彼女が俺に惚れている④
空気澄み渡る朝。
とっくにシーフードピザを消化し終わった腹を揺らしながら、俺はサンコーの校門をくぐる。
耳を傾けると朝練でもしているのか、体育館の方から床にボールをつくような音が聞こえてきた。
時刻は六時四十五分。
昇降口には誰もいない。
放課後とはまた違った静謐さが広がる早朝の学校は新鮮に思える。
階段を一段、一段飛ばさずに昇り、まずは二年A組の教室へ向かう。
今更になって西尾との待ち合わせに行くのが億劫になったわけではない。
先に通学鞄を置きに行こうと思っただけだ。
いつもより幅広に見える廊下の真ん中を歩き、慣れた手つきで扉を開く。
この教室の隣りにはもう、西尾がすでに来ていたりするのだろうか。
「あら、おはよう島田くん。あなたもシー・アム・レジェンドごっこをしに来たの?」
すると予想外にも、まだ誰もいないと思っていた二年A組の教室には先客がいた。
白蓮のような清廉な少女が、あろうことか教壇の上に登って立っていたのだ。
変なところで礼儀正しく、内履きはきちんと脱いでいる。
「……お、おはよう。有栖川さん」
「ええ、おはよう。島田くん。あ、そうね。あなたは男の人だからヒー・アム・レジェンドになるのかしら」
教壇の上から二度目の挨拶を返してくれるのは、有栖川アスミで間違いなかった。
しーあむれじぇんどだの、ひーあむれじぇんどの意味はさっぱりわからないが、きっと気にしても無駄だろう。
「いつもこんな朝早くに学校に来ているのか?」
「いつもではないわ。時々ね」
いつにもまして神秘的な有栖川は深い海を想起させる碧眼で俺を上から見つめている。
携えられた微笑は、どこか寂しそうにも見えた。
「こうやって早い時間帯に登校すると、教室に誰もいないでしょう? 普段なら沢山の人がいる場所で、自分の視界に人がいないと、まるで私以外の皆が世界からいなくなってしまったような気持ちになる。私だけが取り残されて、私だけ一人ぼっち。そういうのが私、好きなのよ」
有栖川の言う“そういうの”、の意味がいまいちよくわからなかったが、とりあえず曖昧に相槌を売っておいた。
ただ孤独になりたいと彼女が思っていることは、ほんの少しだけ意外だった。
「有栖川さん、一つ訊いてもいいか?」
「あら、島田くん。なにかしら?」
そして俺は僅かに残された疑問を胸に、どうしてもというほどではないが確かめておきたいことを訊ねる。
一週間ほど前も似たような問答をしたことがある気がするが、その時はどんなことを訊ねたのか覚えていない。
「君が去年まで俺に惚れていたというのは本当か?」
「……ええ、本当よ」
「なら、その後、俺に興味を失ってしまったというのも?」
「……ええ、それも本当よ」
思い切って訊いてみれば、守屋の言っていたことはどれも真実だったようだ。
一週間ほど前も、先に一つと言いつつ、二つ質問を重ねたような気がするが、その時の記憶はやはり煤けてしまっていた。
「それはなぜだ? できれば教えて欲しい。なぜ俺に惚れて、そしてなぜ俺から興味を失ってしまったのか」
「……島田くんはね、“ギロ”だったの。私にとってのギロがあなただった」
「なるほど」
全然なるほどとは思っていないが、とりあえず適当に頷いておく。
有栖川の話が突然飛躍することがあるのはすでに知っていたので驚きはない。
彼女はアホだが馬鹿ではない。
きっと彼女なりの意味がその言葉には秘められている。
「実は私、昔から誰にも見えていないものが好きだった。私はいつもすぐ皆に見つかってしまうから、誰にも見つからず、いつも一人ぼっちな人に憧れていた」
「……ああ、なるほど」
今度のなるほどは、本当にわかった上でのなるほどだった。
特別調子の良い今日の脳味噌は、有栖川の言いたいことを正しく理解する。
普通の女子なら、クラスで一番目立つような人気者の男子を好きになる。
少なくともそういった傾向がある。
しかし、有栖川は違った。
誰よりも目立ち、本人の意志に問わず常にクラスで一番の人気者であり続けた彼女の価値観は、奇妙な反発を生んでしまったのだ。
そう、反発。
つまりは彼女のベクトルは反対を向いてしまった。
クラスで一番の人気者ではなく、クラスで一番の日陰者を好きなるような性格になってしまったのだ。
有栖川にしか見えていないような存在、それこそがまさに俺だったというわけだろう。
「ギロも同じよ。皆が使わないから、私が使ってる。私が奏でなければ、誰もギロの音を知ってあげられない。だから私はギロを弾くの」
傲慢だな、とは思わなかった。
皆が好きだから、自分も好きになり、皆が嫌いだから、自分も嫌いになる。
皆が好きだから、自分は嫌になり、皆が嫌うから、自分は好きになる。
どちらが良いとか、そういうものではない。
皆が自分ばかり見るから、自分は皆が見ないものを見る。
それが有栖川アスミという人間で、俺はそれを美しい在り方だと思った。
「じゃあ島田くん、私からも一つ訊いていいかしら?」
「ああ、構わないぞ」
教壇にすくっと立ち、有栖川は指を一本立てる。
そしてクスッと笑い、俺に優しく問い掛けた。
「もしかしてあなたは今日、何か約束があって早く学校に来たんじゃないかしら?」
「ぬわぁっ!? しまった!」
俺は慌てて教室の壁に取り付けられた時計盤を見る。ちょうど七時になるところだった。
有栖川は指を一本立てたのではなく、時刻を指でさし示していたのだと遅れて知った俺は、鞄を自席に放り投げる。
「君の言う通りだ。俺はちょっと行ってくる」
「ええ、いってらしゃい」
にこやかに手を振る有栖川を置いて、俺は二年A組の教室を飛び出した。
実際は約束の空き教室はすぐ隣りなので、遅刻ということにはギリギリならないはずだった。
だが廊下に出た時、ふと思う。
有栖川は俺が誰にも見えていないから惚れたと言った。
では、なぜ俺から興味を失った?
