第4話
ラロは何をしても驚いたり喜んたりするものだから、マリアンナの変わらない日常はすぐに様変わりした。
星の観測の時は静かにしていてくれと頼んでいるので、その時だけは静かだが、それ以外は常に喋ったり動き回ったりと忙しない。
誰かと一緒に暮らすということを久しく経験していなかったマリアンナには新鮮であり、同時にこれほどうるさくても嫌な気はしなかった。
それはラロの笑顔や無邪気さに絆されていたからかもしれないし、自分でも気づかないほど胸に寂しさが根付いていたからかもしれない。
「ねえ、マリア。それはなに?」
フライパンを持ったマリアンナにラロは興味深そうに近づいてくる。
あんまり火に近づくと危ない、と言いつつもマリアンナの顔は緩んでいる。
「パンケーキよ」
「どんなもの?」
「どんな……そうね、甘いものよ。朝に食べたパンとは少し違うんだけど……食べさせてあげるから、ちょっと待ってて」
うん、と嬉しそうに頷いたラロはマリアンナの背中の辺りにそっとくっついた。
さらりと流れる髪が頬に触れるのが少しくすぐったく、けれど嫌ではないなとマリアンナは思う。
「マリアはなんでもできるのね」
パンケーキを皿に盛り、蜂蜜とブルーベリーを飾るマリアンナの姿を見て、ラロは恍惚と呟いた。
「そんなことないけど」
「そんなことあるわ。私にはできない」
「こんなの覚えたらすぐよ。今度、教えてあげる。自分で焼いたものはとびきり美味しいし」
マリアンナが当たり前のように言うと、ラロの顔が微かに強張った。
なにも答えないラロをマリアンナは不思議に思い首を傾げた。
「どうしたの?」
「……なんでもないわ」
「そう? あ、そうだ。今日は買い出しに行きたいの。一緒に行く?」
言いたいことがあれば言うだろうとマリアンナが話題を変えると、ラロはぱっと表情を明るくした。
「行きたい!」
「じゃあ、早く食べちゃいましょう」
「それは味わって食べるわ!」
当然じゃない、と胸を張るラロにマリアンナは笑った。ラロの強張った顔に何か隠されていることなんて、気づかないふりをして。
片手で籠を持ちもう片方の手でラロの手を握り、マリアンナは行き慣れた市場へと繰り出した。
市場はとても賑わっていた。子ども達が楽しそうに駆けていくのを見ながら、マリアンナはいつもより大人が少ない気がする……と少し首を傾げた。
「外の世界って、こんな感じなのね」
いつもの様子など知る由もないラロは感慨深そうに呟いた。
「みんな、とても幸せそう」
「……そうだね」
「よかった」
安堵したようなラロに何も言えなくて、遠くを見るような眼差しがひどく大人びて見えて、マリアンナは思わず目を逸らした。
そして、市場に行った日にしか新鮮な魚は食べられないからといつも魚を買っているところへと目をやった。
どれにしよう、と考えるものの何故か小さな魚ばかりで、どうしたのだろうかと首を傾げる。
「アーラロトが光らないせいで、怖くて船が出せやしない。大きい魚は軒並み遠くへ行かないと取れないだろう? 仕入れられないから、商売上がったりだよ」
「ほんと、アーラロトは一体どうしちゃったのかしら。急に光らなくなるなんて」
お店の人と買い物客の会話にマリアンナは思わず固まってしまった。
耳を澄ませば元気のない大人達の会話が次々と聞こえてくる。
「聞いた? 茜通りのミシリアおばあさん。三日前に亡くなったのに、まだアーラロトの迎えが無くて、天に登れないんですって」
「ああ、だからゴーストを見た人がいるのか」
マリアンナは思わず自分の手をきつく握っていた。
アーラロトが亡くなった人の魂を天に登る手助けをしているというのはよく聞く話だ。
でも、まさかラロがここにいるせいで、こんなに困っている人がいたなんて、とマリアンナは冷や汗をかいた。
「天文台で観測している人に話は聞かないのかい? 前に星の光が弱まった時は聞きに行っていたじゃないか」
「今あそこにいるのは、女の子ですよ。聞きに行ってなんになりますか。天文台なんて大して役にも立たないし、結婚するまでの短い時間だからって許されたらしいですけど、全く肝心な時に役に立たないんだから」
マリアンナは自分の手が震えていることに気づいていた。
自分が馬鹿にされていることも、親の反対を押し切って天文台で働いていることも、唯一賛成してくれた妹に迷惑をかけていることも、全部承知の上だった。
