田崎史次の事件簿

青木誠は緊張した趣でその料亭に入っていった。青木を呼び出したのは上役に当たる薗浦だが厳密には上司とは言えない。任官三年目の若手検事にとって次席検事など雲の上の存在で、一般的な会社なら平社員と役員以上の格差がある。そしてこの「誘い」という名目の呼び出しの理由は確認するまでもなく判っていた。


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「君の活躍はよく聞いているよ。ま、一献」

そう言って薗浦は青木の猪口に日本酒を注ごうと徳利を向けた。青木は慌てて猪口を取り恭しく両手で持って酒を受ける。


それからしばらくは雑談が続いた。雑談と言ってもほとんど薗浦が勝手に喋っているだけで、青木はそれに丁寧かつ言質を取られないように注意しながら相槌を打つだけであった。酒も料理も味わう余裕など全くない。


「ウチに君のような若手が来てくれて本当にありがたいよ」

薗浦はにこにことした笑顔でそう言った。


「こういう地方都市だとどうしても土地の有力者が煩くてね」

どうやら本題に入ったようだった。青木は無意識に背筋を伸ばした。


「…とはいえ…、郷に入っては郷に従えという言葉もある」

薗浦はつまらなそうにそう言った。


まだ先の話だが薗浦は検事総長候補の一人である。五代続く法曹家系のエリートで祖父の代には検事総長を排出したこともある。つい先年まで父も叔父も検事として活躍していた事もありその期待と影響力が絶大だった。


そして、そういう家系だからこそ、法曹界の表も裏も知り尽くしており、検事の理念たる秋霜烈日は必ずしも全ての場面で適用される正義ではない事も知っている。


「例の強姦事件について君は起訴する気なのかい?」

薗浦はむしろ気遣うようにそう聞いてきた。


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「例の強姦事件」とは青木のような若手が聞いても呆れてしまうような内容だった。とある女性、ここでは仮にA子としよう。このA子が自分は薬物を使われて強姦されたと主張しているのである。


事件のあらましはこうだ。去る10月に県内のシティホテルでチェックアウト時刻を過ぎても退出しない客がいたのでホテルマンが様子を見に行ったら意識が混濁しているA子を発見した。すぐさま病院に運ばれて集中治療を受ける過程であっさりとマリファナとMDMAの服用反応が出た。もちろん、というのもおかしいがA子は自分が薬物を使われた上に強姦されたと主張したのであった。


A子は27歳で自称女優だが実際にはホステスで、さらに主たる収入源は別にあるようで、つまりまあそういったような立場の女性だった。これだけなら「左様でございましたか」というだけで粛々と相手も一緒に逮捕して起訴するだけである。しかしここでちょっと話が難しくなった。相手の男性の立場である。


相手の男性の名前は飯上清隆。本人が元弁護士にして町議会議員というだけでなく、義父の笠之原雄吾が衆議院議員田崎史次の後援会の理事であったのだ。


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田崎史次といえば私民党の有名な衆議院議員である。でっぷりと肉がついた身体に藪睨みの目つき、声は大きくだみ声で、若い頃は関西地方で過ごした影響で関西弁と広島弁が入り混じったような口調は聞くものに恫喝的な印象を与える。実際に押し出しも強く、間違っても清廉潔白な政治家とは思われていない。私民党の負の面を象徴する人物で、それ故にまだ60代前半なのに党顧問の一人となり、政界では長老として認識されている大物政治家だ。


しかしそういう人間はある意味で便利であり、薄汚く小煩い長老として今もなお失脚する事なく党幹部の一人として大手を振っている男であった。


「…もちろんそのつもりです」

青木は意を決したようにそう言った。それを聞いた薗浦は大仰に肩を落として聞えよがしの大きなため息をついた。


「あのなあ、青木くん」

薗浦は下を向いたまま青木に語りかけた。


「…君だってこの事件の実態が判らんでもないだろう…?」

薗浦は困ったような、呆れたような顔で青木にそう問いかけた。


「僕の本音を言えば起訴すら要らないよこんな事件」

男女ともにそのまま収監して終わりでいいよ、と薗浦は言った。


「まあそうは言えないのが検事なんだけどさ」

そう言って薗浦は手酌で注いだ一献を一気に呷った。


「私もそう思います…」

青木は恐る恐るという体裁で追従した。


「どのような状況があろうとも、罪は詳らかにしなくてはいけないと考えます」

青木は汗を流しつつそう言った。


その言葉に薗浦は眉と目じりと口元をへの字にした。五代続く法曹界のエリートとは言え薗浦は頭でっかちの理屈倒れではない。むしろそういう事情に誰よりも詳しく、忖度すべき場面は迷う事なく忖度してきた世渡り上手なのである。その薗浦からすると青木は名前通り青すぎて呆れて言葉が続かないのかも知れない。


