第5話 悪魔茸
目が覚めると視界が狭い――というより見渡すほどの高さがない。
それもそのはず、地に伏し地面からの世界を視覚しているのだから、視界の大半が赤茶けた大地であるのは当然だろう。
そのやや上の方、視界の先には誰かが悠然と歩いていく。
ケイは人が居るという事実に喜悦することもなく、ただその誰かをぼんやりと眺める。
背後からは騒がしい話し声が響き渡り、頭をかき混ぜるような不快感を自覚させられる。
それは思考を遮るノイズでしかないのだから静かにしてくれと懇願する。が、上手く声が出ずに呻き声らしきものを発することしか出来ない。
すると、雑音は絶叫に。
安らぎは失われるが、呆とする頭は何も考えさせてくれない。
そうこうしているうちに睡魔という抗し難い欲求に意識が吸い込まれる。倦怠感によって身体が動かず、なすすべなく眠りという意識の遮断を強制させられる。それはなによりも気持ちの良い快感だが、ケイはまだ微睡むのは早いと重い瞼を必死に持ち上げる。
思考すら不明瞭であり、今の状況や意味も解らずに視界がぼやけていく。
町の喧噪というより誰かが騒いでいる。それも溶けるように遠退いていき、最後に立ち止まり振り向いた誰かと目が合った気がした。
その紫鮮色の瞳に吸い込まれるように、ケイの微かな意識は音もなく完全に途絶えた。
◇
次に意識が覚醒するとやはり五月蠅い。
今度は多数の話声のようで、その賑やかな喧噪はあながち不快ではなかった。
ゆっくりと目を開けてみると、そこは室内だった。木造りの建物のようで、黒茶の木材で造られた室内は暗澹としていた。しかし、天井からはランプのような照明が吊り下げられており、温かみのある淡い明かりが室内を満たしている。
そして、丸みを帯びたテーブルとスツールが整然と並んでおり、目前にはテーブル。どうやらケイは椅子に座り、机に伏して寝ていたようだ。
見渡せば、十人ほどの大人が会話を楽しみながら飲食を進めている。
唖然とするケイは状況の整理に努める。昨日の夕食は何だったかなと、そんな気楽さで。
異世界初日は明るいうちにスライムの大軍から逃げ、夜巨大スライムに飲まれた。そこで意識を失う寸前、超茸虹を食べた。そう、ケイはあの禍々しい見た目をした茸を食べたのだ。
それはケイのティルトじみた暴挙ではなく、食べた茸が毒であればスライムはケイを捕食しない、という考えがあっての行動だ。
人間には無害、スライムには有害。そんな都合の良い毒茸だったなら、それを食べたケイの捕食をスライムが忌避することも或いは。
そんな雲を掴むような賭けだったが、生きているということは成功したのだろうと胸を撫で下ろし、ケイはもう一生こんな賭けはごめんだと深く重い溜息を吐く。
そこからの記憶は紗がかかったように曖昧だが、巨大スライムから逃げて彷徨っていたと考察できる。
そして、夢かもしれないが誰かに蹴られた記憶がある。そんなことはないだろうから、やはり夢だったのだろうとケイは判断する。
記憶に新しいのはつい先程のことだろう。目覚まし時計を止め二度寝をするような短い間隙だったが、確かに話声があり誰かを見たのだ。
その誰かが助けてくれたのだろうかと、きょろきょろ室内を眺め見れば飲食店のような雰囲気が感じ取れた。
しかし、既知の飲食店とは決定的に違う内装。客も風変りだがそれに馴染んだ空間はケイにとって異質に感じられた。それは恐怖だとかいう負感情ではなく、むしろ外国の街並みを見物するような好奇の念が湧いてくる。
それだけで、この世界はどこかファンタジーめいているということを再度理解できた。
服装でいうと、あの骨付き肉にかじりついているガタイの良い男性は冒険者風で、金属のガントレットに胸当て、背中には重厚なバターソードを担いでいる。
その対面に座り飲んでいる初老の男性はシンプルなシャツだ。この世界の一般的な服装のように思えるが、小汚い。農作業でもした後だろうか。
他にはウエイターのような人が食事を配膳するために歩き回り、厨房に戻っていく。そこには料理人らしき恰幅の良い男性が何かを炒め調理している。
そして、壁に身体を預けながらこちらに視線だけを向けてくる彼女――恐らく女性だろう――は魔法使いのイメージを彷彿とさせている。生成り麻のフーデッドローブが主に魔法使い感を醸し出しているのだろう。これに真円の宝珠がついた杖なんかを携えていれば完璧だろうか。
