#3


 ********

 

 

 衣服を探し終えたあたりでアリアが部屋にやってきた。服の着かたやエプロンやカフスの付け方を教わり、ポニーテールにしていた髪もまとめ直してキャップにしまい込む。

「はい、出来上がり」

 アリアは部屋の中にある姿見の布を外して私を映す。そこには、見た目だけは一端に見えるメイドが映っていた。

「よく似合ってるわ」

「…ありがとうございます」

 なんだか照れ臭い。

「靴はこれに履き直して。着替えたものは私が部屋に持っていっておくから」

「そんな、自分でやります」

 靴を履き替えながら言う。自分のものくらいは自分で世話をしなければ。

「いいのいいの!それよりアニーって呼んで良い?私のこともアリアて呼んでね!」

「い、良いですけど…申し訳ないですよ、自分の服を他人に持っていってもらうなんて」

「大丈夫よ。アニーには他に行ってほしいところがあるから」

「行ってほしいところ、ですか…」

 アリアはそそくさと私の荷物をまとめ始める。

「そう、フィン様…坊っちゃまの前に、奥様のお部屋へご挨拶に行ってほしいの」

「い、いきなり奥様の部屋にですか!?」

 こう言う時のセオリーもわからないけど、最初は屋敷の案内とかからでは無いだろうか。

 それかさっき伺いを立てに行った坊っちゃまにご挨拶に行くとか…。

「奥様直々のお呼び出しなの。部屋までは私がついて行くから、そこからは一人でお願いね」

「は、はぁ…」

 ここの女主人、レディ・スペンサーことナタリー・スペンサー。

 スペンサー家の経営する孤児院で生活していたため噂もよく入ってくるが。ナタリー夫人はドレスのデザインが趣味で自ら店を持ながら、そのことを鼻にかけず温厚な態度が評価されており、孤児院の経営も実質夫人の店の売上で成り立っている…と言われている。

 確かに記憶の中の夫人はいつも笑みを絶やさず、優しい人だったのを覚えている。孤児院にも時折顔を見せていた。

「優しい方だから大丈夫よ。奥様からも是非にって言われてるから、早速いきましょうか」

「わ、わかりました」

 私が緊張してるのは顔合わせの雰囲気だろうか、それとも…あの頃を思い出すからだろうか。

 部屋を出て夫人の部屋に向かう。アリアによると、三階にスペンサー家個人の部屋と書斎、二階にゲストルーム、一階に応接間や執務室、ダンスホールなどがあると言う。屋根裏部屋と別棟に使用人の生活スペースがあるとも聞いた。