「君はそういうタイプだとは思っていたよ」

薗浦はそれでも青木に徳利を差し向けて一献注いだ。これはどういう意味なのか。


「まあこれで僕の役目はほぼ終わった。後もう少しだけ付き合ってくれ」

そう言うと薗浦は立ち上がって座敷を出ていった。トイレという訳ではないだろう。この事を誰かに報告しにいくのだろうか。


しばらく待つと薗浦は誰かを連れてきた。背丈は普通だがかなり太った男だった。薗浦の態度からすると随分と立場が高い人間に思えたが面識はない。


「やあやあお邪魔しますよ」

男はそう言うとさも当然という体裁でどさりと上座に座った。薗浦は先程の席から移動して青木の横に座った。


「お互い面倒に巻き込まれたモン同士、今日は仲良うやろうや」

そう言って男は徳利を差し出してきたが、青木の適量は過ぎていたし、男は名乗りもしない。何者だか判らない男の盃を受けていいものか躊躇していると横から薗浦が肘で横腹をつついて小声で耳打ちしてきた。


「衆議院議員の田崎先生だ」


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「検事ともなるとこないな料亭にもよう来るもんか?」

田崎は興味深そうにそう聞いてきた。


「…いえ、とてもとても…」

青木は正直にそういった。着任した年の暮れに料亭に連れて行ってもらったのが最初であり今日が2回目である。どちらも自費ではない。自費などとてもとても。


「まあ若いモンには気詰まりなだけやわなあ」

田崎はそういってからちょっと可笑しそうに笑って付け加えた。


「ましてやワシみたいなのと一緒じゃメシの味もわからんわな」

そんな事を言われても何と答えればよいか判らない。


「気持ちはわかるで」

田崎はぐいと一献飲み干してそう言った。


「ワシかてこんな料亭に来る時は大体がロクでもない話ばっかりや。下座ならお願いせなあかん立場やからメシなんかつまむ事もできひん。若い頃は思うたよ、いつか上座にそっくり返って下座のボンクラ共の後頭部を肴にしながら酒呑んだるわって」

そう言って人の悪そうな笑みを浮かべつつ園浦からの酒を受ける。


「でもなあ、これが上座に座るようになったらますますあかんかったわ」

ぐびりと一献飲み干して田崎はそう言った。


「よう考えたら当たり前なんやがな、こういう場で上座に座るっちゅうのはつまりお願いされる側なんや。酒や肴で誤魔化されても結局あとで動かなあかん立場なんや」

そういって再度園浦に猪口を向ける。


「そう考えると」

注がれた一献をぐびりと呑んで正面から青木を見据える。


「今日はなかなかおもろい趣向や。上座に座って下座にお願いするんやからな」

そう言って田崎は笑い出した。


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「キミの事は聞いてるし調べさせてもろたで」

田崎は筍の煮物を美味しそうに頬張りながらそう言った。


「随分と気骨のある若手やってな」

そして気が付いたように青木に徳利を差し向けた。


「…いえ…」

青木は両手で猪口を持って丁寧に差し出す。酔いなど吹っ飛んでしまった。なにせ目の前にいるのは今回の事件を複雑化させてる張本人である。今回の件で方々から圧力がかかっているのは感じていたが、まさか御大自ら出馬してくるとは思わなかった。