目には包帯を巻いており、表情は窺い知れない。が、こちらを見ている――様な視線を感じる。怖いため、余り見ない方がよさそうだとケイは視線を外す。
それはそうと、今は何時だろう。そもそもこの世界に時間の概念はあるのだろうか。窓がないため外も窺い知れが、随分寝た気がするので多分夜だろう。酒のようなものを飲んでいる人もいるし。
などと思考しながらケイはポケットを弄り、スマホを表示させる。そこには18:49と記されている。
この世界に来た当初は四時だか五時であり、その日は夜を迎えた。先程目覚めた時は明るかったので、今は異世界生活二日目の夕方だろう。生活といってもそれらしいことは何もしていないのだが。寝てばかりで碌に飯も食べていないため、腹と背がつく思いだ。
ぎゅるるーという腹の音もひもじさを加速する因子にしかなり得ない。
そんなとき、対面に職員のような恰好をした女性が目の前に座ってきた。年齢は十代後半か二十代前半か。ケイより四個から六個ほど年上らしい外見で、気品にあふれた容姿は貴婦人の卵を連想させた。若いが大人びた麗人といった雰囲気。
あまりに唐突なため言葉を失うが、そもそも言葉が通じるのか不安で狼狽する。女神様の加護を受けているため多分いけるだろう、なんて都合の良い信仰心でケイは恐る恐る訊いてみる。
「あの、貴方は? あと、ここどこですか? 私は誰?」
「ここは冒険者ギルドの地下にある酒場で、私はギルドの受付嬢です。最後の質問は分かりかねますが、お話訊いても?」
妙に事務的な返答だが、会話ができたことで安堵し、ケイは今までの経緯をあけすけに話した。
異世界から来て女神と会ったこと。龍王と魔王を倒さなければいけないこと。気づいたら草原にいてスライムに追いかけられたこと。寝ようとしたら巨大スライムに飲まれたこと。
そして、茸を食べた後の記憶が曖昧なことなど等々。
ケイは真剣かつ包み隠さずに話し、彼女も初めはそれに答えるように真剣に聞こうとしていたが、女神や異世界などという単語を聞いたら呆れの表情へ早変わりした。それはまさに百面相を思わせる印象の豹変だった。
ケイの話を最後まで聞いた彼女は、これまでの話をケイの妄想ではと一言で言い切った。
気持ちは分からんでもないが、決めつけるのは良くないと思うとケイは口を尖らせる。
「そう、ですか。もしかして、虹色の茸だったりしますか?」
「はい」
「――――――」
ちか、とローブの彼女が前に出た。
彼女は包帯越しに見下ろしてくるが、どこかで会ったことがある気がする。まぁ、気のせいだろうとケイはその既視感を無視し、彼女がこちらに視線を向けていたことに合点がいく。素性の知れない者は危険であるため用心棒を雇っていたのか、と。
一瞬で距離を詰めた身のこなしは賞賛ものだが、殺気と敵愾心を隠せば尚良い。それをそのまま口に出す度胸はケイにはなかったが、感心と興味は尽きることがない。これほど動悸を激しくする――心臓を掌握されたような感覚は、記憶が定かでない彼でも生まれてこの方経験しえない珍事だと判るからだ。
殺気というのだろうか、彼女の気迫にケイは身の毛がよだつような感覚を得る。
状況から彼女の警戒は虹色の茸についてだろうが、弁解は不審に思われるかもしれないのでとぼけてみる。どちらにしても怪しいのは変わりないことなのかもしれないが、ケイはそれが最善かつ穏便な返答だと瞬時に理解した。
「いやー、記憶が曖昧でよく覚えていないんですけどねー。茸だったかも茸じゃなかったかもー」
あははと笑みを浮かべてみれば、恐る恐るといった様子で受付嬢は質問を投げた。
「あの、食べたキノコって悪魔茸のことではないですよね」
「なんですか、それ」
受付嬢曰く、この世界には悪魔茸と呼ばれる虹色の茸があり、それを取り込んだ生き物は厄介な悪魔にクラスチェンジするらしい。悪魔は残虐非道を嗜好するクレイジーデビルで、元の人格を食い尽くされ、身体も悪魔そのものになってしまう。寄生に近しいが見た目の変化も派手なので、冒険者界隈では即刻討伐対象になるそう。
ちなみに悪魔とは別に魔族という種族もいるらしい。やはりどこまでいってもファンタジーだなとケイは心底思う。
「いやだなー。悪魔になんかなってないですよー」
それは本当なので超茸虹と悪魔茸は別物なのだろうと解釈する。
そして、拾い食いが危険なのはどの世界でも同じなのだなと深く反省。