「三階は使ってる人が少なすぎて一部物置になってるけどね…」

 と、アリアは言っていた。先ほどの衣装部屋なんかがそうなんだろう。夫人の試作した服のみの部屋もあるとか。

「さ、着いたわよ」

 三階は左側の一番奥に、その部屋の扉はあった。

「ここから三つ隣がフィン様のお部屋、奥様のお部屋のお向かいが旦那様のお部屋ね」

「奥様のお部屋から三つはなんの部屋なんですか?」

「元々は隣にフィン様のお部屋があったらしいんだけど、今では奥様の衣装部屋になってるわ…」

「よくわかりました…」

 困った様に笑うアリア、確かに貴族は頻繁にドレスを仕立てるので、結果的に膨れ上がっていったのだろう。

「さ、私はあなたの着替えを置きに行くから。あとは頑張って!」

 アリアは綺麗なウィンクを残して去っていった。

 私は扉の前でゴクリと息を呑む。

 夫人に面と向かって会うのはもう何年ぶりだろうか、薄ぼやけた記憶を辿っても意味はないけど。

 意を決して、少し震える手でノックする。

「どちら様?」

 侍女の声だろうか、記憶の中の夫人とは違う声がする。

「お呼び頂き参上しました、アニーと申します。ご挨拶に伺いました」

 そう告げると、ゆっくりと扉が開いた。

 広い部屋の中、柔らかなペールグリーンの壁と、白を基調とした家具達が視界に映る。

 向かって部屋の右側には天蓋付きのベッドが、壁に埋め込まれた暖炉を挟んで左側にはソファとローテーブルが見える。

 夫人は侍女を侍らせソファでお茶を嗜んでいた。

「どうぞ?」

 入り口で固まる私に短い声がかかる。

 この声は記憶にある夫人の声だ、私の記憶は間違っていなかったようだ。

「ありがとうございます、失礼致します」

 部屋に入って、夫人の前に出る。ドレスの裾を両手で摘んで広げ、左足を一歩下げて膝を軽く曲げ、同時に頭を下げる。

「ご挨拶が遅れました。ご無礼をお許しください。アニーと申します。本日よりメイドとして、このお屋敷でお世話になります」

 この部屋で最も階級が上なのは夫人だ。夫人がよしとするまで私は頭を上げてはならない。

「…」

 複数の人間の視線を感じる。

 ここには夫人以外に侍女が三人。

 無礼のない様にしたつもりだけど、何か間違えただろうか?遠い記憶を辿ってのことだ、何か間違いがあったかもしれない。

「…貴方、その挨拶をどこで覚えたのかしら?」

 扉越しで声をかけてきた侍女の声だろうか、彼女の声からは驚きの様なものを感じた。

 しかし私は答えられない。

 この部屋で自由を許されている侍女と違って、私は部屋の主人である夫人の許可なしに無用なことは喋れないからだ。

「良いのですよ、ジャクリーン。彼女は、これで良いのです」

「しかし奥様…」

「ジャクリーン、マーサ、カレン、少し席を外してほしいの」

「そんな、なりません奥様!」

 一見こんな変哲もないメイドとは言え、暗殺の危険もある。仲の浅い人間との一対一は普通避けるべきだ。

 では、なぜそんなことをするのか。

「良いのですよ。私の孤児院で育った子が悪い子な訳…ないでしょう?」

「…わかりました」

 コツコツと、複数人の靴の音がする。

 私は未だ頭を下げたままだ。

 すぐに扉を開け閉めする音がして、少し間を置いてから夫人は言った。

「…頭を上げなさい」

 その時初めて、私はゆっくりと頭を上げる。

「少し、お話をしましょう?アニー…“アニー・ベイリー”」

 “話をしよう”と言うのは、私にこの部屋で話す権利が与えられた事を指す。私は、ゆっくりと口を開いた。

「…その姓は、もう使えません、奥様」

「あら、良いじゃない。この部屋には貴方と私だけ…昔みたいに“姪と叔母”としてお話ししましょう?」

 ソファの上で優雅に座るふくよかな夫人は、煌めく金髪を上質なドレスに包まれた肩に撫で下ろしながら言った。

 対して私といえば、座ることも許されず、夫人のドレスに比べたら安い布のシンプルなドレスに傷んだ髪、体も細い。

 彼女の言う“昔のように”など、遥か遠く…文字通り言葉ばかりだ。

 “これを嫌味でなく言っているのだとしたら”、そう考えると余計心に棘が刺さった気持ちになる。

「奥様のお言葉は大変ありがたいですが、今は身分が違いすぎますので」

「そう…残念ね」

 夫人は寂しそうに肩をすくめた。

「にしても…あの挨拶はやり過ぎよ、アニー」

「…やり過ぎ、とは?」

(なんて事ない、目上のものに対する挨拶だと思うけど)

