#5



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「今日の夕方から、アニーはダンスホールの床掃除ね」

「はい、わかりました」

 なぜか、どこか呆れた様に私にそう指示を出すマデリンさんにほのかな疑問を覚えながらも、言われた事だし、と私は素直に引き受けた。

 これが昼過ぎに遅番の人も含めて行われる昼礼のことだ。

 夕方。

 まだ日のあるうちに掃除自体は終わらせないと、また先週のように見えない中掃除をする羽目になる。せっせと掃除を済ませても、夕方から始めたんじゃ結局日は落ち切ってしまうんだけど。

 最後にバケツでモップを洗う頃には、もう真っ暗だ。

 でもまだ日は落ち切ったばかりだから、先週と違ってマデリンさんに今日中にダンスホールの鍵を返すことができる。

 早速マデリンさんのところに向かってから晩御飯を食べに行こうと考えていた矢先。

 重い、引きずるような音を立ててダンスホールの扉が開いた。

「?」

 ここで人と会うような約束はしていないので、そうなるとこう言う展開には覚えがない。

 しかし、扉の向こうから現れたのは。

「…やぁ」

 なんだか申し訳なさそうなフィン様だった。

「…いかがなさいましたか?」

 何もない時にこんな所に主人がやってくるなんて、いつかの夜の様だ。

 あの時は眠れなくてフラついてたのかと思ってたけど、今日は時間的にもそれは怪しい。

 私の不思議そうな表情を見てなのか、彼は緊張した面持ちで言った。

「あの、この間の続きをと、思って」

 続き?

 もしかしなくてもダンスレッスンの?

 前回みたいな偶発的でもない、こんな時間に?

 と言うか、あの一回で終わりだと思っていた。

「あの時の一回じゃ、流石に覚えられないだろうと思って。マデリンに少し無理を言ったんだ」

(…なるほど?)

 つまり、私は本来やらなくていい掃除をさせられたと言うことか。

 道理で前回と違ってダンスホールが綺麗だったわけで、マデリンさんは呆れた様な物言いだったわけだ。

 心の中で凄まじいため息が出たのを感じる。

 多分誰が悪いって話でもないけど、とりあえずこの労力は返してほしい。

「ありがとうございます。しかし私めでは、フィン様にあまりにも釣り合いません」

 スカートの裾を広げ、丁重にお断りする。

「…先日は、夢の様でございました」

 そう、まさに夢…夢の様だった。

 足踏みまくったし、月明かりしか頼りがなくて見えないし、音楽も素敵なドレスもないけど、確かに、憧れた時間だった。

 私にはあの時間で充分だ。

「それでは、失礼いたします」

 未練がましい心が、我儘にも続きをしたいなどと手先を震えさせる。

 震えるな、平静を装え。

 暗がりで見えないだろうなどと、甘えるな。

 あの時間は夢だ。もう一度なんて見れるものか。

 最初の挨拶とは違い、お断りのお辞儀なので、相手に話す隙を作らせない為にも急いで顔を上げて、そしてダンスホールを出なければと歩き出す決意をする。

 そして一歩踏み出した瞬間。

 扉からすごい勢いでフィン様が詰め寄ってきた。

 私は驚いて、体が反射的に跳ねる。

 そして詰め寄ってきたフィン様は、私の左手首を掴んで持ち上げて、こう言ったんだ。

 

「夢じゃない」

 

 彼は私の手首を痛いほど強く握っていて、切に迫った声音が真っ直ぐ耳に届く。

「夢じゃないんだ。僕も、君も」

 私はもちろん驚いたけど、それ以上に彼も男の人なんだなぁと、手首に込められた力強さから検討はずれな事を考えていた。

 彼は身長的に私を見下ろす形になり、結果的に顔が影になってどんな表情なのかまではわからない。

 それでも、これが“夢じゃない”のなら。

 そんな事を少しでも思考の端で考えてしまう私って、意志が弱いと自分でも思う。

(さっきの決意は何処へやら、だよなぁ)

 それこそ“夢じゃなかったら良いのに”なんて。

 私が一番願ってはいけないのに。

 あぁ、唇が震える。

(断らなきゃ、断らなきゃ)

