第2話 自分という他人

 目が覚めれば、果てのない白一色の世界――ではなく、果てしない青空が一面に広がっていた。


 背中にチクチクと刺さる草の感覚。

 緑の爽やかで温かい香りにほだされながらゆっくりと辺りを見やる。

 辺りは草原のようだが、すぐ近くにむき出しの岩肌がそりたっている。もっと遠くの方に視線を飛ばせば、連なった岩山が見え、それらは一様に天に上るほど白みがかっている。


 残念ながらそれだけしか特徴的なものはない。草原と岩山と蒼穹に浮かぶ僅かな雲。長閑で自然の美しい風景だが、家屋のような人間の痕跡は見当たらず、ましては動物の気配すらない。例えるならばスイスの山岳地帯が適切だろうか。


 草の擦れる微かな音が重なり、サラサラという子気味のいい音を奏でながら穏やかなそよ風が頬を撫でる。陽の光と相まって睡眠意欲が掻き立てられるが、それに従うべきではないことは言うまでもない。ここがどこなのか、危険がないか、知るべきことやるべきことを放棄し惰眠を貪るのは完全に間違っているし、怠慢なる煩悩のなにものでもないから。


 しかし、彼にとってそんなことは些細なことであり、もはや重要ではなかった。


「俺は――誰なんだ?」


 ただ一人の呟きは誰の耳にも届かずに風の音に掻き消されていく。それは彼に自身の存在を抹消される感覚を錯覚させた。


 ――記憶がない。


 知らない世界で、知らない自分。

 既知がないという現状に彼は理由もなく戦慄する。


「あれ、なんで俺は此処にいるんだ? 夢じゃ……なかったのか?」


 彼が思い出せる最古の記憶はキラという魔法使いとの邂逅だ。

 あの時は何もかもが現実味のない白昼夢のようで、過去はそのうち思い出すだろうなんて安易な考えでいた。

 今となってはそれすら定かでない記憶となり、空虚なもの寂しさを残すのみ。


 そして、龍王と魔王の討伐を任されたような気がする、と漠然としたことだけが使命感と共に想起される。


 だが、それ以前の記憶がない。


 正確には自分自身に関する事が何一つ分からないのだ。

 常識や物事は分かっても、自身が何者であるのか欠片ほどの記憶がないのだ。それはつまり、自己に関するエピソード記憶だけが抜け落ちた状態である。それも彼の場合、自分という存在が分からなくなるほどの健忘具合だ。


 この様な症状は主に、人が耐え難いストレスや頭部の外傷によって引き起こされるのだが、それすら記憶にないのだから全くの空虚だ。


 それゆえ、彼は自分が自分であるという実感がもてない。

 アイデンティティが確立されないとは、命綱がないロッククライミングのような危うさがある。一歩踏み外せば逆さになって落ちていき、果ては自己の崩壊による死が待ち望むように。そんな崖っぷちで、彼は常識すら通用しない世界に来てしまったのだ。


 自分がないということは他者の視点から世界を観ているのであって、それは俯瞰された風景でしかない。

 自分でない視点から見る景色になにを感じるのか自分ですら判らない。そんな状況でなにも感じなければそれは無であり、それは死と同義だ。

 生きるということは自分の意識で物事を感じ考えることだ。そのためには記憶による自己の確立が必須であり、それよって自己理解が可能になる。


 つまるところ彼は生を見失っているのだ。


 この世界に来てしまったからにはそれ以前のことは決して知り得ない過去なのだと、そんな現実が波濤の如く押し寄せ奔流に眩暈と吐き気を感じさせる。自分が何者なのか分からなければ何人にもなれないし、伽藍の状態である今も人の形を維持できているのかと不安で恐怖する。


 負感情によって動揺に打ちひしがれ、思考が荒波のような起伏で乱れる。

 キーンという金切り音が入り混じり目眩が襲う。そして、脳内をマーブル模様のようにかき混ぜられる錯覚が気持ち悪さを誘発させる。


 現状、彼の精神は危うい。

 自身を抹消される感覚に、死にたくないという原始的な恐怖に心胆寒からしめる。


 それに抗うためか、彼は自己に関する手掛かりがないか着ている服を無我夢中で探る。着の身着のままこの世界に来てしまったのだから、手掛かりがあるとすれば身に着けているものだろうと考えたためだ。


 傍から見れば異様かもしれないが、人目を憚る必要も自分を偽る意味もない。残酷にも自分がないのだから。


 服装は制服――学生なのだろうか。ならばと、ポケットを弄り自身の存在を証明できるそれを探す。

 ズボンの両ポケットには――ない。

 もしや学生なのだから専用のバックに入れているのかもしれない、なんて最悪な結末だけは否定しつつ探す。

 と、ブレザーの胸ポケットに何か手のひらサイズの矩形が。

 彼は目当ての生徒手帳を取り出し、躊躇なく中を開け放つ。


 その一頁に記された名前は、


霞美カスミ――ケイ


 彼の存在を肯定した。


 声に出してみればそんな名前だった気がし、心の重みが霞になって消えたようだった。

 しかし、恐怖はまだケイのどこかで熾火となり燻っているような気持ち悪さを残す。


 平静を取り戻し手帳の内容にざっと目を通して分かったことは、ケイという人物が十五歳の高校一年生であること、そして名前だけだった。住所や学校名などには何も感じないため瑣末なことなのだろうと、覚えておく必要もないと度外視する。