「さっきのは“貴族が”目上の者にする挨拶よ。孤児院の子は殆ど平民くずれや奴隷から逃げてきた子…知るはずがないのよ」

「あ…」

 しまった、と私はこの時初めて思った。

 道理でさっき侍女が私にあんな質問をしてきたわけだ。

 私は“私の常識”で動いてしまったんだ。

「貴方は“出自”があるからわかるだろうけど…いつもここへ来る子達はそれがわからなくて、最初に私の侍女が教えるのが通例なのよ」

 その言葉に、私はそっと視線を逸らした。

 レンネットと呼ばれるこの国において、ファミリーネームを持つものは少ない。

 ファミリーネームを持つと言うことは、最低でも下級の貴族の血縁と言うことになる。各家の象徴であるその名はなんの変哲もない平民がおいそれと持てるものではない。

 私もまた貴族…貴族“だった”。

 先程夫人が口にした“アニー・ベイリー”とは、私の四年前までの名前だ。

 ベイリー家は国家会計士の家系で、父もまた、国家会計士として王城に勤めていた。

 …あれは四年前の夜の事だ。寒い日のこと。

 屋敷に野盗が入った。

 もうみんな寝静まってるような時間に剣の音がして、その夜は始まった。

 屋敷は騒然、慌てた様子で私の侍女が部屋に入ってきて、私を叩き起こすと二人で屋敷中を逃げ回った。

 あちこちに転がる死体、むせかえる血の匂い、遠くで聞こえる叫び声。全てを全身で感じた。

 私は枕元に仕舞ってあったのを慌てて持ち出した両親からの手紙と、お守りの鍵のネックレスに祈った。どうか両親は無事である様にと。

 やがて逃げるところが無くなったのか、私は厨房の地下室に押し込まれた。「ここで待ってるように、助けは来る」侍女はそう言った。

 私は息を殺して待っていた。時折私を探してる様な、聞き覚えのない声が聞こえた。

 何が起きてるのか、自分はどうなるのかわからなくて怖かった。

 何もできない自分が悔しかった。

 どうしてこんな目にと思うと悲しかった。

 しばらくすると煙の臭いがして、だんだんと濃くなる臭いに、私は屋敷に火がついたんだと確信した。

 外に出ようとして地下室を内側から開けようにも、外から何か置いてあるのか開けられない。

 咳き込む度、幸せな記憶が蘇る。

 段々と熱を持つ鍵のネックレスを握り込んで、やがて私は意識を失った。

 次に目が覚めた時、私だけが病院に居た。

 看護師が私を見て、大慌てで医者を呼んで、そこからさらに自警団が来た。

 何か見てないか、どうして私だけ生き残ったのか、何か覚えてることはないか。

 そう言った質問を何度もされたけど、私は文字通り死体しか見てないし、他は何も知らない。

 私の態度にため息をついて、帰り際、ついでと言わんばかりに自警団は両親が死んでいることを話して去って行った。

 その日は涙が止まらなかった。

 

 その日から、眠りが浅くなった。

 

 体が良くなった頃、親戚であるスペンサー家の孤児院に移ることが決まった。

 あとは、ここに来るまでの四年間を孤児院で過ごして、貧しい生活と自分のことや自分の住環境を整える事を叩き込まれた。

 …そして今に至る。

「兄の事は…あの事件は本当に悲惨だったわ。私には、貴方を目の届く範囲に置いてあげることしかできなかった」

「感謝しています。あの時孤児院に入れなかったら、私は物乞いとして生きて行くところでした」

 こればかりは事実だ。

 あの時孤児院に入れなかったら、行き場を失った私など安易に死んでしまっただろう。仮に親族がいたって養子として受け入れてもらえる状況かは…わからない。

 そう思えば、私は運が良かった。

「…そうね」

 夫人は何かを噛み締めるように視線を逸らした。その様子を見て、私は何か感じる物があるのだろうと思うことはできてもそれが何かまではわからない。

「ごめんなさいね。せっかくの再会だもの、楽しくしたかったのは本当なのよ?」

 夫人はすぐ何かに勘づいたように取り繕って笑った。動揺すると少し焦ったように笑う所は、昔の印象と変わらないみたいだ。

 私は気づかれない程度に、ほんの少しだけ、自分の口角が上がるのを感じた。今日はよく笑う日だ。

「私も、今日という日を迎えられた事を嬉しく思います」

 あぁ、懐かしいな。

 幼い頃からうちの家族とスペンサーの家の方とで何度も別荘に行ったっけ。

 平原を駆け、浜辺を歩き、木陰で眠る。

 私の一番、綺麗な記憶。

 もう、戻れないのに。

「それは良かった、私の部屋にはいつでも来てちょうだいな。そして来た時は時間を忘れてお茶しましょう」

「はい、ありがたくお受けします」

 私はもう一度あのお辞儀をした。

 貴族しかその挨拶を知らないのなら、今こそ使うべき時なんだろう。

(しかし“時間を忘れて”か…それは難しいかもしれないな)