 相手は貴族。これから結婚だってするはず。身分違いの人間とスキャンダルなんて、拾ってもらった恩を仇で返す様なものなのに。

 夢なんて願ったら。

 

「ゆ、夢じゃなかったら…なんなんですか」

 

 ちがう、こんなことが言いたいんじゃないのに。普通に「痛いです」って言って、はぐらかすでもなんでもいい、なかったことにしてしまわなければ。

 自分が欲なんて出したから、こうなってしまったのに。

「夢じゃない今って、なんなんですか」

(あ、だめだこれ)

 夢は胸にしまわなければいけないのに、声が震える。

 泣きたくなんてないのに。

「っく…ふ…」

(あぁぁ〜最悪…)

 私の様子に向こうも驚いたのか、手首にかかった力が解かれて私の腕は力なく落ちた。

 だけど涙は止まらない。

 そうだ、こんなの夢じゃないならなんなんだ。

 全部諦めたつもりなのにまた火をつけて。

 また諦めさせてくれないなんて。

 夢じゃなかったら、幻じゃなかったら、なんなんだこれは。

「すまない、泣かしたかったんじゃ…痛かった、よね。えっと…」

「だい、大丈夫です。痛くない。痛くないんです」

 腕はもう痛くない。

 心が痛い。

 あなたの優しさが痛い。苦しい。つらい。やめてほしい。

 …嬉しい。

 やめて、こんな気持ちにさせないで。

 つらい事まで思い出してしまう。

 この気持ちが、誰かを傷つけてしまう気がするから。

「どうしたら良いだろう…」

 そう言いながら、彼は私を抱き寄せて背中をさすってくれた。

 本当はすぐ引き剥がさないといけないのに、体に力が入らない。

 私は最低だ。これが誰かに見られて、屋敷中のスキャンダルになったら大変なのは彼なのに。

 背中をさする温もりが、心地いいなんて。

 

 

「うぅ…申し訳ありません」

 ハンカチで残った涙を拭きながら言う。

 涙はしばらくしたら落ち着いたけど、目が腫れてるだろうなこれは…。

 まだ鼻も詰まってる気がする。

「落ち着いたみたいでよかったよ」

 フィン様は安堵したようにそう言った。

「いやほんっとに、ほんっとうに申し訳ありませんでした!」

 私は速攻で頭と腰を九十度曲げて謝った。

 何をしてるんだ私は、こんなことでは不敬すぎて物理的に死んでしまう。

「いや、良いんだ。頭を上げて」

「???」

 お召し物に鼻水は付けないぞと言う固い決意が届いたか?いや多分そうじゃないだろうな。

 こんなみっともない姿晒して「大丈夫」は貴方が大丈夫なのか?

(そんなに寛大で、悪い人に騙されたりしない?)

「…夢じゃないなら、か」

 そう言いながら、彼は困ったように笑った。

 確かに私はそう言ったけど彼の表情の真意までは掴めない。

「僕は思ったより、独りよがりだったみたいだ」

 大きなため息をつきながら彼は床に座り込んだ。私はそれを眺めながら自分も座った方がいいのか考える。

 主人より頭の位置が高いことを取って座るべきか、それとも許可がないので立ったままでいるべきか、どっちなんだこれは。

「君も座っていいよ、立ってたら疲れたろう?」

 戸惑う私を見てか、彼はそう言って自分の隣をぽんぽんと叩く。

「…では、失礼して…」

 一瞬やっぱり良いのか悩んだけど、ここまで立ちっぱなしで疲れてしまった気持ちが勝った。

 彼の右隣にそっと座る。膝を立てて小さく収まる様に。

「「…」」

 しばしの沈黙。

 何か話したほうがいいのはわかるけど、さっきの行いの後悔で頭はいっぱいだ。

「…僕は」

 彼が話し始める。私は彼に視線を向けて、月明かりに照らされた彼の横顔を見つめる。

「僕は…君の夢を叶えたかった」

 呟くように、彼は言う。

「あの事件があって、君に会えなくなって…僕は毎日後悔ばかりしていたんだ」

「…」

「メイドとして君がここにきた時、変わり果てた君を見るのが耐えられなかった」

 確かに変わり果てただろう。

 髪は痛み、眠りが浅い故にクマが出た目元、荒れた肌、ボロボロになった手先、痩せた体。

 今の私を見て、貴族と思うものはいないだろう。

「後悔と緊張で目を合わせることもできなくて、君にも周りにも誤解を与えてしまったし」

「そう、だったんですね…」

 別に嫌われてる訳じゃなかったのか。

(確かに、嫌いな相手と進んでダンスなんて踊らないよね。なんか事情でもない限りは)

