#6


 

 ********

 

 

 真っ暗だ。

 何もわからない。

 足が冷たい、ここは…台所の地下室だ。

 遠くで何か叫んでる声が聞こえる。知らない声が、私を呼んでる。

「…」

 怖い。

 床に血が広がってた。

 知ってる人が倒れてた。

(サリーは無事かな…)

 サリーは私をここに入れて、助けを呼んでくると、そう言って行ってしまった。

「寒い…」

 石造りの地下室は寒い。ただでさえ寒い時期なのに、手足が冷えてしょうがない。

 すん、と鼻を啜った時、嗅ぎ慣れない臭いがした。

「?」

 そのまますんすん、と鼻を効かせると、確かに煙の臭い。

 「!」

 誰かが屋敷に火を放ったんだ。

(ここから出なくちゃ)

 地下室の上部にある扉を内側から開けようとする。だけど、上に何か乗ってるのかびくともしない。

「だして!ここから出して!」

 扉を叩いて誰かに知らせようとするけど、返事はない。

 精一杯力を込めて扉を叩く。

 心のどこかで助けは来ないとわかっていても。

「けっほ、けほっ」

 煙がもう隙間から中に入ってきてる。

 むせ返る煙の匂い。

 それでも扉を叩く。叩いて、叩いて、誰か助けてほしい。

「げほ、けっほ、うぇ」

 咳き込みすぎて吐き戻しそうだ。頭もくらくらする。

 やがて力を使いすぎて座り込んでしまった。

 体が重い。頭も重い。眠くなってきた。

 壁にもたれかかって、座り込む。

 まだ壁は冷たい気がする…。

(ここで死ぬのかな…)

 死にたくないな。

 まだ舞踏会にも行ってない。

 綺麗なドレスを着て、髪を整えて、お化粧もして。

 父様と母様に見てもらうの。

 そしていっぱい褒めもらって、あの人と…あのひとと…。

 

 

「!」

 意識が落ちる感覚で目が覚める。

 心臓が痛い程鳴っていて、抑え込むように胸を掴んだ。

「はぁっ、はっ…はぁ、はぁ…」

 ゆっくり、そうゆっくり呼吸をして、少しずつ落ち着かせる。

「…」

 “また”あの夢だ。

 それこそ毎日のようにあの夢を見る。

 まるで誰かが「忘れるな」と私に囁くように。

 高鳴った心臓の名残でまだ胸が痛いけど、ゆっくりと起き上がって部屋の時計を見る。

 時間は五時になる少し前。今日は早番だから丁度いいくらいか。

「起きよう…」

 眠気の残っただるい体を引きずってベッドから出る。

 隣のベッドを見ると、アリアはもう居なくなっていた。彼女はキッチンメイド…調理班だから仕方ない。私より朝は早く、夜も早い。

 配属が決まってからこっち、お互いが遅番でもない限り長く話はできていない。

 それでもこの間“よくうなされている”と言われた。彼女の心配そうな表情は今でも忘れられないけど、その時は疲れてるせいだと誤魔化してしまった。悪い事をしただろうか。

 洗面台で顔を洗って歯を磨いて、そのままタオルを濡らして嫌な汗を拭う。首回りなんてもう最悪だ。気分が悪い。

 下着を干すための簡易的な紐に、タオルを干して着替える。どちらかが遅番の日が洗濯当番だ。

 首にかけっぱなしの鍵のネックレスとその下にある火傷の跡が、私にあの夢を思い出させる。それでも、これだけは外せない。

 フィン様と“話し合って”から更に二週間が経った。屋敷にいると日付感覚がついて良い。

 この屋敷に来てから一ヶ月半も経てば流石に着替えも手慣れたもので、朝礼は六時だからと余裕を持って起きてるものの、最近では時間が余る。

(普段もう少し寝ていようか、悩むな…)

 あまり時間に余裕があり過ぎるのも、嫌な事を考えがちなので好きじゃない。

 まだ朝礼まで三十分以上ある。五分前にはエントランスに居ないといけないので、あと十五分したら部屋を出ないといけないけど。

「…」

 フィン様はこの間何か企んでいた様だけど、今の所私に関わるような動きはない。

 強いて言うなら、最近は見慣れない人が屋敷を出入りする様になった。高齢の女性で、身なりは、シンプルだけど良い布を使ったドレスだった。

 みんなが噂で言うには、どうやらダンスの先生らしく、最近フィン様がまたダンスを習い始めたそう。

 …私はこれに嫌な予感がしている。

 具体的にどうとは言えないけど、なにか嫌な予感がする。面倒ごとはできるだけ避けたい所だ。

「…ん、そろそろか」

 良い時間だ、部屋を出よう。

 