「んでキミは正直この件をどう思う?あ、いやこれはフェアやないな」

田崎は一旦は質問したことを自ら取りやめた。


「ワシが思てる事を先にいうとこ」

そう言って刺身を一切れぺろりと食べ、さらに一献ぐいと飲み干して声を荒げた。


「なんでワシにケツもってくんねん!って思てるよ」

田崎はやや乱暴に薗浦に猪口を差し出しさらに酒を注がせる。


「なあキミ、青木クン。おかしいと思わへんか?後援会いうたらワシを助ける組織やろ?それが勝手にやらかしてセンセ何とかして下さいってなんやそれ!」

田崎は忌々しげにまたも一息で猪口を飲み干した。


「挙句に秘書までワシを脅かしよるし!」

またも薗浦に猪口を差し出して酒を注がせる。


「それはどういう事ですか?」

青木にはどういう意味だか判らなかったので思わず聞き返してしまった。


「ここで知らぬ存ぜぬを通せば人心が離れる抜かしおったわ!人心なんぞとっくに離れとるわ!お前ら皆いーんなワシにヘーコラしておこぼれを頂こうと思うて寄ってきとるだけの池の鯉やないか!勝手に悪させえへん分だけ鯉のほうがマシや!」

田崎はそう言ってまたも一気に酒を呷った。


「しかしな。こんなんでもたまーにはおもろい事もある」

ここで田崎は猪口を置き凄みのある笑みを浮かべて青木を見据えた。


「東大とケンブリッジ両方の法学部で主席の若手検事と会うとかの」


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青木誠は大手飲食チェーン「ブースカンパニー」創業者一族の長男として生まれたが、物心ついた時から勉学に対する興味が大きく、反面家業にはあまり興味を持たなかった。当初は真面目で勉学に励む長男に大きな期待をしていた父や祖父も、やがてその志向があくまで勉学にのみ向けられたものだと気づくと軋轢ができ始めた。


──勉強ばかりでは跡は継げんぞ──


その一言がまた誠と父との間に溝を作る事になった。そもそも跡取りなどという考え方がおかしいのではないか。ブースカンパニーは一部上場企業で青木家が株式を独占しているわけではない。そういうやり取りはやがて誠の中に「正義」「真実」という価値観を形成していくこととなった。


──まあ好きにやらせるしかないな──


祖父は早々にそう言って半ば諦め、半ばは誠の意欲を認めるようになっていった。やる気がない長男を無理に跡継ぎにするより、多少はやんちゃでも料理や経営に興味がある次男のほうがうまく行くと考えたのかも知れない。また誠が法曹界を目指している事を表明すると、弟の司が何かやらかした時を想定してか、むしろ積極的に誠の後押しをするようになったのであった。


家族の理解を得た誠は憂いなく勉強し、県でも有数の進学校から危なげなく東京大学法学部に合格した。そして卒業後には海を渡りイギリスのケンブリッジ大学法学部に入学して、そこでも優秀な成績で卒業したのである。


誠がケンブリッジ大学に進んだ理由は、主観的には日本の法曹界に閉鎖的な空気を感じたからという理由だが、無意識の本音ではもっと勉強がしたかったのである。そうしてイギリスから戻った誠はそのまま司法試験を受けて浪人する事なく合格し、本人の希望通り検事として任官したのであった。


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「まったく、大したモンやわ」

田崎は嬉しそうな顔で青木をそう褒め上げた。


「ワシも一応は私大の法学部出身やけどそんなん見栄と女にモテると思て必死やっただけで勉強なんてとてもとてもやった。今でもよお卒業できたと思とるよ」

田崎はおどけるように言ったが恐らく本音だろう。それはそれで大したものだ。


「…いえ、勉強が好きなだけですので…」

青木はそう言った。本音ではあるが謙遜でもある。


「そこやで」

田崎は鋭く青木の言質を取った。


「さっき言った通りワシはキミを調べさせてもろた」

再び猪口を持って園浦に差し出し一献注がせる。


「それは秘書から聞いただけやない。ワシ自身がキミに興味がでて調べたんや」

今度は一気に飲み干さずにちびりと猪口を傾ける。


「大企業のお坊ちゃまが家業を継がずに法曹界に行く。興味津々や」

田崎は面白そうな目つきで青木を見据えてそう言った。


「そしていろいろ調べていくうちに見当がついたんや。ああこの検事さんは金にも権力にも興味がない。いや、実は法の正義なんてモンにも興味ない思うたわ」

田崎は眉を挙げて半ばからかうように青木にそう言った。


「キミは自分で言った通り学ぶ事が大好きなんやろ?」

そう言われて青木はどきりとした。父や祖父から半ば諦めのようにそう言われる事はあったが、田崎のように肯定的に言われたのは初めてだった。


「そこで質問や」

田崎は再び猪口を上げて運んでちびりと呑んだ。


「この事件のどこに学びがある?」

田崎はそう言うとからかいの言葉を続けた。


「まさかシャブセックスにでも興味あるんか?」

青木は目を見開いて顎を引いてぶんぶんと首を左右に振った。そんな事など考えたことすらない。というかそんな下品で低俗な言葉をかけらたのは生まれて初めてだったので驚いてしまった。


