汝らは猫である
鍵崎佐吉
ネコと和解せよ
都心にほど近いある雑居ビルの地下、そこに私の行きつけの店がある。薄暗い階段を下りた先、少し古びた木製のドアを開けると見慣れた光景が広がっている。ゆったりとしたソファ、余計なものの乗っていないテーブル、落ち着いた色合いの本棚、そして猫。下駄箱の横で丸まっていた黒毛のムギは私を見るとあいさつをするようににゃあと鳴いた。
「いらっしゃい、
そう言って微笑みを浮かべる店員さんに軽く会釈を返す。ここは会員制の猫カフェ「KAZARI」、どんな場所よりも安らげる私の安息の地だ。
初めてここを訪れたのは今からちょうど一年ほど前だ。仕事終わりに少し喉が渇いたので自販機で何か買おうと思ってうろついていた時、ふと何かに呼ばれたような気がした。なんとなくそばにあった地下へと続く階段が気になって恐る恐る覗き込んでみると、その先の扉にぼんやりと「Cafe」という文字が見えた。好奇心と警戒心、戸惑いと喉の渇き、いろんなものの間で私が葛藤していると不意にその扉が開いて中から女の人が現れた。私と同い年くらいのその人は私と目が合うと少し笑って「あら、いらっしゃい」と落ち着いた様子で言う。なんだか否定するのも違う気がして、私はそのまま地下へと吸い込まれていく。その先に広がっていたのは未知の世界だった。
「KAZARI」は猫カフェという概念から逸脱はしていないが、一般的なそれと比べるとかなり特殊な場所だ。まずこの店は誰でも来れるわけではない。年齢制限などがある猫カフェは珍しくないが、この店は大人であっても利用できないことがある。ではどういう基準で判断しているのかといえば、店員さんいわく「猫が決めている」らしい。つまり客の側からすればその仕組みは完全なブラックボックスだ。店に入れるかどうかは実際に来てみるまでわからない。そしてもう一つの特徴は一切宣伝をしていないことだ。広告はもちろんSNSなどでの口コミも禁止されている。この店に来るには私のように偶然店の前を通りかかって運よく招き入れられるという方法しかない。そんなので経営が成り立つのかいささか疑問だが、店員さんはいつもと同じ落ち着いた様子で言う。
「猫のためにやっている店なんで、これでいいんです」
同意するように膝の上でムギがにゃあと鳴く。この店のこういう緩い雰囲気が私は気に入っている。
ここは猫カフェではあるが、純粋にカフェとしてのクオリティも高い。猫の世話も飲食物の提供も全部店員さんが一人でやっているというのだから、とても同年代とは思えないスーパーウーマンだ。カフェオレとパンケーキを頼んでゆっくり味わっているといつのまにか周りに猫が集まってきている。今まで猫を飼ったことはないので確かなことは言えないが、ここの猫たちはなんだか人懐こい気がする。白い毛並みが綺麗なコマチを撫でていると、隣のテーブルに座っていた顔見知りのお客さんが羨ましそうに言う。
「相変わらずモテモテですね」
「ええと、そうなんでしょうか」
「なにか猫に好かれるコツとかあるんですか?」
「うーん、なるべく何も考えずリラックスすること……とか?」
「僕もリラックスはしてるつもりなんですけどね」
すると本棚の整理をしていた店員さんがくすくすと笑いながら言う。
「ほら、だって綱島さんは猫に好かれる名前ですから」
なんのことかよくわからなかったが、彼の方は「ああ」と低い声を漏らして何かに気づいたようだった。視線で問いかけると彼は少し照れ臭そうに答えてくれた。
「ツナですよ、ツナ」
私も思わず「ああ」と低い声を漏らす。店員さんってこういう冗談も言うんだなと、妙な感慨にふけりながら私はカフェオレをまた一口すすった。
階段を上っていく綱島さんの背中を見送りながら私は「Closed」の立札を扉にかける。これで本日の営業は終了だ。店の中に戻るとなんだか騒々しい声が聞こえる。どうやらムギとコマチがなにか言い争いをしているようだった。
「お前さ、ほんとに約束守んないよな」
「はあ? 何が?」
「何が、じゃねえよ。ツナちゃんは今日俺とケマリが指名してんだろうが」
「だからあれは不可抗力だって」
「とぼけてんじゃねえぞ。あんな露骨に撫でられにいってて何が不可抗力だ!」
またそれか、と私は内心でため息をつく。猫は縄張り意識は強いが本来の性分なのか犬などに比べると規範意識は緩めである。ルール違反や約束破りなんかはしょっちゅうだ。今にも喧嘩を始めそうな二匹を私はとりあえずなだめる。
「はいはい、とりあえずムギは落ち着きなさい。綱島さんは皆のものなんだから、あんただけ騒いでもしょうがないでしょ」
「ちっ」
「コマチもあんまりやり過ぎるようなら接触禁止にするよ?」
「けっ」
「……はぁ、まったく」
良かれと思って始めたことだが未だにこうしたトラブルや小競り合いは尽きない。なんだかんだ言ってもやはり人間ほど優れた社会性や協調性を身につけている生物というのはいないものだ。まあこんな気苦労は私にしかわからないのだろうが。
使い魔の猫たちが気軽に人間と触れ合える憩いの場、それがこの店の本当の役割だ。言うなればここは猫カフェではなく人カフェなのである。特に綱島さんのような魔力の強い若い女性は猫たちに人気だ。といっても本人にはその自覚はないようだが。
猫たちはここに泊まる者もいれば主の元に帰っていく者もいる。何に縛られるわけでもなく気ままに生きている彼らを見ていると、なんだか自分のやっていることが馬鹿らしく思えてくる時もある。それでもなんとかやってこられたのは、魔女としての矜持というよりは、単純に人間のお客さんの笑顔のおかげだ。いっそ本気で人間向けのカフェをやってみようかなとも思うが、今の隠れ家的な雰囲気も気に入っているので難しいところである。
「あんま無理すんなよ」
不意に足元から声が聞こえる。いつのまにかケマリが私の足に寄り添うように寝そべっていた。私はゆっくりとかがんでケマリのふかふかの茶色い毛を撫でさせてもらう。
「……ま、猫も人間も大差ないか」
誰もが癒しを求めている、きっとそういう時代なんだろう。私はケマリを抱えたまま店の明かりを消す。
「じゃあみんな、おやすみ」
まあ猫たちは夜型だから寝ないのだが。にゃあという短い合唱を背に受けながら、私は奥の自室へと戻っていった。
汝らは猫である 鍵崎佐吉 @gizagiza
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