「君にできることはないか、ずっと考えていた」

「そんな気にしなくても…」

 私は普通に接してくれるだけでよかった。他の使用人と同じように、他人として接してくれるだけで。

「この間も言っただろう、これは僕のケジメなんだ」

「はぁ…」

 そんなに頑なになる理由はなんなのか。

「そう、あの日…君と踊ったあの日も、君のことを考えていた」

 その言い方は語弊が生まれますよフィン様、と言いたい所だけど、流石に水を差すので控えた。

「そしたらダンスホールから鼻歌が聞こえて、惹かれる様に向かったんだ」

 げ、そこからってことはほとんど最初から見られていたのでは?

 恥ずかしすぎて顔から火を吹きそう。

 確かにダンスホールから執務室は近いから、部屋を出ればかすかに聞こえなくもないのかもしれないけどさ。

「そしたら君が、踊っていたから」

 それが綺麗で、と言葉は続いた。

(…そんなに綺麗なものだろうか)

 ステップも、曲も、足運びも、全てが違うあんなでたらめな踊りが。

「楽しそうな君を見ていたら、昔を思い出して。これだって思った」

 彼はそう言って私を見た。

「“これ”なら、君を喜ばせてあげられるって」

「それは…」

 それは無理ですよ。とは、なぜか言えない私が憎い。

 なんと愚かな人だろう。

 私の出自がなんであれ、使用人を贔屓するような真似をして私がどうなるか、そんなもの私にもわからないのに。

 “お付き”の人間でもない一介の使用人を贔屓しようだなんて、互いにどんなリスクがあるか彼はきっとそれがわからないのだ。

 威厳がないとか、そう言う話では済まされない。

 私と彼が、確実に結婚でも出来るならいい。しかし、この国でそれは安易に許されることではない。

 それで、私を喜ばせようだなんて。

 私は婚約者じゃないんだから、そんなものは互いの首を絞めるだけだ。その場が楽しいだけの、それこそ幻。

「…確かに、確かにあの日は楽しかったですよ」

 私は呟く様にしか話せない。

 誰にも、目の前の彼以外誰にも、聴かれたくはないから。

「でも、身分の壁がある以上…こんなことは互いの首を絞めるだけです」

 それだけは、いや、彼の首が絞まることだけは避けたい。

 職場を失いかねないし、付き合いのあった従兄弟だし、後は…なんか、嫌だ。そういうのは。

「何か大義名分でも有ればいいのかい?」

「…そう言う問題ではないと思いますけど」

 彼は何か企むような顔をした。楽しそうに悪戯を考える子供のような表情で、ニヤリと笑う。

「こう言うのは言ったもの勝ちだからね」

 楽しそうな彼に私はため息をついた。

 何を考えてるのか知らないが、厄介ごとには巻き込まないでほしい。

「今日は一先ず解散しよう。楽しみにしてて」

「…何をですか」

 立ち上がって裾を払う彼の事を、私は渾身の呆れ顔で見つめた。

 だから厄介ごとには巻き込まないでほしいんだってば。とは言えないので表情で訴えるより他はない…と言っても見えてないんだろうけど。

 私も立ち上がってモップやバケツを回収する。

「何って…なんだろうね?」

「……」

 私に関する事でないことを、切に願った。

「では失礼します。おやすみなさいませ」

 部屋を出て、お辞儀をしてから急いで離れる。彼は「おやすみ」と言って笑顔で手を振っていた。

 …嫌な予感しかしない。

 とりあえずマデリンさんの所に鍵を返しに行くと。

「坊ちゃんにも困ったもんだね…」

 と、眉間に皺を寄せていた。

 私も困ってます。それこそ現在進行形で。

 その日は、マデリンさんの計らいで夕食を取り分けておいてくれていて、温め直されたシチューに私はやっと一日の終わりを感じた。

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