「恐らく貴方は茸を食べて記憶障害になったんでしょうね。記憶の改竄も見られますし、正直なところ治療は諦めた方が賢明かと。貴族の御子息様であれば治癒術師を雇えるかもしれませんが。もっとも、そんな金もなければ術師もこの町にはいないでしょうが」
記憶障害というのは本当なので反論はできまい。
ケイは別に期待していたわけではないが、記憶を戻す魔法などはありそうだなと所感する。
「さて、これからどうしますか? 帰る場所も思い出せないのであればこの町で暮らします?」
そう軽くかけられた言葉、しかし、ケイにとっては超重要で天恵とも思える提案は願ってもないため救われる思いだった。
図々しくも是非お言葉に甘えさせてもらいたいと、ありったけの誠心誠意を込めて。
「お世話になります!」
◇
一階や二階建ての建物が並ぶ中、異質に黒く聳える巨大な建造物は目抜き通りに大勢の冒険者が往来する要因の一つだ。黒いレンガを建材とした立派な四階建てであり、一階は冒険者ギルド、二階は執務室、三階は応接室、四階は客室、そして地下は酒場というこの町で最も高層な人工物である。
その最上階から見える風景は中々の絶景だろう。数えるのも億劫になるほどの屋根の群れを見下ろす高揚感には堪らないものがある。
窓から真っ暗な家々を眺めた後、ケイは室内を眺め見る。
彼に宛がわれた部屋は四階にある客室、もとい何年も放置されている空き部屋であり、埃だらけですえた匂いが露骨に鼻孔を刺激する。
蜘蛛の巣は当然のように張り巡らされ、家具は寝台と椅子、机のセットのみ。
簡素な一部屋は清潔であれば居心地が良さげだろうと、ケイは就寝前の運動がてら掃除を始める。
机や寝台の縁などを濡れ雑巾で軽く拭いた後、壁や床も引き続き綺麗にしていく。
手際よく機敏に動きまわる。それは明日の早朝、冒険者の仕事を手伝うことになったため、掃除を早めに終わらせ就寝したかったからだ。
今後についての相談相手が受付嬢ということもあり、ケイが冒険者になりたいと言ったら二つ返事であっさりと承諾されたのだ。
冒険者はこの世界の情報を調べるのにも適しているだろうとの見解がケイにはあり、願ったり叶ったりな状況に重畳だと愉悦する。
それにしても冒険者とは本当にお誂え向きだろう。最終目標である龍王と魔王の討伐とはつまり、殺害ということであり、戦闘は避けられまい。標的の強さなども知らなければ戦うことすら早計であり、命は一つしかないのだから慎重に越したことはない。
故に、冒険者は目的の第一歩としては妥当過ぎるほどに都合がいいのだ。
モンスターがいてそれを退治する者がいるのは当然のことだが、やはりいてくれていたかとケイはまだ会ってもいない冒険者に感謝感激する。そして、これはひょっとしたら女神様の加護による効果なのだろうかとケイはキラを崇め奉る。
異世界にて二日目の夜だ。
窓の外は静かなもので、ここでも星は美しく光り輝いている。
夕暮れの景色が見られなかったのは残念だが、きっとここなら平原を見渡す風景とは違った美しさが見られるだろうと明日を楽しみにする。
以前の第一目標であった人探しが達成できたのは僥倖であるが、気づいたら町に転がっていたのだ。ケイの手柄などでは決してない。では、誰の手柄なのか。それは彼が決して知り得ないことだった。
そして、この世界において彼は明らかな情報弱者であり、こんな体たらくで仕事が決まったのは奇跡といっても過言ではない。
その奇跡を無駄にしないために早く寝て明日に備えるべきだと、空腹を我慢し早々に寝ようと掃除を切り上げる。危険が伴う仕事で寝不足は致命的だから。
最後に、机の引き出しに入っていた鏡を軽く拭いてみる。
すると、赤髪の自分が映し出されてケイは吃驚する。
スマートフォンで自分の容姿は確認済みなのだが、そのときは黒髪だった。染髪した記憶はないので、異世界七不思議として脳の片隅にファイリングしておく。なお、七つもない模様。
茶ばんだベッドにダイブし、ランプの明かりを吹き消し就寝する。
借りた寝間着はごわごわしているが、制服よりは睡眠に適している。
貰ってばかりだなと申し訳なくなるケイ。
昼間寝ていたので眠気はないと思っていたのだが、初日の鬼ごっこならぬスライムごっこで案外疲れていたのだろう。
瞼を閉じればそのまま眠りにつけた。
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