けれど、何もしないうちから役立たずと言われるのは辛く、同時にもし相談されても何もできないことが確定していることも辛かった。
マリアンナは近くの店で楽しそうに林檎を見ているラロの手を引っ掴んだ。
「マリア? マリア、どうしたの」
不思議そうに問うラロに答えることはなく、マリアンナは何も買わないまま天文台に帰り、二人きりになった途端勢いよく手を離した。
「マリア?」
「あなたのせいで、あんなにみんなが困ってるなんて知らなかった!」
ラロの顔色がさっと悪くなることにマリアンナは気づいたが、止められなかった。
「あなたがここにいるせいで、船乗りたちは海に出られないのよ。おまけにゴーストまで彷徨くっていうじゃない。どうするのよ、みんな天に登っていけないのよ」
はあはあ、と肩で息をしながらマリアンナは自分が感情に任せて怒ってしまったことを恥じらうように目を逸らした。
「……ごめんなさい。少し、言い過ぎたわ」
「いいえ、本当のことだもの」
きっぱりとラロは言い切った。その目はとても静かで、どこか諦めているようですらある。
「私が輝くと、地上にある魂たちが私に吸い寄せられるの。魂たちは一度私のそばを通り過ぎる。そして天に登っていくの。次の生を受けるために」
「……そう」
「みんな立ち止まったりはしない。私自身を見てくれることはない。私と一緒にいてくれる魂は一つもないの。あんなにたくさんいるのに、誰もが天に登っていく」
ラロの声が不意に滲む。堪え切れなかった悲しさが溢れる。
「私はそれがとても寂しい。仕方のないことだとはわかっているのに、どうしても、どうしようもなく、寂しくて悲しい。どうして私は一人なの。どうしてずっと、ずっと、私だけ。どうして、私は、私は……」
「帰らなくていい」
マリアンナは思わずラロの身体を抱き寄せていた。ずっとこの腕の中にいればいいと思った。
「私が間違ってた。誰かのためになんか生きなくていい。あなたの人生はあなたのものよ。嫌なら帰らなくていい。あなたが犠牲になって、この世界を平穏に続けるなんて、それこそ意味がないことよ」
それは自分が一番わかっていたことだったのに、とマリアンナは強く後悔する。
「ずっとここにいて」
「それは、だめだよ」
「どうして」
ラロの手のひらが優しくマリアンナの頬を包み込んだ。
「だって、私がここにいたらマリアが幸せになれない」
「そんなこと」
「そんなことあるの」
ラロは首を振り、柔らかく微笑む。
「あなたが死んでしまった時、迎えに来る人が居なくなってしまう。それは私でなければ」
ああ、どうしようもなく、この人が愛おしいとマリアンナは思った。
「私がアーラロトに行ったその時は、あなたを一人になんて絶対にさせない。絶対にそばにいる。一緒にいる。もう寂しいなんて言わせない。大丈夫よ。大丈夫だから」
「そんなこと、言ってくれる人、初めて」
子どもに言い聞かせるようなマリアンナの言葉にラロは笑った。
それは信じ切れてはいない、きっと無理だろうと分かった上で、それでもその気持ちが嬉しいと言いたげな顔だった。
本当よ、と言ってもこの気持ちがほぐれないであろうことはマリアンナにもわかった。
その時になって、永遠に魂としてそばにあることを怖がらないで初めて、証明できることなのだろうと。
「すぐ行くわ。あなたが寂しくならないうちに、すぐに行くから」
「そんなに早く来られたら困るわ。たくさん生きて、たくさんお土産話を聞かせてもらいたいもの」
「たくさん話すわ」
もうじき離れてしまうとは到底見えない柔らかな空気のまま、二人はくすくすと笑い合った。
明日の朝には帰るとラロが言ったため、少しでも長くそばに、と二人は同じベッドで眠った。
翌朝、マリアンナの目が覚めると、もうラロはいなかった。
「ラロ?」
自分以外誰もいない部屋の中に声が寂しく響くのを聞き、マリアンナはそっとラロが眠っていた場所を撫でた。
そこは仄かに温もりが残っている気がして、少しだけ心が慰められた。
「必ず行くわ。必ずあなたのところにいるわ。ゆっくり行くから、どうか待ってて」
きっと何十年もの間、会えないであろう大切な人をまぶたの裏に抱いて、マリアンナは一筋の涙をこぼした。
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