もしかしたら彼女が俺に惚れているのかもしれない②



 昨日の夜、結局どうやって数学の補講から自宅まで帰ったのか全く覚えていない。

 島田紗勒、あなたのことが好き、この二つのパワーワードが網膜に焼きついた瞬間、俺の意識は一時的に麻痺してしまい、その後の記憶は部分的に欠落してしまっていた。

 ようやくまともな思考を取り戻したのはその翌朝、つまりは今日になってから。

 タミフルをぶち込んだ後のような浮遊感こそあったが、無事に登校することはできた。

 しかし俺の学校生活はいつも通りというわけには当然いかなかった。

 それはそうだ。

 なぜなら同じ校内に、俺に惚れている女の子がいるのだ。平然としていられるわけがない。


「ぐふっ、ぐふふふっ! これがこの世の春という奴かっ!」


 あまりに興奮しすぎてやたら芝居がかった独り言すら出てくる始末。

 これが今のように自分の家に帰宅してからならいいのだが、覚えている限り、学校で授業を受けている最中もニタニタしていた気がする。

 だがどうせ誰も見ていまい。

 そこまで気にする必要もないか。


「……ねぇ、兄貴。さっきからその独り言と変態面マジキモいんだけど。早く昇華して」


 するとそんなご機嫌な俺に水を差す愚か者がいる。

 このどこか舌足らずな声の源は、俺の妹である小楠こなんだ。

 普段の俺ならば思春期にありがちな軽口にもいちいち腹を立てていただろうが、今の俺はそこまで苛立ちはしない。


「でゅふふ、すまんな小楠。顔については俺の意志ではどうしようもないが、独り言の方に関しては善処しよう」


「ほんと勘弁してよね。一緒の部屋にいるってだけで不愉快なんだから」


「そうなのか? ちょっと前は毎日、おにぃ! おにぃ! って俺と一緒のベッドに入れないと泣き喚いていたじゃないか」


「はっ!? ば、馬鹿じゃないの! いつの話してんのよ! そんなの小学校の頃の話じゃん! あとソレうちの真似のつもり? 超キモイからマジやめて!」


 俺が続けて、おにぃ! おにぃ! と迫真の演技をすると、小楠は顔を真っ赤にして二段ベッドの上からクッションをぶん投げてくる。

 なんとも攻撃的な女子高生だ。

 どうにも母の悪いところを継いでしまったらしい。


「だいたいあり得ないでしょ。なんで華のJKにまでなって、こんなうだつの上がらないポンコツ兄貴と同じ部屋なわけ? 友達はみんな一人部屋持ってるのに」


「よそはよそ。うちはうち。いつも母さんが言ってるだろ」


「だから! それにも限度があるって言ってんの! これだからサンコーは。行間も読めないの?」


 心底呆れたといった様子で小楠はこれ見よがしに首を振る。

 サンコーというのは俺の通う高校のあだ名のようなもので、小楠の通うイッコーに比べると偏差値が二十以上は違う。

 我が妹は胸部の膨らみの成長具合を除けば中々に優秀なのだった。


「いま、兄貴なんか超失礼なこと考えたでしょ」


「まさか。俺はたしかに不出来な兄だが、だからといって妹の価値を低く見積もるほど愚かではない。それに小楠からしてみれば、俺のような無能が兄にいることに羞恥を感じているであろうことくらいわかっているさ」


「そ、そこまでは言ってないじゃん」


「高校一年生にしては若干成長が遅いことだって、見方を変えればストロングポイントだしな」


「へ? 成長が遅い……きゃ! さ、最低! 最低最悪の変態セクハラ兄貴! 馬鹿! ばーかばーか!」


「どうした小楠。イッコーとは思えない語彙のなさだぞ」


 何かが琴線に触れたのか、また小楠は顔を熟れたトマトのようにしてクッションを放り投げてくる。

 いったい何個クッション持っているのだろう。


「ほんっとデリカシーがない。ノンデリマジキモイ。早く私専用の部屋空けてもらえるようにもっかい相談しよ」


 ついに投げつけるクッションがなくなったのか、小楠はベッドの上から降りてきて、辺りに散らかったクッションを丁寧にも回収し始める。

 実際のところでは、我が家には部屋が足りていないわけではない。

 俺と小楠の部屋以外にも、幾つか誰のものでもない空き部屋があるのだが、とある事情でその空き部屋は使えない状態となっているのだ。

 そのとある事情とは、我が家の問題児である父の度が過ぎた収拾癖だ。

 俺の父は少しばかり変わっていて、目についたものをなんでも拾ってくるという迷惑極まりない癖を持っている。

 ある時は旧型の家電製品、ある時は最新型の音楽再生プレーヤー、ある時はいつの時代のものかわからない等身大のブリキ人形。

 とにかく多種多様に、家に帰って来るたびにわけのわからないものを持ち込んでくるので、その置き場所とした幾つかの部屋が潰されてしまっているのだ。

 おかげさまで我が家には四人家族にも関わらず掃除機と電子レンジと自転車が二桁ほどある。

 父本人は、必要ないと思ったなら勝手に捨てていいよ、と言っているのだが、俺たちがその言葉通り勝手に捨てるペースより、父が拾ってくるペースの方が圧倒的に早いのでどうしようもない。