 そも自主的にこの部屋に来るかは正直言って仕事次第だ。

「さて、次はフィンのところに行かなくちゃね!」

 そう言った夫人は、先程とは打って変わって弾んだ声音だ。

 本来ならばここでは家政婦長であるマデリンさんに改めて次の指示を仰がないといけない、と思うんだけど…夫人が言うならそうなるんだろう。

「は、はぁ…」

「フィンにはね、アニーが来るのをみんなで内緒にしているの!きっと驚くと思って」

「そうなんですか…」

 たかがメイド一人、そんな秘密にすることでもないように思うけど。

 そう思うとますます夫人の調子に疑問しか感じない。

「さぁさぁ、隣に座って」

 !?

「お、奥様!それはなりません!私はメイドです!」

 何を言ってるんだこの夫人は。

 使用人を自分と同じ椅子に座らせるなんて、示しがつかない。

 それでも夫人は私を急かすようにソファの空いた部分をぽすぽすと叩いている。

「何言ってるの!こんなに楽しみなことってないのに!」

「し、しかし…」

「いいからいいから」

 夫人は立ち上がったかと思うと、勢いに流すように私の背中を押してソファに無理やり座らせた。

 そして私の髪についたキャップを外し、縛ってあるものを解き始める。

「あわや…」

 ここまで来てしまえば、私のようなメイドなど最早まな板の上の鯉だ。慣れた手つきで髪が解かれて行くのを感じるがままになるしかない。

 夫人は鼻歌混じりにご機嫌そうだ。まるで娘の髪でもいじるように、弾んだ歌が聞こえてくる。

「娘は生まれなかったから、やっぱり嬉しいわぁ」

 夫人の心情考察が当たっても私の緊張は解けない訳だけれども。しかし何やら自分の後ろからごそごそと物を探す音がする。私の粗末な髪で遊ぼうとでも言うのだろうか。

「はい、大人しくしててね」

 そう言うと、櫛で髪を梳かれる感覚が後頭部を流れた。

「奥様、何を…?」

 私の髪でやはり遊ぶ気なのか…?

 夫人は何やら霧吹きで謎の液体を髪に薄く拭いてから梳かしてを繰り返している。

「これはね、髪を綺麗にしてくれる魔法のお薬なの。私のお気に入りなのよ」

(えっ、なにそれこわい)

 主人のものを使ってるなんて周りになんて言われるかわかんないじゃないか。

 そんなことを知ってか知らずか、夫人の鼻歌は続いている。

「私の気に入りの子は、みんなこうやっておしゃれを知っていくのよ」

 と言うことは、私以外に複数人こうやって夫人に世話を焼かれているのみたいだ。

(正直視野の狭い発想だけど、一先ずいじめとかは心配なさそう)

 でも日頃から行われてるなら、その姿は侍女も見ているはず。一見、この行いの為に侍女に席を外させたように感じたけど…。

「じゃ、じゃあ…どうして侍女の方々を追い出しすような真似を…?」

「それはもちろん、貴方と“何も気にせず”お話ししたかったからよ?」

「…それは、ご配慮痛みい、入ります…?」

「ふふ、そうね?」

 私の記憶の中の夫人は、いつもにこやかで花も踏まない様な人だったと思うのだけど、こんなに配慮の届く人だったのかと感じる。人間の記憶なんてそんなものなのかも知れない。

 会話が終わればすぐまた鼻歌が響く。

(…これはなんの曲だろう、聞き覚えがある気がする)

