彼女が俺に惚れている②
もうほとんどの生徒が部活に向かったか、またはとっくに下校してしまったせいで閑散としている校内。
俺は期待に弾む胸を必死で抑えつけながら、綾辻女史がいるであろう職員室に向かっていた。
守屋はミステリ同好会に残ったままで、一緒に来てはいない。
綾辻女史という真犯人との最後の対決の際にはぜひとも隣りにいて欲しいと頼んだのだが、残念ながらそれはすげなく断れてしまった。
なんでも守屋はこれから人と会う約束があるらしい。
その相手が誰なのかは教えてくれなかったが、俺のよく知っている人とも彼女は言っていた。
誰のことだろう。
気になることは気になるが、彼女の方に俺が付いて行くわけにもいかなかったので、その内また訊いてみようと思う。
とにかく今は、綾辻女史が最優先だ。
これほどまでに職員室が遠くに感じるは初めてで、同時にここまで職員室に向かうのが楽しみなのも生まれて初めて経験だった。
手紙の差出人。
つまり俺に惚れている人物はもう、消去法的に考えて綾辻女史以外にありえない。
俺に惚れているのが生徒ではなく、教師という盲点を突かれたせいで真実に辿り着くまでに時間がかかってしまったが、それもやむなしというところだ。
なにせ相手はあの綾辻女史だ。
むしろ彼女が学生だったとしても、俺に惚れているかもしれない人物リストにはおいそれと追加できない相手といえる。
しかし、今になって改めて考えてみると、綾辻女史こそが俺に惚れている人物だと仮定すると、ありとあらゆる事がクリアになってしまうものだ。
まず状況的に見れば、補講中の教室を自由に歩き回れるという圧倒的アドバンテージがある。
俺がトイレに急いで行った結果開けっ放しになった扉を閉めるだの、問題を解く生徒たちを見て回るだの理由をつけてもいいし、特に意味もなく気分でもいい。
とにかく綾辻女史が教室内をいくらウロウロしても、それを誰も不審には思わないはず。
手紙の差出人の名前がなかったことも、綾辻女史の立場を考えれば実に自然なことだ。
生徒と教師の恋愛など、いわば禁断の愛の一つに近い。
そうなると、もしこの手紙を俺がヘマか何かをして紛失してしまった場合非常にまずいことになる。
こんなものが他の生徒や職員に見つかれば大スキャンダル。左遷等されてしまうかもしれない。
そういった最悪のケースを想定した結果、差出人である自分の名前を綾辻女史は書かなかったのだ。
なぜ俺に惚れたのかという謎に関しても、冷静に考えればおのずと答えは導き出される。
そもそもあの部屋の中にいた四人の容疑者の中で、綾辻女史と他の三人で決定的に異なる点がある。
それは、年齢だ。
他の三人が十五、十六歳という希望に満ち溢れ、男なんて選びたい放題の年頃なのに比べて、綾辻女史は三十オーバー。
もう希望など搾りカスのようなもので、選択肢だってほとんど残されていない。
要するに彼女だけは追い詰められていたのだ。
それはもう血迷って島田紗勒とかいう何の取り柄もない男子高校生に惚れてしまう程度にはハードルがだだ下がりしていたに違いない。
可哀想な人だともいえる。
無愛想なせいで気づきにくいが顔立ちは悪くない、むしろそれなりに上玉だろう。
スタイルだって、包容力の証となる二つの果実こそ実りが薄いが、手足はすらっと細長く、腰つきも適度に引き締まっていてこれ以上は望むまい。
若い頃はそれなりに男たちから言い寄られたのだろうと想像できるくらいには魅力的な女性だった。
だが結局は、何も特筆する能力のない男子高校生に妥協するありさま。
もちろん、俺には綾辻女史を拒絶するつもりはない。
教師と生徒という関係性だろうが、妥協に妥協を重ねた苦渋の決断だろうが、綾辻涼子という一人の女性が俺に惚れたことに変わりない。
俺はそれに対し誠実に、素直に、思いのままに応えるだけだ。
「ふぅ……失礼します」
ついに職員室に辿り着いた俺は、一度深呼吸をした後、二度のノックを経てその内側へ足を踏み入れる。
