#7


 

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 私の気持ちが不透明なまま、三ヶ月が経った。

 正確にはそのことについて考えるのを避けたまま、三ヶ月経ってしまった。

 今日は庭の掃き掃除。

 近頃、まだ夏だと言うのに木によってはもう落ち葉が舞っている。しかし太陽は依然元気だ。

「あっつ…」

 このままでは熱中症になってしまう。

 無理はしないようにとマデリンさんにも言われているし少し影で休もう。

 噴水近くの東屋に腰をかける、箒はすぐ横で待機。

 噴水の水の流れを眺めていると、それだけで涼しげな気持ちになってくる。

 噴水の水は飲料水では無いので飲むことはできないけど、少し手をつけるくらいなら良いだろうか。

 噴水の水が溜まってる部分に手をつける。流れに逆らわない水は冷たくて気持ちいい。

「こらっ、噴水は危ないから近寄るなって言ったろ」

 かけられた声に体が跳ねる。

 振り向くと、そこにはシェフのエリオットがいた。

「エリオット」

「毎年お前みたいなことしてる奴が頭ごと噴水に落ちてるんだ。勘弁してくれ」

 エリオットは孤児院上がりのシェフで長年ここに勤めている。近年交代で正式にシェフになったそうで、庭によく料理で使うハーブを取りに来ている。

 彼は掃除の度に見かけて、好きな本の話題で盛り上がってからと言うもの気が付けば名前で呼ぶ仲になった。

「ごめんなさい…」

 エプロンで濡れた手を拭う。

「わかりゃ良いんだ」

 エリオットは呆れた様に私を見た。

「にしても…」

「?」

「お前は本当、嫁の貰い手がなさそうだなぁ」

 まじまじと見たかと思えばそれか。

「…何回目よ、それ」

 彼は最近ことあるごとにこうやってからかってくる。何が目的なのか知らないが、そも私に結婚願望はない。

「結婚なんてしないって言ってるでしょ。余計なお世話なのよ」

「はいはい、わかってるよ。偏屈な女だな」

「偏屈とは何よ」

「言ったままの意味だよ。この偏屈女」

「失礼ね!偏屈なのはそっちも同じでしょ!」

「言ったな!このっ」

「きゃっ」

 エリオットが私に噴水の水をかけてきた。私もそれに負けじとかけ返す。

「やったわね!そらっ!」

「てっめ、目を狙うな目を!」

「やったもん勝ちよ!」

 しばらくかけ合って、互いに息が上がってきた。そろそろ掃除にも戻らなければ。

「はぁ、はぁ…今日は引き分けにしておいてあげるわ」

「あぁ、仕方ないからな…」

 そう言って、私たちはくすくすと少し笑いあってから互いの仕事に戻った。

 去り際、彼はいつものごとく「嫁の貰い手がいなかったら貰ってやる」などと抜かしていた。あんた妻子が居るでしょうに…と呟く私の言葉は夏の湿り気に飲まれて消える。

「だから結婚はしないってば…」

 結婚、結婚か…。

 こんな身なりでは、というかこんな愛想もなければ目のクマもひどい様な女では、それこそ夢のまた夢だな。

 エリオットだって“あぁ”は言うけど、実際のところ冗談だと思うし。

 好きとか嫌いとか、そんなものを考えるくらいなら、今は仕事をしなければ。

「…」

 箒で石畳の土埃を払っていると、妙にあの人の顔が浮かぶ。

 あの人は…どうしてあんなに私に執着するんだろう。やっぱりからかってるんだろうけど。

「素直にやめてほしいなぁ…」

 週一回のダンスレッスンは丸め込まれて未だ続いている。ボーナスがつくと聞いて頷いてしまった自分が憎い、お陰でいらない特技が身に付きつつある。

 それ以外のフィン様はいつにも増して忙しそうだ。少し前までは半期決算があるとかで屋敷中バタバタしていたけど、その少し前からフィン様は執務室から出ないかと思ったら、急に出かけるようなことを繰り返している。

 今も執務室に篭りきりだ。

(…心配じゃないと言えば、嘘だよな)

 フィン様は元来食が細い。正確には食が細いと言うか無頓着というか、いつも簡単なサンドイッチしかお食べにならないらしい。それも執務室で食べてるとか。

 そうなると夫人はいつも一人で食事をしていることになる。それって寂しく無いだろうか…。

 ちょうど執務室の窓の前を掃く。カーテンを開けているのか、中ではちょうど執務に励むフィン様とそれに付き添う執事さんが見えた。

 最近、彼はますます痩せた気がする。

 私は“お付き”では無いので滅多なことでは顔を合わせたりしないけど、遠くで見かけるたびに細くなっていく彼が心配になった。

「細い人が好きだけど、ご飯しっかり食べてくれる人がいいのよね」

(なんて、私の好みの男性観でしか無いけど)

 だって好きな人に料理作ったら、たくさん食べてほしいじゃない?