『た、ただいまぁ……』

『ねえ、あなた? ソレ、ナニ?』

『あ、あはは、どうしても放って置けなくて——』

『おんどりゃなんどゴミを持ちかえってくんなと言えばわかるんじゃあこのボケカスがああああ!!!!!』

『ひぃぃっ! ごめんなさぁぁいいい!?!?』


 父が帰宅するたびに母から強烈なドロップキックをお見舞いされる光景にもいまや何も驚きを感じなくなった。

 さすがにリビングと寝室、俺と小楠がいる部屋には拾ってきた物を持ち込みはしないが、その他の部屋全てに父は拾い物を適当に放置している。

 そのせいで現在我が家に使用可能な空き部屋がなくなっているのだ。

 たちが悪いことに父は拾ってくるだけで、それを実際に活用しようとは一切しない。

 かつて自室だった部屋も当然物置と化しているので、普段はリビングのソファーで寝起きしているようだ。


「というか兄貴、さっきから何見てんの?」


「ん? ああ、これか。べつに大したものじゃない」


 するとクッションの回収作業をしていた小楠が、机の上に広げられていたノートを覗き込もうとするので、さっと手で隠す。

 さすがに俺にも最低限の羞恥心はあるので、例の手紙は小楠の前では見ないようにしていた。

 いま俺が見ていたのは、三人の容疑者のデータをまとめた新品のノートだ。

 だがこれもまた中身を見られるのはあまりよろしくないことだろう。


「ふーん、ならなんで今隠したの?」


「い、いやいや、隠しているつもりはないけど、ほら、俺の汚らしい文字で小楠の綺麗なお目めを汚すのも悪いかなと」


「なに言ってんの。兄貴って字だけは上手いじゃん」


「ほ、ほら、それは言葉の綾というやつさ」


「へぇ〜? というか、さっきからニヤついてるのも、そのノート見ながらだよね?」


「そんなことはないさ。俺はいつだってニヤついている」


「たしかに兄貴は基本的にキモイけど、なんか今日はいつも以上にキモさに磨きがかかってる気がするんだよね」


 小楠はジトッとした目つきで俺とノートを交互に見やる。

 なんて粘着質な妹なのだろう。

 クッションを全部拾い終わったなら、早く定位置に戻って欲しいものだ。


「まあ、べつになんでもいいんだけどさ……」


「そ、そうさ。小楠が気にする必要はまったくな——」


「隙あり!」


「な!? しまった!?」


 しかし、いったん視線を外すという高度なフェイントを入れたかと思うと、俺のスペックを遥かに上回る俊敏性でノートを小楠がひったくる。

 完全に虚をつかれ、まるで反応できなかった俺は、猫のようなすばっしこさで後退する小楠をまったく捉えられない。


「か、返すんだ! 小楠!」


「こんなに兄貴が焦るなんて珍しい。どーれどれ。何が書いてあるのか……え?」


 興味津々といった様子でページを捲っていくと、すぐにその動きが止まる。

 そして刹那の静寂。

 大きな黒目がノートをゆっくりとなぞっていき、やがて俺の方へ向けられる。

 その視線にはあまりに温度がなく、妹の逆鱗というものに生まれ初めて触れてしまったのだと本能的に悟った。


「……兄貴、そこに正座」


「ま、待て小楠。それにはちゃんとした理由ワケが——」


「正座」


「はい。正座します」


 拾い集めたクッションをやけにゆったりとした動きでベッドの上に戻すと、小楠は俺が先ほどまで座っていた椅子に腰かけ、疲れたように目頭を抑えた。


「たしかに頭も悪くて運動神経も鈍いヘッポコな兄貴だけどさ、うちは一応は信用してたんだよ」


「はい」


「顔つきも冴えないし、陰気なオーラに包まれてるのは間違いないけどさ、それでもやっぱりたった一人の兄貴だし信用してたの」


「はい」


 なんだこの状況は。

 小楠は淡々と低い声色で言葉を呟き続けている。

 このようなシーンを俺は何度か見たことがある。

 それは母が重大なやらかしをした父に説教する時の光景だ。それがまさに今再現されていた。

 しかし、なぜ俺がこんな状況に追い込まれているのだ。

 結婚十周年の記念日を、潮干狩りに夢中になってすっぽかすようなミスをしたわけではないのに、なぜ俺は正座をしながら頭を垂れているのかまったくわからない。


「それなのに……まさか、実の兄貴がストーカーになるなんて」


「待て待て待て! それは誤解だ! とても大きな理解の齟齬が生じているぞ!」


「なーにが誤解なわけ!? 同学年の女子生徒の名前と個人情報しか書かれてないノート! どう見てもこんなのストーカーノートじゃん! しかもこれ見ながらニヤニヤしてたんでしょ! マジ無理! キモ過ぎる!」