「まあ冗談や冗談」

そうは言うがいかにも可笑しそうな目つきで青木をねぶる田崎であった。


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「園浦クンが言う通り、こんな事件にキミの関心を引く事なんぞあらへんよ」

そう言いつつ運ばれてきたすき焼きを美味しそうに頬張る田崎であった。


「それでも起訴するいうならワシはええで。あ、いやちょっとヤやな」

田崎は青木と園浦にほれ熱いうちに食え、とすき焼きを促した。仲居が黙ったまま小鉢によそって二人の前に丁寧に置く。


「…それはどういう意味ですか?」

青木は小鉢に手を付ける前にそう確認した。それは起訴の了承という意味だろうか。


「ワシの反目に回りたかったら構へんでて意味やが、それもちとなあ」

田崎はむしろ青木を心配するようにそら恐ろしい事を言った。


「もったいないがな」

すき焼きをお替りしてほふほふしながら田崎は言う。


「…もったいない…とは?」

青木は冷や汗を流しつつ再度問うた。


「キミみたいな優秀でおもろいのを反目に回すんはもったいない」

田崎は美味しそうに牛肉を頬張りながらごく普通に恐ろしい事を言った。


「なあ青木クン、ちいと考えてみなさい」

田崎はまるで生徒に教え諭すような口調になった。


「キミが起訴したらどんな結果になろうともそれはワシの反目に回ったいうことや。ワシ自身は別に構へんよ。笠之原やてワシが大臣になるくらいにノコノコやってきた外様やし、ましてそのナンタラいう婿なんか会うた事もあらへんかった。ただワシらみたいな集まりには結束が一番大事や。そういう反目は絶対に赦す訳にはいかんし、こういう時に結束を強くする方法なんて誰でも判るやろ?反目を潰す事や」


青木は背筋を流れる汗が止まらなくなった。二重の意味で恐ろしかった。まずこれは明確過ぎる恫喝である。もしこの場で録音してそれを裁判所に提出すれば田崎の失脚は間違いない。そして田崎がそんな事が判らない筈がない。


つまりこの場で自分が田崎の言う事を聞かなければ身の危険に及ぶ可能性がある。いやそれは可能性ではなく確定事項なのかもしれない。青木は目端だけで左右を見た。もちろんそんな事で田崎の刺客が居るかなど判る訳はない。右に目を寄せた時に薗浦の顔が目に入った。薗浦は心配そうな顔で青木を見ていた。


「なあ青木クン。もひとつ、逆の場合も考えてみなさい」

田崎は再び教師のような口調で青木にそう問いかけた。


「もしキミが起訴しなかったら笠之原やその婿もハッピーエンドになる思うか?」

そういって再度すき焼きをお替りし、ついでに猪口も一気に呷った。


「んな訳あるかい。それこそワシや古参が赦さんがな」

田崎は猪口を薗浦に向けてまたも一献注がせた。


「最初に言うた通り、そもそもこの話は全部あべこべなんや。後援会の理事がやらかした事を当のワシにケツもってくれ言うてきた。そんでワシは全然関係ないのに担当検事を調べてその若手検事、つまりキミに頭下げて勘弁してくれ言わなあかん。百歩譲ってこれが永田町界隈の話ならまだ腹も収まるで?しゃーない事や。政治は綺麗事じゃ済まんしな。しかしネタがシャブセックスってなんやねんなそれ!ワシに対する当てつけか!?ワシなんかもう勃つもんも勃たへんわ!たまに女と懇ろになっても抱くやあらへん!もう介護や!この前なんか身体を洗われてるうちに寝てもうたわ!」