 

 朝礼が終わって、今日は何人かで窓掃除。

 掃除と言っても濡れ雑巾で窓を磨き、サッシの汚れを取るのがメインだ。

 窓掃除は毎週金曜と天気が悪かった翌日に行われる。貴族の屋敷は見栄えが大事、芸術品も大切だけど輝くような窓も欠かせない。

 内側から拭く人と外側から拭く人に分かれて作業を行う。高いところは梯子を使ってよくよく拭いていく。私は今日内側担当だ。

「アニー」

「どうしたの?」

 声をかけられてそちらを見ると、先輩のケナンが色めきたった様子で私を見ていた。

 …最近、私を見ては色めき立っているメイドが多い。やはりこの間の“話し合い”を見られていたのだろうか。ロマンス小説の様に私とフィン様が“デキてる”と思っているのかもしれない。

(厄介な…予感がする)

 私はケナンを見て心の中で苦虫を噛み潰したような顔になった。

「フィン様が貴女を呼んでるの」

「………そう」

 ほらきた、逃げたい。

 私が最初に思ったのはその一言に尽きる。

 私の表情はいつにも増して死んでいることだろう。

 しかし呼ばれたからには行くしかない。

 私はマデリンさんに呼ばれた事を伝えて、ケナンから聞いた部屋に向かった。

 マデリンさんは呆れたようにため息をついて「行ってきな」とだけ言った。

 その部屋は三階の空き部屋で、珍しくまだ物置になってない定期的に掃除される部屋だ。貴族用に作られているが、中に家具もないので広々としている。

 扉の外からノックをして「どなた?」と声が掛かる。

「お呼び頂きましたアニーでございます」

 そう言葉を返すと、パタパタと走るような音と共に扉は開いた。

「やぁアニー、来てくれたんだ」

「…主人のお呼びですので」

「中に入って」

「畏まりました」

 テンションだだ下がりの私に対して、主人はどこか浮き足立ってるように見える。

 私は心労で眉間に皺が寄るのを感じた。

「紹介するよ、ダンスの先生のオリヴィエさんだ」

「オリヴィエ・ウェンソンよ。よろしく」

 よろしく?

 これは嫌な予感がするぞ。

「先生、こちらがお話ししたメイドです。名をアニーと言います」

「お初にお目にかかります、アニーと申します。以後お見知り置きを」

 ドレスの裾を広げ挨拶する。

「頭を上げてください。早速レッスンに入りますよ」

「そうですね。さ、アニー」

 はい?

 私は何も聞いてませんけど?

 さも当然と手を差し伸べる主人に、私は怪訝な視線を隠せない。

「理由は後で説明するから、今は付き合って」

 彼はそう言って無理矢理私の手を引いた。

 私は慌ててこけそうになるのを抑えて、部屋の中央に出る。

 とったのはワルツの構え、この間と同じ。

「では行きますよ。アニーさんは初めてだと思うのでステップの確認から…」

「???」

 これはどう言う状況?

 私の意志を無視してレッスンは始まる。

 ステップを改めて教えて貰って、基本姿勢の指導が入って…。

「これはどう言う事ですか?」

 小声で彼に質問する。

 痩せぎすだけど綺麗な顔が近い。この間は暗かったから意識しなかったけど、明るいところで見ると意識しないではいられない。

「ん?先生に『やっぱり先生だと緊張してしまうので、緊張しない相手がいい』って伝えただけだよ」

 彼もまた小声で答える。

「“緊張しない相手”って…私がメイドだからですか?」

「それもあるけど…君とは“腹を割って話した”仲だろう?」

「…」

 その時の私の表情は心底イラついてたと思う。実際先生に表情が悪いと怒られた。

 だって、彼の言うことは屁理屈だ。先生は丸め込まれたに違いない。

 どうしてそこまで私に執着するのか、この人は。

 私は平穏に手に職をつけて、平穏に生きていきたいだけなのに。

 夢は諦めてしまいたいのに。

「まあまあ、先生だと緊張するのは本当だから」

 宥めるように彼は言う。

 普通はこんな不遜な態度とったら怒られそうなものだけど、彼はいつも怒らない。

 流石に他に大勢が見てたら違うんだろうけど、私も二人きりでもない限り気を抜かないので実際は知れない。

(足思いっきり踏んでやろうか)

