もしかしたら彼女が俺に惚れているのかもしれない③
有栖川アスミという少女について俺が知っていることは驚くほど多い。
それはべつに俺が特別な関心を持って彼女のことを調べ上げたわけではなく、同じ学校に通うだけで自然に蓄積されていったものだ。
俺のなけなしの尊厳のために改めて強調しておくが、ストーカーなる行為を働いたことは一度たりともない。
西洋人の母を持ち、その血がほどよく作用した結果生まれた妖精のような美貌。
もちろんその外見が彼女を有名にした大きな要因の一つではあったが、それが全てではなかった。
むしろ彼女のある意味特殊といえる内面が、有栖川アスミという名が好意的な印象と共に広まったことの主な要因といえるだろう。
二年D組の法月知恵は男女問わず、さらにいえば学年を越えて分け隔てのない積極的なコミュニケーションを取ることで人気を博している。
一方有栖川はどちらかといえば、自ら進んで他者と関わろうとするタイプではなかった。
むしろ休憩時間などは読書などをして、一人で過ごしている様子もよく見かける。放課後は彼女の所属している軽音楽部へ活動しに行くというが、部内ではグループを組めず、孤立しているというのも有名な話だ。
しかし、それでもなお、有栖川アスミという少女は、いっそどこかの絶滅危惧種の小動物に向けるものに近い愛情を学校中から注がれているのだ。
先ほど孤立していると言った軽音楽部でさえ、他の部員から有栖川はアイドルか、はたまた女神のような扱いを受けている。
おそらくこれらの有栖川に関する話を聞いた部外者は不思議に思うはずだ。
いくら顔立ちが整っていても、この内向的な傾向を持つ性格ならば、好まれることはおろか、むしろ下手をすれば妬み嫉みの対象になってもおかしくはない。
だが実際には、法月知恵と同様に有栖川アスミもまた男女問わず、さらにいえば学年を越えて好かれ、受け入れられた存在なのだった。
そしてその理由は、ほんの少し彼女の日常を、遠目からでもいいから観察してみればすぐに分かる。
「……では革命期フランスの人間であり、余の辞書に不可能の文字はない、という有名な台詞で知られる軍人が誰だかわかるか? そうだな。よし、有栖川、答えてみろ」
「はい。鯖川先生。プードルちゃんです」
「ああ、その通りだな。私の名前は鮎川だが、正解は今、有栖川が答えた通りナポレ……っては? な、なんだって? 今、なんて言った?」
「どうしました、鮪川先生? ボナパルティズムと呼ばれる専制的な権力体系を創り出し、コルシカの悪魔という悪名でも知られる、プードルちゃんのことでは?」
「いや、待て待て。有栖川。それはどう考えてもおかしいだろう。そこまで詳しく知っていて、なぜその謎の呼称が出てくるんだ? あと私の名前を魚違いで間違えないでくれ。いくらなんでもマグロはないだろ」
先に明言しておこう。
有栖川は決してふざけているわけではない。
どこまでも澄んだ蒼い瞳には、世界史の担当である鮎川先生に冗談を言って困らせようといった意思はまったく見えない。
そう。
素でこれなのだ。
彼女は本気で、革命期フランスを代表するあのナポリタンみたいな名前の軍人をプードルちゃんだと言い張っているのだった。
「あ、あー、まあ、その、なんだ。あれだな。有栖川は何か勘違いをして覚えてしまっているようだが、いま私が説明したのは、ナポレオン・ボナパルトのことだ。皆も注意するように」
「虻川先生、そのナポリタン・ボナパルトというのはプードルちゃんのことを指す異名の一つでしょうか? なぜプードルちゃんのことをそのように呼ぶのですか?」
「よく聞け、有栖川? まず、ナポリタンではなく、ナポレオンだ。そして、そのプードルちゃんではなく、ナポレオンの方がより一般的で、正式な呼称だ。わかったか? あと私の名前はアユカワだ。アブカワではない。惜しいようで全然惜しくないぞ。もう魚ですらない」
「なるほど。わかりました鴨川先生。たしかにナポリタンはフランスはおろか、むしろイタリアですら使われない呼称と聞きます。プードルちゃんと呼ぶのは日本だけなのですね。認識を訂正しておきます」
「あ、ああ、なんというか、伝わっているのか、伝わっていないのか、非常に不安を覚えるが、とにかく認識は改めておくように。あと私の名前は……いや、そっちももういいか」
そう。
有栖川アスミという美少女は、アホなのだ。
しかも並大抵のアホではない。
常軌を逸したレベルのアホだ。
もう会話がまともに成り立たない次元に到達したアホだった。
