民の思い、ベルナデットの決意

(私、馬鹿みたい! テオは逃げない覚悟を決めていたなんて! あんなに真っ直ぐで真剣な目で!)

 テオの答えを聞いて、思わず逃げ出してしまったベルナデット。サファイアの目からは大粒の涙が溢れ出す。ベルナデットは涙を拭いながら走る。

「ベル! 待って!」

 追いかけてくるテオ。ベルナデットはテオの方を振り向かずひたすら走る。しかし、足がもつれて転んでしまった。それにより、テオが追いつく。

「大丈夫か? ベル」

 ベルナデットの目からは更に涙が零れる。

「ベル、これで涙を拭いて」

 優しげな表情で、テオはベルナデットにハンカチを差し出す。ベルナデットはそれを受け取り、涙を拭く。しかし、拭いても拭いても涙は溢れ出る。

「ごめんなさい、テオ」

「気にしなくていい。誰だって全てを放り出して逃げたくなる時はきっとあるから」

「でもテオは逃げないんでしょ?」

「ああ」

 やはりテオは真っ直ぐで真剣な目だった。

 ベルナデットは涙を拭う。その時、ぐうっとベルナデットのお腹が鳴る。丁度夕食の時間帯だ。

「ベル、とりあえず今は食事だ」

 テオはフッと優しげに笑った。






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 2人が入ったのは大衆向けの食堂だ。老若男女問わず賑わっている。

「ベル、落ち着いたか?」

「ええ、そうね」

 お腹を満たしたベルナデットは冷静さを取り戻した。

「私、凄く恥ずかしいわ。テオの事情は知らないけど、逃げない覚悟を決めていたなんて。逃げようとした私が本当に恥ずかしい」

 テオはベルナデットの話を黙って聞いている。

「語学もマナーや所作も他の勉強も、どれだけ頑張っても周囲に期待されているレベルに届かないの。あと少し頑張りましょう、とかあと少し、あと少し、毎日毎日そればっかり。もう疲れちゃったの」

 ベルナデットはため息をついた。

「確かに、頑張っているのにそれは辛いよな。それが毎日続くのはきつい」

 テオは優しげな表情で頷く。

「ただベル、考え方を変えてみないか?」

「どう変えるの?」

 ベルナデットは首を傾げる。

「1.01の法則と0.99の法則だ。1を365乗しても1なのは分かるか?」

「ええ、知ってるわ」

「じゃあ1.01を365乗したらどうなるかというと、大体38になる。一方、0.99を365乗したら大体0.03にまで減ってしまうんだ」

「そんなに減ってしまうのね」

 ベルナデットは目を見開く。

「そんだ。例えば、普段の頑張りを1としよう。それをあと少し頑張ってみて1.01にする。これを1年、つまり365日続けたら普段より38倍も成長している。逆にすこし手を抜いて0.99にしたら、1年後は0.03にまで減ってしまう。何で乗数計算なのかは分からないが、毎日あと少し頑張るのを積み重ねたら凄いところまで行けるかもって思えてこないか?」

 テオはフッと微笑む。

「……多少こじつけ感はあるけれど、確かにそうね」

 ベルナデットはその考え方に少し納得していた。

 その時、デザートが運ばれて来た。ボリュームがありそうなスモモのタルトだ。

「あれ? 女将おかみさん、俺達デザートは頼んだ覚えがないけど……」

 テオは首を傾げた。

「サービスだよ。特にそっちのお嬢ちゃん」

 食堂の女将はベルナデットに目を向ける。

「私がどうかしました?」

 ベルナデットはきょとんとしている。

「来た時元気なさそうだったからさ。これ食べて元気出しなよ」

 女将は包み込んでくれそうな優しげな笑みだった。

「……ありがとうございます」

 ベルナデットはほんのり温かい気持ちになり、穏やかな笑みを浮かべた。

 その時、食堂の扉が開き、客が入って来る。

「女将さん! さっき小公女様をモデルにした人気の演劇見たんだけどさ、凄くよかったよ! 女将さんもみた方がいいって!」

 興奮気味の男性客だ。

「小公女」という言葉にベルナデットはピクリと反応する。

「そりゃあたしもみたいけどさ、店を休むわけにはいかないさ。それよりあんた、早く席に座りなよ」

 女将に言われ、男性客はベルナデット達の近くに座った。

 ベルナデットは思い切って聞いてみることにした。

「ねえ、どうして私……じゃなかった、大公世女殿下のことを小公女様って呼ぶの? やっぱり何もかもが未熟だから?」

「何もかも未熟って、お嬢ちゃん怖いもの知らずだなあ。不敬罪にも取られかねないぞ」

 男性客はギョッとしている。

「まあ、未熟だって噂は聞くけれど、俺達は親しみを込めて小公女様って呼んでるな。仲間内でだけど」

 男性客はニッと歯を見せて笑う。

「そう……。じゃあその小公女をモデルにしたっていう演劇って何ていう名前なの?」

 ベルナデットは疑問に思ったことを聞いてみた。

「ああ、それは」

 男性客から演目を聞くと、ベルナデットは目を丸くする。

「私達が朝観たやつだわ」

「あれは伯爵家に引き取られた平民の少女の成長物語。人気の演劇には大衆の願望や思いが反映されている。もしかしたら民衆は大公世女殿下のこれからの成長に期待している可能性があるな」

 テオは少し考えてそう結論付けた。それに対してベルナデットは頬を赤くする。

「そうそう。今は未熟だったとしても、これから成長すればいいのさ」

 男性客は力強い笑みだ。

「それに、貴族は女性も爵位を継げるようになったみたいだしね。これから女性の地位も上がるんじゃないかとか、この先色々よくなっていく気がして期待を膨らませちゃうのさ」

 女将は明るい笑みで言った。

「そう……なのね」

 ベルナデットにとって周囲の期待は重く窮屈なものだった。しかし、男性客や女将の思いを聞いて、期待されるのも悪くないと感じた。

(あと少し……頑張ってみようかしら)

 テオから聞いた1.01の法則、そして民の思い。これらはベルナデットを前向きにしたのだ。







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 食堂からでたベルナデットとテオは、少し街を歩いていた。

「テオ、私……逃げずに帰ろうと思う」

 ベルナデットのサファイアの目は力強く輝いた。覚悟が決まった表情だ。

「送らなくて大丈夫か?」

「ええ、1人で帰れるわ。1人で帰らなければならないの」

「そっか。また会えるかは分からないが、応援してる」

 力強く微笑むテオ。

「テオ、本当にありがとう。私、今日の思い出を一生の宝物にするわ」

 ふわりと微笑むベルナデット。今日1番の美しい笑みだ。

「ああ」

 テオはヘーゼルの目を細め、手を差し出す。ベルナデットはその手を握る。最後の握手だ。

「ありがとう。……さようなら、テオ」

「さようなら、ベル」

 こうして2人は別れるのであった。

 ベルナデットは大公宮を目指して歩き出す。歩きながら、テオとの出来事を思い出す。

(本当に、夢見たいな1日だったわ。私は……テオを好きになってしまった。だけど、大公世女としての道に戻らなければ)

 サファイアの目からは涙が零れた。

 その時、ベルナデットを探していた大公宮の衛兵達がやって来る。

(時間切れね)

 ベルナデットは涙を拭い、衛兵達と共に大公宮へ戻るのであった。


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