もしかしたら彼女が俺に惚れているのかもしれない①



 俺こと島田紗勒は、自分で言うのもなんだがすこぶる出来の悪い人間だった。

 記憶力、思考力共に低水準で、結果勉強はまるでできない。

 運動神経も面白いくらいに悪く、夏の間はいつもどうやって体育の水泳をどうやってやり過ごすかばかり考えていた。

 だが案外不思議なもので、俺はそんな自分のことがそこまで嫌いではなかった。

 この出来そこないの身体も、生まれてこの方ずっと一緒に過ごしてきているとやはり愛着が湧き始め、これこそが自分なのだと存分に開き直れるようにもなってくるというわけだ。


「……えー、つまりこの複二次式を解くためには、エッキスの二乗を一つのものと考えることによってー……」


 放課後を目前に控え、弛緩しきった空気を漂わせる教室。

 我がクラスの担任でもある綾辻涼子あやつじりょうこがやる気なさそうに黒板にミミズを走らせるのを眺めながら、俺は彼女の年齢がいかほどだったか思案する。

 たしか三十路は超えていたはず。

 よくアラサー独身女性という立場を使った自虐ネタをしているので、それはきっと間違いないだろう。

 そう考えると彼女も可哀想な人だ。

 おそらく同年代の友人たちがどんどんと結婚という一つの人生のゴールに辿り着いている中、彼女はひとり悶々とわけのわからない数式の列を、これまた道理の解せない小僧共に教えている。

 さぞ虚しいことだろう。

 はなはだ同情する。


「……おい、島田。お前、これ解いてみろ」


「え? お、俺ですか?」


「うん。お前。なんか当てられたそうな顔してたから」


「し、してませんよ!」


「うるさい。早く答えろ」


 せっかく自由への解放のチャイムを優雅な気分で待っていたというのに、綾辻女史のせいでそれも台無しとなる。

 なんと陰険な女だろうか。

 婚期を逃すのも当然だ。

 俺は基本的に勉学に才覚を持っていないが、その中でも数学は天敵といえた。

 算数と呼ばれていた頃の時点で躓いている俺にとって、方程式なる古代の暗号を理解するくらいなら、メソポタミア人と友達になる方が容易だろう。

 仕方ない。

 イチかバチかで答えるしかないな。


「……三十三歳!」


「お前は本当にクソだな島田。今日は学校に泊るつもりか?」


 どうも俺の今世紀最大のギャンブルは外れたらしい。

 それにしても、仮に教師という立場にありながら、可愛い生徒のことをクソ呼ばわりはないだろう。

 これだから売れ残るのだ。

 愛の方程式には解が存在しない。

 しかし、最後の言葉が少し気になるな。

 俺はこの後は真っ直ぐと帰路につく予定だ。

 こんなチンパンジーの収容所で一晩を明かす気は毛頭ない。


「あー、それじゃあ、授業はこれで終わり。島田が答えられなかった問題を、他の奴らは次の授業までに解いておくように」


 だが結局、綾辻女史は意味深な言葉の意味を説明することはせず、愉快そうに音を響かせるチャイムの音と共に一日の終わりを告げた。

 教室の至るところから頭の悪そうな鳴き声が聞こえ、慌ただしく埃が舞う。

 これで六限目の授業が終わり、後は事務的にホームルームをすれば、もう古びたママチャリを飛ばして家に帰るだけ。

 部活にも入っておらず、誠に遺憾ながら恋人関係にいる女性もいない。

 ついでにいえば財布の中もすっからかん。

 寄り道はしたくてもできないレベルだ。


「このままホームルームを始めるぞ。まずは注意喚起。なんでもここら辺に最近不審者が出たらしい。道を歩いている女子中学生に、『駅はどちらの方にありますか?』、などと声をかけ、大変危険な……」


 目にクマをつけた綾辻女史がつらつらと、至極どうでもいい情報を話していくのを遠くに聞きながら、俺はひとりの女子生徒の横顔を暇潰しに眺めていた。

 キリリと上がった目尻に、西洋の血を深く感じさせる二重瞼の碧眼。

 シルク製ですと言われても疑わない程、艶やかかな黒髪。

 バンビのような可憐な顔立ちながらも、どこか気品が溢れている。


 “有栖川アスミ”


