交わり終わらぬエピローグ

終(おわり)

交わり終わらぬエピローグ

 深緑色の金網の向こうで、彼女が笑っている。

 二重の瞳が、小さくて丸い鼻が、薄い唇が、会機あきを見ている。

 遠く下の方から聞こえる蝉の鳴き声と、部活動をする高校の生徒たちの声が柔らかく空気を占める。彼女と会機のプリーツスカートを、太陽が照らす。

 なびいた会機のボブの茶髪が風を示し、あとも残さず消えていった。

 屋上という二人きりの舞台。金網の内側に立つ会機と、外側に立つ彼女を囲む観客は、空だけだ。

 生とその反対のはざまにいる彼女に呼吸を荒らげないよう、会機は音をたてずに深く息を吸って吐いた。

「どうしたの、園田。そんなところに立って」

 会機が園田と呼ぶ少女に近づこうとすると、少女は「来ないで」と声を上げた。

「近づかないで。でも、来てくれたんだね。来ないと思ってた」

「来るよ。園田からあんな連絡来たらさ」

「そっか。心配してくれたんだ。嬉しいな」

 園田と呼ばれる少女の、靴を履いていない足が、八の字になっている。

 園田って、内股なんだ。

 すぐ手前の金網の内側には、上履きが揃えて置いてある。つま先は、真夏によく見るような空と、園田の方向を向いていた。経験したことのない兢兢とした感情が、会機を襲う。

「それよりもさ」

 園田と呼ばれる少女は、金網に手をかけた。

「最後くらい、みはなって呼んでよ。あきちゃん」

 会機は、その「最後」という言葉に唾をのんだ。

 二人の体を冷やすように風が駆けぬけ、実花の三つ編みの二つ結びが揺れる。陽の光が実花の髪を照らし、焦げ茶色が浮かんだ。

 園田って、結構髪柔らかいんだな。

「ごめん、みはな」

「あきちゃん、私のこと全然下の名前で呼んでくれなかったよね。お互い下の名前で呼ぼうって、約束したのに」

 それになにか言い返そうとした会機は、実花がかける眼鏡越しにまっすぐ見つめられ、目をそらした。実花の、返答を求める気持ちに応えられる気がしなかったからだろう。

 自身のバイト先にたまたま来た実花と話すようになった会機は、実花と、いわゆる恋人というものになった。告白は実花からだった。下の名前で呼び合おうと話を持ちかけたのも、浮かれた実花からだった。

「でも、約束した当時、私たち学校で話さなかったじゃん」「グループも違うし、今でもあまり一緒にいないのに、急に下の名前で呼び合ったら、周りに『変だね』って思われるんじゃない?」「それに、園田、学校に友達いないでしょ。そしたら、私も園田も『そういう人』に見えちゃうんじゃないの?」と一気に吐き出したくなる気持ちを、会機は自分で押し殺した。下の名前で呼び合うなど、なにもおかしなことではない。しかし、当事者となると考えはほかと異なってしまうのだろう。会機は不安で仕方なかった。

