触れる瞬間――――


 デッドグリズリーが銀光を噛み砕く――。


 寝首を掻くこと叶わず、剣そのものが光の欠片となって砕けた。

 その奥に光る双眸は敵愾心に満ちた光を放つ。


 何が起こったのか、一瞬の躊躇いの中、その姿を視認したケイは落雷に打たれるような衝撃を受け、動揺から逃れられない。


 ――――コイツ、寝たふりで俺を誘い出しやがった!


 内心で毒づきながら、致命的な誤算に生命の危機を悟り、焦心に脳をフル回転させる。


 襲撃者からの攻撃を防ぎ切った魔獣は、カウンターの横薙ぎを繰り出そうと身を屈める。

 その所作だけでケイに死を連想させた。

 かくも予定調和めいた絶望感によって、数秒先の運命が彼の意識の中で確定してしまう。


 ぱっと、見開かれた瞳孔はケイを刺し貫くように威圧する。

 その殺気に触れることで思考が凍りつくような鈍さを誘発させた。


 ケイは村人が夜襲われるという情報から魔獣が夜行性であることを結論づけ、好機であると疑わずに音を殺し対象に近づいた。

 強力なモンスターといえども、所詮獣であるという既成概念によって警戒が僅かに薄れ、期待と不安で熊の嗅覚が人間の百倍を超えるという事実を失念した。


 誤算と油断の隙を獣に突かれ、至近距離で無防備な姿を晒してしまった失態。

 してやられたという焦燥に動作制限を掛けられ、身体の自由が利かなくなる。


 飢えた獣の殺害予告を受けたような印象に言い難い危機感を覚えるが、それに支配された人はひどく脆弱に成り下がる。動けず反撃できず、という最悪の事態になりかねない。

 状況把握が鮮明になるごとに絶望が誇大し、死というイメージが現実と重なる。


 ――それはまさに絶対絶命そのものだ。


 デッドグリズリーの豪腕が鞭の如くしなり、その周囲を破壊しつくさんと力が籠る。


 このままでは奴の初撃を躱せまい。そう考えたケイは脳による思考を遮断し、反射によって無意識の回避に身を託す。思考を放棄するという一見真逆を貫く行為によって、またもギャンブル的な一か八かを敢行する。

 しかし、その選択は彼にとって一番信頼できる道であると潜在意識が導き出した確かな答えであった。


 結果、意識的に出せる最大を遥かに超えた運動能力で跳び退る。


 ――大熊の豪腕は空を切った。


 吹き飛ばされるよう茂みに叩きつけられ、思考の鈍さが吹き飛ぶ。まるで時間停止から解放させられたような感覚を得ながらケイは脱兎の如く逃走する。

 折れて短くなった剣では使い物にならないため、逃げるしか手段が残されていない。

 とはいえ、運動能力の差は圧倒的である。

 いうまでもなく状況は最悪。しかし、走るしか生き残る術はないと足を動かし続ける。


 つまり、敗走を余儀なくされた。


 ケイの逃亡に激怒したのか、魔獣は確殺してやるという敵愾心剥き出しの咆哮を放つ。


「グァアアアアアッ!」


 後ろからの轟音に急かされながら全力疾走するケイ。


 ――スライムの次はあんな化け物だなんて! ああ、こうなるかもとは思っていたさ‼


 以前より悪い状況に悪態をつくが、唯一の救いがあるとすれば今回には終点があることだろう。ケイは内心焦っていたが、その反面冷静に現状を把握していた。危機一髪の回避をきっかけとし、極限の集中状態に至ったが故に。

