不逮捕特権
ユーグ・ネルヴァルは机の上に大量の資料をおいて担当者を睨みつけた。僅か二日で用意したのでまとめる暇などなかった。ありとあらゆる資料をもってきたのである。
「さあ、これが事務所の会計記録の全てですよ!」
担当の男は何の感情も見せなかった。冷厳とか謹厳実直という印象は感じられない。全く関係のない他人事に振り回される官吏特有の無関心さである。
「それではまあ、一旦お預かりして…」
担当者がそう言いかけた時にネルヴァルはどん!と机と叩いた。
「そんな暇はないんだ!君も知ってる通り来月から本議会があるんだぞ!」
ネルヴァルは吊り眉をさらに吊り上がらせて担当者を睨みつけた。彼のその睨みつけは若手下院議員の中でも有名でからかい半分にカブキと呼ばれる事もある。
「…とは申されてもこれだけの量ですから…」
担当者は逆に眉尾が下がっているのでその印象は対照的である。そして言葉遣いの違いもあり、まるでネルヴァルが一方的に無理難題を押し付けているようにも見える。しかし実態は全くの逆であった。
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3時間後ネルヴァルはようやく会議室から出てきた。この3時間、議会での質問よりも長く多くの言葉を費やしたのでさすがのネルヴァルも疲れ果てていた。
「いかがでしたか?」
そのへんに居る給仕にお茶を頼むより早く待機していたトーマス・ギグレスが声をかけてきた。ああそうか居たのか。
「…取り急ぎはなんとか潔白は証明してきた…」
トーマス・ギグレスはネルヴァルの顧問弁護士のひとりという事になってるが、実は只の契約弁護士でしかなく、さらにその正体はまともな弁護士ではなかった。
ギグレスはネルヴァルとだけ契約しているわけではなく、多くの議員を顧客に持つ弁護士だった。弁護士事務所ならそういう契約も変ではないが、ギグレスは普通の弁護士事務所の人間ではない。彼を代表とする弁護士事務所はあるが、その事務所で弁護士資格を持つのは彼自身だけである。彼の正体は情報屋であり事件屋だった。
「私どもの情報がお役に立ったようで何よりです」
ギグレスは無表情にそういった。一見では印象が悪い男ではない。黒い肌に眼鏡をかけ背広もごく普通。頭髪も短く髭も生やしていない。体格もよく初対面ならむしろ好印象を抱く人間も多いだろう。しかしネルヴァルはその白目がちの目に嫌悪感を抱いた。しかしそれは目の形状そのものに対してではない。その目は明らかにネルヴァルからの回答を待つものだった。
「…ああ世話になった。今後も宜しく頼む…」
ネルヴァルはその言葉を言い終えると無意識に左鼻がひきつったが、半身で相対していたのでその様子はギグレスには見えなかった、筈である。
「それを聞けて安心しました。ではこちらで」
そう言ってギグレスは一礼して踵を返した。
──け──
ネルヴァルは内心で下品な舌打ちをし、そして今度は遠慮なく鼻に皺を寄せた。ネルヴァルの回答は、つまり顧問契約の継続を意味するのだからここで別れる必要はない。そのままネルヴァルの事務所に行って契約更新のサインを交わしてもいいのだ。しかしギグレスはネルヴァルの内心を正確に把握していた。
──更新はするが一秒だって一緒に居たくない──
それがギグレスの推測でありネルヴァルの本音でもあった。
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トーマス・ギグレスとの契約はネルヴァルが初当選してすぐなのでもう5年になる。当選したばかりの議員は勉強会という名目で研修に奔走するのが常であるが、そういう研修にはこれまた懇談会という名目で飲み会などがある。そういう席で先輩議員からギグレスの事を聞いたのだ。というより今にして思えばその先輩議員もギグレスからの圧力があったのか、あるいはギグレスと袂を分かつために新たな「顧客」を紹介する必要があったのかも知れない。
いずれにしてもその話を聞いた時は悪い話ではないと思った。というより極めて重要な情報に思えた。そしてすぐにギグレスを紹介され契約を締結したのだ。そして月日が経つにつれ段々とギグレスという男を持て余し始めた。
まず一応弁護士なのに相談や調査や法務対応などには一切応じない。というより連絡を取ろうとしても取れない事が多い。契約更新にすら本人ではなく代理が来る事が多く、その代理というのが身なりからして明らかにまともな人間ではなかった。
そして契約料が高い。弁護士というのは顧問契約を締結しててもいざ何かあったらそれは別料金で請求してくるものだが、それでも相談などには応じてくれるものだ。しかしギグレスは相談どころか顔すら見せないのである。
つまりギグレスとの契約の他にも別の弁護士と契約しなくてはならず、その経費は重いとまでは言わないが奥歯に何かが挟まって取れないような不快感をネルヴァルにもたらした。これでは何のために契約してるのかわかりゃしない。特に妻の弟である経理担当のコーディは姉にもネルヴァルにも不満を漏らしていた。