 我らが二年A組が誇る校内トップクラスの美少女だ。

 直接話したことはほとんどないが、目の保養にはうってつけ。

 二学年に進級して最も嬉しかったことがなにかといえば、彼女と同じクラスになれたことだろう。


「……あー、それと朝も言った通り、数学の小テストで基準点を下回った者は本日補講があるので、ここの隣りの空き教室にすみやかに移動するように……」


 そして実を言うと、俺は有栖川と同じ中学の出身だった。

 三年間ずっと別のクラスだったため、直接的な関わりは皆無と言っていいが、向こうは当時から有名人だったので俺はよく知っている。

 ただ、俺のことを彼女が認知しているかといえば、それはノーだろう。

 俺は彼女とは違い、どちらかといえば地味で目立たない存在だったからな。


「……そんじゃあ、これで今日のホームルームは終わり。ほい、号令」


 すると突然、どこからともなく「起立!」という馬鹿でかい声が聞こえてきて、俺も慌てて席を立ち上がる。

 有栖川の美麗な横顔を鑑賞するのに忙しく気づかなかったが、どうやら知らない間にホームルームが終わっていたようだ。

 すぐさま「礼!」という言葉が教室中に響き渡ったかと思えば、雑踏とした騒めきが辺りに広がり、クラスメイト達が弾かれたように廊下へ飛び出していく。

 なんとか今日も無事に一日が終わったようだ。

 いつも通りの安穏な日常に、特別な不満はない。

 俺もさっさと帰路につくことにしよう。


「おい、ちょっと待て。どこ行くつもりだ、島田」


「ぐぅえっ!?」


 だが他の皆と同じように教室から出て、昇降口に繋がる階段に向かおうとした瞬間、いきなり首根っこを掴まれる。

 何事かと振り返ってみれば、呆れた表情で綾辻女史が俺のことを見下ろしていた。


「数学の補講をやるのは隣りの教室だって言っただろ? その頭蓋の両側に空いてる穴は何のためにある?」


「は? 数学の補講?」


 まったくもって綾辻女史が言っていることの意味が理解できなかったが、段々と、残念ながらも忌まわしき記憶がよみがえってきた。


「ほら、行くぞ」


「あ、でも、俺、今日は大事な用事が——」


「お前に用事なんてあるわけないだろ。うるさい。黙って歩く」


 記憶を取り戻した俺の尻に膝蹴りを繰り返しながら、綾辻女史は俺を急かす。

 そういえばそうだった。

 彼女の受け持つ数学の授業では、小テストなるものが毎回授業の初めに行われる。その小テストの合計点が彼女の設定した基準を下回ると、補講対象者なる罪人に認定されてしまうのだ。

