#8


 

 この間と今日で、恐らく一年分は泣いたと思う。

 なんなら泣きすぎて疲れた。

「うう…」

(何度目だろう、この光景…)

 前回と違うのは、存外夢が夢じゃなくなるかもしれないと言うことだけど。

「落ち着いたかい?」

 フィンが優しい声音で私に問いかける。

「うん…」

「そっか」

 短い会話。

 でも今はそれで満たされてる。

「…じゃあ、話を戻そうか」

「うん」

「まずは改めて、君の両親の暗殺疑惑及びその犯人と動機が判明したわけだけど、肝心なものが一つわかっていない」

「…大公の裏帳簿を、父様たちがどこに隠したのか」

「そう、それが分かれば…大公を追い詰め、君が生きていることを堂々と露見させ、晴れて君が貴族に戻る事ができる。しかし肝心なピースが見つからない」

「うーん…」

 はっきり言って、私には隠せそうな場所なんて検討もつかない。父様たちは事件について生前一言も触れてなかったし、ヒントのようなものすら思い当たる節がない。

 何か些細なところにヒントがあるのか、そう思って考えてみたけど、私の記憶も朧げなところが多くて当てにできない。

 はっきり覚えてる記憶と言われれば、事件の日から先の記憶と…。

「…あ!」

「?」

「ちょ、ちょっと待ってて!」

 私は勢いのままに立ち上がって駆け出す。そのまま部屋を飛び出して、ここに来てから二回目の全力疾走。

 フィンの部屋から階段側に突っ走って、一番奥の梯子から屋根裏部屋に上がる。そしてベッドの枕の下から、私は大切なものを取り出した。

 そこから再び走ってフィンの部屋に戻る。誰もいないことを確認してるけど、部屋の前で切らせた息を整える。ノックをして「アニーです」とだけ伝えると、わざわざフィンは扉を開けてくれた。

「どうしたんだい、いきなり走り出すなんて」

「聞いてほしい事があります。お部屋に失礼してもいいでしょうか?」

 公衆の場で敬語はもはや習慣なので、下っ端根性丸出しだろうと、とにかく今は話を聞いてほしい。

「勿論構わないけど…」

 そう言って彼は中へ迎え入れてくれた。私は念のため鍵を閉めてから、戸惑う彼に向き合って言う。

「驚かないでね」

 そして私は、エプロンの結び目を解いた。そのままエプロンを脱ぎ捨てて、ドレスの背中にあるホックを外す。

「ちょっ、何してるんだ!」

 彼が慌てて私の肩を掴んで止める。私はその手に自分の手を添えて、彼の目をまっすぐ見た。

「“驚かないで”って言ったでしょ。大事なことかもしれないの」

「大事なこと…?」

 困惑してる様だったけど、彼は静かに頷いて手を離した。

「わかった。ただ少し離れていいかい。少しその…刺激が強い」

「それはそうして」

 彼は降参と言わんばかりに両手を上げて少し後ろに下がった。私はそれを視界の端に見ながら再び脱ぎ始める。

(首のホックは外したから…)

 次は背中中央のホックだ。それを外して、カフスも外してから袖を抜く。上半身がブラウス一枚になったら、上から三つ目までのボタンを外して“それ”は顔を出した。

 私は胸元を大きく開けて、“それ”を彼にはっきり見える様にする。

「見える?」

 彼は照れたように顔を赤くして何度か頷いた。私はそれを確認して、床に落ちたエプロンのポケットから一通の手紙を取り出す。

「このネックレスと手紙は、貴方達家族と最後にうちの別荘に行った時にもらったものよ」

 どちらも両親の形見と言っていい、私の生涯で一番大事な贈り物。

 それは、鍵のついたネックレスと一通の手紙。

 ネックレスの下には鍵の形の火傷の跡があるけど、今は恥なんて気にしてる場合ではない。

 ちょうど事件の半年ほど前のことだ。

 私の十四歳の誕生日祝いにと、スペンサー家の人も誘って別荘に行った時。

 彼と私が、“永遠”を約束した日の夜、私は嬉しくてそれを両親に話したのを思い出した。約束の木の事、彼をどう思っているか、その他にも細かい事をたくさん。

 この二つをもらったのは、その翌日。

 その日こそ私の誕生日でスペンサー家のみんなもプレゼントをくれたけど、両親はこの二つの贈ってくれた。

「この手紙は、父様が『大人になったら開けてね』って、確かにそう言った」

 私は手紙を見つめる。赤い蜜蝋で封をされたその手紙は、高そうな羊皮紙の封筒に入っていて端が所々ぼろになってしまっている。

「私はその時、何も思わなかった。ありきたりな“未来への手紙”だって」

 もらった事が嬉しくて、中身の意味なんて考えたこともなかった。確かに親がそう言った手紙を書くのは珍しかったかもしれないけど、能天気な私はどんな中身かわくわくしながらその日眠りについたのを思い出す。

 この手紙は事件の日も真っ先に手に取った。火事で燃えてもおかしくなかったのに、ここまででどこかに紛れて無くなってもおかしくなかったのに、いつも鍵のネックレスと一緒に手元にあって、それだけが、私と両親を屋敷のみんなを繋いでくれた。