 恋人だとばれてしまったら。そういう人だと線引きされてしまったら。

 自分で生み出した、必要のない過度の不安が、会機を責めた。

 気づけば、学校でも、学校の外でも、会機は実花を「園田」と呼んでいた。

「ごめん」

「いいよ。あきちゃんにも理由があったんだよね」

 実花は、恋人に向けるような目で会機を見た。

 会機は、まもなく来る、命が打ち消される瞬間に怯えるような目で実花を見た。

 甘い実花の笑みは、会機に、一生分かと思うほどの罪悪感を与えていた。

「どうして」

 実花を止めたい会機は、どうにか道がないものかと探す。

「あきちゃんのせいって言ったら、どうする?」

 真実か嘘かわからない実花の言葉に、会機の額や背中から汗がふき出る。

「私のせい、なの?」

 制服のスカートを握りしめる会機の手が、少し冷えた。前髪は汗で額にはりつき、背中の汗が腰まで伝った。

 しかし、実花は涼やかに立っている。金網の外側で。

「あきちゃんのせい、も、あるかな」

 笑い話を聞いて「なにそれ」と小さく笑うみたいに実花は言った。

「私の親、駄目な親でさ」

 そんなの、聞いたことない。

 会機の体が前のめりになり、右足が一歩、歩を進めていた。

「お母さんもお父さんも、私のこと嫌いなの。もうしばらく手作りのご飯食べてないし、いつ起きても家にいないし。最後に話したの、いつだっけな」

 そう言って、実花は、親指、人差し指、と指を折り曲げている。それは日にちを数えているのか、月を数えているのか、はたまた。

「そうだ」と言って、実花はなにかを思い出した。

「あきちゃん、聞いて」

 実花の声のトーンが上がった。それを聞いて、会機の心臓がほんの少し軽くなった。

 大丈夫、実花はいかない。

「今日初めて、お母さんに叩かれたの」

 まるで、通学路で猫を見つけたときのようなトーンで、実花は言った。

 その言葉は、一気に会機の心臓を傷つけた。錆びた釘の先でガラスを削るように、不快な音を立てて、目に見える傷を残す。きっとその傷は、流れる時間を待たずに心をおかしくしていく。

「頬よりも、心臓の方が痛かったよ」

 実花は、左手で胸の真ん中あたりのシャツを軽く握りしめた。

「聞いて」

 その左手を金網にかけて、実花はまた話し始める。

「駅の西口近くに、カフェができたらしいよ」

「そのカフェの話、先々週友達としたよ」なんて言えるほど、会機は人でなしではなかった。

 実花はゆっくりと金網に額を当てた。伏し目がちに開かれた瞳は、実花自身の上履きを見ていた。

「行きたかったなあ。私のことを『みはな』って呼んでくれるあきちゃんと、ね」

 そのつぶやきに、会機の心臓がより一層締め付けられる。自身で生み出した有刺鉄線で、自身の心臓を絞めているのと変わりない。

 会機は実花の顔を見た。

 あれ、みはなってこんなにかわいかったっけ。

 この期に及んで、会機は実花のことを知っていく。

「聞いて」

 実花は顔を上げて会機を見た。

 みはなは今、私の顔を見て、なにを思っているのだろうか。許さない、かな。なんでもっと愛してくれなかったの、かな。それとも、一緒に来てよ、かな。

「隣の家の人が、捨て猫を保護したらしいよ」

 よほどその猫がかわいかったのか、実花の頬が緩んだ。

「初めて見たと感じるくらい優しい笑みだ」と会機は思った。

「子猫だったの。ちっちゃくってさあ。飼いたくなっちゃった」

 さらに柔い表情になった実花に「どうしてもっとこの顔をさせてあげられなかったのだろう」と会機は苦しくなった。

「でも無理なんだ。うちにはお金も余裕もないからさ」

 実花は残念そうに笑う。

「それに、飼ったとしても、私いなくなっちゃうから」

「今からね」とまた笑った。

 会機にとって、その笑顔は「今さらそちらへ戻るつもりはない」の意思表示に見えた。

 もう笑うな。あなたが笑えば笑うほど、今までの私が駄目なやつになる。恋人として笑わせてあげられなかった酷いやつに、笑顔でいさせることをしなかった冷酷なやつに、あなた以外ばかり見ていた愚か者に、なってしまう。

 口から吐いた息が震えている。会機は実花に近づこうとした。

「聞いて」

 そんな会機を制するように、実花は一段と声の音量を上げて言った。

「私ね、ずっと、あきちゃんの唯一になりたかったの」

 照れて言うような台詞に似合わず、実花の顔には影が落ちている。そんな顔を際立たせるかのように、実花の背には、ごうごうと燃えるような青い空と、アクリル絵の具のチューブから出した絵の具をそのまま浮かべたような、真っ白な入道雲が広がっている。