思えばこの一週間でここへやってくるのは何度目になるだろう。
これほど身近にいたのにも関わらず、その想いに気づいてあげられなかった。
甚だ申し訳ない。
しかしそれも全て、これで終わりだ。
慣れた足取りで綾辻女史の席へと向かう。
見慣れた、いっそ懐かしさすら感じる年のわりには美麗な横顔はすぐに見つかった。
「先生、少しお時間をよろしいでしょうか?」
少し上擦っていることを自覚した声を綾辻女史にかける。
彼女は今日も大して仕事もせず、一人静かにどこかでみたような文庫本を夢中になって読んでいた。
声に対する反応はない。
どうやら俺に気づいていないようだ。
想い人がすぐ隣りにいるのに無反応とは、これだから行き遅れるのだとつい説教したくなる。
その衝動は抑え、実に紳士的に俺はもう一度声をかけた。
「綾辻涼子先生、俺です。島田です。少し話を聞いて貰いたいのですが?」
「……うるさいな。そう何度も言わなくても聞こえている。声からお前だとわかって、ただ無視していただけだ」
そしてやっと本を閉じ、俺の方を向いたと思えば、やれやれといった調子で綾辻女史は中々に酷いことを言う。
これがツンデレーションという奴だろうか。
そう思えば可愛らしく思えないこともない。
「俺よりその古めかしい本の方が大事なんですか? というかそれずっと読んでますよね。そんなに面白いんですか?」
「私は本を読むのが遅くてな、空き時間を使っているんだが中々読み終わらないんだよ。これは私が顧問をしている部活の生徒から貸してもらったものだが……そうだなぁ、面白いかどうかと問われれば、お前と話をするよりはよっぽど有意義なものさ」
「傷つきました先生。責任をとってください」
「気色の悪い言い回しをするな島田。半分冗談だ。お前との会話も、まあ、愉快ではある。それで? 何の用件だ?」
ちょうど一週間前の補講の時から、綾辻女史はずっと何やら読書にハマっている様子だったが、聞けば生徒から借りたものらしい。
顧問と言っているので部活関係だとは思うが、彼女が何の部活を担当しているかは知らなかった。
古い文庫本なのでどうせ文芸部あたりだろう。
特別興味もわかない。
さっさと本題に入ることにする。
「用件というのはですね、実は先生にどうしても確認したいことがあるのです」
「なんだ。言ってみろ」
「いえ、ここでは言いにくいことなので、できれば別の場所で……」
「ここでは言いにくいことだと? ……はぁ、面倒だな。まあいい。なら場所を変えるぞ」
プライベートな話題だ。
職員室で盗み聞きされたらたまったものではない。
俺からの真面目な内容の相談事に心当たりがあるのか、綾辻女史も二つ返事で場所を移すことを了承してくれる。
他人に聞かれたくないのは、きっと彼女も同じなのだ。
「とりあえずはここでいいだろう。それで? なんなんだ?」
コーヒーの香ばしい匂いが充満している職員室を抜け出し、寂れた備品室があるだけの廊下の突き当りまで移動し、綾辻女史は顎をしゃくり話を促す。
その鋭い眼光にはたしかに真剣な色が宿っていて、俺の話を本気で受け入れる体勢を取ってくれていることは理解できた。
すぅ、と息を吸い込み、俺も彼女の想いに真正面からぶつかることにする。
ついに、この時が来た。
俺は覚悟を決め、はっきりとした言葉で綾辻女史に問い掛ける。
「単刀直入に訊きます……先生は俺を一人の男として好んでいて、この前の数学の補講中に、俺にラブレターを渡しましたよね?」
綾辻女史の両目が大きく見開かれ、長い睫毛が何度か上下運動をする。
口腔も微かに開き、彼女にしては無防備に驚愕しているのがよくわかった。
俺は言ってしまった。
全てに気づいたということを。
もう戻れない。
俺と綾辻女史は、もうこれまでの関係には戻れないだろう。
でもそれでいい。
きっとそれでよかったのだ——、