「今でも枕の下に大事に隠してる。誰にも盗られない様にって。そして私はやっと、十八歳になった」

 この国の成人は十八歳だ。年齢的に私は“大人”と言うことになる。

「私に何かヒントが残されてるとしたら、この手紙とネックレスだけ…私はこの二つに賭けたい」

「!」

 フィンは驚いたように目を見開く。

 両親が、私に残してくれた最後の贈り物。大事な大事な、私の財産。

「これを一緒に開けて読んでほしい。これは貴方にしか頼めない」

 今、私が信用と信頼、どちらも寄せてるのはフィンしかいない。もしこれに件の裏帳簿へのヒントが隠されてるとしたら、私は彼以外に知られたくない。教えたくもない。

「そして約束して。中身を誰にも話さないって…私と父様と母様の記憶おもいでを、汚さないって」

 私が彼に渡せる対価は無い。ここまで話した以上、私には彼を信じる以外に道もない。

 彼は、真っ直ぐ私を見て話を聞いていた。

 私も、彼をまっすぐ見返す。

 そして彼が、ゆっくりと口を開いた。

「…わかった。君の信頼に応えると約束する」

 確かに彼がそう言ったのを、私は胸に刻み込んだ。

 でも所詮は口約束、裏切られるかもしれない。それでも、私は彼と彼との思い出を信じたい。

 二人で誓った“永遠”を、信じたい。

「…その言葉、信じるからね」

「あぁ、僕らの“永遠”の為にも」

 そう言うと、彼は着ているジャケットを脱ぎながらこちらに来て、それをそっと私の肩にかけた。

「?」

(なんでジャケット?)

 私が呑気にフィンを見ていると、彼は私から顔を背けてこう言った。

「とりあえず、そのジャケットと部屋は好きにしていいから…僕はちょっと席を外すよ」

 何気なく、自分の視線を下に向ける。そこには、はだけたブラウスと露わになった胸元。

「…!」

 私は慌ててかけられたジャケットを寄せて胸元を隠した。顔が果てしなく熱い。

「その…ごめんなさい」

 恥ずかしさのあまり顔が自然と下を向く。

 これではとんだ痴女だ。彼の願いに娼婦だなんだと文句をつけたばかりなのに。

「じゃ、じゃあ…すぐ戻るから、続きはその時に」

「うん…そうしよう」

 そそくさと彼は部屋を出た。

 ドアの鍵を閉め直してから、私もそそくさと服を元に戻す。

 時間は夕方になりかかっていた。

 もう一度内側から鍵を開けて、それを合図に彼がそろりと部屋に入ってくる。

(すぐそこに居たのか)

 すでに平然としてる私をよそに、彼はどこか動きがぎこちない。

 それにしても緊急事態とは言え、部屋の主人を追い出して着替えてるのはあまりに不敬すぎる。相手がフィンでよかった…と思う。

 そう言う問題かと聞かれたら、それまでだけど。

「申し訳ありませんでした…」

 彼が部屋に入ってきて最初の言葉は、今はこれに尽きる。

 仮りたジャケットは皺がつくので畳むわけにもいかず、できるだけ整え直してから前に突き出した両腕の上に乗せて差し出した。

「いや、いいよ…」

 ぎこちない動きのまま、彼はジャケットを回収してそのまま着直す。

 …目の前の彼が今何を思ってるかはわからないけど、彼はジャケットを羽織って何か気づいたような顔をした後、何故かどこか機嫌が良さげになった。さっきまでの気まずさはどこかに飛んだようでそこは何よりだけど。

(なにか…良くないことをしてしまった気がする)

 主に自分が害を被る意味で。

 それはさておき、私はポケットにしまい直していた手紙を取り出す。彼も手紙を見て気の引き締まるような顔をした。互いの間に緊張感が走る。

「とりあえず、座ろうか。ペーパーナイフを持って来たから」

「あっ、そうだね。ありがとう」

 いつの間に…と思ったけど、どう考えても私が着替えてる間だとすぐに察した。

 何から何まで申し訳ない。

 …それでも一緒に寝たりなんてしないけど。

(本当に結婚できたら、一日くらいなら考えない事もない…)

 いや、いけないいけない。浮かれたことを考えている場合ではない。

 全ては目の前のことに向き合ってからだ。

 同じソファに二人で腰掛けて、ペーパーナイフを受け取る。緊張で少し震える手で、その封を切った。

 中には三枚の紙。

「?」

 二枚には何やら内容が書かれているけど、もう一枚は白紙。

「これは…」

 何かがおかしい。

 白紙の便箋なんて、入れる意味がない。

「とりあえず、中身が書いてる方を読んでみよう。そこからも何かわかるかもしれない」

「…わかった」

 ゆっくりと、私は手紙を読み上げることにした。

 

 “親愛なる我が娘、アニーへ”

 

 この手紙を読んでいるということは、アニーは成人したんだね。

 本当に、心からおめでとう。

 ついこの間まであんなに小さかったのに、時間というのは残酷なまでに早い。もう君を抱き上げられないと思うと、父様は寂しくて仕方ないよ。

 