口さえ閉じていれば、まさに才色兼備といった雰囲気が漂っているが、実際にはどうしようもないポンコツである。
至極真面目な顔で、腹筋をボコスカに殴るような天然ボケを連発する有栖川は、クラス中を保護者のような気分にさせる。
二年A組において有栖川は、その際立った見た目とのギャップを合わさり、なんとも微笑ましいマスコット的な存在になっていたのだった。
「いやぁ、今日も有栖川は絶好調だな。あの顔で、あのアホっぷり。本当に心のオアシスだよ」
「女子たちが休み時間によく餌付けしてるのみるけどよ、ぶっちゃけその気持ちはわかるよ。俺もなんかお菓子上げたくなるもん」
近くのクラスメイト達も、とても穏やかで優しい表情をしている。
正直に言えば、俺も彼らと似たような顔をしていることだろう。
アホはアホでも不快なアホではなく、どこか未知の、しかし可愛らしい生き物に似た愛くるしさを感じさせるアホ。
軽音楽部でも有栖川は誰ともグループが組めず孤立していると言ったが、それも彼女が使用している楽器に理由がある。
部員のほとんどがギターやドラムといったメジャーどころを使う中、なぜか有栖川だけは“ギロ”というこれまた意味のわからない楽器を使っていた。
ギロは見た目からして南米奥地の秘境で暮らす部族しか使わなそうな代物だ。
あれを取り入れたバンドを組めというのはさすがに現役高校生には厳しいだろう。
そんなギロを毎日、放課後になると有栖川は部室で一心不乱に書き鳴らしているらしい。
俺も一度見学しに行ったことがあるが、それは大層奇妙なものだった。
絶世の美少女が額に汗を滲ませギロを奏でる光景は、あまりにシュール過ぎて、三日三晩思い出すだけで笑うことができた。
「うむ。それではこれで今日の授業は終わりだ。中間試験も近い。皆よく勉強しておくように」
そして世界史の授業が終わり、昼休みに入る。
ついにこの時が来たか。
俺は昂る精神を落ち着かせ、一晩かけて練ったプランを再度確認する。
妹の小楠から、有栖川が中学時代、どういうわけか俺に何かしら興味を持っていたことが明らかになったのは昨日のことだ。
小楠曰く、俺にお世話になっている、そのようなことを有栖川は言っていたらしい。
しかし、俺の中では有栖川とまともに会話した記憶は微塵もない。
それこそ一度の挨拶をしたかどうかすら怪しい。
それにも関わらず、俺の存在はおろか、名前と家族構成すらきちんと認識していた。
これはもうあの補講に呼ばれた三人の中で、最も俺に惚れている可能性が高いと言っていいだろう。
ゆえに今日はたしかめるのだ。
有栖川が俺のことをどのように思っているのかを。
「……よし、行くぞ」
覚悟を決めた俺は、緊張からもたらされる嗚咽を我慢しながらも、ゆっくりと有栖川の座る席へ向かって行く。
俺の考えたプランは実にシンプルで実行がイージーなものだ。
やあ、有栖川さん、俺のこと知ってる? みたいな感じで陽気に話しかけるだけ。
もしこれによる返答がイエスだった場合、もう九割がた俺に惚れていると言っていいだろう。
あのアホの有栖川が、まったく関わりのない俺の名前を、現時点でも正確に覚えていれば、それはもう俺に好意があることが確定する。
微妙に論理の飛躍がある気がしないでもないが、これより確実性のある作戦は思いつかなかった。
本来なら直接、ねえ、有栖川さんってもしかして俺にラブレターだした? と尋ねるのがベストなのだろうが、そんな台詞を吐けるほどのメンタリティーなど持っていない。
相手はクラスの、ひいては学校規模のマスコットだ。失敗は許されない。なのでリスク計算を考えれば、この問い掛けが限界なのだった。
「……うおぇ。なんか気持ち悪くなってきたぞ」
いざ有栖川の方へ近づいていくと、胃酸が過剰に活動し始めるのがよくわかった。
たしかに有栖川は人畜無害のアホだが、それでも世界基準の美少女だ。
俺のような平々凡々、より素直に言えば平凡未満の存在がおいそれと話しかけていい相手ではない。
それでも行かねばなるまい。
なぜならば、彼女は俺に惚れているかもしれないのだから。
「や、やあ、ありちゅがわさん——」
「ねぇねぇ! アスミン! これ見て! 私がつくったスイートポテト! 食べてみてよ!」
「有栖川さん! 今日の放課後空いてる!? 一緒にカラオケ行かない!?」
「アッスミーン! 一緒にご飯食べよー!」
本場イングランド仕込みかと疑うかと思うようなショルダータックルを横から浴びせられ、俺は派手に吹き飛ばされる。