 でも、細いっていうか、細いけど引き締まってるっていうか、そう言う人が好きなのよね。それには彼は細すぎる。何事もバランスってあると思うし。

「もう少し、フィン様も食べてくれたらな…」

 隅から隅まで、落ち葉や土埃を掃いていく。ちりとりで回収して、上を向いたら。

「…」

「…」

 目が会いたく無い人と、目が合った。

「精が出るね」

「あ、ありがとございます…」

 実のところ、今度は私が彼と目を合わせれないでいる。

 理由は簡単、三ヶ月前のあの日から意識してしまってどうにもいけない。

 ダンスレッスンの時も、ステップを踏むので精一杯だしお腹が密着してるの恥ずかしくて死にそう。

 それもこれも向こうが期待させるような事を言うのが悪いのであって、何が「醜聞じゃなければいい」なのか。

(あぁ…思い出したらいっそ腹立ってきた)

「…後で僕の部屋に来て」

「!」

 そんな私とは裏腹に、彼は冷たい声でそう言い残して窓を閉めた。

 今まで聞いたことのないほど、冷たい声。私は背筋がそっと寒くなるのを感じた。

「何かしたかな…」

 とりあえず、後でって言ってたし掃除が終わったらお部屋に向かおう、そう決めて庭掃除の続きを始めた。

 広い庭を一人で掃除するには手間がかかる。時間はそれなりに経って、昼になりかけていた。

 しかしまだ昼には早い。マデリンさんに一言告げて、早速フィン様のお部屋に向かう。

 扉の前で軽くノックをすると「どうぞ」と声が聞こえた。部屋のドアを開けて一歩踏み込む。

「!」

 すると突如何かに部屋に引き込まれた。そのまま扉の鍵が閉まる音がして、私はそっと壁に押し付けられる。

「いきなり何をするんですか…フィン様」

 あの時と同じ、フィン様が私に覆いかぶさるようにして壁に押し付けられる。

 あの時とは違って、彼は静かに怒っている様に見えた。

「…君こそ、何をしてるんだい」

「?」

「僕のいないところで随分楽しそうだったじゃないか」

 冷たい声。何だか知れないけど随分怒ってると見た。

「何を言ってるんです?」

「…覚えてないのかい?」

 身に覚えはない。少なくとも彼が怒るようなことは…いや、遊んでたのがバレたかな。

「確かに、庭掃除サボって遊んでたことは謝ります。しかし、フィン様がそこまでお気になさるとは…ひゃっ」

 普段は庭になんて興味ないくせにと嫌味を言おうとしたら、いきなり抱き抱えられてベッドに押し倒される。フィン様が私の上に馬乗りになって、私は色んな意味で心臓が高鳴ってるけど、今一番は“恐怖”が上に来ている。

 この人が何をしたいのかわからない“恐怖”が。

「ベッドが汚れてしまいます、フィン様、はなしてくださ」

「そんなの、どうでもいいよ」

 押し倒された時に捕まれた腕に力がかかる。少し痛い。

「…っ」

「…君は、あぁいう男がいいのか?」

「はい?」

 冷たい声で、怒ったような苦しいような、そんな表情で彼は私に問うた。

「あんな、粗暴で、歳の離れた男がいいのか?」

「ちょ、何を言ってるのかよく…」

「答えて」

 “あんな男”は多分きっと恐らく、エリオットだろう。粗暴かは知らないけど、歳は離れてるし。しかしそれを言ったらフィン様も年上なんだけど。

 でもなんでエリオットが?

 私がエリオットを好きだって?

 何で急にそんなこと?

「え、エリオットは好きとかそう言うんじゃ…」

「呼び捨てする仲なんだね」

 ひぇ…今、踏んではいけないスイッチを踏んでしまった気がする。

「エリオット…今の調理責任者だったね、首を刎ねようか」

「待って待って待って!」

 ちょっと待ってどうしてそうなる!?

「アニー、君が良い子で待っててくれればすぐ終わるよ」

「そう言うことではなくて!」

「それとも…君を閉じ込めたら、解決するのかな」

「…!」

 エリオットの話になってから終始真顔のフィン様が怖い。

 でも、何かに怯えてる様にも見える。

 一体貴方は何がそんなに怖いの?

