第36話 君を愛する僕の想い
マリータ・スラウスがダミアン・アッペルに近づいたのは、先輩職員となるフローチェを絶望させたかったから。ダミアンは確かにマリータのアドバイスを受けて横領に手を出していたが、彼が取り扱う備品請求はあくまでも瑣末なものであり、そこから重要な情報など引っ張り出せるわけがない。
マリータは、ただ、ただ、フローチェを屈服させたかった、フローチェを絶望させたかった。ただ、それだけの感情で動いていたのに違いない。
敵方が作り上げた即席のスパイであるマリータだが、彼女はダミアンと肉体関係にあったのは間違いない。敵の間諜が関わりを持つ人間関係は厳しく取り調べられるだろうし、ダミアンと婚約関係にあったフローチェは、ダミアンと連座する形で罪に問われる可能性もあったのだ。
フローチェを完全に守る為には、ダミアンとマリータの存在を完璧に切り離す必要があった。全ては、マリータ個人の罪状として、フローチェが巻き込まれないような形に持っていく必要がある。
あの日、涙でドロドロに化粧が溶け落ちたフローチェの隣に座り、彼女の汚れた顔を丹念に濡れたタオルで拭っていく間に、バルトルトの心はすっかり彼女に囚われてしまったのだ。だからこそ、彼女第一で、全てのことを考えていく。
ハールマン伯爵家出身の男の愛は非常に重い。今でも父は母を溺愛しているし、伯爵位を継ぐ予定の兄も、貧乏子爵家出身の自身の妻を溺愛し続けているのだ。ハールマン家は妻に身分を問うことがない。愛が重い関係で、妻の身分にとやかく言う風習がないのだ。
だからこそフローチェが平民身分だからということで、そこまで身分差を気にしているとは思いもしなかったし、兄のファビアンが、
「ハールマン家の男の癖に、女性を作戦の為に利用するとはなんたることか!」
などと言って憤慨しているとは思いもしない。
ハールマン家の人間は愛が重い。三男のバルトルトはフローチェと出会い、泣いて許してくれと縋り付くほど彼女を愛してやまないのだが、フローチェも周りも、全くそれを理解していないことに驚愕せずにはいられない。
「バルトルト!いくら兄弟だからといって、言葉に出してくれなくちゃ全てを理解することなんて出来ないんだよ!」
披露宴パーティーの会場に居たフローチェの招待客(一般人)は一旦、帰路に付き、残った軍人たちは椅子やテーブルを並べ替えて、パーティー会場を急拵えの作戦本部へと変えてしまっていた。
豪華な料理はそのまま残されているため、報告に来た兵士たちはその場で腹ごしらえをした後に戻って行く。本営への報告はひっきりなしに人が来るほどの人気の役割となっていた。そのうち、レストランの料理長たちが、街を守るために働く兵士たちの為に、簡単に食べられる賄い料理を用意してくれた為、兵士たちは大いに喜ぶ事となったのだ。
司令官の結婚式に振る舞われたのは酒ではなかったが、すぐそこまで敵が進軍してきた事実に肝を冷やす兵士も多かったし、自分たちの預かり知らぬところで戦闘が開始していたことに憤りを感じる兵士も多かった。
だがしかし、全ては敵軍に通じた一部の国境警備兵の所為だと言うのなら、ほぞを噛むようにして黙り込むしかない。
「侍女頭のサインは受け取りました、すでに一小隊がフローチェ様を警護する為に発進しています」
バルトルトの兄であるファビアンの怒りなど全く頓着しない様子で、アダムが一番重要な情報を報告してくれた。緊急事態となれば、フローチェの身柄を即座に屋敷に避難させる手筈でいたのだが、まさかパーティーの途中で誘拐されようとは思いもしない。
誘拐は計画されていても、不発で終わるだろうと思っていたのだ。
「貴族の拘束および選別はすでに済んでいます。敵との繋がりのない者から解放致しますか?」
「自分たちの状況を理解させる為に、二・三日は全員、そのまま拘束しておけ」
「倉庫に突っ込んだままなんですけど?」
「朝、夕、パンと水だけを提供しろ」
ファビアンは鬼の司令官の命令に、思わず生唾を飲み込んだ。
貴族として蝶よ花よと育てられた貴族令嬢や夫人も、倉庫での雑魚寝を強要されるわけだ。完全なる捕虜扱いでの拘束、寄親であるボスフェルト侯爵のヘマにより、絶対に明るい未来は訪れない。寄親と寄子の関係は一蓮托生のところがある。子爵家に婿入りしたファビアンとしては、この先の彼らの処遇を考えるだけで思わずゾッとしてしまうのだった。
「ブラン家、ライケ家、フレイ家の三人の娘は、別室に拘束、不敬罪を適用する」
それは、フローチェに紅茶をぶっかけたという三人娘のことなのかな?