尻もちをつき、何事かと見上げれば、気づけば目の前には難攻不落を思わせる絶壁が築き上げられていた。
「なんということだ……小癪なるインプどもめ……っ!」
俺と有栖川の間に立ち塞がる煩わしい女子生徒の群れを睨みつけるが、その効果のほどはどうしようもないくらいに存在しない。
くそ。
迂闊だった。
そういえばそうだったな。
俺としたことが浮かれでもしていたのか、昼休みの時間が最も有栖川に話しかけるのが難しい時間帯だということを失念していた。
このキャンキャン喧しい女たちは、なぜか昼休みになると誰かに合図でも出されているのか、有栖川の下へ殺到するのだ。
そのくせ授業ごとの短い休憩時間は、下心あるなし関係なしに男子生徒が彼女に近づこうとするたび無言のプレッシャーをかけ蹴散らしていく。
「なあ、なんであいつらって昼休みの時だけ有栖川んところ集まるんだ?」
「俺は去年も有栖川と同じクラスだったから知ってるけど、たしか有栖川のプライベートを尊重するとか言って、あいつら昼休み以外の時間は自分たちの方から話しかけに行くの自重してるらしいぜ」
「はえ〜、なるほどなぁ。その我慢してる分が昼休みに爆発してるってわけか。ちな放課後は?」
「部室まで送迎」
「あー、それ見たことあるわ。ボディガードみたいになってたな、そういや」
後ろの方からクラスメイト達の会話を耳にしつつ、俺はここで重大な誤算が計画に生じていることに気づく。
なんということだろう。
軽い挨拶すら有栖川にすることは俺にとって非常に困難ではないか。
どんなにアホといえども、有栖川はサンコーのアイドルだ。
俺のような庶民が近づくのは、そう簡単なことではない。
たしかに有栖川が俺に惚れている可能性が高いといっても、彼女はアホだ。
急いで告白の返事を返さないと、ラブレターを出したことすら忘れてしまうかもしれない。
「くそっ! 俺はどうすればいいっ!」
悔しさから床に拳を叩きつけるが、泣きそうになるくらい痛いだけで何も気分は晴れない。
ラブレターに差出人の名を書き忘れるというのも、有栖川ならやりかねない。
思い返してみれば、補講のさいに有栖川は俺の二つ前の席に座っていたはずだ。
少し後ろを振り返り、少しばかり努力して手を伸ばせば、いとも簡単に、誰にも気づかれずに俺の席にラブレターを置くことができる。
というより彼女以外には不可能だ。
考えれば考えるほど有栖川が俺に惚れている気がしてならなくなってきた。
なのに、それなのに、この空気の読めないモブ女どものせいで、俺は彼女の心を確かめることができない。
「……どうやらあいつに頼るしかないようだな」
もはや現時点で問題は、有栖川が俺に惚れているかどうか確認するのではなく、いかにして有栖川とコンタクトを取るかどうかへ移行していた。
俺の推理が正しければ、十中八九ラブレターを渡してきたのは有栖川アスミで間違いない。
あとはどうにかして彼女に接触すれば、それだけで俺にも桃色の学園生活がやってくるはず。
そして幸いにも、この局面を打開する策を俺に授けてくれそうな頼れる友人が俺には、たった一人だけいたのだった。
「なあ、あれ、島田だよな? あいつ床に座って一人でニヤついてるけど、あれなに? マジ怖いんだけど? つかあいつ有栖川に話しかけようとしてなかったか?」
「おい! やめとけ! あいつの方を見るんじゃねぇ! 有栖川とは違って、悪い方面に頭がぶっ飛んでるってんで有名なんだから!」
なんだか物悲しい会話が聞こえたような気がするが、おそらく幻聴だろう。
俺はたしかに目立たず、地味な陰気系男子だが、だからといって特別周囲から浮いてるわけでも、距離を置かれているわけでもないのだから。
きっとそうだ。
そうに決まってる。
「……ふっ、今日もあいつは例のところにいるだろう。さて、久方振りに向かうとしようか」
俺は服についた埃を手で払いながら、誰に向けてというわけでもないが、一人静かに呟いてから教室を後にする。
向かう先は部室棟にある、“ミステリ同好会”、の部室だ。
この時間帯ならば、おそらくそこには去年同じクラスで、やけに意気投合した俺の数少ない友人がいるはずだった。
そいつは少しばかり変わった奴だったが、心根は善良で、これまでも俺の相談事へ的確な助言をしてくれたのだ。
奴の灰色頭脳ならば、きっと今回の問題も解決へと導いてくれることだろう。
そんな人任せの期待を胸に抱きながら、そして俺は人気まばらな廊下を急ぐのだった。
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