第5話

 走ること自体は、ジムのランニングマシンの上で行ってきた。

 しかし実際の地面を蹴ったのはいつぶりだろう。

 私は喫茶マイソンから駅へ、駅から空港へ。人をかき分けるようにして走った。

 空港のターミナルへ走りこむ。

「味香さんっ」

 多くの人間の足音と話し声。私の声はかき消えそうだった。


 すでに出発ロビーに入っている可能性も高い。

 片山オーナーは連絡を入れてくれたが、振られた男、それもアラサーのために待つ10代女性がいるだろうか。

「味香さん、どこに」

 私は瞬きを忘れる。汗が染みる目を開け、見慣れたショートカットを探した。

 肩で息をする。自身の荒い息と人混みの中で視界が二転三転した。

 ああ、もう無理なのか。

「味香さんっ!」


「工藤さん?」


 よく通る声。それが私を呼んでいることを、すぐ理解できた。

 ばっ、と私は目を見開く。

「大丈夫ですか?」

「ああ」

 心配する表情に、私は力が抜ける。

「工藤さん?!」

 膝をついた私に駆け寄る味香さん。手を煩わせまいと、私はすぐに顔を上げた。

「よかった。出発する前に会うことができて」

「はい、僕もオーナーから言われたときは驚いて……」

 味香さんは視線を漂わせ、戸惑う。

 私は彼女を不安にさせていることに、心が痛んだ。

 私は呼吸を整え、大きく息を吸う。

「フランスへ、行くそうですね」

「あ、はい!頑張りますよ!一人前の料理人になってやりますから!」

 その気丈な振る舞いに、私はまぶしく感じる。

「オーナーから伺い驚きました。そして、味香さんに伝えなければとも」

「へ?」

 私は深く、頭を下げる。

「まことに申し訳ありませんでした。あなたの感情を否定し、その心を傷つけてしまったこと。ここに深くお詫び申し上げます」

「くっ工藤さん?!」

 どのような言葉を並べても全て陳腐だ。

 だから私は決して頭を上げなかった。

「な、ななな、なんですか?!」

 周囲がざわざわと私たちに注目していることが分かる。

「頭上げてください!下げないでください!上げてください!」

 味香さんが混乱と恥ずかしさで、あー!とかえー!とかオウムのような奇声を発し始めたあたりで、私は逆に申し訳ないことをしていると頭を上げた。

「あの夏祭りの夜。あなたは琥珀糖を作ってくれました。それ以前も、ずっと、私へ料理を作ってくださっていた。あなたの思いは十分なほどに示され、私はあなたに惹かれていました」

「工藤さん……」

「だというのに、私は。あなたよりも早く老いることを、あなたと共に歩けなくなることを、あなたが、いつか離れていってしまうことを恐れ。自身を偽り。挙句、あなたの心を否定した」

 握った拳の中で爪が手のひらに食い込む。

「あなたの幸福を思うなどと、偽って……」

 さめざめと、泣くことはない。

 涙を流すべきは味香さんなのだから。

「だからあなたに、直接謝罪をしなければと、その貴重な時間をいただいてしまいました」

 これ以上引き留めることは許されないだろう。

 入場の時間が迫っている。

 私は踵を返そうとした。


「工藤さんっ!」

 ぐぃ、と服を掴まれた。

「それ……本心、ですか?」

「え、ええ、心からの謝罪で」

「そうじゃなくて!」

 味香さんは、真っ赤な顔でそろそろと見上げた。

「僕に惹かれたってこと……僕のことが、その……好き、だって、こと」

「もちろん真実です。私は味香さんの笑顔に惚れ、美香さんの存在に救われ、美香さんのことを好きになりました……しかし」

「だったら!」

 美香さんは私の手を強く掴む。

「僕たちは両思いです!」

「しかし」

「僕は工藤さんが好きです!工藤さんは僕が好きです!これは間違っていないんですよね?!」

「けれど、私はあなたを」

「申し訳ないと思っているなら、これからも僕の作ったもの食べてください」

 強く握らされる琥珀糖。呆然と見つめた。

「僕はすごい料理人になって帰ってきます。帰ってきて、マイソンを再開して、工藤さんに、たくさんの料理を食べてもらいます」

 私の脳裏に、厨房に立つ味香さんが浮かぶ。

「そして、たくさんお話をきいて、たくさん、二人でお出かけします」

 あのまぶしい笑顔が浮かぶ。

「僕は、工藤さんの隣を誰かに譲ったりも、工藤さんの手を誰かに握らせたりもしません」

 私の手に、味香さんの手が重ねられた。

「だから……だから、僕の隣に、僕と一緒に、いてください」

 まっすぐ、その大きな瞳は私を貫く。

「僕は、工藤さんと一緒がいいんです」

 私の頭の中に、多くの考えが駆け巡った。

 大人としての義務や、男としての仁義。

 しかし。

 私はそれらを振り払い、目の前の、いとしい人に目を向ける。

「私も……私も、味香さんと一緒がいいです」

 にこりと頬を染める彼女に、私も顔を赤くした。

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