第2話

 夏祭りというものに参加したのはいつぶりだろうか。

 小学生のころ、祖父に手を引かれたことを思い出す。

 塾に通うようになるころには、もう祭りという催し物には参加する時間はなかった。


「工藤さん!」

 喧騒を裂く声に、私は腕時計から顔を上げた。

「へへっよかった、間に合って」

 味香さんは、はにかみながらこちらを見上げる。

 ショートカットをかんざしのような髪留めで押さえ、髪飾りと同系色の浴衣には目に鮮やかな朝顔が咲いている。

 白地に蔦が描かれた巾着を、すましたように両手で持っていた。

「む、工藤さんはいつもどおりか~」

「これでもラフな格好ですよ」

 私は半袖のワイシャツにネクタイはなく、革靴も普段より明るい色だ。

 改めて客観視すると、クールビズの仕事姿と変わりないのかもしれない。

 やはり、浴衣か思い切ってアロハシャツでも着てくればよかっただろうか。

 片山オーナーに相談すればよかったが、あの人は味香さんの親族だ。説明する中でなにか誤解を招いてはいけない。いや、今更だろうか。

「でも、ふだんどおりが一番だね!」

 にかっと笑顔に、私は目を細めた。

「花火まで時間あるよ!屋台めぐろうよ!」

 タコ焼きと! お好み焼きと!