目の前に座る大物悪徳政治家の本音と深刻過ぎる悩みを聞いて青木は何と言っていいか判らなかった。が、青木はある程度の納得と強い同情を田崎に向けた。


「笠之原もその婿もケジメはつけさせる。いやつける」

田崎はぐいと猪口を呷ってそう言った。


「これはな青木クン、誰にワシの怒りを向けるかいう話なんや」

そういって田崎は青木を再び見据えた。


「こんなションベン罪に関わってコケるなや。もったいない」

田崎はもう酒も肴もお替りせず青木を見据えてじっくりと諭した。


「キミの本懐は勉学やろ?やったらこれもまた勉強やし、これを超えてまたさらにキミの知らない色んな事を学べる機会はあるんやで?それをヤワにするなや。もしキミの中に法曹界の官吏としての正義が芽生えたとしても、それを発揮するのはこんな事件やない。この件じゃどう頑張っても笠之原を追い落とすまでや。仮に本丸がワシやとしてもワシまで届かんで。そんなんおもろくないやろが」


そう言うと田崎は中庭のほうを見て呟いた。


「ワシかておもろない。キミみたいな若いモンには判らんかも知れんが、ワシみたいなジジイになるとな、若いのが成長していくのを見るのが愉しみなんや。それが仮に将来ワシの反目に回るかも知れんと思ててもな。こういう気持ちは判らへんやろ?」


そこまで言われて青木に少し茶気が出た。


「…もし、私がこの場を録音していたら、それは先生に届きますよね…」

青木がそう言うとむしろ慌てたのは薗浦だった。


「青木君!バカな事を言うのは慎みたまえ!」

とは言え薗浦の顔は真剣だ。もし録音などされていたら自分も破滅だからである。しかし田崎はむしろ面白そうな笑顔を浮かべた。


「もしそうなったらこの田崎史次の一世一代の大悪あがきを見たんしゃい。これはええ勉強になるで。もうありとあらゆる手と口を使って逃げおおせたるわ」

田崎は余裕たっぷりに、しかも面白そうにそう言い放った。


「ただまあワシがそんなヘマ犯す筈ないやろ?」

田崎は面白そうな顔にやや同情めいた成分を加味してそう言った。


「キミは優秀やし度胸もあることがよお判った。期待大や」

そう言ってまたも猪口を一気に飲み干した。大した酒豪である。


「今日はこれにて失礼するで。後はキミの問題や。よう考えや」

そう言って田崎は立ち上がった。仲居が振り返り襖を開けるとそこには女将と思われる妙齢の女性が座っており、座ったまま静かに頭を下げた。田崎は女将にコートを持ってくるように促す。そして再び青木のほうを見てにやりと笑ってこう言った。


「今日は楽しかったで。また遊ぼうな青木クン」


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青木は結局本件を起訴しなかった。理由としては警察側も当初からあまり積極的ではなかった上に内々に告訴の取り下げも打診してきたからである。当初は飯上への民事告訴も辞さないという態度だったA子も自分が罪に問われなければよいうという態度に変わり、起訴猶予という曖昧な形で事件は中途半端な終わりを迎えた。


それとは別にいろいろと聞こえてくる噂もある。飯上清隆は義父の介護を理由に町議会議員を辞任し、当の笠之原雄吾は老人ホームに入所したという。笠之原には当然飯上の妻である娘も居るがこの女性についてはどうなったのか不明である。


「まあ一件落着、と」

薗浦は執務室に青木を呼び出してそう言った。今回の一件が影響あったのかは判らないが、薗浦は次の移動で東京地検に異動になるという。


「まあ君はしばらく動かないから上手くやってくれよな」

薗浦は曖昧な笑顔でそう言うと軽く広角を吊り上げた。


「そのうちいい事もあると思うしね」

薗浦は微妙な事を言った。それはどういう意味だろうか。


今回の一件で薗浦は青木に対して田崎と自分の関係を見せてしまった事になる。それはあまり好ましい事ではないが、一方で事件が田崎の思惑通りに行った以上、青木も「内輪」の一人として捉える事もできる。そういう意味では青木が薗浦と敵対関係になるとは考えづらく、その意味ではさほど心配はしていない。


何より薗浦の本当の目論見だった「引継ぎ問題」が無事解決したのである。私民党顧問としての田崎史次との関係は今後も続くが、「地方豪族」としての田崎の法曹界方面の後釜を用意しておかなくてはならなかったのである。


そして敵対関係にならず、かつ今後とも田崎と上手くやっていけるのなら青木を薗浦の派閥に巻き込む事もできる。本人も優秀だが田崎の後押しがあるのは非常に有力だし、今回の件で秘密を共有できる事も確認できた。あとは若さが暴走せずに田崎と上手くやっていければ盤石である。まあ田崎先生は君の事を結構気に入っているみたいだったからきっと上手くやっていけるよ。僕はそう信じているよ。変なことをしなかったらそのうち引き上げてあげるからよろしくね。一緒に頑張ろう!