「はなし、離して!」

 ベットの上でジタバタと暴れても、相手はびくともしない。

 とにかくここから逃げなくては。

「…して」

「?」

「どうして…」

 今度はひどく悲しそうな顔をする、彼を見ていたら何だか…抵抗できなくなってしまって。

 私は、どうしてあげたら良いんだろう?なんて…考えてしまう。

「…」

 今にも泣きそうな彼の、苦しげな表情。

 私にできることは…。

「…一回、少しでいい。離してくれる?」

 私は彼を宥めるように、彼の目を見て言う。すると彼は、私の腕からそっと手をどけて少し諦めたような表情をするものだから、なんだか余計に寂しい気持ちになって。

 私は起き上がってから彼をそっと抱きしめた。

「フィン」

 優しく、宥めるように背中を撫でる。

「フィン、フィン…」

 “昔みたいに”何度も名前を呼んで、一人でない事を意識させる。

「っアニー…アニー…!」

 すると彼は強く私を抱きしめ返した。

 私は少し息が苦しくなって、それでも彼の背中を撫で続ける。その体は、震えていた。

「大丈夫よ、私はここにいるよ」

 私は声をかけることしかできなくて。

 彼の震える体を受け入れることしかできなくて。

 私はなんて無力なんだろう。

 彼を抱きしめながら、そんなことを考えて天井を見上げる。

「アニー…」

「…どうした?」

「…好きだ」

「…うん」

 知ってた、と言うとおかしいか。薄々勘づいてたけど考えない様にしてた。私に“執着してる”ってことにして、貴方から逃げてた。

「アニーが好きだ。アニーを失いたくない。アニーが居てくれたら。アニーだけ居てくれれば良い」

「うん…」

 私には優しく宥めてあげることしかできない。“昔みたいに”はできても、“昔”にはもう戻れないから。

「アニー、そばにいて欲しい。離れないでほしい。もう二度と、もう二度と失わせないで。僕の前から、居なくならないで」

「…うん」

 ごめんね。その約束はできない。

 私はもうあの頃の私じゃないよ。

 もう父様も母様もいないの、一人で生きていかなくちゃ。

 この家だって終身雇用してくれるわけじゃない。

 そんなこと、貴方が一番わかってるだろうに。それでもそばに居てほしいって、それは…意地悪だよ。

「アニー…君が、僕の居ないところで笑うから、不安になって。君は…僕の前で笑わないのに」

 そうだろうか

 いや、そうかもしれない。

 基本的に使用人と主人と言うのはあるけど、それ以前に私は愛想がないし、アリアや他のみんなの様に笑うことも少ない。

(要は嫉妬、か…)

 彼の背中を軽く叩いて私たちは少し離れた。それからフィンの額と自分の額をくっつける。

「…ごめんね。私はあまり笑顔が上手じゃないから」

 昔はどうだったんだろう。あの日より前のことは、そこまではっきりとは思い出せない。

「でもね、エリオットは私の好きな人じゃないよ。好みでもない」

 彼は妻子持ちだし、と私は続ける。

「…本当かい?」

 他の男の名前を出したからだろうか、彼は少しむくれる様な顔をした。私はさっきの話の続きをしてるだけだと言うのに…。

「うん。私は、線が細くてご飯をしっかり食べる人が好きなの」

 彼はそれを聴いて、少し落ち着きを取り戻したようだった。

 エリオットは職業柄か知らないけど何故か結構ガタイがよくて、その段階で私の好みではない。いい奴だけど、そこまでだ。

 線が細いと食欲があるのは一見対極に位置しているが、父親がたくさん食べる割には細かったので、そこから来てる気がする。

「たくさん食べる人が良いのか…」

「たくさんってわけじゃない、作った料理をちゃんと食べてくれる人が良いだけ。じゃなきゃつくり甲斐がないでしょ?」

 貴方のことも心配なのよ、と続ける。

 個人的には愛情込めて作った料理をたくさん食べてくれたら嬉しい。それで美味しいって言ってくれたら最高。

「そういうもの?」

「そういうものよ」

 いつかの質問と逆の立場だ。それが何だか面白くって、私は小さく笑った。

「ふふ…へんなの。いつかの逆ね」

 それに釣られたのか、彼も安堵したように笑って、私をもう一度抱きしめる。

 今度は優しい、包み込むような抱擁。

「よかった…」

 彼の声もまた、かつてないほど安堵に満ちていた。

 私はそれが嬉しくて、自分の気持ちに整理がついたのを感じる。

(あぁ、やっぱり私は)

