第40話 愛する息子
社交界の薔薇と讃えられたダフネは、仕事、仕事で妻を顧みない夫に対して、心の中では三行半を突きつけているのだが、名門オルヘルスの妻の座はダフネに確固たる地位を授けてくれる。そのこともあり、自ら伯爵夫人の座を手放す気など彼女にはさらさらないのだった。
夫は忙しくて屋敷を不在にすることが多くても、愛する息子は自分の視界に入る場所に居てくれる。亭主元気で留守が良いとはよく言うけれど、屋敷の使用人たちはダフネによく仕えてくれるし、次の伯爵位を継ぐのは息子のマルセン以外ないと断言してくれる。
多忙で体調を崩しがちの夫には引退後は一人で領地の別荘にでも引き篭もって貰って、ダフネは爵位を継いだ息子のマルセンと共に王都で楽しく過ごすつもりで居た。そこへ現れたのがミハエルの娘、自分にとっては孫娘ということになるのだろう。
孫娘が夫となったハールマン家の男と共にオルヘルス伯爵家を継ぐなどとんでもない!絶対に許せない!と、屋敷に到着するなり、買ったばかりの豪奢な帽子を床に叩きつけるほどの怒りをダフネは感じていたのだった。
「おやおや、母上、一体どうされたのですか?随分とご機嫌が悪いように思えますが?」
「マルセン!とんでもないことが分かったのよ!」
息子のマルセンは母親譲りの美貌の持ち主で、母親と同じ紫水晶の瞳を持つ美丈夫だ。
マルセンは確かに、貴族令嬢たちから絶大な人気があった。過去には黄色い声をかけられる日々を送っていたこともあるのだが、今は酒太りした体は弛んでいるし、褐色の髪に紫水晶の瞳は生気がなく澱んでいる。頭の中には酒と女と、時々賭け事程度のものしかない。
遊んで暮らしてここまで来てしまった、放蕩息子の成れの果て状態なのがマルセンなのだ。
幸いにも、領地は夫の弟一家が切り盛りしているため、王都にいるマルセンが夫から爵位を継いでも楽しく遊んで暮らせるのだ。自分も楽しい、息子も楽しい、そんな中で、何故、ミハエルの娘が今更ながらに話題に出てくるのかが、ダフネには理解できないのだった。
優しく母の肩を撫でながら、今日、お茶会であった一部始終の話を母から聞いたマルセンは、兄の時と同じようにすれば良いだろうと即座に判断したのだった。
父が遊んで暮らすマルセンを見限り、駆け落ちした息子夫妻を王都に呼び寄せようと手配した時にも、マルセンは父親よりも一歩先じて手を打った。
昔からマルセンのパトロンとなってくれる人に手を貸してもらい、王都に移動中の兄夫婦を亡き者にして、事故扱いにして処分することにしたのだ。
兄の妻は男爵家の出ではあるが美しい人だったので、娼館送りにしたかったのだが、伯爵位を継承する云々でのお家騒動となるような事案だった為、泣く泣く諦めた過去がマルセンにはある。
その為、自分の姪となる娘が美しいようであれば、今度こそ娼家送りとして、自分が抱き潰してやっても良いのではないかと考えた。
兄の愛する人は自分の思う通りに出来なかったけれど、姪を代わりに使っても良いかもしれない。姪はすでに結婚をしているというが、夫を亡き者にして、悲嘆に暮れているところを慰めるのも面白いだろう。
なにしろ、自分がオルヘルス伯爵家を継ぐのは決定したようなものなのだ。オルヘルス伯爵家の正式な血統を望むのなら、姪に自分の子を産ませれば良いのではないか。
自分の母を抱き寄せて、安心させるように額にキスを落とせば、トロリとした表情を浮かべた母が、乙女のようにマルセンの胸に縋り付いてくる。
実の母と息子としては距離が近すぎるようにも思うのだが、この屋敷の使用人たちは何も言わない。王都の屋敷の主人はすでにショルス・オルヘルス伯爵ではなく、伯爵夫人であるダフネとその息子マルセンが主導権を握っているのだ。
