第2話 透明
雨は夜の間まで降り続け、翌朝は雨こそ上がっていたが曇り空だった。まだ湿気が残って透明なビニールが所々曇った傘を予備校の玄関の傘立てに置いて、
(あ、昨日の)
例の謎の荷物は持っておらず、席に着いてキャンバスの肩掛け鞄からテキストを取り出していた。二人がけの長机の隣席は空いている。礼央と同じ時間帯の同じ教室にいるということから、同じくらいのランクの大学を志望する浪人生だということがわかった。昨日も今日も、予備校の午前一番の授業は浪人生向けの夏期講習にあたり、現役生なら普通に学校に行っている時間だ。
「隣、いいかな」
浪人生同士なら年齢を気にする必要はない。タメ口で話しかけると、男子生徒はこちらを向いた。
「あ、どうぞ」
あまり見たことのない顔だ。宅浪なのだろうか。この予備校の夏期講習は通年講習とは別に募集されており、普段宅浪している生徒も夏期講習や冬期講習などだけ受けに来るということがある。通年講習より安価で時期が集中しており、自分に必要な科目を選んで受けられるというのがメリットらしい。礼央は通年講習も受けつつ、さらなる底上げのため夏期講習の授業をいくつか取っていた。夏期だけの講習生なら何かと後腐れもなかろうと思い、礼央はさりげなさを装って話しかけた。
「きみ、昨日すごい大荷物だったよな」
「えっ」
男子生徒は、話しかけられると思っていなかったのか驚いた顔をした。礼央は警戒を解こうと愛想良く笑う。
「いや、昨日の朝、雨降ってるのに大荷物背負ってるなーと思って見てたんだよ。気になってたんだけど、今日は持ってないんだな」
「ああ。あれ、楽器で」
男子生徒は少し躊躇うような素振りを見せた。まあ、確かに来るべき受験に備える浪人生が予備校に楽器を持ってくるのは似つかわしくはないかも知れない。ただ、浪人生だって人間なのだから、たまには趣味を楽しんだっていいだろう。礼央もたまに息抜きで予備校帰りに映画館に行ったりもするから、その気持ちはよくわかる。
「へえ、楽器もしてるんだ。吹奏楽とか?」
「いや、弦楽器で。ヴィオラ、なんだけど」
「ビオラ……えーと」
小中学校の音楽の授業で習ったような。礼央は受験に必要が無いからと頭の奥底にしまっていた記憶を引っ張り出す。
「バイオリンの、おっきいやつだっけ」
「そうそう」
「足に挟むやつ?」
「それはチェロね。肩に乗せるやつ」
男子生徒は楽器を構える仕草らしきものをしてみせたが、礼央は楽器の形すらうろ覚えなので今ひとつ大きさのイメージが湧かなかった。
「ふうん。何か楽団にでも入ってるの?」
「いや、昨日はレッスンで」
「じゃあ習い事か。すごいな、ずっと続けてるなんて」
「うーん、習い事、って言うか」
そこまで言って、男子生徒はまた言い淀むような表情を見せた。少しだけ声を落として続ける。
「……一応、音大受験も視野に入れてて」
「え、すご」
礼央は素直に感嘆した。それなら、こんな予備校なんか通っている時間の方がむしろないのでは。男子生徒は謙遜するように首を横に振った。
「大したことないよ。もう二浪目だし」
「あ、そうなんだ」
ということは、一浪の礼央から見て一学年上に当たる。今更ながら先輩だということが分かったが、浪人生は大学に入るまでは立場は同じなので、タメ口は変えないことにした。男子生徒は苦笑い混じりに話した。
「これまでは音大に絞って受験してたけど、どこもダメだったから。浪人は今年までで、音大は受けてもいいけど併願で普通の大学も受けろって親に言われてさ。普通の科目とか大分忘れちゃってたから、慌てて講習を申し込んだんだ」
「あー。金かかるもんなぁ」
礼央も受験浪人に金がかかるということは理解してきた所だった。通常講習の月々の支払いに、模試は入らない。夏期講習ももちろん別。礼央の場合、勉強に集中して欲しいという親の希望によりアルバイトなどはしていないが、他の生徒からは予備校の後にアルバイトをして講習代の足しにしているという話も聞いたことがあった。それで二年目ともなると、親の負担も馬鹿にならないだろう。
「でも、久しぶりの普通教科だから、二次試験対策とか難しく感じるよ。センター試験は受けてたからいいけど、二次試験は出題が全然違うし」
「確かにな。センター利用の入試だとボーダー高いから、二次試験受けた方が楽な所もあるし」
「そうそう。悩ましいよね」
教室のざわめきが大きくなってきた。そろそろ一限目の授業が始まる。礼央は鞄からテキストとノートを取り出しながら、言い忘れてたけど、と付け加えた。
「俺、
「僕は
男子生徒――穣ははにかむように笑った。
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