 こういった補講はだいたい月に一度くらいあるのだが、たしかにそろそろその時期だった。

 ちなみに俺は入学以来、この補講に呼ばれなかったことは一度もない。

 皆勤賞というやつだ。


「だいたい、お前は何回補講に呼ばれれば気が済むんだ? なんだ? 私のことが好きなのか?」


「ははは、まさか、ご冗談を。さすがに同年代の男たちに一切見向きもされなかった問題児を引き取るほどの余裕は俺にもありませんよ」


「……」


「あ、あ、違いますって。じょ、冗談ですよ。やだな、先生。そんな怖い顔しないでください」


 綾辻女史は絶対零度の視線で俺を貫いている。

 この人は一年生の頃も俺の担任だったのだが、本気で怒ると尋常ではなく怖いのだ。

 彼女のことをババア呼ばわりした三浦君が放課後呼び出され、次の日から数学の授業中に問題をさされるだけで過呼吸に陥る様は、いまでも克明に思い出せる。  


「ア、アハハ!? 数学の補講楽しみだなァ!? 放課後も学校一の美人教師に教えてもらえるなんて! 俺はなんて幸せ者なんだろォ!?」


「……うるさいぞ島田。早く教室に入れ」


「あ、はい」


 冷や汗を拭いながら、隣りの空き教室に促されるまま入っていく。

 すると部屋の中には先客が二人ほどすでにいた。

 補講受けるメンバーはわりと毎回変わるのだが、今回はいつにもまして珍しい顔が揃っていた。


「あー、よし、全員揃ってるな……ってん? なんだ。有栖川がいないじゃないか。あいつどこ行った」


 綾辻女史も俺に続き教室の中に入ると、名簿のようなものを見ながら部屋を見渡した。

 どうやらここにいる三人と、さらに有栖川アスミを加えた計四人が今回の補講対象者らしい。

 有栖川はわりと定期的に呼ばれているが、おそらく他の二人が補講に呼ばれるのは初めてのはずだ。


「リョーコちゃん! 補講って何やるのー!?」


「珍しいな、法月。お前はいつもギリギリで補講はかわしてたのに」


「いやー、なんか今回はしくっちゃって! 部活の方の大会が近くて、ちょっと油断しちゃったかもなのです!」


「部活を言い訳にしてると、顧問の鮎川先生にちくるぞ」


「ギャー! それだけはやめてぇー!」


 空き教室の最前列で明るい声を上げるのは、光の加減によっては赤っぽく見える茶髪をポニーテールにまとめたスレンダーな美少女。

 綾辻女史をリョーコちゃんと親しげに呼ぶ彼女の名は法月知恵。

 それなりに強豪らしいうちの高校の女子バスケットボール部で、二年生ながらエースを張るこれまた有名人の一人だ。

 その端麗なルックスと人知を超えたコミュニケーション能力の高さは校内でも評判で、男女問わず人気がある。


「あとは……へえ、西尾もか。これもまた珍しいな。まさかお前の成績で補講に呼ばれることになるとはな」


「……ちっ、べつになんでもいいだろ。早く補講始めろよ」


「まあ、そうだな。なんでもいいか」


 そして教室最後列の窓側隅にふてぶてしい態度で座っているのが、眩しいくらいの黄金に髪を染め上げたスタイルの良い美少女。

 見るからに不機嫌そうな彼女の名は西尾響。

 着崩された制服とそのあからさまに棘のある口調からわかるように、彼女は俗にいう不良という奴だった。

 その悪い意味でも良い意味でも目立つ外見と、意外にも学年トップクラスの成績の良さとのギャップから彼女も校内ではかなりの有名人だった。


「すいません、綾鷹先生。遅れました」


「お、有栖川。やっと来たか。あと私の名前は綾辻だ」


「申し訳ありません綾鷹先生、少し迷子になってしまいました」


「迷子か。そうか。迷子か。隣りの教室なのに、迷子か。まあ、お前なら仕方ないか。あと私の名前は綾辻だ。色々な意味で私は選ばれていない」


「ぶほぉっ!? ちょ、色々な意味で選ばれてないって、さすが綾辻先生。なんてセンスのある返し——」


「どうした島田? 何か面白いことでもあったか?」


「いえ。何も面白いことなどありません」


 これまた色々な意味で暴力的な西尾の胸部をチラチラと気づかれないように盗み見しながら俺も廊下側の席に腰を下ろすと、同時に有栖川が遅れて教室にやってくる。

 担任の名前を間違えたり、二年生にもなって校内で迷子などと、一見ふざけているかのようなことを有栖川は言っているが、彼女の性質を考えればそれが本気なのだとわかる。

 ゆえに綾辻女史も微妙な表情こそするが深くは追及しない。代わりに俺へ罠をしかけてストレスを発散するだけだ。


「とりあえずはこれで全員揃ったな。じゃあ適当なところに座れ。今から問題を配る」


 有栖川が俺のいる席の二つほど前に座ると、綾辻女史は枝毛が跳ね散らかった髪を掻きながら、補講対象者それぞれにプリントを四枚づつ渡していく。

 どうやらこれが今回の補講課題らしい。


「うげぇー、見てるだけで気分悪くなってきた。……あ! でも、これ答えつきじゃん! え、どゆこと!? 写すだけでいいの!?」


「ずいぶんと嬉しそうだな法月。そうだ。お前の言う通りだ。私が今配ったプリントの問題には全部解答方法が一緒に乗せてある。難しく頭を使う必要はないぞ」


「わあ! リョーコちゃん優しい! 愛してる!」