「もう、僕の前じゃ笑ってくれないかと思った」

 流石にそんなことはないと思うけど…。

 そんなに私は表情筋が死んでるのだろうか。

「はは…」

 真偽は定かでないとは言え、自分の表情の死に様は自覚するところなので、乾いた笑いで返すことしかできない。

「最近は避けられてるように感じてたし、もう君を閉じ込めるしかないと思っていたんだ」

「えぇ…」

 避けてたのはそうだし、悪いことしたとは思ってるけど、あっさりと怖い事を言わないでほしい。

 監禁は犯罪ですよご主人様。

「だってそうだろう?君は結婚できないって強情だし、周りは結婚しろってうるさいし、挙げ句の果てに君が他の男と笑ってるなんて…許せなかった」

(…そこまで考えて私の気持ちガン無視なの、逆にすごい。感情拗らせる才能でもあるのかしら)

「もうおかしくなりそうだった…君が居ない世界なんてこれ以上考えたくもない」

 思考は既に大分おかしくなってる気がするけど、これは言うべきか言わざるべきか。

 とりあえず私にできるのは、優しく背中を撫でることだけだった。

「アニー…好きだよ」

 彼は満足そうに、子供のように私の肩に額を擦り付けて感情をぶつけてくる。多分私の返事は受け付けてない。これまでの問答で、恐らく彼の中で私たちは相思相愛になっているだろうし、このままでは結婚を申し込まれかねない。それは困る。

(困る、困るよね…)

 確かに私はフィンが好きだ。

 やっと逃げるのをやめて、私は認めることができた。

 私はフィンが誰よりも好き。きっと、今や覚えてない記憶から。

(…いや、違う)

 きっと、もう一度好きになったんだ。

 彼の不器用な優しさが、その愚かさが私に触れて、少しずつ心を溶かして。暖かく包むように私の中にある。それを嬉しいと感じる。

 そうか、貴方が私を変えたんだ。

 気づくのが遅くなって、ごめんね。

(だからこそもう…気づいてしまったら一緒には居られない)

 やっぱり身分の壁は大きい。確かに貴族が平民落ちしてまで結婚する例はあるけど、それは下級貴族だからまだ許されるのであって、この家の唯一の嫡子がやって許される物じゃない。

 私は彼の、人としての幸せを願いたいから。私が居るのは許されない。

 私が居たら、いつまでも彼は前に進めないじゃないか。

(…どんな言い方をしたら、これ以上この人を傷つけずに済むだろう)

 きっと、どんな言い方をしても拗れるし、良い方には向かないだろう。

 いっそ思い切って出て行くしか、無いか…。職を失うのは辛いけど、まだ私は若い。最悪の場合は体を売ってでも…。

「言っとくけど、出て行くのは許さないよ」

「う…」

 私の短絡的な思考など、彼にはお見通しなのだろうか。先に退路を塞がれてしまった。これでは流石に対策を取られてしまうだろう。

「体でも売って、なんて考えたって絶対見つけ出す。そうなったら今度こそ閉じ込めてでも離せないな」

「うぅっ」

 もっと早く、こうなる前に出て行くべきだった。

 彼は有言実行するだろうし、そんな事になったら彼は金の力で悪い噂を握り潰してでも、私を手元に置く気だろう。言葉の端々からそう言う感情が見え隠れして、逃げようとする私を牽制している。

(絶対わかっててやってるよね、これは…)

 困った。

 これはさっきとは違う意味で困ったぞ、と私は頭を抱えている。

 まさしく八方塞がりとはこの事。

 私たちは身分的に結婚が絶望的だし、かと言って私は逃げる訳にもいかない、いかなくなった。一応好き合ってるのに愛妾と言うのは…どうなんだろう、愛妾はグレーみたいな存在というか、王族はオッケーだけど貴族は微妙、みたいな所がある。

 何としても、彼の評判が下がる行いは避けたいし私が原因で話が拗れて彼が刺される様な展開も避けたい。

(我ながら我儘な話よね)

 なぜ人はこうも傲慢になれるのか。

 私達の関係は今の今だって受け入れられない物なのに。

 いっそどこか遠くへ逃げたら良いのかな、二人で。誰も私達を要らない、知らない場所へ…。

 でもそれは、私はともかく彼の両親はどう思うだろう。悲しむのでは済まないんじゃないか。

(お世話になった人達にそんな事をするのは…嫌だな)

