#4
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そこから一ヶ月はまさに怒涛と言うのにふさわしかった。
朝の五時に起きて、夜の十時に寝る生活。
一見健康的だけど、中身は詰まりに詰まっている。
このお屋敷では、新人のうちに屋敷中の仕事を体験させるとのことで。私も例に漏れず山の様な仕事を一気に体験させられた。
掃除に洗濯、給仕、皮むき、洗い物、庭の水やり、ベッドメイク、屋敷で飼ってる馬の世話、その他雑用もろもろ。
毎日泥の様になって部屋に帰る日々。
個人的にキツかったのはトイレ掃除だ。
この屋敷はお金があるから水洗式トイレを採用してるけど、掃除が行き届いてるかと言われると…みたいなところがあって。
この国の人たちは“トイレは不浄なもの”って意識が強いので、あまり触りたがらない。まぁ、お金のない家は今も汲み上げ式なので、気持ちはわからないでもないけど…。孤児院も汲み上げ式だったし。
私は臭いに耐えられなくて徹底的に掃除をしてしまい、時間のかけ過ぎで怒られた。
しかしそれが評価されたのか、単に人手が足りなかったのか、結果的に私は掃除班に配属される事が正式に決まった。
配属が決まれば後はシフト制なので、朝早い代わりに早上がりだったり、昼過ぎに出勤して良い代わりに夜が遅かったりする。
ただ、朝礼で定期的にトイレ掃除が回ってくるのは…評価されてるんだと信じたい。
一方で、私個人のスペースというか、それに近いものは貰えた。
屋根裏部屋だ。
別棟の使用人寮はいま満室らしく、一時的な措置として屋根裏部屋があてがわれた。
先に配置されていたアリアと同部屋になり、道理で初めて会った時私の部屋に衣服を持って行けたんだと納得した。
屋根裏部屋にはどう見ても急造の洗面台と鏡、箱を組み合わせて薄いマットレスを置いただけのベッド、簡素なチェスト、小さな机と椅子が所狭しと配置されていた。
高さはさすがお屋敷。屋根裏部屋と言うと屈まなければ入れないイメージだけど、私やアリアみたいな小さな女性なら頭を擦ることもない。安心だ。
アリアは気さくで優しい人で、少し朝に弱いところがあるけど親しみやすくて、私みたいな偏屈にも気軽に話しかけてくれる。
私たちは時間をかけず仲良くなった。
アリアだけが今のところ私が敬語を使わず接している人だ。
勿論、他のメイドたちやボーイなどは立場が同じなので名前に敬称を付けることはないけど、むしろそれだけというか、どうにも緊張してしまう。
屋根裏部屋でアリアと話している中で、彼女の印象が薄かった原因が判った。私と彼女は年齢の問題で一年ほどしか同じ孤児院には居なかったのだ。孤児院はある程度の年齢別で部屋が分かれていて、食事も湯浴みも交代制だったので年齢の離れた子供とはあまり関わりがない。彼女ほど目立つ女性が印象に残らなくても、これなら頷ける。
アリアは赤子の頃に孤児院に捨てられていたらしいと言っていた。物心つく頃にはもう孤児院に居て、世界を知らない。彼女は、ここを卒業したら働きながら旅をしたいと言っていた。休みの日は旅の計画を立てては練り直すのが趣味だそうだ。
対して私はといえば、休みはあっても基本は寝て過ごす習慣が続いている。
元来眠りが浅いので、どうにも疲れが取れないのが原因。こればかりはいつもぐっすり寝てるアリアが羨ましく感じる。
「はぁ…こんなもんかな」
そしてそんな私は今、一人でダンスホールの床掃除をして、どうにかノルマをこなしたところだ。
時間は…時計が暗くて見えないけど、多分夜中。明日は遅番でよかった。遅番だからこうなったんだけど。
どうしてこんなことになったのかと言えば、飾ってあった壺を割ってしまった、というありきたりな理由の罰。
小さな壺だったとは言え、振り向き様に手の甲を当てるとは思わなかった。
驚くほど痛かったし、手を痛めたのも壺を壊したのもマデリンさんに怒られた。