 この手紙を書いてる今、君は十四歳だから…もう少ししたら憧れの社交界デビューだね。そうしたら、父様が思ってるよりも早く、アニーはこの家を出ていくことになるかもしれない。それは父様的にはとても寂しいけど、同時に心から幸せを願って、心から祝福してる事を忘れないで。

 父様は、母様とアニーが何よりの宝物だ。何よりも誰よりも愛してるよ。

 

 最後に、これから何か辛いことがあるかもしれない。そんな時は、この手紙を思い出して。私たちは離れていても一緒だ。

 

 愛してるよ、アニー。

 

 ダントン・ベイリー”

 

 …手紙を持つ手が震えて止まらない。

 それでも、涙で汚さない内に、そっと手紙を閉じた。

「父様…母様…」

 朧げだった部分の記憶が、少しずつ蘇る。

 失敗して大泣きしたピアノの発表会。

 初めて連れて行ってもらった大きな公園は緑が豊かで。

 別荘に行った時、必ず三人で歩いた海辺は夕陽が美しかった。

 生誕祭も誕生日も、絶対に二人は素敵な贈り物をくれる。

 母様はいつも薄い金色の髪が綺麗で、私の黒髪を「お婆さまから遺伝したのよ」って、嬉しそうに言いながら梳かしてくれた。母様みたいな、艶のあってサラサラの髪になりたかった。

 父様は私を抱き上げるのが好きで、優しくて穏やかで、頭が良いだけじゃなくて知識が豊富な人だった。緑色の瞳がお揃いなのが密かに嬉しくて、父様みたいに知識もあって頭の良い人になりたかった。

 二人とも忙しかったろうに、必ず毎年親戚を誘って、家族三人で別荘に行ったな。

 どうして、どうして朧げになってしまったんだろう。

 すりガラスの様に不透明な記憶が、事件の記憶より透明度を増して蘇ってきて。溢れて、私の心を満たして。

 また、泣きそうになって…でも堪えた。

 二人も、私が悲しみや辛さで泣くのはもう見たくないだろうと思ったから。

 フィンは、そっと肩を抱き寄せてくれた。私はそれに応えるように、私の肩を抱く彼の手に自分の手を重ねる。

「ベイリーの人たちはいつも仲が良くて…うちは父上が仕事人間だったから、羨ましかったな」

「…うん」

 彼の肩に頭を預けながら、手紙をもう一度開く。

「愛されているんだね、今も」

「そうなの…最高の両親なのよ」

 彼の言葉に、私は自分でわかるくらい嬉しい気持ちで笑った。

 父様と母様は、もう居ないと思っていた。居ないから、手紙とネックレスがあるんだって。

 でも違った。父様と母様は、手紙とネックレスに変わって側に居るんだ。だから、この二つはずっと一緒に居てくれたんだって。

 そう思えたから。

 だけどフィンがいなかったら、私の為にここまで頑張ってくれなかったら、彼を好きにならなかったら…こんなに大切なことに気づけなかった。

「ありがとう、フィン…一緒に手紙を見てくれて」

「良いんだ。君のご両親には少し嫉妬するけど…それ以上に君を幸せにする」

「あは、父様と母様は別にしてよ」

「難しいな、むしろ最強の敵かもしれない」

 さっきから、私じゃないみたいに笑ってる。自分はこんなに笑える人間だったんだと、思った。

 フィンの声が、穏やかで嬉しそうなのが伝わってくる。私の幸せを優しく包んでくれている。

 こんなことってあるんだ、確かにそうおもった。

 手紙を静かに、読み返すためにめくっていると、三枚目の便箋に突き当たる。

「あ…」

 そうだ、この便箋のことを考えないと。

「残るはこの便箋だけか…」

 真っ白な三枚目、見ているだけでは謎が深まるばかりだ。

 裏側を見ても特に何かあるわけでもなく、しかし匂いを嗅いでみると、とても仄かに、柑橘のような香りが…する気がしないでも無い。

「これは…信じて良いのだろうか」

 私の嗅覚を。

「何かわかったかい?」

「うーん、確証はないけど…すごい遠くにオレンジみたいな香りが…する気がする」

「ふむ…」

 フィンは私の言葉を聞くと顎に手を当て、少し考えるような仕草を見せてから立ち上がった。

 そしてソファを後にしたかと思うと…どこかから蝋燭とマッチを持って帰ってきた。

「蝋燭?」

 おそらく電気が落ちた時に使う非常用の蝋燭だと思うんだけど…。

(白紙の紙と蝋燭、オレンジの香り…)

 確かに、この組み合わせには覚えがある。

 ミステリー小説なんかで見るやつだ。

「わかったみたいだね」

 彼は私の顔を見て言う。

「炙り出し…なのはわかった。でもそんなミステリー小説みたいなこと、ある?」

 私は訝しげに彼の顔を見る。しかし彼はいたって真剣そうで、失礼なことをした気持ちになった。

「何事も、やってみないとわからないさ」

 そう言って彼はマッチに火をつけた。火を慎重に蝋燭に移して、白紙の便箋の裏側から燃え移らないように火を当てる。

「!」

 端的に言えば、彼の予想が当たった。

 便箋の表側に文字…文章が浮かび上がる。

「そんなことってあるんだ…」

 父様、なんてロマンチストな…いや中身は極秘かもしれない。それならこの手段はありだ。

「やってみるものだろう?」

「確かに…」

 確かに言う通りなんだけど、久しぶりに見たしたり顔がなんかむかつく。

「とにかく、なんて書いてあるのか確認しよう」

 そう言って、便箋に目をやる。

「何か裏帳簿に関するものだとまずい。声に出すのは控えて」

 彼の言葉に私は静かに頷く。

 その便箋には一言、手紙と同じ父様の字でこう書かれていた。

 