 そうでもしたら、少しは私のへの態度も変わるかもしれない。

 しかしなぜかそこの思い切りがつかないまま、その日はレッスンを終えた。

「…で、どう言うことか改めて説明してもらいましょうか」

 先生が帰った後、私はとうとう堪忍袋の尾が切れた。元々短気な方なのでよくここまで保ったと思う。

「レッスン中に言った通りだよ」

 飄々と彼は言う。

(記憶の中のフィン様って、こんなに腹黒かったかな?)

「…何も私でなくても良いと思いますが」

 私はこのまま自然消滅したいって言うのに、よくもまぁ掘り起こしてくれる。

「そこもほら、さっき言った通り」

 のらりくらりと躱す彼に、私は苛つきが隠せないどころか手が出そう。

 いつもは滅多に笑ったりしなくせに、こう言う時だけニコニコしてるのも腹たつ。

「屋敷内で噂になってます。貴方と私がその…付き合っていると。屋敷の外に広まる前に、私はなんとかしたいんです」

 侯爵子息がメイドと付き合ってるなどと…あってはならないと何度思ったことか。

「僕は構わないけど」

「私が困ります!…じゃなくてフィン様が一番困ってください!」

 何を言ってるんだこの御子息は。評判が下がるのは私じゃなくて貴方ですよ。

 もしフィン様が結婚できなくなったら、最悪お家は取り潰しになる。

 貴族の結婚とは個人間の問題ではない、家同士の利益的な契約に近いと新聞に書いてあった。もしそれが本当なら、彼との結婚を願う女性…いや家は多いはずだ。

 そこに私のような下っぱメイドが掻っ攫っていったらどうだろう、醜聞が広がり、この家に未来はない。

 拾って貰った恩義のためにも、そんなわけにはいかないのだ。

「結婚できなくなって困るのはフィン様です!私めとの関係など醜聞に過ぎません」

「じゃあ、醜聞じゃなくなれば良いのかい?」

「!」

 彼はさっきとは打って変わって、少し怒ったような、真剣な口調でそう言った。

「どうなの?」

 そう言いながら、彼がゆっくりとこちらに近づいてくる。私はそれから逃げるように後ずさるも、やがて背中と壁が接触して逃げ場がなくなる。

「そ、それ、は…」

 私がしどろもどろとしてるうちに、彼が覆い被さる様な体勢で壁に左腕をついて、私は完全に逃げ場を失った。

「それは?」

 いつになく真剣な彼の声音に、視線が合わせられない。

 そんな、醜聞にならない方法なんてあるわけがない。あるわけがないんだ。

 私の思考は膨らみ過ぎた風船の様。

「わ…」

「?」

「わかんないです!!!!」

 そう言って私は彼の胸をどついて抜け出して、そのまま走って部屋を出た。

 トイレに直行して個室に閉じこもる。心臓がうるさい、顔が熱い、なんだこれ、なんだこれ!

(なんだこれ…)

 あの日、彼の残り香を感じた時のような、そんな恥ずかしさと胸の高鳴りが何倍にもなって押し寄せてくる。

 彼の声が耳に残る。脳に張り付いたように響いている。

 吐息が触れて、残り香なんかよりはっきり彼の香りがして。

(か、かかか顔が、近くて…)

 あんな綺麗な顔が近寄ってきたら誰でもドキドキすると思う。

 確かに細い人が好みだけど!

 それを差し引いても、これは、これは…。

(いいや認めない。私は認めないぞ…)

 格好いい人が迫ってきたら誰だって胸は高鳴るはず。そう私だけじゃない。

 そもそもなんでこんな気持ちになるんだ。何のきっかけもないはずなのに。

「そう、なんのきっかけも…」

 思い出される記憶。

 約束した“永遠”と言う言葉。

 “約束の木の下”でかつて私と彼は永遠を誓って。

 そうだ。その時から、その時から解ってたんだ。

「………」

 やっと落ち着いてたのに、顔がもう一回熱くなる。

 もう何年前かなんて判らないのに、私はもしかしてその時から?

 

 その時から、好きだったの?

 

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