幸不幸論
智野めいき
幸不幸論
今のおのれに向かって、幸せかどうか、と尋ねられたらいかにするだろうか。恐らく大半の――この世紀社会に根付いて生活を営む大半の人間というのは、ああ幸福だと言い切るか、そうでなくばわからないと優柔不断に答えるだろう。そしてその根拠を問われれば、何処其処の国では水道が通ってもいないとか、また別の国では治安が悪くて、市中往来にまるで踏み出せないとか、或いはうちの家庭は裕福では無いけど、それでも家族がどうにか自分を育てていけているから、と云うような事を言うに違いない。
しかして、それは自分で自分のことをしんから幸福な人間と思っているかどうかを判ずる基準にはならないのである。例えば、もし目の前にいる或る人間を見て、世間から見れば不幸な境遇にあると感じたとしても、当人にとってはそれが逆に誇りであり、喜びであったりするかも知れない。自分は不幸だなどとは露ほども思わず、むしろ幸せなんだと思い込んでいる可能性も大いにある。あるいはその逆で、社会的な目・大衆の視線からすれば恵まれて、何もかも手に入れてしまっているように見えても、本人にとっては耐え難い不幸の只中という場合もある。そうした場合、客観的事実によって判断を下すというのは、それを行う人間が当人でもそれ以外でも浅慮、かつ傲慢というものだ。無論、挙げたふたつは極端な例だが。
話が逸れてしまったが、結局、主観の問題に還ってくる。幸福であるかそうでないかは、突き詰めると主観的な問題なのだ。
先日、友人のひとりと話していて、ふとその話題になったときのことである。
「いやあ、でも俺は結構幸せな方だと思うよ」
もう酒を飲むに許されてから数年するが、未だに何が美味いのか欠片ひとつわからない麦酒をあおって、彼は云った。
「はあ、それはまぁ良いことなんだろうとは思うけど、全体、どういうところでもってそう思うんだ」
そう問いかけてみると、彼は親指の爪で顎の下をかくようにして物考えるような間の後、口を開いた。
「そうだねぇ。まず第一に、こうしていくらでも酒を飲める」
「ああ」
「第二に、煙草を吸える」
「……ああ」
「第三に、女もいる」
聞いていて私は、大体こういった話の結末が見えてきた気がした。彼の列するところは、総じて客観的な豊かさとも認められるようなものばかりで、なんというか核心を突くに至る気配なく思えた。
「いや、それはそりゃあいい事かもしれないけれど、それは君がしんから思っていることなのか」
すると彼は、私の顔をまじまじと見つめながらこう言った。
「うん、俺が心の底から本当に幸せだって思ってることだよ。勿論」
「じゃあそれは、どこぞの誰とか何処の国の経済とかそういうものと比較したものじゃないと言い切れるものかい」
私が訊いた。すると彼は笑って答えた。
「言い切れないね。でもさ、そんな風に較べて考えてみても、やっぱり俺は今が一番いいと……」
そこから幾らか彼は何かしらを述べていたように思えるが、正直な所私は言い切れないという返答を聞いてから後の部分を聞き流していたし、思い出す気にもならない。
彼の言う物はやはり、人目から見た豊かさに属するもので、自分自身の心の内からのみ言えるものではない。幸福か不幸かというのは、そういった外面的で相対的な価値基準から出てくるものではなく、もっと内面的な、おのずと湧き上がってくる感情、それをどう言葉にするべきか解らないのだが、とにかくそういった自分の内情からしか生まれ得ないものなのだ。
だから、彼のように他人と比較して自分が幸せだなどと宣う奴は、大抵の場合、真の意味で己の事をわかっている訳ではなかろう。他人の目から見て自分より貧しい人間を見て、あぁ、自分はあの人間よりも恵まれている、これは幸せなことだ、そうなんだと、思い込もうとしているだけに過ぎないのだ。
かくのごとく云々考えつつ、麦酒を胃の中に流し込んでいく。喉の奥で焼けるような感触と共に、鼻腔を突き抜けるアルコールを感じ取りながら、私は目の前のテーブルの上に載った枝豆を鞘から二、三粒出して口に放り込む。塩味の効いたそれが舌の上で転がるのを楽しみながら、少しの間、思索を巡らせる。……よくこの世は、こんなにも沢山の不幸で溢れかえったものだ。そしてその不幸の殆ど全てが、多分、外から眺める限りにおいては不幸だとは思われない、人の内側から生まれ、そのまま同じ場所に留まり、望まぬなど知らぬとばかりに肌身離さず抱え続けさせられ、気味悪いくらいにぴたりと連れ添ってくるものだ。
畢竟、人は、簡単に自分を幸せだと思う。或いは、思わなければ生きていけぬのやもしれぬ。
幸か不幸か決めるのは自分自身だ、という言葉があるが、なかなかどうして的を射ているものである。決めるのが自分でなければ、その最もと言ってよいステータスが、悩み事情など露知らない他人によって決定されてしまうなど、冗談ではない。まして相対的幸福や外的基準によって幸福自認に至るなど、まったく言語道断の事象、人間らしさから逸脱したそれに類すると言える。
かえって思うが、それらを他人の目に委ねている人たちは、悲しく、あるいは虚しくはならないものなのだろうか。世に二人と存しない自分の、生きるうえの重大指針を、どうして他人に明け渡すのか。
経済の面で困らない暮らしにあれど、自分の幸不幸を他人の目から決める人より、貧しさにつきまとわれてでも、自身を決められている人の方が、よほど人間の誇りというものを持って生きている。それは金銭資産の域から大いに飛越した次元の貴重さである。私は自分の位置し在するところが、幸か不幸かというのを、他ならぬ私自身の心を以て決めたい。