 渡されたプリントをよく見てみれば、どの問題にも赤文字で答えらしきものが付属されていた。

 なんだ。

 やればできるじゃないか綾辻女史。

 俺は晩御飯前には家に帰ることができそうだと嬉しくなる。


「綾鷹先生。プリントに表記ミスがあります。解答が乗せてあるのはいいのですが、問題と解答に提示されている数字が違っています」


「ん? なにを言っているんだ有栖川? そんなのは当たり前だろう。さすがに数字くらいは変えないとな。あと私の名前は……いや、もういいか」


 しかし綾辻女史はいやらしい笑みを浮かべ、俺の浅はかな希望を容赦なく打ち砕く。 


「え? 嘘! あ! 本当じゃん! ちょっとリョーコちゃん! これじゃあ丸写しできないよぉ!」


「誰が丸写しできると言った? 私は、解答方法を乗せてあると言っただけだぞ。解答そのものは乗せてない」


「ぶぅー! なにそれ詐欺じゃん! リョーコちゃんの意地悪! 偏屈屋! 頭でっかち!」


「たかだか数字が違うだけだろ。つべこべ言わずさっさとやれ」


 まさに悪魔と言っても過言ではない。

 俺の嬉々とした気持ちを返してほしい。

 これだから綾辻女史は駄目なのだ。

 いい歳こいて独身なのも納得だ。


「おい、島田。わからなかったら、聞きに来てもいいんだぞ?」


「大丈夫です。今のところは」


「ならさっさとペンを動かせ。お前の間抜け面をいくら眺めていても私の仕事は終わらないんだ」


「す、すいません」


 酷い言い草だが、言い返す能力のない俺は黙って問題に取り掛かることくらいしかできない。

 他の三人を見てみても、皆諦めたのかシャーペンを動かし始めていたので、俺も皆に倣い数学という未知の言語と向き合うことにする。

 だがそうやってしばらくアルファベットと数字の群れと睨み合っていると、ある時下腹部の辺りに強烈な違和感が生じた。


「うっ……!」


 前触れなく現れた違和感はすぐに明確な激痛へと変化し、俺の脳内をトイレという三つの文字で埋め尽くしていく。

 これは駄目だ。

 数学の問題なんてやってる場合ではない。

 俺は戦略的撤退を一瞬のうちに決意する。

 このような種類の痛みに対しては、少しの逡巡が命取りになるのだ。


「先生、ちょっとトイレに行ってきます」


「なんだ島田。お前は本当に落ち着きがないな。まあいい。さっさと行って来いクソ野郎」


 扉を豪快に開け放ち、今ばかりは無駄に的確に聞こえる罵倒を背に受けながら、俺は急いでトイレまで小走りで駆けていく。

 数秒前まではあれほど穏やかだった胃腸が、ここぞとばかりに荒れ狂っていた。

 幸いにも一番近くのトイレの個室が空いていて、俺は腰をくねらせながらもなんとかベルトを外す事に成功した。

 ヒヤリという便座の冷たい感触を合図に、堰き止められていたものが勢いよく解放される。


「はぁ……」


 ひとときの至福に口が半開きになってしまう。

 数分前になるまでずっと何も危機を感じなかったのが嘘かのように、俺の体内から不要物が次々と排出されていく。

 汚らしい水飛沫の音が若干不快だったが、この個室から出た後に俺を待っているだろう苦痛の時間を考えれば、それも些細なことだった。

 そして補講から抜け出してから十分ほどが経ったと思える頃、俺はやっと重たい、というよりはずいぶんと軽くなった腰を上げる。

 すでに尻穴の水気は全て綺麗に拭き取ってある。

 ズボンをたっぷりと時間をかけて履き直し、憂鬱な気持ちを取り戻しながら空き教室へと戻って行く。


「……失礼します」


 小声で空き教室に再入室した俺のことを気にかける者は誰ひとりとしていない。

 俺以外の他の補講対象者は一心不乱に問題を解いていて、綾辻女史もブックカバーのなされた文庫本に夢中のようだ。

 こいつら俺が戻ってきたことに気づいてないのではないか。

 そんな寂し過ぎる感慨すら抱きつつも、俺は自席に大人しくつく。


「ん?」


 すると、俺はある異変に気づく。

 それは机の上に置いてある五枚の紙にある。


 そう、五枚だ。

 四枚ではなく、五枚。


 たしかに綾辻女史が配ったプリントは四枚だったはず、それなのに今は見覚えのない五枚目の紙が出現している。

 しかも、それはただの紙ではない。

 その圧倒的な存在感を放つ五枚目の紙は、どうやら手紙のような形態をとっているらしい。

 周囲を見渡してみても、俺がこのトイレに行く前と何ら変わりはないように思える。

 しかし、確かに明らかな変化が目の前に現れているのだ。

 これはいったいどういうことだろう。

 俺は生唾を飲み込み、そっと手紙を開封してみる。

 その中身に目を通した瞬間、俺は先ほどの唐突な腹痛を上回るほどの衝撃を受けた。


 そんな。

 信じられない。

 これは現実なのか。


 あまりにも数学の補講が嫌過ぎて、幻覚か白昼夢でも見ているのではないだろうか。

 実はまだ俺はトイレの個室の中で瞳を閉じている可能性すらある。

 その手紙はたしかに俺宛てで、驚くべきことにこんな一文が綴られていたのだ。


 ずっと前からあなたのことが好きでした、と。



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