 繰り返し耳に揺蕩うこの音楽は、私の記憶の誰が奏でてくれたものなんだろう。

 気づけば髪が梳き終わったのか、今度は縛られる感触がある。

 夫人は手早く髪を整えると、私の体を自身と向かい合わせるように動かした。

「ちょっと目を閉じていてね?」

「へっ、うあっ」

 プシュ、と額に冷たいものを感じて反射的に目を閉じる。すぐさま前髪を梳かされる感触があって、夫人の言う魔法のお薬とやらを噴霧されたんだとわかった。

「はい、出来上がり」

 その言葉にそろりと目を開けると、目の前には手鏡が。そこに映った自分の姿に私は驚愕した。

「わ…」

 自分で鏡もなしに整えるよりずっと綺麗に纏まった後ろ髪。

 痛みが無くなったわけではないけど、それを感じさせないつやを持った前髪。

 自分の全部が変わったわけじゃないけど、どこか見違えた様だ。

「うん、これで綺麗。本当はお化粧もしてあげたいけど…時間的に今度かしらね」

 そう笑う夫人の表情は、嬉しそうと言うよりは寂しそうに見えた。

「ありがとうございました。自分の髪でないみたいです」

 すぐさま立ってお礼を言う。

「良いのよ。私の我儘を聞いてもらった様なものだもの」

「そんな、こんな良いものを使ってもらって…」

 夫人はこのことについては優しく笑うばかりで、これ以上話す気はない様だった。

「さて、フィンを待たせてるわね。あの子の所へ行ってらっしゃい」

 夫人は椅子から立ち上がって、私を扉の方に向けると、軽く背中を押した。

「…あの子をよろしくね」

 そして切に迫ったように、私の耳元にそう囁いたのだ。

 私は思わずその言葉の真意を探ろうと振り返る。しかしそこにあったのは、またも優しく笑うばかりの夫人。この言葉の真意を知ることは出来そうにないと、私は悟った。

「失礼致しました」

 あの微笑みは、きっと何を言ってもはぐらかされてしまう類の表情だ。孤児院の院長がそうだった。

 私はうすもやりと霧のかかった様な心のまま夫人の部屋を出た。

 この屋敷の家令は御子息であるフィン様だ。旦那様は当たり前だが王城に勤めている。

 つまり、フィン様は寝室のある三階にはいないと考えた方が妥当だ。

 どこかに執務室があるはずだ。アリアは一階に執務室もあると言っていたので、とりあえず一階に降りてしまおう。

 さっきのような予想してないことがあって欲しくないので、マデリンさんを探しつつ、ついでに執務室も探す。

 マデリンさんに指示を仰ぐのが最優先だけど、先に執務室が見つかったらとりあえず場所を覚えておこう。

 …と、思っていたが。

 そんな心配は杞憂だったようで、一階のエントランスにマデリンさんは居た。

「マデリンさん」

「あら、どうしたんだいアニー。執務室はエントランスを右だよ」

 どうやら私を迷子だと思ったみたいだ。間違ってはないんだけど、一応予定の確認。

「ありがとうございます。先程、奥様のお部屋に先に行くようにと言われて行ってきたので、同じ様なことがないか不安で…」

「あぁ、そう言うのは今日はもうないよ。安心して執務室に行っておいで」

「よかった、ありがとうございます」

 安堵に胸を撫で下ろす。

 あんまり急な予定は得意ではない。

「終わったらあたしのところにおいで。昼食の後の予定について話があるから」

「わかりました」

 マデリンさんの元を失礼して、改めて執務室へ向かう。

(エントランスから右…)

 屋敷の作法まではわからないけど、なんとなくカーペットの敷かれた廊下は端を歩いてしまう。

(中央は、それこそ屋敷の主人とかが使うんじゃないかとか考えちゃうよね…)

 通り過ぎた応接間には看板が下がってたから、執務室も同じになってたら嬉しいんだけど。

 応接間の反対側、さらに三つ奥の扉には看板が下がっていた。そこにはお目当ての“執務室”の文字。

(お、あった)

 一度緊張を解こうと扉の前でまた吸って、吐く…。

「「…」」

 その瞬間、目の前の扉が執事さんによって開かれた。私は両手を広げた状態という大変恥ずかしい姿を見られることになり、執事さんには少し笑われてしまった。

「ふふ、失礼しました」

「あ、いえ、こちらこそお見苦しい姿を…」

(見苦しすぎて顔から火が出そう。つらい)

