第5話 Krankenhaus

 ここに来るのはもう何度目になるだろうか?

 一度や二度ではない。十や二十?いや、ゆうに百回は超えているのではないだろうか。

「てかこれだけ来てるんだから何かご褒美くらいくれても良いんじゃないかなぁ~」

「ふふっ。まさか君が見返りを求めて私の所に来ていたとは、知らなかったよ」

 私立大学病院三階。301号室。

 春がぼやくと、ベッドに腰掛ける女性、浅間詩葉は手にしていた文庫本を閉じると口元に手を当て、優しく微笑んだ。

「ちょ、人の心を読まないでくださいよ、先生」

「いや、君は普通に声に出していたよ」

「えっ。マジですか?」

「ふふっ。マジもマジ。大マジよ」

「ははっ」

 渇いた笑い声が思わず漏れる。

 春は照れを隠すように頭をかくと、何か話題をそらせるものはないか、と視線をさまよわせ、詩葉の手にある文庫本に目をとめる。

「今日は何を読んでいたんですか?」

「白々しいまでの話題そらしね」

「そっ。そんなことないですよ」

「本当に?」

 詩葉のじとっとした冷めた目が春に突き刺さる。

 しばしの沈黙の後、ため息一つ。

「ハムレットよ」

「えっ」

「本のタイトルよ。君が聞いたんじゃない」

 詩葉は呆れた顔を浮かべつつ、手に持つ文庫本を春へと差し出す。 

「あぁ、そうですね」

 春は詩葉から文庫本を受け取ると、表紙を捲り、文庫本へと目を落とした。

「それで、面白かったですか?」

 文庫本に目を落としつつ、何気なく発した春の言葉に、詩葉は盛大に(わざとらしく)ため息一つ。

「君はシェイクスピアの四大悲劇を知らないの?」

「四大悲劇、ですか?」

 初めて聴く言葉に、春は詩葉の言葉を反芻すると、頭の上に疑問符を浮かべる。

「君はもう少し本を読んだ方が良いわね。無知は罪なり。とも言うし、本を読んで得た知識は君の一生の財産になるんだから」

「いや~。分かってはいるんですけどね~」

「……まぁ良いわ。四大悲劇、というのは小説家ウィリアム・シェイクスピアの書いた『オセロー』、『マクベス』、『リア王』、そして『ハムレット』。この四つの作品を四大悲劇、というのよ」

「へぇ~。そうなんですね~」

「そうよ。四大悲劇の一つなのだから面白かったかどうか。という質問は適切ではないわね」

 ここに、某番組のあのボタンがあれば確実に押していたな。と春は思う、

「んじゃあ、どうでしたか?」

 言葉を言い換え、再度質問すると、

「そうね~」

 詩葉は俯き目を閉じ、顎に手を当て考えると、

「心動かされた、かな」

 目を開け、小首を傾げつつ、真直ぐに春を見つめる。

「そう、ですか」

「えぇ。良かったら君にその本。貸しましょうか?」

「いぇ。部活もありますし、遠慮しておきます」

 春はそう応えると、手に持つ文庫本を詩葉へと差し出す。

「そう」

 詩葉は小さく呟くと、文庫本に手を伸ばし、

「でも―――」

 春が文庫本を上へと持ち上げたため、詩葉の伸ばした手は空を切った。

 詩葉は目を見開きつつ、春を見つめると、

「せっかくですし、借りても良いですか?」

 また来るときのための理由付けであり、詩葉を”約束”という呪縛で縛る為の言い訳。それを理解しているからこそ、

「えぇ。勿論」

 詩葉は優し気に微笑んだ。


 日が傾き、病室に夕日が差し込む頃、春は椅子から立ち上がると、片付け、詩葉に声をかける。

「んじゃあ、また来ますね」

「えぇ。でも何もあげられないけど大丈夫?」

「もうその話はやめてくださいよ。別に見返りは求めてませんし、俺が来たくて来てるだけなんですから」

「ふふっ、そう。分かったわ。待ってる」

 春はいたずらっぽく微笑む詩葉に一礼すると、病室を後にした。

「…」

「……」

「………」

 ため息一つ。

 詩葉はドアへと目を向けると、

「あの子はもう帰ったわよ。もういい加減出てきても良いんじゃない?姉さん」

 ドアの外に人の気配を感じ取り、声をかける。

 しかし、ドアの外に佇む人影は室内に入ることはなく、

「詩葉。春は……。あの子は私のものよ。もしあの子に手を出すようなことがあれば、いくらあなたでも許さないから」

 言葉のみを室内に残し、立ち去った。

 詩葉は先ほどまでドアの外に感じていた気配が消えたのを感じ取ると、ドアから視線を外し、ため息一つ。

「まったく――」

 窓の外へと視線を移す。

「せっかく来たんだから顔くらい見せれば良いのに、顔も見せずに帰るなんて」

 一体何をしに来たのだろうか?

 詩葉は先ほどの姉の、浅間琴乃葉の言葉を思い返す。


 『詩葉。春は……。あの子は私のものよ。もしあの子に手を出すようなことがあれば、いくらあなたでも許さないから』


(私はあの時、姉さんからあの子を奪い、遠ざけた。でもそれは―――)

「間違いだったのかな―――。今日夜」

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