まだまだ寒いがそろそろ梅の芽吹きの季節である。薗浦は様々な懸念がようやく一段落した事で一足早い春の息吹を全身に感じていた。


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一方で青木は一足どころか二足以上早い梅雨の鬱陶しさを全身で感じていた。つまりこれは薗浦の派閥に入ってしまったという事になるのだろうか。いや何より田崎の法曹関係担当者としての後継者と見做されてしまったのではないだろうか?


勉強、勉強ねえ……。勉強って難しいなあ。


青木は生まれて初めて感じる思いに身を委ねつつとぼとぼと自室に戻るのであった。


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「センセは相変わらず無茶するのう」

地頭は田崎に呆れた口調でそう言った。「身内」の中で田崎に向かってこんな口を利けるのは後援会会長の地頭しかいない。地頭は田崎の学生時代の家庭教師であり、田崎の父の書生だった男だ。感覚的には子守役である。


「その青木ちゅうのがホントに録音してたらどないするつもりだったんじゃ」

地頭は田崎にそう詰め寄った。しかし田崎は笑いながらそれに答えた。


「ジャミングしとったから多分大丈夫やろ」

田崎も無策ではない。録音に関してはまずいの一番に想定していた事である。なので隣の座敷や縁側いくつもジャミング装置を配置するように指示していた。しかし田崎は青木と会って直観で悟ったのだ。この男は迷っていると。


田崎は青木と会う前からその為人ひととなりを正確に推測しており、こういう経歴の人間がそこまで法律的な正義に拘るとは思えないと考えていた。


法律的な正義というのはつまり「大多数にとっての正義」であり、言い換えれば「他人が定めた正義」だからである。自らの目指すところを定めそれに邁進するような男にそういう正義はそぐわない。


一方でそういう男は望む物を提示すればちゃんとこちらの意を汲むものだという事も長年の政治家活動で判っていた。青木の場合は旺盛な知識欲であり、その点を刺激すればまあ悪いようにはならないと思っていたのである。


また青木に言った事も全て田崎の本音だった。後援会の新参理事などいくらでも替わりがいるし、正直話を持ってきた段階で解任しても良かった。しかしそれもまた田崎が青木に言った通り「集団としての結束」というお題目があったので田崎は断るに断れなかっただけである。


そして田崎は笠之原の願いを聞いてやった代わりに退任を迫ったのであった。皆んなの手前やから今回は動いてやったがクスリやるような娘婿を飼ってる奴なんぞ居座られても迷惑じゃ、名誉は守ってやったさかい身の振り方を考えや、と。


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「笠之原は結構動ける奴だったんだがのう」

地頭はぼそりとそう言った。一聞には笠之原に同情しているように聞こえるが実はそうでもない。これは地頭特有の言い回しで、良く聞くと実は過去完了形なのである。理事になった当初は地頭の言う事を良く聞いて動いていたがそれも段々と年数が上がり他の古参が引退していくと徐々に態度が大きくなっていったのであった。


「出世欲が強すぎる奴はロクなもんやあらへん」

田崎はそう言って煙草に火をつけた。田崎は衆議院議員11期だが大臣経験は一度だけで、それも前任の大臣が辞任したときの言わば代打で大臣になっただけである。田崎は金も権力も酒も食い物も女も大好きな低俗であるが、それ故に内閣で国政を担うという役割にはさほど未練がなかった。あんなもん一度やれば充分じゃ。


「まあおもろそうな若いのも見つけたし、しばらくは楽しめそうじゃ」

そう言って田崎は煙草をもみ消して秘書を連れて事務所を出て行った。土地の名士である田崎には様々な相談や依頼が持ち込まれる。中には国政にも関わる重要な案件もあり、本当にこんな小さな事件で時間を使ってはいられなかったのだ。

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