「大体にしてその"重要な情報"って来たことあるんですか?」
経理担当であり義弟のコーディ・ギャレットは事あるごとにそう言った。もちろんそんな事は一度もないからネルヴァルも悩んでいるのであるが。
コーディ・ギャレットは妻の弟というより、ネルヴァルが経理担当の姉と結婚したというほうが適切で、つまりそれくらい昔からの馴染みである。そしてギグレスとの契約は、ある意味で彼の仕事を疑っているという風にも取れるもので、コーディは経理の負担という業務上の理由とともに内心面白くないのである。
そうして、まあまあ、なあなあ、で3年が経ち、4年が経ち、5年目になった。この頃になるとネルヴァルもそこそこに人脈ができてきて、ギグレスだけではなくそういう情報筋でもっとまともな弁護士とも繋がるようになった。そうなると顔は見せない、相談には乗ってくれない、契約料は高い、契約更新のたびに毎回違うギャングまがいを使いに寄越すギグレスとの契約は急速に価値を失っていったのである。
そしてついに契約解除をしようと決意した矢先にこの問題が発生したのだ。
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「おかえりなさいませ」
ネルヴァルが事務所に戻ると若い女性事務員がそう出迎えてくれた。鷹揚に返事を返してそのまま奥の応接兼会議室に入り、お茶と一緒にコーディを呼ぶように頼んだ。お茶と女性事務員と一緒にコーディもすぐにやってきた。
「お疲れ様でした。どうでしたか?」
コーディはそう尋ねて手に持っていたコーヒーを一口飲んだ。まだ若いのでそう言い現わすのはやや躊躇うが、実質的な事務所の金庫番である。ネルヴァルと二人きりのときに妙な遠慮などはしなかった。
「…まあ、半分はなんとかなったよ…」
ギグレスに言った事とやや違うのは、そのもう半分がギグレスとの契約解除だったからである。そしてその意味はコーディに伝わった。コーディはため息をついた。
「…せめて使いの人間の身なりはどうにかしてほしいですねえ…」
コーディは目と口を一文字にしてそう言った。そしてそれ以上は口にしなかった。
コーディは守銭奴ではない。必要だと思った事にはちゃんと経費を使う。今回の事でギグレスがただの
「…済まんな、コーディ…」
ネルヴァルもギグレスに対する自身の不快感を押し殺してそう言った。ネルヴァルにとってコーディは高校の後輩であり出馬前からの経理担当である。事務所の重鎮というより仲間であり年の離れた親友なのだ。申し訳ないという気持ちは強い。
そうして少し雑談を交わしてコーディは仕事に戻った。一人になったネルヴァルは内心で密かに思っていた事について考え始めた。
──今回の件はギグレス自身が仕掛けた事かもしれない──
それは何の根拠もない疑問だがネルヴァルはそれを確信していた。いくら何でもタイミングが良すぎる。ネルヴァルがギグレスとの契約解除を考えていると妻とコーディに打ち明けたのは先週の事なのである。
──しかし──
一方でもう中堅にさしかかった議員としてはその情報収集力は無視しえなかった。不快感は変わらないが、もう少し歩み寄って有効活用する方法を探るべきだろう。
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「お疲れ様でした先生」
そういってギグレスのグラスに酒を注ぐのはギグレスよりかなり年上の老人だった。この老人も一見ではさほどおかしな身なりではないが、長年そういう世界に住んでいる者に備わるある種の雰囲気がその身体にまとわりついていた。
「いえいえ、ネルヴァルは有望株ですから丁度よかったです」
ギグレスも老人に対してそう丁寧に応えた。一応は弁護士であるギグレスはその老人より社会的地位は高い。が、その老人はそういう社会的序列の外に居る存在なのだ。
「今までは様子見でしたがこれからは少し話し合う事にしますよ」
ネルヴァルはギグレスを信用していなかったが、それは一方的なものではなかった。むしろ失敗が即身の危険に繋がるギグレスのほうがネルヴァルを観察していたのだ。その能力を、その生存力を。彼らはそういう世界の住人だった。
「ではテストも合格ですかね」
老人はそういってにんまりと笑った。本人は愛想笑いのつもりなのかも知れないが、ギグレスの横に居たホステスが一瞬真顔になるほど邪悪さを感じさせた。
「ではネルヴァル先生の更なる活躍を願って乾杯」
老人がそう音頭を取ってギグレスと老人自身、そしてその箱席のホステスたちも艶やかな笑顔で乾杯をした。ギグレスの横のホステスも笑顔に戻して乾杯に参加した。「テスト」が何を意味するのかは考えないようにしながら。
「しかし不逮捕特権ねえ…」
老人はそう言ってくすくすと笑いだした。この国では「国会議員には不逮捕特権がある」というまことしやかな噂がある。その噂は全くの無根拠ではないが、事実を知る老人にとっては失笑してしまうものだった。
