第3話

 いったいどのような顔をして出向けばいいのか。

 あの夏祭りから、私は喫茶マイソンに入ることはできなかった。


 あの夜、花火を見ることもできず、私たちは解散した。

 送るという言葉断られ、夜道で一人女の子を歩かせることを心配する私に対し、片山オーナーが迎えにくることで決着した。

 あとから電話をかけたところ、自暴自棄には至ってないらしいということで安心はできた。


 これでよかったのだ。

 私はバターを塗っただけの食パンを詰め込み、飲み下す。

 炭水化物と脂質。それと野菜ジュースで食物繊維とビタミン。

 たったそれだけの朝食をとりながら、夏祭りの夜を思い出し、私は心の中でつぶやく。

 これでよかった。

 味香さんの気持ちは、私にはふさわしくない。

 もっとよい男性が、味香さんの隣に立つべきだ。

 一時の気の迷いで、彼女の人生を狂わせてはいけない。

 大人として正しい態度をとった。


 だのになぜこうもむなしいのだろうか。

 香りの飛んだ、苦くて酸っぱいだけのコーヒーを煽る。

 胃に落ちてくるのはインスタントの味。

 あの晩から、自分で豆を挽くこともない。こだわって購入したコーヒーミルは埃をかぶっている。

 味香さんのコーヒーは……。

 いいや、今はそんなことを思うべきではない。


 切り替えるように空の食器を片付ける。

 まだ5枚も残っている食パンをしまうため、冷蔵庫を開ける。

 扉を開け、白い光が照らす中身。わずかな調味料が隅に追いやられ、迷うほどに開いたスペース。

 しばらくまともに食材は買っていない。外食も同様に。

 気づかないうちに減退していた食欲。それを目の前の冷蔵庫は如実に表していた。

 心配する同僚には夏バテだと言ってある。

 外食はそそらない。自分でする料理は気に入らない。

 スーパーで買い物すること自体、むなしくなっていた。シンクの下にしまわれた包丁は、すっかりくもっている。それすらも気にすることが煩わしい。


 労働と言うルーチンワークを続け、これらの症状を時間が解決してくれるまで待っている。

 味香さんに出会う前に戻るだけだ。頭に仕事を詰め込めばいい。

 サラリーマンという型に当てはまることは、決して苦ではない。

 電車の中すし詰めになり揺られ、部下と上司の顔を見ながら仕事をし、労働に凝り固まった体を動かし退社する。

 そして、ときおり、ふらりと食事に立ち寄る。


 帰宅途中。はた、と私は気づいた。

 私の足は自然と、喫茶マイソンへの道のりを歩いていたことに。

 喫茶マイソンは、自宅の最寄り駅近くにある。しかしこうも無意識に足が向かうとは。

 夢遊病にでもなったのか。これは本当に病院を受診したほうがよいのではないか。


「お、工藤さん」


 そう悩んでいた私を呼び止めたのは、喫茶マイソンの片山オーナーだった。

「なに?うちに寄る予定だったの?」

「あ、いえ」

 オーナーの手前、いいえとも言えず、私は口ごもる。

「せっかくだけど悪いね~」

 だが片山オーナーはごまかすように頭を掻いた。

「うち、もう辞めちゃったからさ」

「……え?」

「お店、畳んじゃったんだよ」

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