モップの水気を絞れる細工のされたバケツでモップを洗い、よく絞る。モップそのものは壁に立てかけて、私自身も壁に寄りかかり一息ついた。
この屋敷は蛇口が使える珍しい作りだけど、どこにでも水道が張り巡らされてるわけじゃない。お陰で汚くなったであろう水の入ったバケツを見ながら、明るくなった時に何かしらの汚れが浮き出ないことを心の中で切に願う。
ちなみに水洗式トイレと蛇口は孤児院の院長が読んでる新聞で知った。私は孤児院の中では珍しく文字が読めたので、本も含めよく読ませてもらったものだ。
「はぁ…」
広い広いダンスホールを眺めていると、ため息が出る。
後から追加で作ったらしいので、屋敷の端にあるし外観に少し影響が出てるらしいけど、中は立派に見える。
庭が見える一番奥は壁ごとガラス張りになっていて、天井や壁には宗教画だろうか、天使や裸の女性の絵。所々窓のようにガラスで空いていて、月明かりが差し込んでいる。
ここに立派な楽団が来て、耳がとろけるような音楽と美味しい食事が並んで、晴れやかなドレスを着た婦人が同じく着飾った紳士とたおやかに踊るのだ。
「…」
私は、紳士と言うワードから自分の主人を連想した。
フィン様はなぜか私を避ける。
徹底的に避ける。
なんなら目が合うと凄まじく眉間に皺を寄せて私を避ける。
声をかければ答えてくれるけど、必要でもない事を「今日はいい天気ですね」なんて話す隙間はない。
(なぜなのか…)
初対面から気になって気になって、よく考えているんだけどやっぱり思いつかない。
むしろ…。
「いや、それは…」
恥ずかしい記憶なので考えるのをやめた。
とにかく、あそこまで嫌われる筋合いは無いってものだ。
避ける態度があからさますぎて、色んな人に心当たりは無いかって訊かれるし、無いですって答えると「そう…」って可哀想なものを見る目をされる。
正直たまったものではない。
(せめて、気軽に話すまで行かなくても、避けられなければ良いんだけど)
「ん〜、やめやめ。いつかわかるでしょ」
自分を嫌ってる人間に時間を使っても無駄だ。
それなら誰も見てない今しかできない事がしたい。
「…」
右手は相手の方腕に。
左手は伸ばして手を繋ぐように重ねる。
添えるように、絡ませるように。
目を閉じて、遠い遠い記憶を掘り返す。
「…確か、右足から」
右回りに、回るように…。
「1、2、3・・・」
相手の足と揃える意識を持って、背筋は正して。
途中で反対に回り始めて、目が回るのを防ぐ。
もうなんの曲の練習だったかもわからない。
ただの遠い夢、憧れの泡沫。
きっとステップもぐちゃぐちゃで、何一つ合ってるものなんて無いダンスなんだろう。
でもそれで良いんだ。
どうせ叶わない
雰囲気だけ、味わえれば。
「ラ、ララ、ラ、ラ…」
適当な鼻歌で音楽をつける。
子供の頃は憧れだった。
華やかドレスを着て、こんな素敵なダンスホールでたおやかに舞うことが。
翻るドレスの裾のなんと美しい事だろう。
私も似合う紅を唇に差して、華麗に表情もつけて。
あぁ、あぁ…叶わぬまぼろし。
「…」
考えれば考えるほど、脚は重たくなって、枷がついたように、やがて止まった。
虚しい。
悲しい。
この気持ちはどっちだろう。
「はは…」
表情筋はピクリとも動かないのに、乾いた声だけが零れ落ちる。
そういえばと、ダンスホールの扉を半開きのままにしてたことを思い出す。誰かに見つかっても嫌だし、さっさと片付けて寝てしまおう。
(ダンスホールの扉って重たいのよね)
俯いた視線をなんの気なしにドアに向ける。すると人影が見えた。
あ、やばい見られてた。そんなことを考えながら視線を上に向けると、予想外の人物がそこにいた。
「「!」」
扉の隙間から半分ほど身を乗り出して私を見ていたのは、フィン様だった。