「良いんですよ、少しお待ちくださいね」

 執事さんはそっと扉を閉めた。

 体感的に一分かそこらだろうか、扉はもう一度静かに開いた。

「どうぞ中に入ってください。坊ちゃんがお待ちです」

「ありがとうございます。失礼致します」

 執事さんが開けてくれた扉からそっと中に入ると、部屋の奥で書類と睨めっこでこちらには目もくれない男性が、一人。

 母親似だろう薄い金糸のような髪は長く、顔を覆うほどの前髪が向かって右側に全て寄せられている。後ろ髪も長く伸びて、粗雑に一纏めにされていた。

 顰めたような眉とそれに釣られる垂れめで三白眼の切長な目元、疲れた様な緑色の瞳。

 すこしやつれた様な頬、色素の薄い肌、節だった長い指、高くなった背、食べてるのか心配になる細い体。

 よく聞こえないけど、何かずっと呟いてるのは書類の内容だろうか。いや、そうであって欲しい。

(……)

 一言でまとめると、疎遠だったとは言え従兄弟の成長に中々の不安を感じた。

 まるで不健康を固めたような、胃薬で生きてるような、そんな成長。

 私も大概栄養状態では人のことは言えないはずなのに、それでも心底不安を煽る。

 スペンサー家は国が所有する大規模領地の次に大きい中規模領地を預かる一流貴族。しかもそのホエー領は豊かな土地だ。それでご飯が食べられないなんてことはないはず。

 今すぐにでも“飯を食え!!”と、引っ叩いてやりたい気持ちを抑えつつ、静かに息を整える。

「執務中失礼致します。ご挨拶が遅れましたご無礼をお許しください。本日よりこのお屋敷にてお世話になります、アニーと申します」

 私が挨拶をすると、何やら呟いていた声が止まった。

「アニー…」

 そう呟く声と、書類を机に置く音が聞こえた。私はまだ主人の許しを得ていないので頭は上げられないから、状況はわからない。

「…顔を、上げて」

「はい」

 ゆっくりと姿勢を正す。

 視線の先に、こちらを疑うような、期待するような、そんな視線を送るフィン様が見えた。

 髪は夫人に整えてもらったものの、目元のクマやひどくなった肌まで改善したわけじゃない。

 フィン様はこんな私をまじまじと見ているが、私としては今すぐぶん殴りたいくらい見られたくはない。だけど、それを言うわけにもいかない。

「ア、ニー…アニー・ベイリー…」

「…もう、その姓は使えません、フィン様」

 力なく、私の名前を呟く彼に、私は…。

 しかし視線を逸らした瞬間、ものが崩れ落ちるような、大きな音がした。

「!?」

 私が驚いて視線を戻すと、なぜか一階の窓から飛び出そうとしているフィン様と、それを止めようとしている執事さんが見えた。

「ぼ、坊っちゃま!おお落ち着いてください!!」

「いや、無理!ほんと無理!耐えられない!」

 ガタガタと窓枠を掴んで外に出ようとする主人を、必死に止めようとする執事さんの図。失礼だけどまるで物語のようだ。

 しかしそんな他人事でもいられない。

 錯乱する主人をなんとか止めなくては。

「うわあああああああああああっ」

「フィン様、フィン様落ち着いてください!」

 あわやあわやと手が伸びる。しかしそこで執事さんが突如振り返った。

「アニーさん!ここは私が!あなたがマデリンさんのところへ!!」

「いやでも!」

(私の何がそんなに嫌だったのかわかんないけど、これほっとけないでしょ!)

「大丈夫です!ちょっと動揺されてるだけですから!さぁ早く!」

「わ…わかりましたぁ!」

 執事さんの剣幕に圧されて走って部屋を飛び出した。まだ中からガラガラと音が聞こえるけど執事さんは大丈夫だろうか。

(にしても…)

 何かそんなに嫌われるような事でもしたんだろうか?

 挨拶が間違ってた?

 男性に向けた作法があっただろうか?

 記憶がないだけで過去に何か嫌がらせでもしてたのかな…?

「うーん、身に覚えがないわ…」

 どうせそんなに会うこともないので、気にしなくても仕事はできるけど、なんかもやもやする。

 にしても、会っていきなりあの態度とは失礼な話だわ。

 

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