 “思い出は、“約束の木”の下に”

 

「…これだけ?」

 思わず火を当てた裏側を確認する。しかし隅から隅まで、蝋燭の煤で真っ黒だった。

 確かに内容はこれだけみたい。

「でもこれって…」

 私は嫌な予感がして、咄嗟にフィンを見る。すると、彼もまた同じことを考えたのか、静かに頷いた。

「調べてみる価値は、あると思う」

「だよね…」

 わざわざこんな回りくどいことをするんだ、それだけで調べる価値はある。

 そうでなくても、私が気付かなかったら白紙の部分は捨ててた可能性だって…あるんだもの。父様からしたら賭けだったと思う。

(…それなら)

「フィン、三枚目は燃やそう」

「…良いのかい」

 彼も同じことを考えてた、とは思う。口に出して良いものかと、迷ったような言い方だったから。

 確かにこれだって父様からのメッセージだ、私だって大事に取っておきたい、けど。

「言ったでしょ、『貴方にしか頼めない』って…貴方以外に知られたくないの」

 自分で言うのもなんだけど、私の決意は固い。これは、きっと残しておいてはいけないものだから。

「わかった」

 彼はもう一度、蝋燭に火をつける。

 そして私は、その火で便箋の端から火をつけた。

 斜めに持った便箋は、角からチリチリと少しずつ燃えていく。大きな火にならないように気をつけながら、確実に燃やしていった。やがて私が持ってる部分だけが残る。それを二人で見届けて、彼がそっと蝋燭の火を消した。小さな火の残り香と細い煙だけが、その場に残る。

「火、ありがとう」

「…僕は火をつけただけだよ」

 どうして、あなたの方が辛そうなの。

 そう聞こうとして、躊躇った。

 呟くようにそう言った貴方の顔が、今にも泣きそうだったから。

 だから、躊躇ったままに…気付いてなかったことにした。

「どうしよっか、これから」

 大事な“ヒント”は父様がくれたかもしれない。後は調べるだけだけど、一つだけ問題がある。

 と、言うのも。

 ホエー領は王国でもやや内陸に位置しているが、約束の木がある元ベイリー家の別荘は、隣のヴァランセ領から更に少し海に出た離れ小島にある。

 ヴァランセ領はコーナー伯爵が治める小規模領地で、海産物が美味しくて有名。

 しかしなぜそんな辺鄙な所にうちの別荘があるのかと言うと、独身時代の父様がコーナー伯爵と友人で、ある時の賭けポーカーで勝ち取った…らしい。私が生まれた時にはもう別荘が在ったし、母様から聞いた話なので定かではない。

 余談だが父様が母様にプロポーズするために別荘を建てた…らしい。母様がうっとりと話していたのは覚えている。

(二人の思い出の地ってことだよね、そういうの素敵だな)

「……」

 流石にこの状況は考えてなかったのか、フィンはソファの上で考えるようなポーズを取ったまま固まっている。心なしか色素が薄くなった様に見えた。

 フィンはこの屋敷の家令であるだけでなく、ホエー領の領主代理も勤めている。毎日執務室で書類と睨めっこしてるのはそのためだ。

 王城で指南役としての仕事が忙しい旦那様に代わって、彼はこの屋敷で行えること全てに関係している。

 つまり、のっぴきならない理由でも無い限り彼はここを離れられないのだ。

 しかも別荘に行くにはここから馬車を出してヴァランセ領の関所を超え、更に港から船に乗って行くという…我が家がこれを毎年やっていたとは恐れ入る道のり。ちなみに最低でも片道二日はかかる。馬も休ませないといけないしね。

 私はほぼ馬車では寝てたので苦痛だった記憶はない。今はどうかわかんないけど。

 そうやって最低でも一週間はここを空けることになる予定が、急に舞い込んできたのだ。彼が固まるのも無理はない。

 我が家も小規模領地だったとは言え、一週間も毎年遊びに行くのは相当大変だっただろう。

 今、フィンの仕事ぶりを見ていると、役職もない一介の国家会計士だったと言ったところで、毎日王城に通いながら領地の管理もしていた父様の凄さを感じる。

(父様、どうやって仕事してたの…)

 ちょくちょくフィンの執着心の強さに顔が引き攣る私だけど、父様が今も生きていたら父様の仕事ぶりにも同じ顔をしていたかもしれない。

(フィンは旦那様を仕事人間だって言ってたけど、私が覚えてないだけで実は父様も大概だったのでは?)