「母上は何も心配はいりません、全ては上手くいくようになっているのです」
「そうよねぇ、いつでも上手くいくようになっているのだものぉ」
自分を抱きしめる息子の腕の中で、母のダフネはホッと安堵のため息を吐き出したのだった。
◇◇◇
バルトルトの兄であり、何でも卒なくこなす男ファビアンが、
「この度の戦果を報告するために一度、王都に行かなくちゃいけないのならば早めに行ってくれると有難いんだけど?」
と、言い出した。
隣国ザイストはゴーダ王国にヌーシャテル領を切り取られてしまったけれど、多くの兵士を失った今の状態では、すぐに何かことを起こすということは出来ないだろう。敵が次の手に打って出る空白時間に、さっさと王都に行って、国王の挨拶の他にも、両親たちに結婚の挨拶をするようにと兄は弟に言うのだった。
「兄上!ありがとう!ありがとう!」
戦地で離れ離れになってしまった二人でも、王都に向かう間は二人で居られることになるわけで、バルトルトは喜び勇んでフローチェと共に王都へと出発することにしたのだ。
危うくフローチェに見限られそうになったバルトルトは、移動中も周りの視線など何も気にせずにフローチェを溺愛しまくっていたのではあるが、
「坊っちゃま、しつこい男は嫌われるんですよ?分かっていますか?」
と、何度もドーラから横槍を入れられることになったのだ。
「自分のご両親の姿を見て、僕はああはならないと言っていた坊っちゃまがこの体たらく、本当にハールマン家の男ときたら!全くもう!」
ドーラはいつでも呆れ返った様子でこう言うのだった。
五日の馬車の旅を終えて王都のハールマン伯爵邸へと移動をしたフローチェは、ハールマンの一族に出迎えられることになっていた。
バルトルトの実姉となるイライザの、
「本当に、本当に、本当に、ハールマン家の風習を目の当たりにしてひっくり返らないでね!」
と言う言葉に出迎えられるまで、ハールマン家の異常についてフローチェは理解が及んでいなかったらしい。
「やあ!やあ!よくぞ遠くからいらっしゃった!」
まず、バルトルトの父が妻をお姫様抱っこの状態で出迎えたところまでは、フローチェとしても想定内だ。夜会でお姫様抱っこ状態なのだから、家でも同様かもしれないと想像していたから問題ない。
「バルトルトがこんな美人のお嫁さんを連れてくる日が来るとは思いもしなかったよ!今日、会えるのを楽しみにしていたんだ!」
バルトルトの兄となるエメレンスは伯爵家嫡男。武家の次期当主だけあって、逞しい体つきをした大男だったのだが、背中に妻をおぶった状態で、右手に小さな娘を抱え、左足と右足にそれぞれ男の子にしがみつかれた状態で、エントランスホールまで出迎えに出てきたのだ。
「こ・・・の度、バルトルト様の妻となりました、フローチェと申します。宜しくお願い致します」
こ・・のあとが伸びてしまったのは仕方がない。まさか家族全員を体に引っ付けて歩いてくるとは思いもしなかったのだ。それでも、幼い時に母から仕込まれたカーテシーをフローチェがすると、長男の背中と、伯爵家当主の胸元からホウッと言う安堵のため息が吐き出されたのだった。
「あああ・・愛する息子のお嫁さんの前で醜態を晒してしまったわ!」
無理やり夫のお姫様抱っこから飛び降りた義理の母が顔を真っ赤にして項垂れると、
「ごめんなさいね、ハールマン家の男は無茶苦茶なのよ」
背中から無理やり降りた長男の嫁が、苦笑を浮かべながら夫の頬にキスを落とした。
妻のほっぺキスだけでトロトロになる大男を見つめながら、
『これが噂のハールマン家の男なのね!』
と、フローチェは心の中で雄叫びをあげたのだった。
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