 そう楽しそうにはしゃぐ味香さんの右手は、いつの間にか私の手を握っていた。


「はい!」

 私はずい、と渡された真っ赤なりんご飴を齧る。

 甘酸っぱい飴と中のリンゴ。夏の祭りには定番だろう。

 味香さんも小さな口でりんご飴にかぶりついていた。


 そういえば、初めて喫茶店に入ったとき、いただいたのもりんご、アップルパイだった。

 看板メニューらしいアップルパイは、確かに私の口にも合うものだった。

 あのときの隠し味は、ゴーダチーズ。リンゴのコンポートに溶けたチーズが濃厚な味わいを作り出していた。

 チーズ。とつぶやいた私に、言い当てられた味香さんの食いつくような表情。今でも鮮明に思い出すことができる。

『どうしてわかったの?!』

 と迫る味香さんに、結局私は根負けして、今までの食べ歩きの経験を語ることとなった。

 私の言葉、ひとつひとつに表情を変え、ころころと笑う彼女。

 これでも多くのものを食べてきた身だ。喫茶店の味自体は、中の中。極上とは言い難い。

 しかし、メニューの全てに用意された隠し味。いたずら心を表すかのようなそれら。料理の向こう側に、味香さんの気配を感じることを、心地よく思う私がいた。


「どうぞ」

「あっ、ありがとうございます!」

 飴でコーティングされた口元。それに悪戦苦闘する味香さんにハンカチを差し出す。

 人混みから外れ、神社の中、ひっそりと忘れ去られたお堂で二人、並んで腰を掛ける。

 味香さんはりんご飴のように顔を赤くして、口元をぬぐった。

「今日はありがとうございます。思いのほか楽しめました。おいしいものもたくさんあり」

 屋台の食べ物は多様化していた。カラフルな綿あめ、チーズ入りのアメリカンドック、揚げアイス。

 かつては見たことのない食べ物に、年甲斐もなく手を伸ばしてしまった。明日は胃もたれで寝込むかもしれない。

「僕の料理よりもですか?」

「ふっ」

 拗ねたような口調に、私は吹き出してしまった。

「いいえ、味香さんの料理のほうが魅力的ですよ」

「ほんとうに?」

 まだ疑わしいらしい。

「でもよかった、そういってくれるんじゃ。今日も持ってきたかいがあったよ」

 ああ、そうだ。今日はゲームの約束で来ていたのだった。

 はしゃいでいたのは、私の方かもしれない。

 そう思いながら、味香さんの巾着から取り出されるそれに、視線を向けた。

「はい!今回の隠し味、当ててみて!」

 和柄の小さな缶。手のひらサイズのそれを受け取る。

 新品の缶はスムーズに蓋が開く。

 姿を現すものにじっくりと目を向けた。

 遠くからの祭りの赤い照明。それに照らされていたのは、黄色、橙、赤。

「琥珀糖?」

「やっぱり知ってたか~」

 少し悔しそうにする味香さん。

「私の知らない料理を作るなんて、10年早いですよ」

「すぐに上達してみせるもん!そんなことより、はやくはやく!」

「急かさないでください」

 味わえません。とあしらいながら、指先で暖色の琥珀糖をつまむ。

 口に含む動作をじっと見つめるくりくりとした目を、気付かないふりをした。

 しゃり、とした感触が歯に触れる。不揃いの結晶。その下に、ゼリーのような柔らかい食感が待つ。

 舌に広がるのは、ほのかな甘みと酸味。

 鼻に抜ける柑橘の香りに、私の脳内にすぐさま二つのものが浮かんだ。

「すだち、とかぼす、ですね」

 私の言葉に味香さんは目を丸くする。

 大きな目は今食べた琥珀糖のように祭りの照明を反射した。

 相変わらず、わかりやすい子だ。

「工藤さんにはかなわないなー」

「隠し味を複数にしたことは、ひとつの成長ですね」

「ふふんっ」

 ぶらつかせていた足で反動をつけ、ととと、と軽やかに私の目の前に出る。

「でももう一つ、隠し味、あるんだよ?」

 動きに反して、少し固い笑顔と上ずった声。

 私は反応に困った。

 そして、ああ、来てしまったか。と視線を地面に落とす。

「それは、ね」

「味香さん」

 遮るように名前を呼んだ。

 びくり、と味香さんの肩が揺れる。


 これから私は彼女にひどいことをする。

 良心が痛んだ。

 けれども、これは一人の大人として、子供に対しとらなければいけない態度だ。

 味香さんに倣うように、私も立ち上がる。

 味香さんの顔は、自然と私を見上げるようになった。ああ、こんなにも小さな……小さな子供なのだ。

 彼女のゆらぐ瞳に、私が映ってる。

「恋。ですね」

 カラカラに乾いた口の中をごまかすように一度唾をのんだ。

 舌の上にざらりとした砂糖の結晶が残っている。

「最後の、隠し味は」

 なるべく口角を上げるようにした。

 怖がらせないように。


 味香さんは私の言葉に、ふわっと笑顔を作る。

 けれど、勘違いをさせてもいけない。

「味香さん」

 低い声で彼女の名を呼んだ。

「私に、最後の隠し味を味わう資格は、ありません」

 言葉を選ぶようにゆっくりと。吐き出されたそれに、味香さんの表情は落下する。

 少し細められていた目は一変、見開かれた。

「味香さん。私は、今年で31歳になります」

 そして彼女は18歳。一回りの以上の年の差。

「最近は、胃もたれをするようになりました。脂を取れば、胸やけも。体力と共に免疫も下がり、夏になればばてて、冬になれば風邪をひきます。体形を維持することも、難しくなりました」

 なるべく運動はするようにしているが。それでも内臓の老化は防げない。

「私は、あなたより先に老いてゆきます。あなたより先に、死んでしまいます」

「で、でもっ」

「あなたを、一人にしてしまいます」

 まっすぐに、彼女の瞳を見る。

「私の存在は、これからのあなたの未来にとって、障壁になるかもしれません」

「僕は」

「あなたの幸福を思ってのことです」

 味香さんの手に、琥珀糖の缶を持たせる。

「私なんぞに捕らわれず、あなたは、もっと大きな世界があるはずです」

 きっとその世界で、味香さん、あなたにぴったりの男性がいる。

 もっと若く、同じ時間を歩み、あなたと共に生きていくことのできる人が。

 味香さんの震える手をそっと包み、私はそう、言葉を紡いだ。

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