第25話 報酬

「本宿くん、バイトしてたんだ」

「まあね。今は夏期講習中だし入ってないけど」

 予備校の生徒の中には学費のためにアルバイトをしている人もたまにいるが、勉強に差し支えない程度にしなければならないのでさしたる報酬額は見込めない。したがって、大学受験に集中すべきという本人や家族の意向でアルバイトしない者の方が多いが、穣は音大受験のみを視野に入れていた昨年からアルバイトをしていたようだった。家の近くの喫茶店で、朝一番のオープンのシフトだという。名古屋や近郊の喫茶店はモーニング文化があることから、朝の七時台からオープンしている店舗も多い。

「七時オープンだとやっぱお店に入るのはちょっと早め? 六時台とか」

「うん。うちのお店は六時半で、朝の仕入れの業者さんがそれに合わせて来るからその受け取りと、簡単な料理の仕込みとかしてるとオープンの時間になってる」

「うわ、すげえ早起きじゃん」

「僕はギリギリまで寝てるよ。六時に起きて、顔洗って服着替えて朝ごはんちょっとだけ食べて、二十分に家出るくらいで間に合うかな」

「朝ごはん少ないと、お腹空くんじゃない?」

「もうバイト中もぐーぐー言ってるよ。十一時にはランチの担当と交代できるし、つまみ食いはさすがにしないけど」

「それしたら一発アウトだもんな。実行してないのが偉いよ」

 世間ではバイトテロなどの行為が取り沙汰される中、穣は人柄としてそういうことはしないだろうが、良識に欠ける者がいるのも事実である。そういった中でアルバイトを堅実に続け勉学にも励むのは、当たり前といえば当たり前だが褒められるべきことでもあると礼央は思った。

「あーあ。夏期講習終わったらまたシフト入れないとな」

「講習は続けないの? 二学期から入れるコースもあるけど」

 伸びをして肩を回す穣に、礼央は尋ねた。今受けている夏期講習は七月いっぱいで終わり、八月からはまた別の講習コースが始まる。九月からはまた浪人生メインの通常コースが主になるが、夏期講習がよかったからと九月から入塾する者もいると聞いていた。穣は首を横に振った。

「一応、八月は別の塾のセンター対策の集中講義を取ってて、それが終わったら音大対策の方を少し増やそうと思ってるんだ」

「え、あ、そうなんだ」

 礼央は少なからず動揺した。なんとなく穣とは今後も付き合いが続けばいいなと思っていたところだった。穣は礼央の内心を知らないように、面映げな顔をした。

「実はこの前、これまで応募してなかった音大から入学案内が届いて。初めて聞くところだけど、わりと良さそうだったから受けてみようと思ってるんだ」

「……それは、受験校を一つ増やすってことか」

「うん。文系の大学を受けるのは変えずに、音大の受験校を一つ増やすから、課題曲とかの対策もしておきたくて。ソルフェージュとか自由曲は他の音大の対策と共通でできると思うんだけど」

「ふうん……」

 礼央には音大受験の実態は今ひとつつかめなかったが、穣が意欲的になっているならそれがいいのだろう。それよりも、八月は別の塾に行くことや、九月からの講習も継続しないということから、実質的に会えるのはあと数日というのが寂しく感じた。でも、それを言ってしまうと穣も困るだろう。

「音大の方、受かるといいな」

「うん」

 浪人生とはそんなものだ。高校や大学と違い、誰がどれくらい同じ場所にいるのか決まっていない。合格すれば巣立っていくし、予備校を転々とする生徒だって多いのはわかっている。それでも、それなりに仲良くなれたのにと惜しむことは許されたいと思った。

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