 私が頭を捻らせていると、彼がくつくつと笑い始めた。私が慌てて彼を引き剥がすと、彼は楽しそうに私を見て笑っている。

「…なんなんですか、急に」

 やっぱ弄ばれたか?最初にそう考えた。

 可能性はないでもない。

 私は警戒して身構える。何、元よりこうなっても良かったじゃないか。そんなに気にするような事でも…。

「ふふっ…君が頭を捻ってる中身が透けて見える様で面白いんだ」

「な、何ですかそれは!」

 あまりの動揺に、逆に敬語になった。

 彼はこっちが笑ってしまいそうなほど笑っている。本人は抑えてるつもりなんだろうけど、あけすけに笑っている。

 私がそれに腹を立てると、彼は「ごめんごめん」と謝りながら私の頭を撫でた。

「『どうやったら僕らが結婚できるか』考えてるのはそこだろう?」

「!」

 頭を撫でて子供扱いしてきたのは許さないとして、本当に頭の中を半分ほど見透かされた。私は結婚できるかどうかよりも、“どう在ったら二人でいられるか”について考えてたんだけど…したり顔をしている彼に生暖かい感情が湧いたので、そのままにする事にした。よく考えなくても細かい事だし。

「僕に良い案が有る」

 彼はしたり顔のままそう言った。

「はぁ…」

 何を企んでるのか知らないが、話半分に聴いておこう。多分良い話じゃない、私の勘がそう告げている。

「その前に、条件が三つあるんだ」

「…条件?」

 条件を設けるほど大事な話なのか…もしや私の身に余るような話なのでは?

 厄介ごとを避ける為にここまで考えていたのに、厄介ごとに自ら首を突っ込むのは避けたい。

 彼の発言に、私は素直に怪訝な表情を見せた。しかしそんな私の表情は無視して話は進む。

「一つ、この部屋に来たら敬語で話すのを辞めて、僕のことも呼び捨てにすること」

「は!?」

「二つ、今日からこの部屋で一緒に寝よう」

「ちょっと待ってください!」

「三つめ」

 そう言って彼は私の顎を掴んで無理やり視線を上げさせる。

「今ここで、アニーが僕をどう思ってるか伝えて欲しいな」

「………」

 こいつ…今すぐ引っ叩いてやろうか。しかし呆れて物も言えない。

 三つ目はまだまぁ…わかるとして、一つ目と二つ目は論外だ。一つ目は誰かに聞かれでもしたら、フィンの示しがつかなくなってしまう。二つ目に至っては私を娼婦か何かと勘違いしてると言ってもいい。少なくとももう少し段階を踏んでから言うことだと思う。素直にぶっ飛ばしたい。