「だから違うんだって! それには本当に大きな理由があるんだよ!」


「はあい!? 仲良くもない女子生徒の名前をノートに並べる正当な理由があるなら是非とも聞かせて欲しいものですねぇ!?」


 もうこれは駄目だ。

 小楠は完全に母さんモードに入っている。

 小手先のテクニックは通用しない。

 手持ちのカード全てを切らなければ、父のように月単位で奴隷の如く虐げられる未来が訪れることだろう。


「そこの俺の机の引き出しに入っている手紙を見てくれ」


「なに? これ以外にも犯罪の証拠がまだあるの?」


「ぐっ! い、いいから、とにかく見てくれ」


 俺は諦観し、全てを白日の下に晒す決意を固める。

 昔から小楠の前では隠し事ができなかったものだ。

 今回もその例に漏れなかったというだけのこと。

 それに冷静に考えてみれば、これは俺の汚点でもなんでもない。

 むしろ人生におけるハイライトを飾るような出来事だ。

 恥ずかしいのは事実だが、その恥ずかしさはどちらかといえば照れに近いもの。

 兄としての威厳を手に入れられる可能性だってあるかもしれない。


「手紙ってこれ?」


「そうだ」


「ふーん。まあ一応見て上げるけど……ってえ? 嘘でしょ?」


 この日二度目の驚きを小楠は迎える。

 その驚愕に見開かれた瞳は先ほど以上のものだ。

 というか驚き過ぎではなかろうか。

 もう呼吸すら怪しくなっているぞ。

 口をパクパクと餌を眼前に掲げられた鯉のようにしているが、こんな表情の小楠は初めて見た。


「……まさか、これ自分で書いたんじゃないよね?」


「なにを!? それはさすがに俺を軽んじすぎだろ!?」


「うーん、そうだよね。たしかにこれはおにぃの字体じゃないし……」


 呼び名が兄貴からおにぃに変わってしまっていることにもあまりの動揺のせいか気づいていないらしい。

 視線だけで手紙を焼き尽くすのではないかという勢いで、時折り苦しそうな呻き声を上げながらも、必死の形相で文字を追っている。

 いや、必死過ぎだろ。

 なぜ呻いているのかよくわからない。


「……信じられないけど、これ、兄貴宛てのラブレター、だね。本当に信じられないけど」


「実はその手紙を貰ったのは昨日なんだが、誰からのものかわからなくてな。そして、その差出人の候補者がそのノートに書いた三人なんだ」


「ふーん。たしかに送り主の名前はないね……」


 俺は昨日の数学の補講中に起きた大事件について詳しく説明する。

 その間もずっと小楠は渋い、彼女にしてはブサイクよりの顔をし続けていた。

 せっかく実の兄に今世紀最大の追い風が吹いているというのに、あまり嬉しくはなさそうだ。


「それで、どう思う?」


「どうって言われてもねぇ」


 いまだに小楠は手紙とノートを手放さず、真剣な面持ちで両方を見比べている。

 その割にはどうも歯切れが悪い。

 やはり所詮他校の生徒の話なので、色々と口出ししにくいのだろうか。


「……あ、でもこの人は知ってる。というか、この人もサンコーだったんだ」


「ん? 誰のことだ?」


「有栖川って人」


「ああ、そうか。オナチューだもんな」


 有栖川の名が小楠から出て一瞬不思議に思うが、そういえば我が妹も俺と同じ中学校だったのでそれも納得する。

 しかし一学年下にまで知られているとは、さすが有名人だな。


「同じクラスってメモってあるけど、この人と仲良いの?」


「いや、たしかにクラスは同じだが、直接話したことはほとんどないな。中学時代も含めて」


「そうなんだ。意外」


「ん? なにが意外なんだ?」


 ここで少し小楠の言葉に引っ掛かりを覚える。

 意外。

 意外とはどういうことだろう。

 俺がどちらかといえば日陰側に属する人種だということは、小楠もよく知っているはずだ。

 それにも関わらず、派手気味で、むしろかなり目立つ有栖川との間に接点がないことに意外性を感じるのはおかしな話だ。


「だって中学の頃、うち、この人に話しかけられた事あったからさ。兄貴の数少ない女友達かと思ってた」


「え? 有栖川に話しかけられた?」


 それこそ、意外性に満ちた言葉が妹の口から唐突に飛び出し、俺は自分の耳を疑う。

 俺の妹である小楠に、中学時代の頃から有名人だったあの有栖川が声をかけた?



「島田紗勒くんの妹さんでしょ? いつもお世話になっています、って話しかけられたから、てっきり兄貴と仲良いのかと思ってたけど違うんだね」



 初耳過ぎる情報に、俺はもしやと疑念を抱く。

 サンコー二年A組が誇る校内一のクールビューティ有栖川アスミ。


 もしかしたら彼女アリスガワが俺に惚れているのかもしれない。



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