 そう考えると何故か背筋がひやりとした。

 しかしフィン微動だにしないな。

「フィン、フィン〜」

 顔を覗き込んで声をかけても返事がない。よほど考え込んでるんだろうか。

「おーい」

 目の前で手を振っても効果がない。

 これはどうしたものか。

 仮にも恋人を放っておいて考え込むとは失礼な男である。

 これは悪戯をするしかない。

(何してやろうかな?)

 大声で驚かすのも悪くないし、後ろから耳を引っ張るのも楽しそうだ。指で脇腹突いてやるのも悪くない…。

 いそいそと悪巧みするのも楽しいが、彼がいつ動き出すかわからない以上、呑気にもしていられない。

(ここは、いやこここそあれしかない!)

 そう、伝家の宝剣“ほっぺにちゅう”!

 …か、仮にも好きあってるわけだし?

 ちょ、ちょっとくらい驚いてくれるなら良いかなぁ…なんて、思ったり。

 ちょうどほら、相手は隣に居る訳だし。

 これは悪戯!悪戯だから!なんて、自覚のある言い訳をしつつ。

(気づかれそうなら途中で止めれば…いいよね?)

 そろりそろりと、フィンに顔を近づける。

 にしても綺麗な肌だな、ニキビとか知らなそうで腹たつ。やっぱつねってやろうかな。

(いやでもチャンスはここしか)

 そう思ったら止められない。

 後少し、唇が、触れそう…。

 

 …になった時、思ってたのと違うものが触れた。

 

 私はいま、そこから動けないでいる。

 なんでって、フィンがこっち向くから。

 く、くちびるが、くちびるどうしが、あたっ…。

「…」

 彼は私より先に、それこそ慣れた動きでそっと唇を離した。

 そしたら私の耳元にきて。

「…誘ってるの?」

 そう一声言って、悪戯に笑った。

「!!!!!?」

 私は耳と口元を押さえてダッシュで後ずさる。ソファから落ちたとか知ったことか。壁に勢いよくぶつかって、背中が痛い。痛いけど、痛いんだけどこれは、恥ずかしいとかって問題じゃない!

 彼は余裕そうはおろか、嬉しそうに私を見つめていた。なんだその顔は…!

「な、ななな、ななななな…」

 何してんの!?と言いたいだけなのに言葉が出ない。と言うか口元からそもそも手が離せない。

「考えがまとまって、恋人に声をかけようとしたら悪戯っ子が居たんでね。ちょっとしたお仕置きかな」

 そう言って彼は悠然と足を組み直す。

 私は、やっと、口元から手が離せたけど、情緒がそれどころじゃない。

「あ、あう、あうあう…」

 とうとうまともに声も出なくなった。

 私の自我が崩壊しかかっている。

「悪戯なんかしなくても、キスなんていつでもするのに。アニーは可愛いね」

 嬉しそうに、本当に心底嬉しそうに、フィンは私を見てそう言った。

 余裕そうな彼に対して、私の余裕は、一切の!欠片も!ない!

 なんでってそりゃあ!

「…ふぁ」

「ふぁ…?」

 

「ファーストキス…だった、のに」

 

 私だって夢見る女の子だった。

 そりゃあ、ファーストキスくらいムードのいいところで、互いに好き合う王子様とお姫様みたいにしたいと思ってた。

 それがこんな、悪戯の延長線で無くなるなんて。

 確かに私の顔は今トマトみたいになってるだろう。それは恥ずかしさと果てしない動揺が入り混じってるからで。

(決して、決して耳元で囁かれたり、それでもキスができたのが嬉しかったからじゃない。耳元で囁かれたのが頭にこびりついてるとかでもない!)

 心臓がとにかくうるさい私に対して、フィンがまた動かなくなった。

「…?」

 顔の熱を感じながらも、少し私も落ち着いたのか、彼の様子をどうしたんだろうと見ていると、彼はゆらりと立ち上がった。

 そのまま私のところまでふらふらとやってきたかと思うと、有無を言わさずお姫様抱っこをされた。

「!?」

 そのままベッドに向かって私をその上に下ろすと、動揺してる私を優しく押し倒して彼は、また私の耳元で言った

「ごめんね…責任は取るから」

 さっきみたいな高鳴りと違って、まず言葉の意味がわからなすぎて固まる。すると彼は、横たわる私の背中からはみ出たエプロンの紐を引っ張って解き始めた。

「いや待て待て待て待て!!」

 私は両手で彼の胸を押しやってそのまま起き上がる。すると彼は「どうしたんだい?」と、疑問に満ちた声を上げた。

「いやなんで脱がしてるの!?て言うか責任ってなに!?」

 私の叫びに、彼は笑顔でのみ返して続きをし始めた。

「待て!まって!」

 待ってほしいと言っても止まらない彼がドレスのホックを腰まで外そうとして来たので、これは冗談じゃないと確信した。

 私は、最終兵器を使うことを決めた。

(あんまり使いたくないけど、しょうがない)