 私は顎を掴む手を思いっきり跳ね除けて、ベッドを降りた。

「今までお世話になりました」

 あんなアホらしい条件に付き合うくらいなら私が出て行った方がマシだと思う、私の人生的に。

「待って待って」

 彼は私が逃げないように後ろから抱き抱えて持ち上げる。やっぱり意外と力はあるのか、暴れてもびくともしない。

「離してくださいー!私はこの屋敷を出ます、おせわになりましたー!」

「だからそれを待ってって!二つ目は諦めるし一つ目は妥協するからまって!」

「なら最初から条件に出さないでください!」

 私は振り向いて叫ぶ、もう心の全てを持って叫ぶ。ふざけんなと言う気持ちを込めて叫ぶ。

「い、良いじゃないか少しくらい!」

 フィンも一瞬たじろぐものの、負けじと言い返してきた。

「いやです!私は娼婦じゃないんですよ!せめてもう少し段階ってものがあるでしょうが!」

「それは謝るから!」

「そう言うとこ!私前から思ってましたけどねぇ!貴族なのに貴方メイドの私に謝りすぎなんですよ!」

「じゃあどうしろって言うんだ!」

「そんなの自分で考えてくださいよ!」

 ぎゃあぎゃあと喧嘩は続く、お互いが疲れた辺りでしばしの沈黙が走った。

「「…」」

 二人とも息も絶え絶えで、気がつけば私は床に下ろされていた。それでも私を抱えたまま離さないフィンに、それこそ彼の強い執着を感じて、正直少し引いた。

「…こちらからも条件が有ります」

「…なんだい」

「二つ目は絶対嫌ですけど、一つ目は週に一回に止めることが条件です」

「三つ目は?」

「…その」

 顔が赤くなるのを感じた。急に心臓が高鳴るものだから、息が苦しい。

「…きです」

「ん?」

「わ、私も、好き、です…」

 自分の気持ちを伝えるのって、こんなに勇気のいることだったっけ?驚くほど言葉が出ないし、心臓がうるさい。

「よかった…分っていたけど!」

 彼はそう言って抱きしめる腕に軽く力を込める。

 “貴方のそれは分ってたではなくて決めつけてたではないですか”と訊いたら、流石に無粋だろうか。

「…と、とりあえず離してください」

「いいよ」

 やっと解放された。ひとまずこれで問答することもないだろう。

「一先ず落ち着きましょう、紅茶を淹れて参ります」

「アニー」

 紅茶でも淹れてひとまず逃げようとしたが、呼び止められてしまった。振り向くと、彼が「さっきも言ったでしょ?」と言う顔でこちらを見ている。もう実行しないといけないのか、私は心の中で盛大にため息をついた。

「…わかった、わかったからその顔やめて」

「伝わって僕も感謝してるよ」

 そう言って彼は悪戯に笑う。心底腹たつ。

「紅茶、淹れてきて良い?」

「もちろん、君の紅茶が飲めるなんて光栄だ」

 こう言う時だけ調子のいい…。

 そう思ったが再び飲み込んだ。誰かこの鬱憤を晴らすために話でも聞いてほしいものだ。

 

 

 給湯室に入って、早速お湯を沸かし始める。淹れる用とその中身を移す用の小さなポットを二つ用意して、カップとソーサーも用意。銀のトレイにはあらかじめ取り分けられた砂糖の瓶とミルクポットに分けたたっぷりのミルクと、瓶から蜂蜜漬けのレモンを数切れ、小皿に乗せた物を小さなトングと一緒に。

 そうこうしてるうちに火にかけたホーローのポットが蓋を小さく揺らし始める。

 これを合図に、取り出しておいた二つのポットと二つのカップにお湯を注いで温めておく。

 再びホーローのポットは火にかけて、今度は沸騰直前を待つ。

 その内にお湯を淹れた食器から全てのお湯を捨てて、淹れる用のポットに茶葉を入れていく。今日はダージリンのセカンドフラッシュ、何をしてもしなくても美味しい茶葉だ。

 ホーローポットの蓋の揺れが激しくなる、もういいだろう。火を止めて濡れた布巾で取っ手を覆う。

 淹れる用のポットに沸かしたお湯を注いで数分。規定の時間を給湯室にある時計で計って行く。

 時間が来たら、ポットを軽く揺らして移す用のポットに淹れ替えていく。こうすることで長時間置いても紅茶が渋くなり過ぎてしまうことを防ぐことができる。

 紅茶を移したポットとカップもトレイに乗せて、給湯室を出た。

 三階まで運んで、普通にノック。

「お紅茶をお持ちしました」

「入って」

 流石に廊下で敬語を外すのはまずい。彼もそれは理解しているのか、いつもと変わらない態度だ。

 部屋に入ると、彼はソファで読書に勤しんでいるようだった。

 改めて見るとこの部屋も基本的な作りは夫人のそれと変わらない。だけど違う点があるとすれば、この部屋の壁にはいくつか本棚が置いてあって、そのどれもがびっしりと本で埋まっている。それ以外はいっそ簡素というか、あまり出入りもしていないような感じがした。本当に寝て着替えるためだけの部屋なんだろう。

「お待たせ」

 そう言ってトレイを机に置いてから紅茶を注いでいく。

 ふわりと香る紅茶の華やかな香り。この香りのために練習したと言っても過言ではない。

 ここにきて初めてマデリンさんが淹れてくれた紅茶には感動した。使用人用の安い茶葉だと言うのに、適した温度、花のような香り、渋みを感じさせない飲み口…どれもが“美味しい”と言うのに相応しい味わいだった。

 そんなマデリンさんを目指して、今も時間があるときは練習している。主な練習相手は同じメイド達だ。私は掃除をするのがメインだから、誰に披露することもないような技術だけど憧れは尽きない。

