第4話 触れる

 誰にだって触れられたくない過去というものはある。礼央れおにとっては小中学校の頃のことで、それは必ずしも礼央一人の責任によることではなかったから、近頃はあまり思い出すこともなかった。しかし、不運というのは向こうからやって来ることもある。

「お前ヤナじゃん! 久しぶり!」

「……あ、久しぶり」

 まさか小中学校の同級生が予備校にいるとは思っていなかった礼央は、咄嗟にどういう顔をしたものか判断しかねた。これまでの講習では見たことがないし、会ったのは教室内ではなく昼休みのロビーだからコースは別だろう。

「ヤナもここの予備校通ってるんだな。家から遠くない?」

「遠いけど、通えるし……ちょうどいいコースがあったから……」

 同級生の男子は、礼央の覚えている限りでは地元の高校に通っていた。進学と就職の比率が六対四くらいの、進学校と言うには微妙なラインの学校だ。そんな学校で浪人というのはやや珍しいが、大方就職するつもりで勉強しないでいたら進学することになって受験に失敗した――といったところだろうか。その辺りの事情は、それこそ相手にとって触れられたくないことかも知れないから、礼央は聞かないでおくことにした。そもそも興味もない。

「そーなんだ。俺、こないだの模試やばくてさぁ。とりあえず夏期講習は受けとけって言われて来たんだけど、授業全然ついてけねーわ」

 それはそれで、仮にも浪人生として大丈夫なのだろうか。男子生徒はさしたる危機感もなさそうに笑いながら、ブリーチしたらしい金髪の先をいじっている。頭頂部は生え際の黒髪が伸びてきていた。グレーのスウェットの上下を着て、サンダルは爪先を覆うタイプの、通気孔のような穴の空いた樹脂製のものを素足に履いている。浪人と言えど大学進学を見据えた生徒たちが通う場所にいるにしては、まるで深夜にコンビニにちょっとした買い物に出た若者といった風体で、礼央の目には浮いて見えた。しかし本人は何一つ気にしていなさそうで、ロビーのソファに足を広げて座った。

「え、てかヤナ昼これから? 外?」

「そうだけど……」

 何となく彼は話し足りないようだったが、礼央はそうではなかった。早くこの場を離れたい。地元の話なんかされたって礼央は分からないし、今の状況について詮索もされたくない。この上、地元の同級生に礼央のことをあれこれ話されたりしたら最悪だ。地元の閉塞感が嫌で、わざわざ遠くの高校を選んだし、予備校だって高校の近くにしたのに。

「楊井くん、お待たせ。行こうよ」

 その時、後ろからぽんと肩を叩かれた。人を待っていた覚えはないのにと礼央が振り向くと、そこにはじょうがいた。

「……本宿くん」

「ん? ヤナ、約束あったん?」

 スウェットの男子生徒は首を伸ばすようにして穣を見た。穣は愛想良く笑う。

「申し訳ないけど、昼休みに数学の解法聞く約束してて。君も良ければ一緒に聞く?」

 そんな約束はしていないが、礼央は特に訂正はしなかった。スウェットの男子生徒は、面倒くさそうな顔を隠しもせずにそそくさと立ち上がった。

「……いや、俺はいっすわ。じゃーな」

 ブランド物の長財布を尻ポケットから覗かせながら、男子生徒はロビーを出て外のコンビニへと向かったようだった。無意識に礼央が吐いた息は、穣の小さなため息の音と重なった。

「……ごめん、助かったわ」

「余計なお世話じゃなかったかな」

「全然。よく俺が困ってるって分かったね」

 礼央が言うと、穣は苦笑いした。

「僕にも心当たりがあるから、何となく」

 まあそうかもな、と礼央は納得した。誰しも触れられたくない過去というのはあるものなのだ。必要がなければ、無理に聞き出すこともない。それよりさ、と穣はやや遠慮がちに続けた。

「さっきの数学の授業で分からないところがあったのは本当で……もし良かったら昼休みに教えてくれるとありがたいんだけど……」

 コンビニのお菓子一つおごるから、と付け加える穣に、礼央はふは、と笑った。

「おごらなくても、それくらい全然するよ」

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