「……まったく、珍しくお前が真剣な顔をしていると思ってみれば。私がお前みたいなチンチクリンを異性として見るわけがないだろう。どう勘違いしたらその結論に至るんだ。お前は本当にクソだな島田」
——と、一人勝手に俺がビターなエンディングを迎えていると、綾辻女史がそれを問答無用で真っ二つに断ち切ってしまった。
愛しのフィアンセをチンチクリンだのクソ呼ばわりとはいったいどういうことだろう。
「え? 先生は俺に惚れているんですよね?」
「おい島田。お前本当に私の時間を返せ。私はお前の妄想を聞いてやるほど暇じゃない」
あからさまに大きな溜め息を吐き、偏頭痛持ちなのか、額に手をやって苦々しい表情をしている。
その綾辻女史の本気で疲労と落胆をしている様子は、どうやら演技ではなさそうだ。
つまり、あまりにも受け入れがたいことだが、彼女は俺に惚れていないらしい。
「馬鹿なっ! 俺にラブレターを出したのが、有栖川でも、西尾でも、法月でも、そして先生でもないだと!? ありえん! ありえんぞこれは!」
「しかし、これはこれで心配になるな。ついに島田の頭がおかしくなったようだ。孤独による妄想癖が悪化して、本当は存在しないラブレターを貰った気になっているとは」
綾辻女史はなんとも言えない憂慮の視線を俺に注いでいるが、そんなことを気にしている場合ではない。
これでとうとう、完全に、容疑者がいなくなった。
数学の補講の時間、教室の中にいた四人全員が容疑を否定。
もうどうしようもない。
まさか綾辻女史の言うように、手紙に関わることは全て妄想か夢か何かなのか。
本当は今も数学の補講の時間で、俺はあまりの腹痛に意識を失って、そのまま寝たきりになっているのかもしれない。
「先生! ここは現実ですか! それとも夢の中ですか! もし夢の中であれば俺を今すぐ抱き締めて、愛している、とそう囁いてください! 綾辻涼子は島田紗勒を愛していると伝えてください!」
「ここは現実だ島田。だから今すぐにその馬鹿なことを公共の場で叫ぶ馬鹿な口を閉じろ馬鹿島田馬鹿」
綾辻女史は焦った表情でいきなり俺の口を抑えつける。
周囲を慌ててきょろきょろ見回す様子から、わりと本気で狼狽しているようだ。
頬もちょっぴり紅潮していて、俺の口を抑えつける彼女の手は年の割りには柔らかくいい匂いがした。
やはりここは夢の中かもしれない。
「ごほんっ! まったく、では私はもう戻るぞ? いいな? 西尾にフラれたのか、法月にフラれたのかは知らんが、いい加減正気に戻ったらどうだ? ……ただもし、この先も本気で悩み続け、どうしようもなくなったら、また私のところ来い。話相手くらいにはなってやる」
そして俺が大人しくなると、珍しく照れた雰囲気で視線を合わせず、何かを誤魔化すような咳払いをしてから綾辻女史は職員室の方へ戻って行った。
諦観にうちひしがれた俺はろくな返事もせず、呆然と立ち尽くしていた。
綾辻女史もまた、俺に惚れていなかった。
これはどうしようもないくらいに現実で、否定の余地はない。
俺は縋るようにブレザーの内ポケットに入っていた手紙を取り出し、もう一度中身を読み返す。
ここにはたしかに俺への想いが記されているのに、その想いを伝えた人物は探しても探しても見つからない。
いったい誰がこの手紙を書いたのか。いったい誰が俺に惚れているのか。どうやっても答えは出ない。
「……ねぇ、さっき綾辻先生と何の話してたの?」
「ひぃゃあっ!?」
するとその時、ニョキっといった擬音が付きそうなほど不意に、一人の少女が背後から顔を俺の横に突き出してきた。
あまりに気配がしなかったもので、俺は数センチほど飛び上がってしまう。
「なんか、西尾って名前と、あと私の名前も聞こえた気がしたんだけど?」
「の、法月っ!?」
驚きを隠せないまま振り返ってみれば、そこではジャージ姿の法月知恵がジトッとした顔つきで俺を見やっていた。
こいつどこから現れたんだ。まったく気づかなかったぞ。