 カップに注いだら、ソーサーに乗せて目上の人間からお出しする。取っ手とスプーンの持ち手は右に来るように。

 左側には、ミルクポットや砂糖、レモンの蜂蜜漬けを置いていく。

 自分の分ももちろん淹れる訳だけど、悲しいかな、染み付いた下っ端根性が許可もなくソファに腰掛けるのを躊躇わせている。

 彼はそんな私を知ってか知らずか、読んでる本に目を向けていて、こちらを見ようともしない。

「…準備ができました、どうぞお召し上がり下さい」

 座ろうにも、何かきっかけがないとそれを訊くことすらできない私の情けなさよ。

「…口調、戻ってる」

 本を眺めたまま、彼は言う。私はそう言う割に目も合わせない彼にちょっとイラッとしながらも、これに関しては自分でした約束なので飲み込んだ。

「ごめん…紅茶、飲まないの?」

「君が座ったら飲むよ」

「…座っていいってこと?」

「勿論、この部屋で君は自由だ」

 主人がそこまで言うのなら、そうなんだろう。私は彼の向かい側のソファに、そろりと腰掛けた。

「そんなおっかなびっくりじゃなくったって、取って食ったりしないさ」

 そう言って彼は本を閉じて傍に置いた。そのまま紅茶に手を伸ばして、一口含む。

「ん…美味しい」

「本当?」

「よくできてると思う」

「よかった…私も飲も」

 その言葉に胸を撫で下ろし、カップを取るとふわりと鼻をくすぐる紅茶の香りが心地良く漂う、一口含むと、華やかな香りが鼻を抜けてさすが使用人用ではない高級茶葉といった所だろうか、香りも味も全く違うものだ。これはいい思いをした。

「本当だ、茶葉でこんなに変わるのね」

「そうでなかったら、茶葉を格付けする意味がないだろう?」

「それは確かにそうね」

 彼は嫌味っぽく言ってきたので、私は素直な調子で答えた。どうだ、調子狂うだろ。

「ちなみに、僕はレモンの蜂蜜漬けはそのまま食べるのが好きだよ」

 私の企みを意に介してもいないのか、そう言って彼は小皿を手に取る。すると、レモンを指で摘んでそのまま口に入れた。

「あ、お行儀悪い。トングは持ってきたのに」

「君がフォークを用意してなかったのが悪い」

「まさかそのまま食べるなんて思わないでしょ」

「じゃあ、次から覚えておいて」

 その次はいつ生かされるんだろう…と思いつつ、仕方ないので覚えておくことにした。

「…」

 彼は蜂蜜で汚れた指先をしばし見て、私の方に向けた。

「…舐める?」

「は?」

 何言ってるんだろうこの人は。

 娼婦の次は犬か?

 私が顔を顰めると、彼は悲しそうにちり紙で手を拭き始めた。

「ちょっとした冗談じゃないか…」

 なにやらしょぼしょぼと自分を正当化しているが、そんなはしたない真似はごめんだ。

(付き合ってる自覚もないのに…)

 晴れて恐らく私たちは恋人同士になってしまった訳だが。

 さっきまでのことが非日常的すぎて、お互いに気持ちを確認しても付き合ってるという自覚がない。付き合って一日目なので当たり前と言ったらそうだけど。

 お付き合いしてるはずの相手は優雅にお茶飲んでるし、しかも主人だし、ロマンス小説じゃ無いんだから。

「…さて、本題に入ろう」

「本題…あっ」

 そう言って、静かな音を立てて彼はカップを置いた。

 対して私は、予想より浮かれていたのは自分だったと思い知る。本題なぞすっかり忘れていた。

「僕と君が“結婚”するには、端的に言って君の“姓”を取り戻すしかない。君の家も伯爵の家系だからね」

「!?」

 そんなことが本当にできるのか?

 私だって当時出来うる限り両親の死の真相を探ろうとした。しかし子供だからか情報屋もどこも、お金を持って行っても門前払いだったと言うのに。だから野盗の仕業なんだと信じるしかなかった部分は、ある。

「そんな…ことが、できるはずは」

 考えてた事がそのまま口に出る程、自分でも動揺してるのがわかる。

 あったとしてもどう言うカラクリだというのか。

「まず前提の話をしよう。君は賢いから、出来ることは全てやると判っていた。だから、こちらがいかに先手を打つかが“当時”は勝負だった…父上は僕にそう言った」

「どういう、事ですか」

「まず…君は、君たち家族は表向き“行方不明”になっている」

「!?」

 ちょっと待っていきなりついていけない。

 私はここで生きてる。“行方不明”にする意味…もしかして、どこかの貴族の養子や引き取りではなく孤児院に送られたのはそのせい?

「最初に父上は君を行方不明にして、密かにうちの孤児院に送った。それは、こちらの管理下に置いて君を守るためだ。君が情報屋を当たるであろう事も予測がついていた。だから出来うる限りあちこちの情報屋に大急ぎで大金を叩いて回った」

 つまり、私が行った時点でそう言った場所や人物は全て口止めされていた…?