てっきり私は深夜の見回りをしているマデリンさんか執事さんだと思っていたので、怒られるのは覚悟出来てたけど、まさかフィン様に…主人に見られるなんて。
「あっ、も、申し訳ございません!今片付けますので!」
(ぜぇったい怒られるでは済まないぞこれは…)
なんでここに居るのか気になりはするけど、それよりも新たな罰が用意される程度で済めば良いなぁ…と、そんな事を考えながら私は慌ててモップとバケツを回収してそそくさとダンスホールから去ろうとする。
「あ、ま、まって!」
しかしその言葉と同時にモップを持つ腕を掴まれて、とっとと出ていこうと言う作戦は失敗した。ちっ。
「な、なんでしょうか…?」
こうなったら半ばやけだ。いっそなんでもこい、辞職以外は。
「さっきの…ダンス?」
(あっ、そこ掘り返しますか)
「えー、あー…なんというか、分不相応にも…それを意識した戯れと言いますか」
私の返答もしどろもどろだ。
頭の中はくるくるぱーんである。
「も、ももも申し訳ございません!分不相応にも関わらず掃除をサボって戯れなどと!反省しております…」
こうなったら素直に頭を下げて許してもらうしかない。ノルマは終わってたとは言え、道具を片付けるまでが掃除だし、それをサボって踊ってましたなんてふざけてるにも程がある。
「あー、その。良いんだ。怒ってるわけじゃなくて」
「へ?」
思わず下げていた頭を上げる。
無礼だが聞き間違いかな?
(…そういえば、今日は避けないな。私のこと)
「そう、怒ってるわけじゃなくて…なんて言ったら良いのかな」
フィン様は困ったように首の後ろを右手で掻きながら、何か言葉を探している様に見えた。私は2回も聞こえた“怒ってない”と言う言葉に目を白黒させるばかり。
普通は権力者としての威厳の為にも叱り飛ばす所だと思うけど…この状況は一体。
「そう、あんな粗末なダンスは見たことがなくて」
「…」
は?
丁寧に喧嘩を売ってらっしゃるのかしら?この主人は。
暗くて表情が見えづらくてよかった。今のイラッとした表情を見られることもない。
少なくとも下手くそなのは、わざわざ人に言われなくったって自分が一番解っている。
「でも君は楽しそうに見えて、翻るスカートが綺麗で…その、見惚れていた」
「!?」
(今なんて言ったこの人。いや何したいんだこの人!)
普段はあれだけ険しい表情で避けておきながら、いやなんならさっきの失礼な発言も含めて、あれだけ人を傷つけておいて。
こんな時だけ調子のいい事を言う。
真意が掴めない。
これはどう言う状況なんだろうか?
「あぁいや、変な意味じゃないんだ。普段はこう、君の顔をうまく見れないから」
「はぁ…」
自覚あったんですね。と言う言葉は飲み込んだ。うまく顔を見れないなんてもんでもない気がするけど。
「女性に対して失礼な態度も多かったと思う。すまなかった」
「…私はメイドでございますので、フィン様が謝ることはございませんよ」
結局、主人が使用人をどう扱おうと自由だ。それを飲み込めないなら使用人は務まらないと、孤児院でもよく聞かされた。
というか、普通目下のものにほいほい謝っちゃダメだろう。
「いいや、これは僕のケジメなんだ。僕は君と向き合わないといけない」
「…」
聞こえてくる声音があまりにも真剣で、私は「一介の使用人と向き合うことなどありませんよ」とは言えなかった。
「今までの非礼、済まなかった。君さえよかったら…これまでのお詫びにダンスを教えさせてくれないか」
そう言って、彼は膝を付いて礼をした。
声音はどこまでも真剣で、私はたじろぐ。
「ど、どうして、そんなこと」
私には、もう必要ないのに。
「…幼い頃を思い出したんだ」
喜びを抑えきれないのに、胸を押さえてまで押し込めようとしている私を見て、彼は言う。
「君はよく、僕と舞踏会に行くんだと息巻いていたなと」
(!!)
そんなこと、そんな、こと。
私も覚えていなかったのに。
どうして、思い出してしまったの?