人間というのは、幸福探求の生きものであって、同時に不幸考究の生きものである。幸も、不幸も、総て自分の意志で決定して、だというのに時折、それにまるで分からないような顔をして、望まず天から降ってきたものだとでも言いたげに表す。人間が幸福探求の生きものである以上は、如何なる出来事にも幸福を見つけて喜べ、如何なる出来事にも不幸を感じて打ちひしがれる、というやつが当然なのだが。
ありがたいことと、自分自身の思う幸福は違う。運の悪いことと、自分自身の思う不幸は違う。エゴイズムじみた、到底現代の『人の好い』日本人には受け入れられない感覚だろうが、それがいちばん、真に近しいのだ。自分自身以外のあらゆるものを抜きにして、自分自身をにらみつけて、そうしてやっと、ほんとうに幸なのか不幸なのかにたどり着く。それは変わらないし、それに代わるものもない。理解し得ないような輩は、やはり浅慮で傲慢な、人間味の薄いものに違いない。自分が、薄っぺらい善性を持った人間だと自覚して維持することは、今の世ではそんなに偉く、立派なものなのだろうか。
私は何も、個の味の強すぎる人間であるべきだ、とはいわない。けれども周りに押し流されて自分の在るところ、存するところを決めてしまうのは、あまりに勿体なく思えるのである。自身の内面をきっとにらみつけて決めた幸不幸ならば、おそらく単純に揺るがされることは無いだろうし、同時に自分を明確な信念のもとにおいておけるはずである。自信を持っていられる人は、なにも必ず幸福であるわけでない。不幸だから自信を持ってはならぬという法は無いのだから、不幸を自認した人もまた、
身の回りの豊かさに感謝をするのは、自身を幸と定ずるには至らない。いわばそれは人間として備わったベーシックな感覚であり、誰が行ったところで、自身を幸と定めるには及ばない。そもそも周囲の豊かさは外的要因だ。自身で決定したものでは、断じてないのだ。金銭の多い少ない、良い人間のいるいない、それよりずっと、自分の心情である。自分が、幸と思えば、その通りである。自分が不幸と思えば、またその通りである。単純極まる、面白い気配のない論と思われるのは当然で、理解され得ないのもまた元々の考え。全くもってエゴの団塊、自身優先の主義に基づいた妄言、じっさい、私自身がそう思う。けれども斯く人が忌避したがる文言は、得てして真実めいた現実の色味を携えている薬草である。ほんとうのことを言われているから、頭が痛む。めいめいこっそり、都合の悪いこと、自分の意や考えに反することからはあっさり目を背けて、そんな考えが邪道、マイノリテー、追いやられる少数の掲げるものと信じて、みじんも疑わない。
何の分析も対比も、まして環境を見もせずに、幸だ不幸だと考えたことが誰しもにあるはずである。漠然と、幸せだ、不幸だ、そう考えたことの無い人。いるかどうかはわからないが、私に石投げるべきは、そういう人だけ。それにこれは、わからないという曖昧な答えの選択はない。自分の飾り気のない、すっと立った木一本みたいな、正直なものをそのまま、吐き出せばいい。しかしまあ、そんな一瞬間のうちにも考えを巡らせてしまえるから、神経質なことを言うと確定した手立てとは言い難いが、これが一番近い。そのうえで私は、不幸という部類と言い切れる。私の周りを見て、恵まれているとか、環境がいいと思う人も、ひょっとしているかもしれないが、私という他ならぬ人間が自認しているのは不幸、という確実な一点だ。
自身の不幸を断ずる折もまた、幸と考える時と同様に、周囲、環境、金銭、そのほか優劣序列を決める一切の事柄を抜きにせねばならない。当座、私が自認するところにはそれらは含まれず、唯純粋な一人間の思うことに従ったまでである。内心に湧き出る不安だの、プレッシャーだのというのがそれに値する。何等か環境等の影響なしにそう思えているうちは、確かに私自身の述べたところに合致していよう。
後付けの形で幸せを自覚するという物語を、しばしば目にする。これはもう、深く考えるまでなく、一種説教じみた教育的なものだ。あなたは幸の中にいるのだ、周りや境遇に感謝をして生きていくのがいい、と、たっぷり人道的で穏健なことの教えつけになっている。悪くない。悪いことは無いのだが、それは人生だの、主義だの、そういう小難しくて気持ちの悪い、そんなものに触れていない子供たちに言い添えて、だからこそ善性を持たせることになるわけで、もうそろそろ足の着いたことを考えなくてはならない青年とか、まして成年した人間とかには、あんまり、情けない。小学校からやり直せに近い、いや、算数の基本はできているかと意味なく問われてでもいるような様だ。周囲や環境を見つめ直して自分を幸とするのは、自分がよくわかっていない子供だから成り立つのだ。仏教の説法とかで、ああいうことを言われる理由は、言われる人に、良い方面にも悪い方面にも自信のない人であるからだ。明るい前向きな、いわゆる好い自信にしても、陰りのある、いわゆる良くない自信にしても、持っている人は、精神がしっかりして、自分がある。そういう人には何の助言も、教えもなく、その行くところを見守るだけ。この上、自分の幸不幸を自分自身の中から決められるなら、最早言うことなし。
物語に多いと言ったが、多くが絵本や児童の文学であるのは、つまりそういった狙いの現れだと、大いに。成人(大人というより)が見ているのも、やはり悪くはないけれど、それは自身に物思うきっかけにのみ、役立てるべきだ。それに絆されて、周囲の環境を探り出したら、もう詰みである。
斯様に一つしたためたところで、少々訊いておきたいことができたやもしれない。なに、訊く相手は定まっていないが、なんとか訊いてみたい。
自分自身のしんから思って、自分は幸と思うか、不幸と思うか。
幸不幸論 智野めいき @rightkyu618
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