 私自身、流石に子供が自警団に忍び込んで情報を得ることは出来ないとわかっていた。だから、どんなカケラみたいな情報でもいいから欲しいとあちこちを回ったのに当時は話にもならなかった。

(それは全て仕組まれたことだった…?)

 それはそんなに危険なことだったの?

 私の本来当たり前の権利が?

「僕は本当はうちで君を引き取りたかった…でも実際両親が行ったのは、君の家の土地や資産を全てうちのものにして、君を孤児院に閉じ込めることだった」

「どうして…」

 どうしてそんなことをするの。

 私はあの日の野盗を殺してやりたくて仕方ないのに。

 この気持ちは、どこにやればいいの?

「ここまでが前提、大事なのはここからだ」

 ここまでで十分ショックなのに、まだ何かあるっていうの?

「君の両親は…“暗殺”された可能性がある」

「あ、んさ、つ…?」

 そんな、そんなの嘘だ。

 あの優しかった両親が、殺されるのに相応わしいような理由があったなんて。

 そんなの、私は。

「そんな、はず、ないよ…父様と母様が何をしたって言うの…?」

「僕と父上はそれをずっと探っていた。最近僕が頻繁に出かけていたのも、それが理由」

「…」

 私は絶句することしかできなかった。

 そんな大ごとになっていたなんて。私は何も知らずに、いや何も知らされないという鳥籠の中でのうのうと生きていたんだ。

「最近になって、ようやく真相が掴めてきた。しかしあと一歩、犯人を追い詰めるには君の協力がいる」

「協力…?」

「二人は大公の裏帳簿を見つけていたんだ。そしてそれを告発しようとしてバレてしまった、それゆえ現物を盗み出し、どこかに隠した…その情報を炙り出すために二人は殺された。それが僕達の推理だ」

「そんな…」

 両親が犯罪の片棒を担いでいた疑惑が晴れてホッとしている自分と、個人の悪巧みのために私の両親を殺した大公への恨み…私はどっちに気持ちを傾けたらいいんだろう。

「もし大公が君が生きていることを勘付けば、君の命も危なくなるかもしれない。だから…君の住んでいた屋敷が放火されたのを利用して、君を行方不明にするしかなかった」

 やるせない気持ちを無理やり納得させようとしてるみたいに、彼は眉間に皺を寄せる。

「父上が情報屋に金を撒いて回ったのは君が真相を知ってショックを受けることを恐れたのはもとより、君が無闇に嗅ぎ回って大公に君が生きてると気取られないためだ」

 それこそ怒涛のように明らかになる推理と真実。

 でも私は、動揺よりも何も知らなかった自分を恥じる気持ちでいっぱいになった。こんなにも気遣われて、守られていたのにと。

 当時は、悲しみと絶望と怒りで頭がいっぱいで、無謀にも夜にスラム街の情報屋にまで、孤児院を抜け出して一人で向かったのをよく覚えてる。そこで犯罪に巻き込まれなかったのももしかしたら彼らに何かしらで守られてたのかもしれない、そう思うと当時の自分の無茶と無力さに腹が立つ。

「当時何も知らない僕は何度君を引き取りたいと両親に懇願したことか…その度に、頑なに首を横に振られたよ」

 悲しみと悔しさを浮かばせたようなその表情は、どこか遠い日を見ている。彼もまた遠い日の未練を抱えて生きているんだ。

「そう…そうだったんだ」

 呑気にお茶を飲んでる場合ではない話だ。

 正直、まだ自分の中で整理はついていないし動悸が止まらない。それでも、この事実を聞けたことは良かったと思う。私がずっとずっと探してた真実は、ここにあったんだ。

 今思えば…あの日、野盗が私個人を探して名前を呼んでいたのもおかしな話だ。金品を強奪したいだけだったら私個人に用はないはずだもの。どうして今まで気づかなかったんだろう。

「あの事件からもう四年経つ。君も成人してうちに来た…君には真実を知る権利がある」

「ありがとう…本当に、ありがとう。聞けて良かっ…た…っ」

 涙が言葉と一緒に、溢れるように零れる。ほろりほろりと、音を立てて。小さな小さな海が目尻に溜まっては、溢れて頬に流れていく。

「う…うう、ふぇ…っ」

 なんで、なんでみんな殺されて、みんな奪われないといけないのか、ずっとずっと知りたかった。あの日の惨劇は、忘れたくても忘れられないから。

 涙が止まらなくて、思わず袖で拭う。いつの間にかフィンが横に座っていて、彼は優しく私の肩を抱いてから涙が止まるまで黙ってそばにいてくれた。

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