「脅かすなよ、法月。というかいつからそこに?」
「質問に答えて。何の話してたの?」
どうも今の法月は猫かぶりモードではないらしい。
というより、おそらくこれから先、俺と二人っきりの時はずっとこちら側の態度で接するつもりなのだろう。
二度と話しかけるなと言われたような気がするが、そのわりには今日の昼休みといいよく話しかけてくるなと思った。
裏の人格が多少アレでも、顔は可愛いのでべつに俺は困らないが。
「いやなに、俺に渡されたラブレターの差出人が綾辻先生ではないかと思って尋ねていたところだったんだ」
「ラブレター? ああ、そういえばなんか、あんたを家から蹴り出した時もそんなこと言ってたわね。なに? 差出人がわからないの?」
「ああ、そうなんだよ。ラブレターを俺に出したのが法月なのかと思っていた時もあって、その関係で君の名前が少し出ただけだ」
「なにそれ最高に不愉快。ふざけないで。だいたいあんたにラブレターって本当なの? 妄想のし過ぎで幻覚が見えてるんじゃない?」
「し、失礼な! 手紙は本物だ!」
いきなり現れて、あからさまに人を馬鹿にしたような態度をとるとは礼儀のなっていない奴だ。
それにしても綾辻女史といい、法月といい、なぜ皆して俺の正気を疑うのだろう。
そんなにラブレターを渡されなさそうな人間に見えるか?
いや、見えるか。
「じゃあ見せてよ。その手紙」
「え? なぜだ?」
「そうしたらあんたの妄想じゃないって信じてあげる」
「べつに法月に信じて貰う必要性もないんだが——」
「いいから見せる! ほら早く!」
「わ、わかったわかった。これがそうだ」
法月は軽く苛立ったように急かすので、仕方なく手紙を彼女に手渡す。
西尾もそうだが、バスケットボールをやると女性は皆このように強引になり、凶暴性がましてしまうのだろうか。
「ふーん。一応本当だったみたいね……ってえ? 嘘、でしょ。これって……」
「だから言っただろう。手紙は本物だ。差出人の名は書いていないがな」
俺に渡された手紙を読むと法月は絶句する。
口をまるで餌を見せびらかされた金魚のようにパクパクとしては、小声で信じられないを連呼していた。
実際のところ驚くのも無理はない。
俺だって初めは信じられなかったからな。
「もういいだろう? ほら、返せ。とにかく手紙が存在していることだけは確かなんだ」
「……私、わかる」
「ん? わかる? すまん法月、何がわかるんだ?」
手紙をいまだに俺へと返却しない法月は顔を上げると、幽霊でもみたかのような表情でぽつりと呟く。
ドクン、と胸が一度大きく鼓動するのがわかった。
胸騒ぎという奴だ。
俺は本能的に、法月が何か状況を一変させてしまうようなことを言おうとしているのだと悟った。
「私、この手紙を誰が書いたのかわかる。間違いない。たぶん、わかるのは私くらいだと思うけど、確信を持って言える」
「おい、それは本当なのか法月? な、なぜわかるんだ? 差出人の名前は記されていないのに?」
「文字を見ればわかる。この筆跡はたしかに“アイツ”のもの。ずっとアイツだけを見てきた私にはわかる」
アイツ。
法月が俺に対してそう呼ぶ奴は、たった一人しかいない。
しかし、それはあり得てはいけない事だった。
有栖川アスミ、西尾響、法月知恵、綾辻涼子。
俺に惚れている可能性があった人物には全員否定された。
ただこの四人の中にたった一人だけ、俺に“惚れていない”のではなく、俺に“惚れてはいけない”はずの人物がいる。
真実はすぐ傍にある。
しかしそれはいまだ闇の中にあった。
「……この手紙の筆跡は、間違いなく“西尾響”のもの。私にはわかる。このあんた宛てのラブレターを書いたのはヒビキだよ」
——
法月はどこか怒っているような、哀れんでいるような瞳で、静かにそう言い切った。
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