 高校生は子供と大人の境界に位置し、自身のパーソナリティが確立されてくる時期、つまるところ思春期の最中だ。だからこそケイの自己概念は不明瞭なのだろうか。

 そんな一般論は知っているだけで、高校生であった記憶がないため、本当のところは判らない。


 と、そこにケイは違和感を得る。

 記憶がないと思っていたが、全くの無知ではないということに遅まきながら気づき、頭を捻らせる。知っていることは常識的で俗世的なものであり、決して自分に関することではない。自分自身に関わる記憶だけが抜けており、社会的知識や一般的知識は保たれている。いわば全生活史健忘というヤツだろう。


 自分の生い立ちや生活模様、行動様式、どんな人生を歩んできたのかは空白になっており、一見して知り得る術はないように思えた。


 通常、記憶を失っても確立された特性は生き続ける。つまり、記憶喪失を伴うアクシデントに遭っても、悪人が善人になることはないし、逆もしかりだ。であれば大方、自分がどのような人物であるのかを自問自答によって知ることができる。


 そして、意識的に思い起こすことができる明示的記憶があるのならば、その逆の無意識のうちに蓄積された暗黙的記憶の存在も或いは。

 それは思考からではなく、体験から再現すればいいのではなかろうか。

 自分であるという実感がなくても、中身が空でも、以前の自分に擬態するという気持ち悪さを感じたとしても、元の自分を取り戻すことができる。


 自身の性格特性が判明すれば、きっと自分であると実感できるだろう。

 それは寧ろ現在をクリアに生きることができ、一抹の不安があれど、未来に希望を抱くことを可能にする。ただ、当人にとってのスタート地点が変更されるだけで、自分の人生を確かな自覚をもって紡ぐことができるのだ。


 そう考え至り、ケイは男子高生を想像する。その後、再現を試みるために。


 男子高校生は馬鹿で浅慮で感情的。だらしないことこの上ないが、友人との絆を大切にし、助け合いの精神は強い。大方友人同士で構成されるコミュニティを確立しており、どの系統のコミュニティかによって性格が変わりそうなもの。

 しかし、これは一般論というか偏見であり傾向だ。自分がこれに当てはまらない者の可能性もある。思春期の真っただ中にいる彼らがもつパーソナリティは大方まちまちだ。イメージ通りの者もいればそうでない者もいるのは当たり前のことであり、それが普通である。


 ここで問題なのはケイがどの系統にあたるのかだ。手掛かりは少ないが、皆無ではない筈だと再び着衣を探る。


 ケイは制服をまじまじと観察し、ブレザーを脱いで布地を査定するように触る。

 高校一年生なので、傷のない制服に違和感はない。シャツはズボンに仕舞い、袖や裾は短すぎず長すぎずに身体に合ったサイズであり、生徒手帳とスマホをブレザーの胸ポケットに入れておく律義さ。高校一年生の後半ならもう少し砕けているのだろうかとも考えるが、これも人によるので一概には言い切れない。


 着こなしは一見すると正しいが、動き易そうなシューズとシンプルなベルトに個性が感じられる。

 靴は運動に特化したスニーカーだが、スポーツをやっているような痕跡はない。部活ならその時に専用の靴に履き替えるだろうし、なにより買ったばかりといった印象が強い。靴下は無地のもので真面目さが僅かながら窺える。


 次に、ベルトは見た目に反して頑丈であることが分かったが、ズボンの紐が律義にも結ばれているため、ベルトの有用性がない気がした。


 そして、一番手掛かりになりそうなスマートフォンは悔しくも暗証番号式のロックが掛かっていて開くことができない。ロック画面は黒い面に白文字で16:26という時が刻まれている。せめて日付が分かればもう少し考察できるのだが致し方ない。

 使えるのはライト機能とカメラ機能だけだろうか。


「――カメラ、ってことは!」


 圏外でロックされているスマートフォンなんて極めて役に立たないものだ。それに加え、男子高校生がカメラでパシャパシャするなんてイメージもない。


 だが、ケイにはその機能が救いだと思えた。


 すかさず慣れない手つきで自撮りをし、撮った画像を表示させる。撮ってすぐなら閲覧できるようで、そこには――


「俺……なのか?」


 自分という知らない他人がいた。


 全く記憶にない黒髪黒目の誰か。

 自分の姿を見れば思い出すだろうという確信的な考えがぴしゃりと拒絶され、死刑宣告を言い渡されたような感覚を味わう。


 よろめき、尻もちをつく。

 腰の背辺りに固い感覚が痛みと共に襲うが、ケイにとって身体的な衝撃よりも精神的なショックの方が重大だった。

 行き詰りが確定したような無力さの中、それが何かを確かめるために手を伸ばす。


 いつからか――手が震え出したのは。

 まるで背中を掻くような動作で、今度は固く手のひらより大きいエル字型の何かを掴む。

 が、取れない。ベルトに固定されているらしい。


 ベルトごと外し――ケイはそれが何かすぐには分からなかった。


 次に、玩具だと思った。


 本物のワケがないと嘲笑するように、自身の脳が気楽に思考を放棄したがる。

 しかし、手の感覚が本物に近づける。記憶にない身体の体験がイエスというような奇妙な符号。

 重厚な鉄の重さはニセモノの塑料とは比べるまでもない差がある。

 手の上にあるコレは前者の重量であるが、鉄性の玩具も存在する。つまり、レプリカである可能性はなおもある筈だ。


 なのに、ソレが本物であるという確信めいた自身の眼識が否定し、真実を突き付ける。


 ホルスターに収められた漆黒の拳銃が手のひらの上に在る。


 その受け入れがたい現実を自己理解への渇望と共に、思いっきり草原の彼方に投げ飛ばした。彼方へと放たれたそれは草むらの海に落ちていった。


 ケイはこの事象を無かったことにした。

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