 実は使えるんじゃ無いかと、ついさっき思いついたけど、流石に傷つけるんじゃ無いかと思ってすぐに考えを消した案。

 しかしこんな流れで貞操の危険は侵したくないので仕方ない

 すう、と息を吸って。できるだけ冷静に。彼の耳元で、囁くように。

「今それ以上やったら嫌いになる」

 すると、一瞬だけ動きが止まって、離れたかと持ったら、私の手の甲にキスをして。

「嫌いになれるの?」

 と、確かにそう言った。

 遠目では長い前髪に隠れて見えないもう片方の目が、この距離では微かに透けて見える。

 垂れぎみの目元に宿る三白眼の瞳が、確かに私を見て、視線から私だけ見てるのが、伝わってくるようで。

「〜〜〜〜〜っ!」

 私は思わず言葉を失った。せっかく落ち着いた顔がまた熱くなる。

 いやその自信どこからくるんだよ、とか。

 私がそんな軽い女に見えるの、とか。

 言いたいことは山ほどあるのに、何一つ言葉にできない。

(ずるい、これはずるい)

 何って言えないけど、この顔はずるいよ。

 そして私の反応を見た彼はまた満足そうに笑って、丁寧にカフスを外し始める。

「ちょ、やめ…」

 手を振り払ってやめさせようとするけど、がっちり握られててそれも叶わない。

 カフスを外す手を替える一瞬の隙をついて、手を引っ込めた。

「やめてっていったよね!」

 私が強めに怒ると、途端に彼は光の消えた目で優しく微笑んできて、私は少し驚いて体が小さく跳ねる。

「君が…アニーがいけないんだよ」

「…は?」

 光のない瞳のまま、彼は私だけに聞こえるように言う。

「君があんまりにも可愛い反応をするから…僕は心配なだけなんだ」

「心配、とは…」

 嫌な予感がする。

 とても嫌な予感が。

「どこぞの馬の骨みたいに、君の愛らしさに気づく愚か者が現れるんじゃないかって」

 どこぞの馬の骨が一体誰でもどうでもいいが、そもそもこんな愛想もないしクマも酷い、不気味な女を好きだと面と向かって言うのは貴方くらいだと思うけど。

「言ったよね、もう君を失いたくないって」

 そう言って、わざわざ引っ込めた私の腕を彼は握って自分の方に私を寄せる。

「だから…そうなる前に、こんなに可愛い君なら僕のものにするしかないよね?」

 彼の瞳は手の甲にキスした時の人間と同一人物とは思えないくらい、光を失っていた。

 それこそ、今日この部屋で会った最初の時のように。

 たけど何かに怯えてる様子はない。むしろ、大義名分を今か今かと待っていた獣の様だ。

(いや『ないよね?』じゃないわよ)

 人をもの扱いしておいて正当性を本人に求めないでほしい。

 素直な感想としては、ふざけたこと言わないでほしい。そう思った。

「そんなに私って信用ないの?」

 率直な疑問。彼の中で、私は言い寄られたら靡くような女ってことだろうか。

 しかし彼は私の反応を予想してなかった様に、明らかな動揺を見せる。相変わらず目は死んでるけど。

「“どこぞの馬の骨”でもなんでも良いけど、そんなものに靡くほど、私軽い女じゃない」

 強い憤りを自分の中に感じる。

 事故でもこっちはファーストキス捧げてるのに。

「僕より君が魅力的だと思う男が現れでもしたら?そしたらそんなの、それこそまた君を失うかもしれない。それなら、そうなる位だったら、そうなる前に、少しでも僕を君に刻みつけたい。離れられない様にしたい。ずっと、ずっと一緒に居れるように…!」