「一人で寂しくて仕方ない夜に会いに来てくれるくらい、愛されたかったの」

 泣くことを我慢したような震える声は、会機の心をつぶすのには十分すぎる力を持っていた。

 ただ、とっくのとうに心の原型をとどめていなかった実花は、そんな声や顔の色をぱっと変えて、会機を見た。

 その目はいまだ、会機を恋人として見ていた。

「だから私、あきちゃんの中で呪いになるよ」

 実花は金網から手を離し、少し「向こう側」へ下がった。

「そしたら、あきちゃんの唯一だ」

 笑顔で、しかし涙をためたその目に、会機がぼやけて映る。会機が今、どんな表情をしているのかは、実花ですらわからない。

「こういう形でしか、あきちゃんの唯一になれないんだ」

「みはな」

 会機は、名前を呼んだ。

 どうして呼んだ? 話を聞いてもらうため? 止めるため?

「あきちゃんが『みはな』って呼んでくれるだけで、私は少しだけ救われる」

 実花は、心臓に手をあててうつむいた。

「それでも、あきちゃんは私を名前で呼んでくれなかった」

 その白い手が震える。

「お母さんもお父さんも、私のことを見てくれなかった」

 震える手が、再び金網を掴んだ。

「どうすればよかったの」

 実花の目から涙がこぼれ、それと同時にその顔を上げた。

 絶望といらだちと、言葉にしたらあまりにつまらなくなってしまう感情を全身にめいっぱい孕んだ実花は、会機を見て、今までの全てを吐き出すように泣き叫んだ。

「どうすればよかったの!? あきちゃんならわかるでしょ!?」

 がしゃがしゃと音を立てながら激しく金網を揺らす実花は、今までのかわいらしさと穏やかさからかけ離れていた。

 会機は、ここにある全てが恐ろしくなった。実花がいなくなる恐怖。実花が壊れた恐怖。実花を壊した恐怖。そして、実花になにも言えず立ち尽くしていた恐怖。

 冷静と自制が消えた会機は、金網に駆け寄って、必死に実花を呼んだ。

「みはな、戻ってきて」

「私だけが、あきちゃんの唯一になりたいんだよ!」

「これからたくさん一緒にいよう」

「あの日あきちゃんと出会ってから、私だけがあきちゃんを好きなんだ!」

「駅前のカフェだって、一緒に行こう、みはな」

「ひとりぼっちだ、ずっと、ずっと!」

「名前だって、たくさん呼んであげる」

「そういうことじゃないって、わかんないの!?」

 金網を思い切り殴った実花は、会機の記憶にいた実花ではなかった。

 そうしてしまったのは、私なのか。

「もう遅いってことも、そういう愛が欲しいわけじゃないってことも、気がつかないの?」

 金網を握る実花の左手に、会機は右手を重ねた。同じ温度。この温度を失いたくない、と会機は思った。

 それを振り払うように、実花は金網から離れる。

「呪いに、なってあげるよ」

 実花は涙を流し続けながら笑った。

 それは、恋人に向けるような目なのか。

「忘れられない夏になるね」

 実花の右足は、地についていない。

会機は「嫌だ、やめて」と涙色がにじんだ小さな声で繰り返している。

「大好きだよ」

 晴れ晴れとした空が、実花を呼んでいる。会機よりも愛のこもった声で。

「さようなら」

 未練しかないような笑顔が、会機の目にこびりつく。

 こんな最後、あまりに狂っている。そっちには、そっちにだけは、いってはいけないのに。

 会機は、金網の隙間から手を伸ばした。戻ってきてほしかった。握り返してほしかった。

 そんな会機の手は、なにも掴むことはなかった。

「あきちゃん」

 会機が実花のその声を聞いた瞬間、会機の目の前で夏の空が実花を引きずり落とした。

 会機はふらふらとした足取りで金網から離れる。膝から崩れ落ち、うずくまって咽び泣いた。

 悲鳴も、蝉の声も、自分の嗚咽でさえも、耳に入らない。

 風鈴の音のような声が、その声が呼んだ「あきちゃん」が、脳を侵してやまなかった。

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