「落ち着いたら、フローチェに不埒な行いを強行しようとした男も見つけ出す。どうせ軍部に所属する男だろう、絶対に探し出すように」
「承知いたしました」
アダムが文句も言わずに承知している姿を、ファビアンは信じられないものを見るような目で見つめている。
「兄上、私はこれから輜重隊と共にスヘルデ川を渡河し、敵国のヌーシャテル領を完全に支配下に収めてきます。兄上には司令官代理としてティルブルクおよびフォンティドルフ領の治安を守って頂きたい」
突如そんなことを言い出した弟が差し出す紙は、国王陛下直々の命令書だった。そこには、バルトルト不在の間の司令官代理をティルブルクで務めるように記されている。
「なあ、バルトルト、お前、知らぬ間にスヘルデ川の上流にダムを作って、幅が狭い渓谷を爆破して、渡河中の敵軍を水で押し流して分断して、近隣から集めた領兵を侵入した敵軍にぶつけて、川に流されずに自国に残った敵兵は、敵国に潜伏させた王国軍で殲滅して、領都は民衆にクーデターを起こさせてパニック状態にしているんだろう?」
「そうですけど?」
「つい最近赴任してきたばっかりだよね?準備期間ワイ?」
「司令官は全く寝ずに準備をしていましたね」
アダムがあっさり答えると、バルトルトは自分の髪の毛を掻き回し始めた。
「フローチェの父上の生家はあの権威主義で有名なオルヘルス伯爵家だから、敵国の領土を奪い取るくらいの活躍を見せないと、挨拶一つですらしてくれないでしょ?フローチェの為を思えば、自分の健康なんて二の次、三の次だよ」
「はああ?」
確かに、よくよく見れば、バルトルトの目の下のクマが酷いことになっている。化粧で誤魔化されていたので今まで気が付かなかった。結婚間際となっても弟の顔に生気がなかったのは、結婚する予定の妻を愛していないとかじゃなくて、連日の不眠によるものだったのだろう。
「そういえば、式に集まった将校たちのテンションが異常に高かったのも?」
「ランナーズハイみたいなものでしょう、連日の作戦会議で徹夜となり、家に帰れていない者ばかりでしたから」
アダムの説明にファビアンは思わず頭を抱えたくなってしまった。
弟の結婚式に参加するように父に命じられたファビアンは、ティルブルクまでやって来ることになったのだが、結婚式だというのに異様な雰囲気だったのも、今まで自分が完全に蚊帳の外に置かれていたのも、全ては今日の作戦を成功させるための布石だったのだ。
「それでは兄上、アダムは置いていきますので後は宜しく」
「バルトルト、死ぬなよ?死んだら、フローチェがたぶん(・・・)悲しむぞ」
「たぶん(・・・)って言うのやめてくれない?」
バルトルトは漆黒の髪を掻き上げると、
「最短で戻って来ます!」
と言って、作戦本部から飛び出して行ったのだった。
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