第3話 マテリア・オブスクラ
それはケイのキャパシティを優に超えた事象だったようだ。
忘却によってポジティブシンキングにいこうと心機一転。鬱屈な意識をきっぱり切り替えるが、そう簡単に気持ちが晴れるわけもなく。
――両の足で地面を踏みしめているというのに、なんて不安定なのだろう。
吐き気と眩暈、気持ち悪さと目眩で世界がグニャリと歪む――ように思えただけで、世界はケイの意識とは無感動に時を進めていく。それも抗いようのない自然の恐ろしさへと錯覚させる。
この気持ち悪さは動悸と息切れによる負感情だろうと、深呼吸し気を取り直す。
自分が分からなくても目的は知っている筈だ。それは道しるべであり、誰よりも生きているということ。
生きる目的がある人間ほど幸福な奴は居ないだろうから、今の彼は文字通り神の祝福を受けているのだろう。
「龍王と魔王を倒せって言ってもな……って、女神様美人過ぎないか!」
ケイの一番古い記憶はキラという魔法使いとの邂逅だったが、思い返せば平静ではいられない。
記憶に残った女神様は筆舌に尽くしがたいほどの美女。
幸せな夢だったのかもしれない、と思わせるほどの完璧さ。
優しく微笑みかけてくる様を思い出し、思わずため息が零れうっとり。
「確かーなんとかっていう黒剣が現世に必要だとか言ってたけど、貰ってない……よな?」
思えばあの時、女神様の任務を請け負ったが、剣を受け取る前に意識が途絶えてしまったため正確には貰っていないのだ。
仮に、渡し忘れたのならその剣をどうするだろうか。「てへっミスった」なんて言って自らの頭を握り拳でこつんと打つだろうか。
それも悪くないが、彼女はそんな失態は犯すまい。直接渡す必要はないと考えるのが妥当だろう。
ケイはそこまで考え、唐突に辺りの草を足で掻き分ける。一見してそれらしいものは見つからないし、膝ほどに伸びた草は容易に剣を隠すだろうから、もしこの辺りにあるのだとしたらそれなりに手間をかける必要がある。が、そんなに小さいわけではないのですぐに見つかるだろうと楽観的に考えてもみる。
ポジティブであろうとするのはケイの理想自己であるからか。はたまた元来の特性からか。
恐らく後者だろう、彼はなにも考えていないのだから。
「女神様、俺やりますよ。貴方の願いを叶えたら、結婚しでぶほっ!」
なにかが鼻面を強打し、ケイは目を回しながら草のベッドに叩きつけられる。天然の畳によって、受け身を取らずとも怪我の心配はない。
星を散らしながら、ついた手に妙な感覚を得る。
「この手に収まる柔らかな感触はっ!」
飛び起きてみれば、そこには青いボールが。
手がひりひりとするのはソレが毒だからか、或いは酸か。
もっと遠くの方には大小様々なソレが群を成してこちらに迫る。
そして、一瞬の期待と興奮は無かったように冷める。
秒数にして十秒ほどにらめっこした後、結論が出る前にソレの増援が跳ねて来た。
――まるで津波じゃないか。
そう本心から思うほどの青い波が押し寄せる。
「バカヤロー解散しやがれ! スライムは群れるもんじゃねぇ‼」
口汚く吐き、ケイは草むらを全力疾走する。
それを追う青い集団。それは――スライムだ。
走るたびに小さなスライムが身を挺して体当たりをかますので服が湿っていく。
その部分の肌がひりひりするのは気のせいであってほしいと願いつつ、草に足を取られながらも疾駆する。
「こういうのはヒロインのイベントだろ? 人違いですよスライムさん!」
スライムとはファンタジーにおいて言わずと知れた王道雑魚モンスターだ。ブルーハワイの如く鮮やかな青は透明感のある単色。ゼリー状の体は丸く、宝石のように玲瓏と美しさすら垣間見える鉱物めいた輝き。比較的弱い部類に入るだろうそれは酸による攻撃を得意とし、初心者に立ち塞がるのはこれまた王道だろう。
最初の村でスライムを倒してレベルアップするのは、スライムが適切な強さであるからだ。段々と強くなる敵に対抗するためにスライムを狩る。これもスライムが弱いという前提があるための思考だ。
そして、ケイは武器を持っていない。あっても放り投げてしまったのだ。
一匹ならなんとかなっただろうか。
だが、数が多い。丸腰の人間と数えるのも億劫になるほどの暴力は釣り合わないし、フェアじゃない。
だからこそ逃げたのだが、意外と足が速いようだ。もちろん、足は無いし腕もない。なんなら目も口もない。ゲームなんかではもう少し可愛らしくデフォルメされているだろうに。
そんな残念な大軍に追われながら、ケイは全力で草原を駆け抜けていく。
不幸中の幸いか、大きいスライムは鈍いようで、走れば走るだけ小さなスライムに厳選されていく。
「くっそー! 異世界ぱねぇえええ!」
モンスターが存在するかもしれないという懸念はあった。