 加え、身体能力は火事場の馬鹿力状態で、足の筋肉がビチビチとはちきれんばかりの限界を保つ。


 対して大熊の巨体は能力的有利をもちながら、森によって進行を阻まれる。

 木々の隙間を縫うように進むケイ。魔獣は樹木を薙ぎ倒しながらそれを追う。

 それはさながらホラーゲームのワンシーンのように瀬戸際で成立していた。


 ケイの目論見は村にいるエルにデッドグリズリーを討伐してもらうことだ。

 それが最善の策であり、それしか道はなさそうだと即断した。


 目的地への道程は主に森林と平地の段階に分けられ、いうまでもなく平地では人間側が不利。つまるところ、林中でまんまと撒くか離すかしなければいけない。


 そんな後のない崖っぷちで、ケイは決して油断などしない。

 が、自然は部外者を拒絶するように彼の足もすくう。


 木の根っこに躓きかけ、よろめく。

 眼前を覆う樹葉の壁に突っ込み、目を細める。

 腕や頬に切り傷をつけつつ、その先に直立する大木に衝突する。


 後ろから伸びる鋭い爪が迫り、即座に木の幹を破裂音と共に抉る。


「――――っ!」


 咄嗟に膝の関節にかかる力を抜くことで体を真下に落とす。

 それによって空いた空間は無論、一撃で土手っ腹がぶっ飛ぶ鋭利な衝撃がケイの頭上を掠めた。


 正直なところ、デッドグリズリーの攻撃は両腕を振り回すだけという単調なものだ。

 しかし、それを数度見ただけで後ろからの攻撃をノールックで躱しきったのは賞賛に値する凄技だろう。


 高さが違えば即死していたという事実に戦慄しながら、緑の海を掻い潜るように離脱する。滂沱と流れる汗はとどまることを知らずに体内の水分を絞り取る。


「グウァアアアアアッ!」


 苛立たしげに魔獣は憤怒の咆哮を放つ。

 ケイは振り向きもせず一目散に茂みを疾駆する。


 なお、命を賭けた追いかけっこは相も変わらず継続されこととなる。


 ゴールが定まっている徒競走じみた駆け競べは現状、一定の距離を保ち拮抗している。


 しかし、全くの同じでは決してない。

 たった一度のミスであっても、ケイの意識が足元に集中してしまうのは仕方のないことだろう。


 上半身が前傾し、最速のバランスが崩れる。

 縮まる距離は破壊される木々の音で認知させられる。


 それはまさに死の行進。

 深い森の薄闇で、先の見えない走者はパニックの寸前まで緊張が張り詰める。


 疲労と共に緊張が全身に伝い――それは、最悪なタイミングで起きた。


「はぁああああー⁉」


 痛みと不快感は些事なことだと度外視できる。が、足が上手く動かせないという致命的な欠陥は文字通り命に係わる。

 ケイは自身の異常が理解できずに足取りが鈍くなっていく。すぐ後ろには死が迫るというのに、体がいうことをきかない。


 ――筋肉痙攣。

 それは無意識的に筋肉の収縮が続く現象のことである。筋肉がつるのもこの一形態であり、過度な運動や筋肉の疲労、脱水、そしてストレスや緊張などが原因で起こる。


 そう、彼の身体はすでに限界だったのだ。

 スプリンターでもないケイが肉体の限界を超えた状態で走り続ける。これだけでも尋常でない負荷がかかるというものだが、足場の悪い森の中。体力はおろか精神も擦り減るばかり。


 大熊との距離を測るために振り向こうとした時、爪撃がケイの背中を抉る。

 鮮血が中空に舞い、赤い雫が緑に落ちる。


 彼には諦めるなんて選択肢は思考の片隅にもないが、身体が休息を欲して動くのを放棄してしまった。


 脚が崩れ落ち、力なくうつ伏せに倒れる。

 ケイは恐怖より無念さに貌を歪めるが、それと同時に意外にも自らが最後の犠牲者であることに安堵していた。自分の人生は全くの無駄だったかもしれないが、少なくともノルンとエルがいる限り村は救われるのだ。そんな自分勝手な理論を無理やり立ててしまったのだから抗う意志が薄れていくのも道理である。


 生き残った村人の命を救うのはケイではないが、ノルンが森に立ち入るきっかけになれたのであれば、全くの無駄だったともいえないのではないか。

 その思考は生の諦めを肯定する要素であった。


 それでも、死にたくないという感情は生ある者として当然の情感。


「うぐぅっ‼」


 魔獣の突進によって、ケイは錐揉み回転し吹っ飛ばされる。片方の肩甲骨は粉砕されたのか、鈍い音が鳴り片腕に力が入らなくなる。


 眼前に聳える漆黒の魔獣を見上げる。

 猟奇的な貌はまさに肉を欲する獣そのものだ。

 淫蕩に耽るように歪み、滂沱と溢れる唾液が地に滴る。


 ケイは折れて短くなった剣を魔獣に向ける。少なくとも片目くらいは持っていこうと考えたからだ。


 ――そこに、ゾクリと背筋に氷柱を突き刺されたような悪寒が走る。


 視線の横斜めに眼球を滑らす。その暗い闇の先。

 誰かがにやりと笑った――気がした。

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