 そこまで言われた辺りで、とうとう私は空いた手で彼の右頬を引っ叩いた。

 綺麗に決まったのか、乾いた良い音がした。

 そしてよほど驚いたのか、呆然とする彼の手から掴まれていた私の腕が滑り落ちる。

 私はすかさず両手で彼の頬を挟む様にして、無理やり視線を合わせた。

「貴方ねぇ!そこまで言うならそう“なった時”にその強引さ発揮しなさいよ!」

 相変わらず彼は呆然としながら、それでも視線を合わせて私の話を聞いている。

「こちとらね!忘れてももう一回貴方を好きになってここにいるの!それを信用してもらえなかったらそれこそ私どうしたら、貴方に信じてもらえるのよ!」

 朧げだった。

 確かにここにくるまで、記憶の彼方に彼は居て。誓った“永遠”も、せっかく覚えてたのにもう叶わないと、貴方の方こそ忘れてると決めつけてた。

 でも、それを貴方の強い執着が変えたんじゃないか。

 貴方のその拗らせたその思いが、私を救ってくれたのに。それなのに。

「私を、私との“永遠”を信じてよ!自分に自信を持てなんて言わない、貴方のおかげで、貴方をもう一度好きになった私を信じてよ!」

 実際に言葉にして言える思いなんて、きっと考えてる中の一握りでしかない。

 それでも、それでも言葉にしないよりは伝わるから、伝わるって信じたいから。

 それが貴方に届くって、思わせてよ。

「フィン、フィン…信じなさいよ…!もし本当に貴方を裏切る様な事があったら、その時は人形にでも何にでもなってあげるから…」

 心の中でだって、何度も彼の名前を呼ぶ。

 少しでもこの思いが届けと足掻く。

 気づけば彼の頬にあったはずの両手も頭も胸に押し当てて話している自分が居た。

 そもそもなんで一日でこんな目まぐるしい思いをしないといけないんだ。私の中は沈んでる代わりに揺らぐこともなかったのに。

 私を揺るがすのは、あの事件の記憶だけだったはずなのに。

「フィン…」

 力のない拳で、彼の胸を殴りつける。

 すると彼は、フィンは、ゆっくりと動いて、まるで壊れ物を扱うみたいに、私を抱きしめた。

「ごめん…」

 震える声で彼は囁いた。

「僕、僕は…自信がなくて、怖がりで、それでも君が好きで」

 私から話すことはない。

 今度は彼が話す番だ。

「君が好きで、好きで、好きで…でもこんな僕が君を好きで居て良いはずがなくて」

 彼の声音はずっと震えている。

 普段は、さっきだってあんなに強引なのに。

 …心を素直に表すのが、本当は得意ではないのかもしれない。

「申し訳なくて、自分が汚くて、嫌で嫌で、でも君が好きなのを抑えきれなくて」

 彼は今、どんな顔をしてるんだろう。

 どんな目で、この話をしてるんだろう。

 声はずっと震えてるのに、押し出すようなのに、私に届かせようとしてくれてるように感じる。

 それは、私の独りよがりな思い込みなんだろうか。

「失いたくないのも、君が居てくれれば良いのも、何もかも本当で、本当なのに」

 震える腕が、私を強く抱きしめるのを躊躇ってる様に感じる。

 また怯えているの?

「僕は、僕は君を信じていなかったんだ。信じてる気になって、自分の気持ちを押し付けて!」

 彼が悲しく声を強める。

 ここまでで、彼の思いも、自分の行いを彼なりに反省してるのも伝わってきた。

「ごめん、本当にごめんなさい…それでも君が好き、好きだ…」

 彼が私の肩に顔を埋める。

 ここまで聞いた私の第一声。

「長い」

 これに尽きる。

 彼を無理やり引き剥がして顰めた顔を見せると、あからさまに困惑している。そうなるとは思っていたけど余るにも予想通りすぎだと思う。

「貴方の気持ちが聞けたのは嬉しいけど、うだうだ言っててもこれ以上にはならないでしょ」

「それは、わかるけど…」

 おず、と弱気に彼は言う。その言葉には、まだ申し訳なさや不安感を感じた。

「私は貴方を信じてるわ。だから、貴方は黙って“貴方を信じる私”を信じてれば良いのよ」

 私が“私を変えた貴方”を信じてるみたいに。

 貴方が貴方を信じれなくったっていい。貴方を信じる私は、今ここにいるんだから。

「“僕を信じてる君”を信じる…」

 私の言葉を口に出して反芻する彼は、まるで目から鱗が落ちた様な顔をしている。

 私はこれでもまだ怒っているのだ、お互いに気持ちを確認しあって、それですぐこんな扱いはひどい、悲しい。

「それで、君は許してくれる?」

「許すとか許さないは別に決める。これは貴方の心次第だもの」

 そう言うと、彼は踏ん切りがつかないのか戸惑った表情になった。許されるか許されないかで行動するのはやめた方がいいと思う。

 そのまま少し考えて、彼は話した。

「僕は、君を信じる…いや“信じたい”」

 その言葉には今までのどれとも違う、前向きな気持ちが乗っかっている様に感じた。

「本当?嬉しい」

 その気持ちが嬉しくて、私は自分の口角が素直に上がる。

「大事な人を失いたくない気持ちは、私の中にもあるよ。私は…貴方まで失いたくない」

 完全にわかりあえる…とは言えないけど、きっと私たちの気持ちはどこか似てる部分もあるんじゃないかと感じた。

 もし本当にそうなら、思いやることはできるから。

「…僕も君を失いたくないよ」

「なら、今はそれで良いんじゃないかな」

 どんなに言葉にしたって、長いことあった気持ちを急に切り替えたり、本当の気持ちを捻じ曲げることはできない。

 それでも、新しい気持ちを受け入れていく気持ちがあるなら、自分の中にある気持ちから歩み寄ってみれば良いんじゃないかと、私は思った。

 自分ができてるとは言い難いけど、それなら一緒にできるようになればいいや。

 私もうじうじ考えるのは疲れてしまった。

 貴方が側に居てくれるなら、その間くらいは前を向いて行きたいから。

「えい」

 不意打ちデコピン。彼は戸惑った顔で狼狽えながら額をさする。

「今日はそれで許してあげよう」

 なんて強気に出たところで自分も大概人のことは言えない。

 私だって、今でも自分のこと汚れてると思ってる。

 何度でも思うけど、未だにクマは取れないし、どこもかしこもぼろぼろだし、暗い気持ちやあの事件のトラウマが魔法みたいに無くなった訳でもない、貴方という支えがあっても、父様や母様にいつだって会いたい。それが私。

(貴方にふさわしくないって、今でも思うよ)

 でも貴方には教えてあげない。

 もう前を向くって決めたから。

 私も、貴方にふさわしくなりたい。

「さ、今日はご飯食べてもう寝ようよ」

 今が何時か知らないけど、窓を見れば夜なのはわかる。今日はばたばたしすぎていつの間にか電気がついていることも意識してなかった。私の記憶が無いだけで彼が付けてくれたんだろう。