しかし、流石にこれは予想外だと悲嘆を禁じ得ない。
何時間か走り続け、どうにか逃げ果せたケイは、びしょびしょに濡れ重くなった制服を脱いでは絞り、脱いでは絞りを繰り返す。
やはりスライムは酸の攻撃が主なようで、体当たりの際に酸性の粘液を染み込ませてきた。敵を集団で襲って溶かして捕食する生態なのだろうか。本当に肝が震える世界だなと身震いする。異世界とはそんな過酷なものだったかと疑問を抱きながら。
幸い制服が溶けなくて良かったが、染み込んだ粘液が皮膚に触れると痛みを伴って腐食する。
赤くなった肌が焼けるように熱くて仕方がない。風に吹かれるとなお痛いので、湿った制服を着なおす。
川でもあれば水浴びしたいところだが、残念ながら我慢するしかないようだ。草原を見下してもそれらしいものは見つからないのだから。
逃げた先は岩山なので、草原が遠くの方までよく見渡せる。まるで緑の海のようにだだっ広く、この中を無闇矢鱈に走っていたとは命知らずだと自分でも思う。茂みの中に肉食獣やそれらのモンスターがいればアウトだったろう。
その先に浮かぶ陽は低くなり、日暮れが近いことを暗に告げた。
石でごつごつした斜面で足をのばし、上半身を腰の後ろについた両手で支えながらその様を呆と眺める。そして、疲労がどっと襲ってくる感覚に嘆息する。
「あーもーかえりてーい!」
益体なく出た声もどこ吹く風。
清々しいほどに澄みきった空は徐々に暗さを帯びていくが、この世界でも相も変わらずに存在している。それだけで安心できるような気がして緊張感が緩んでしまう。
ふと、目線を下げた先に虹色の茸が目に入る。岩と地面の隙間から生える茸は手のひらサイズで、丸みを帯びた傘はマッシュルームを連想させた。
しかし、見なかったことにする。否、関わるべきではない。
一見するとシンプルな形はザ茸とも思え、虹色に輝く様はリッチ風で高く売れそうだ。
が、こんなものを口にするなんて人として終わっている。
そう、生物としての本能が、全細胞が、全身の身の毛が否定する。
しかし、使い道はあるかもしれない。食すのは危険すぎるが、人に会えたら売れるかもしれない。一文無しのケイが生きていくには酷な世界であるかもしれない。
そんな思考が脳裏でよぎり、チャンスである可能性を考慮するべきだと思い至るケイ。
よせばいいのに、結局その茸を
スライムのことはもはや記憶にないという態度である。
仰向けになり、陽が落ちる情景を眺める。
夕日の光芒が緑の世界を貫いていく。その様はまるで希望を孕んでいるように神々しい。
しかし、そんな煌めきもやがて闇に包まれていくのだと知っている。
それが彼にはとても恐ろしいことのように思えた。自分も闇に墜ちるような錯覚を覚えてしまうから。
無慈悲にもなにもかもが闇に包まれていく。
草すらも眠りだす夜の帳が落ちる。それに伴い光り輝きだす星々に、まだ光を反射し赤をふくむ彩雲。
絶景という言葉では表現しきれない光景に彼は目が離せない。きっと前の世界でもこんな感情を抱いたことは無いだろう、という確信をもって眼前の情景を一心に目に焼きつける。
「なんて美しい世界なんだ――」
思わず口から零れた言葉は全くの本心。
この気持ちだけは本物だと胸を張って言える気がした。
強く打たれた情動は余韻を残し心に刻まれた。変わりゆく天空を眺めながら時が進む様を実感する。
辺りはとっくに真っ暗になっていたが、もう暗闇に慄くことはない。闇があるからこそ強く輝ける星たちがそこにあるから。
無数の光が漆黒の世界に光り輝き、夜のキャンバスを彩る。
そこに、本日唯一の戦利品である超茸虹を空に掲げてみる。
と、僅かに虹色の光を放っていることが分かった。光源といえるほどではないが、インテリアとして部屋にでも置いておけば映えそうだ。
金持ちに吹っ掛けようか。それとも物々交換でわらしべ長者でもして億万長者に。
辺りが真っ暗になっても寝付けないため、そんな益体のないことを考え時間を消費していく。地面が石でごつごつしているため背中が痛いが、皮膚の熱傷は時と共に和らいでいく気がした。
異世界初日はスライムから逃げ、茸を見つけただけで終わってしまった。
ケイは今のままでは不味いと今後の展望について物思いに耽る。
まずは人を見つけないとお話にならない。そして、この世界の情報を集める必要がある。
剣の行方は不明だが、探すのは現実的ではない。消極的かもしれないが、災難だったと納得するべきだ。
「女神様、剣なくしちゃったみたいです。でも、必ず龍王と魔王は倒します! そしたらけっ――」
――そのとき、彼は溺れた。
否、作為的に溺らされたのだ。
空から降ってきた巨大なスライムによって――――。
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