「これを考えた人間はよほど議員に恨みでもあったんですかねえ」
老人はくすくすと笑いながらそう言った。老人の隣にいた若いホステスは無邪気に不逮捕特権って本当にあるんですかあ?と老人に聞いた。
「まあそのおかげで私達のような小市民が日々の糧を得れるのですがね」
ギグレスはそう言いつつグラスを空けた。そのグラスの酒はオーダーしたボトルから注がれたもので、そのボトルは普通の勤め人なら絶対に支払えない額である。
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「国会議員には不逮捕特権がある」
これはこの国に伝わるある種の都市伝説だった。国会議員たちは口を揃えてこれを否定するが、事実を先に言えばそれは「ある」とも言えるし「ない」とも言える。
これは正確には「被逮捕権がない」という事であった。
被逮捕権がないとは「『法律を犯した可能性がある場合に逮捕により身柄を拘束され捜査に協力あるいは裁判を受ける』権利がない」という意味で、なんだやっぱり不逮捕特権があるんじゃないか、と思われがちだが実は全く違う。
逮捕されるのは不名誉ではあるが実はまっとうな順法行為である。法律を遵守するからこそ犯罪捜査への協力として警邏から逮捕され、場合によっては有罪と判じられて刑罰を受けるのだ。それは完璧に法令遵守の精神に則った行為なのである。
しかしどういう経緯なのか、国会議員にはこの人権に則る遵法行為、あるいは権利が認められない。これは一体どういう意味なのか。
例えばある国会議員Aが何らかの違法行為を犯したとする。そしてそれを司法局が感知するとそれを調査する。そしてその違法行為が事実と認められた場合、国会議員Aは逮捕もされず裁判にも出廷せず、ある日突然実刑を言い渡されるのである。なぜならば国会議員には「被逮捕権がない」ので、逮捕とそれによる裁判という自己弁護の場が与えられないからである。裁判がないので当然彼を弁護することもできず、つまり刑罰は司法局の独自判断で認定し放題でもあった。
なぜ国会議員に対してこの様な「脱」法規的な処遇が定められているのかは司法関係の人間しか知らない。その理由はかつて「会期中の議員の逮捕は一旦保留する」という訳のわからない法令により、逮捕保留中の国会議員による証拠隠滅が横行していたからであった。
「国政を預かる者が法令違反など言語道断。速やかに実刑に処すべき」
どこの誰が言ったのかは定かではないが、とにかくその暴論がまかり通ってしまうほどその当時の政治は腐敗していたのである。それは国乱の中で一時的な懲罰としては有効だったのかも知れないが、その遥か未来のネルヴァルのような真面目な議員にとってはだまし討ちに等しいものであった。
そしてネルヴァルのような真面目な議員や、ネルヴァルのようではない議員も例外なく「今自分が司法局に調査されているか」という事に警戒せざるを得なかった。
人間が生きていく上で完璧な法令遵守などできるものではない。
そこでギグレスのような人間の出番である。彼らは法律のプロ、または裏情報のプロ、あるいは違法行為のプロたちであり、表も裏も調査して情報を獲得し、万が一があったら雇い主に報告する専門の情報屋なのである。
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そしてギグレスはネルヴァルの推測通りまともな弁護士ではなく、顧問契約料などただの関係保持の口実でしかない。彼の、彼らの本当の目的は顧客たる議員の出世により自分たちの影響力拡大とそれによる収益増加であった。
しかし当然それは顧客たる議員が出世しなくては話にならない。ギグレスは待った。5年間待ち続けた。いや彼の顧客は多いのでそれを含めればもっと長く待ち続けた。それどころか今でもまだ待ち続けている。ネルヴァルは有望株ではあるが今はまだ党内各会派の委員長ですらない。
そんな折にネルヴァルが自分との契約を解除したがっているという情報が耳に入った。別に怒りはなかった。よくある事だしそう考えても不思議ではない。しかし丁度いいのでここでひとつ「テスト」をしようと思い至ったのだ。
もっとどうでもいい議員ならギグレスの気分次第でどうとでもするが、ネルヴァルには少し甘めのテストを施した。これで収監されるようならまあご愁傷様、という気持ちもあったが、ギグレスはネルヴァルに期待していた。彼ならきっとこの程度のテストなら切り抜ける筈だと。
そして予想より早く、そして見事にネルヴァルはテストをクリアしたのである。この宴はネルヴァルの出世を確信したいわば前祝いなのだ。
──期待しているよ。ユーグ・ネルヴァル──
ギグレスはネルヴァルに対して悪感情はない。というより誰に対しても好悪などない。ギグレスにあるのは自分に富を与えてくれうる人間への感謝だけで、そうではない人間には何の感情も抱いていなかった。
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