「そうだね、そうしよう」

 彼もまた少し疲れた様に笑った。

「あ、ご飯で思い出した!貴方ご飯ちゃんと食べてないって聞いたんだけど。しかも執務室で済ませてるって!」

「う…」

 あからさまに狼狽えるフィン。図星を突かれた顔に私はさらに捲し立てる。

「ちゃんと食べないからそんなに細いのよ!私確かに細い人が好きだけど、貴方は細すぎ!そんなんじゃ何かする前に貴方が死んじゃう!あと執務室で済ませてたら奥様が一人でお食事してるってことじゃない!お母さんは、っていうか親御さんは大事にしなさい!」

「君がそれを言うと重いな…」

 フィンはあれよあれよと尻込みする。

「そう思うなら実行して!」

「わ、わかった、わかったよ…」

 私は怒ってると言うのに、彼の顔には“もう勘弁してくれ”と書いてあるのがありありとわかる。

「ちゃんとわかってるのかなぁ」

 私が訝しげな表情を見せると、彼は困ったように乾いた笑いで応えた。やっぱわかってなさそう。

「だいたいね…」

 と言葉を続けようとした時、不意をつく様にノックの音がした。二人して体を跳ねさせて、反射的に扉の方を見る。

 扉から聞こえるガチャン、と鍵を開ける音。ノックの主は、そのままなんの躊躇いも無くドアノブを捻った。

「!!」

「フィン〜、部屋に居るならたまには一緒に晩御飯でも…」

 そう話しながら入ってきたのは、ナタリー夫人だった。途切れた言葉から窺える動揺通り、今の私たちを、それはもうはっきりと見られた。

「「「……」」」

 ドアを開けたまま固まる夫人。

 対して私たちと言えば、乱れた服で主人のベッドに座る私とそのすぐ横に座るフィン。

 どう考えたってこれはまずい。

 “若い貴族を誑かす薄汚い女”を絵に描いたような光景だ。

 最悪私は死ぬ。そう、社会的に。

「あらぁ…」

 しかし、夫人の表情に私は驚いた。

 彼女は…心底嬉しそうに私たちを見ているのだから。

「あらあらあらあら…!」

 目を爛々と輝かせながら、夫人はそそくさとドアを閉めてこちらに歩いてきた。

「貴方たち、もうそんなとこまで…!?こんなおめでたいことってあるかしら!フィンもどうして教えてくれなかったの?」

 両掌を口元で合わせながら彼女は言う。

 隣のフィンが苦虫を噛み潰したような顔をしているのが視界の端に入っているものの、私は頭が真っ白になって呆然の二人の様を見ていた。

 最初、夫人が嬉しそうにこちらを見た時。私は“夫人って思ったよりスキャンダル好きなのかな…”って確かに思った。だってどう足掻いたって息子が誑かされてる様を見て喜ぶなんてそれしか浮かばなかったし。

 しかし夫人は次の瞬間私たちの仲を喜ぶ様な事を言うもんだから、私の脳みそは理解不能になり弾けた。

(いやなにこれ…)

 まさか私の姓を取り戻そうって話、夫人も仲間なのか?

「母上、わかりました。わかりましたから行きましょう、アニーが困惑しています。今日は僕も一緒に夕食を頂きますから」

 渋々とベッドを降りたフィンが、夫人の背中を押して部屋から追い出そうとしている。夫人の体はそれに成すがままだが、彼の声は届いてない様だ。

「今日は最高の日だわ!お祝いをしなくちゃ!」

 浮かれた声でずっとこの調子である。普段の穏やかな彼女は幻だろうか。

 フィンは夫人の言葉を話半分に聴きながら「ごめんね」と小さく一言私に言って、夫人と一緒に部屋から出て行ってしまった。

 ぽつんと一人、私はベッドの上に取り残される。

「…」

 とりあえず服着よう。

 私はそう思ってとりあえず身なりを整え直した。

 しかしそれでも私がこれからすぐどうしたら良いのかがわからない。

 この部屋からとっとと出て寝付いていいのか、はたまた大事な話がまだ終わって無いので帰らないほうがいいのか。

 私は暫し考える。

 ひよこが三回頭の中で鳴いた頃、私は心を決めた。

 

 帰って寝よう。

 

 大事な話とか、もう明日でいいや。

 今日は今までで一番一日が長かった。正直体は限界だ。晩御飯とかいいから泥のように眠りたい。

 やっと眠れそうなんだ、寝かせてほしい。

 私は持っていたメモに言伝を残して、そっと部屋から出た。

 重たい体を引きずって廊下を歩いている時、マデリンさんに仕事終わりの挨拶をしていなかった事を思い出す。

 幸い三階に来てくれたマデリンさんに挨拶をした頃には、逆に心配されるほどふらふらだった。

 なんとか部屋に帰って服を脱ぐ。

 もうだめだ、早く寝たい。

 こんなに寝たいと思うのは初めてかもしれない。特に事件以降、眠るのは仕方ないことと思いこそすれ、歓迎したものではなかったし。

 布団に文字通り倒れ込んで、すぐに意識は眠りの沼の中へ落ちる。

 

 夢も見なかった。

 何かから、解放された気がした。

 

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