その答えを聞きそびれた俺は、自分で推理してみる。
誰にも見えていないから好きになった、つまり有栖川以外の誰かが俺を見つけたから好きではなくなった?
そうか。
そういうことか。
彼女が見ていたように、彼女もまた見られていたのか。
「よお、やっぱりお前は時間通り来るな、島田」
ささやかな考え事は、空き教室に足を踏み入れた瞬間に途絶える。
一週間と一日前、数学の補講が行われた教室。
そこで俺はある一通の手紙を受け取り、その手紙を書いた人物は先客としてすぐ目の前にいた。
「……改めて、確認するぞ。お前がこの手紙を書いたんだな」
「ああ、そうだよ。間違いねぇ」
朝日が反射して煌めく金髪。
適度に着崩された制服。
不敵に笑う“西尾響”は、俺が取り出した手紙を一瞥すると、全てを認めた。
まるで悪びれる様子もなく、俺を真っ直ぐと見据えている。
「どうしてそんなことをした? お前は俺に惚れていない。そもそも恋人だっているんだろう?」
だから俺も負けじと西尾から視線を逸らさない。
正直に言えば、答えはもうわかっていた。
それでも確認する必要があった。
それにまだわからないこともあったのだ。
「へぇ? その顔、お前もだいたい見当はついてるみたいだな。やっぱりお前は大事なところで格好良い奴だな。……そうさ。その手紙は本物だよ。お前に惚れている奴はたしかにいる。手紙を“書いた”のはたしかにあたしだが、“差出人”はあたしじゃない」
手紙を書いたのは西尾だが、差出人は別にいる。
その答えはたしかに、俺の予想した通りのもの。
西尾の方はあっさり視線を俺から外し、空き教室の後方へと移す。
大きな黒の瞳は心底おかしそうにどこかを見つめているが、その視線の先には誰もいない。
「そうか。やはり、そうなんだな」
「おう、あたしはただの代筆だよ。なんでも文字を書くのが苦手らしくてな。それで頼まれたんだ」
「その代筆を頼んだは、やはり“あいつ”なのか?」
「他に誰がいるんだよタコ。補講の時もお前の一番近くにいた“あいつ”に決まってんだろ。気づくのが遅すぎるぜ」
自分はただの代筆。
真犯人は別にいて、その人物に頼まれただけだと言う。
しかもその人物は補講の時も、俺のすぐ傍にいた。
俺の席は廊下側の後方。
一番近いと言うと、有栖川になるが、彼女ではないことはそれこそ数分前に確認し直したばかりだ。
だが、それででいい。
西尾は嘘を言っていない。
おそらく全てが真実なのだろう。
「いるんだな。今日も、あの日と同じ様に、“そこに”」
「ああ、お前のために呼んでやったぜ」
「しかしなぜだ? 俺にはどうしてもわからないことが——」
「おいおい、そういうのは本人に訊けよ。せっかくすぐ“そこに”いるんだから」
「……そうだな。そうした方が早い」
空き教室を見渡しても、俺と西尾以外の人影は見当たらない。
それでも俺にはわかっていた。すぐそこに彼女がいるということが。
「ほら、出てこいよ。“ササ”、お前の愛しのシャーロッくんが呼んでるぜ?」
西尾が放ったその一言が、俺の推理が正しかったことを示す。
ササ、シャーロッくん、そのどちらも俺にとっては馴染みのある呼称だったが、そのどちらも西尾の口から出ることはありえないはずの言葉。
ありえない、はずだった言葉。
視界の隅で蠢く、小さな小さな影。
西尾が教室の後方をずっと見つめていたことに意味があったのだと知っていた俺は、昨日感じた一週間全てがひっくり返ってしまうような衝撃を思い出していた。
「これはこれは、シャーロッくん。どうしたんだい? ずいぶんと浮かない顔をしているけれど」
音もなくゆっくりと開かれていく“清掃用具入れのロッカー”、その中から姿を現す一人の少女。
その小学生かと見紛うほどに小柄な女子生徒の名を俺はよく知っている。
「チャチャ、なんだな?」
「そうさ。つまりはそういうこと。僕が君に惚れている」
——“守屋茶々”。
助手役でも、探偵役でもなく、真犯人役として彼女は俺の前に姿を現したのだった。
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