「どうか」
彼はそう言って私に手を差し伸べる。
「…願わくば、私と踊ってはいただけませんか?」
天井のガラスから漏れ出た月明かりが、静かに彼を照らす。
その瞳は、確かに私を見ていて。
私は。
私は。
何かに祈る様に、震えながら、その手を取った。
********
「まずは基本的なワルツから。ゆっくりやっていこう」
「は、はい」
ゆっくりと、彼が私の呼吸に合わせてくれる。
挨拶にはじまって挨拶に終わるのが社交ダンスだ。
始めの挨拶をお互いにして、それから構えを取る。踊り終わったら今度は感謝の挨拶をして一曲を終える。
「1、2、3…2、2、3…」
腕は絡め合うように添え合うように。
足は揃えるように競うように。
ゆっくりなのに、記憶とは全然違う。確かに私のダンスにまつわる記憶は十四で止まっているし、ダンスの授業も何度かしか受けてないから当然といえばそうなんだけど。
四つの工程をさらに四つのステップに分けて同じことを繰り返す。
右回りからはじまって、途中で反対にステップを踏むことでくるくると回るようにダンスは続く。
「すみません…」
ここまでで私はフィン様の足を何度か踏んでしまっている。なぜかと言えば、相手の足が自分の足にピッタリつく様にお互いステップを踏むからなんだけど。相手の足を踏むことは修練が足らないだけでなく純粋に無礼なこと。
(…まさか自分がこんなに不器用だとは思わなかった)
「構わない。初心者なんだから」
「ありがとうございます…」
そうは言っても申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
それにしても密着する。お、お腹なんてくっついてしまっているし。
これではフィン様のお召し物が汚れてしまうのでは無いだろうか。私のメイドの服なんて、掃除してる以上そんな綺麗なものでもないのに。
「あの…」
「なんだい?」
「お召し物が、汚れませんか。この密着度合い」
「構わないさ、どうせこれから着替えるんだ」
「そう言うものですか…?」
貴族の感覚はわからないな。
「そう言うものだよ」
彼の声はどこか弾んでるように聞こえた。気のせいかもしれないけど、なぜか私はそうであってほしいと思った。
「さて、次が最後のステップだ」
そう言って、とん、とん、と二つ。綺麗に丸く収まるようステップを踏んで、そっと離れる。最後にお互い礼をして、一まとまりだ。
「ふぅ…」
慣れない緊張に胸を撫でる。
今までに感じたことのない疲労だ。
「初めてにしてはよく出来てたと思う。イメージトレーニングが効いたかな」
「それ今言いますか…」
さっきのお粗末なダンスを引き合いに出さないでほしい。
「はは、冗談だよ」
そう言って笑った彼を私はこの屋敷にきて初めて見た。
朧げだけど、ずっと昔にはもっと笑っていたような気もする。
「今日は夜も遅い、ここまでにしよう」
「はい、ご指導ありがとうございました」
「いつもこの時間にここの掃除を?」
その言葉に私は気まずく視線を逸らす。
「いえ、今日は罰掃除でして…」
「ふむ…わかった。とにかく今日は帰ろう」
「? わかりました」
フィン様は私の言葉に少し考えるようなそぶりを見せてから、すぐ何事もなかったかのようにホールの外へ向かう。
私は慌てて、それに釣られる様な感じにダンスホールを出て、フィン様とは扉を出てすぐお別れした。
ダンスホールの鍵を締めて、掃除用具を片付けて、時計を見たときには日付が変わっていて、慌てて部屋に戻って着替えて寝ようとした時。
ふわりと、何かが香った。
嗅ぎ慣れない、自分ではない匂い。
香水のような匂いがする。
確かにどこかで…。
「あ…」
思い出される、さっきまでのダンス。
密着した服、触れ合った肌。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
(フィン様、やっぱりよくなかった様に思いますよ!今日のレッスン!)
私は恥ずかしさで高鳴る胸とおさらばしたくて、急いでベッドに籠った。
それでも髪や肌についた残り香が私に先ほどまでの時間を思い出させる。
結局その日はなかなか眠れなくて、遅番だと言うのに翌日お昼を食べ損ねた。
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