第35話  起点となる女

 ザイストの諜報部隊に所属するルドルフは、フォンティドルフ領を治めるボスフェルト侯爵の子飼いの子爵をこちら側に引き込んだ時点で、この戦いは勝利を掴んだのも同じことだと判断した。


 ザイストとゴーダが国交を断絶している間に幾度もの衝突が両国間にあったものの、鋼の意志で敵軍の侵攻を抑えてきたのが、先代ボスフェルト侯爵ということになる。


 先代は大きな戦いを何度も経験してきた猛者となるが、その息子は小競り合い程度にも参加したことがない。母親の愛とやらで真綿に包むようにして育てられた男であり、先代なき後の軍部の一切を、子飼いの子爵に丸投げしているような状態だったのだ。


 新しい侯爵は自分に意見する者を嫌い、心地よい言葉ばかりを吐き出す者を重用した。賄賂が横行し、軍部の予算は次々と削られて、領主軍を丸投げされた子爵は、軍を養うために自ら借金をしても追いつかない。


 何の為に自分は軍を任されているのだろうかと絶望にも近い思いを感じ始めたタイミングで、ルドルフは子爵との接触を果たしたのだった。


 領主としては失格ものの放蕩息子に任せるよりも、この領地、隣国ザイストに売ってしまったらどうかと、金貨を山積みにした状態で問い掛ければ、呼応する貴族が後から、後から出てくる始末。


 王国軍の管轄となる辺境警備隊にしても脅威にはなりそうにない。大きな戦いを経験した者は少なく、古参の兵士がいると言っても一部にしか過ぎないのだから。気にするべきは、王都から大軍が派遣されることだけであって、フォンティドルフ領内の既存の兵士だけであれば特に問題にもならないだろうとルドルフは考えた。


 マリータ・スラウスとの出会いで、ルドルフのフォンティドルフ領攻略が急ピッチで進められることになったのは間違いない。彼女はスヘルデ川の水位の変化をザイストの間諜であるルドルフに教えると、マリータと一族が優遇されるというのならスヘルデ川の情報を王国側には渡さないと宣言したのだ。


 しかも、マリータ経由で、新しく赴任した司令官が結婚するという情報も早くから手に入れることが出来たのだ。マリータがブローム会計事務所に潜り込んでいなければ、王都から大軍が配備される予定も、司令官が結婚する日にちを早期に把握することも出来なかっただろう。マリータが居なければ、これほど早急にザイストの軍を動かすつもりはなかったのだ。


 マリータさえ居なければ、恋人を奪い取られた女職員がハールマン司令官の恋人になることもなく、元恋人との結婚を進めていただろう。


 マリータさえ居なければ、司令官の妻を誘拐しようなどという、安易な手に出ることはなかっただろう。


「マリータ!貴様さえいなければ!」


 ルドルフの作戦は全て失敗に終わった。林の中で投げ飛ばされ、足を撃ち抜かれたルドルフは、時を置かずしてゴーダ軍の拘束を受けることとなったのだ。


 部下もすでに拘束済みで、その中には髪を振り乱したマリータも含まれていた。


「ルドルフ!助けて!助けて!私、何もしていない!」


 敵の間諜に声をかけている時点で、何もしていないという言葉の信憑性がゼロどころかマイナスとなっているというのに、泣きながらマリータはルドルフに助けを求め続けた。


「私は何もしていない!騙されたの!騙されたの!」


 手足を拘束されたマリータが何かを隠し持っていないか確認していた一人の兵士が、

「見てください!こいつ!司令官夫人の装飾をポケットに突っ込んでいましたよ!」

 と言って、ドレスにしつらえたポケットから引っ張り出したアクセサリーを掲げて見せたのだ。


 大ぶりのブルーサファイアで出来たネックレスとイヤリングはかなり高価なものに違いない。月光を浴びてキラキラと輝くアクセサリーを見下ろした上官が、引き攣った声で言い出した。


「ハールマン家秘蔵のアクセサリーじゃないか!怖っ!絶対に失くすなよ?失くしたら即刻死刑だと思え!」

「ええええ〜!」


 ゴーダ王国に長年仕えるハールマン伯爵家は王家の血まみれの鉾とまで言われる家であり、戦争にハールマン家が加わるだけで、多くの血が流れるというのは有名な話でもある。


 ハールマン家で語られる逸話の中に、当主の瞳の色と同色のブルーサファイアの話が良く出て来る。ある日、身分を傘にきた高位身分の夫人が、伯爵家の妻から問題の宝飾品(ブルーサファイアのネックレス)を奪い取ったところ、一族郎党、赤子に至るまで殺されたという話があるのだ。


 ちなみに、奪い取った相手は冤罪で嵌められたらしい。策謀に長けた一族としても有名なエピソードの一つであり、恐ろしい逸話として語り継がれているのだった。


「新しい司令官には注意しろよ」

 これは、ルドルフが中央から何度も言われた言葉だった。

「ハールマン家には細心の注意を払え、でないと即座に寝首を掻かれることになるぞ」


 それは普段から聞き慣れた言葉ではあったものの、恋人相手にデロデロ状態になっているバルトルト・ハールマンの姿を市場の一角で見ることになったルドルフは、

「ハールマン家と言っても三男程度、何の脅威になるというんだ?」

 と言って、高を括ってしまったのだ。


「くそっ!マリータ!お前さえ居なければ!お前さえ居なければ!」


 マリータが居なければ、会計事務所の女が司令官と付き合うことにはならなかった。マリータさえ居なければ、会計事務所から上がる情報に踊らされることもなかったに違いない。


「マリータ!お前を殺す!」


 縛られたまま、撃ち抜かれた足から溢れ出す真っ赤な血が飛び散るのも構わず暴れるルドルフを見て、驚き、新緑の瞳を見開いたマリータは、

「何?何?意味がわかんないんだけど?なんで私に怒っているの?」

 全く理解出来ない様子で目をパチパチとさせている。


 例えバルトルト・ハールマンがティルブルクに配属されたとしても、マリータさえ居なければ、こんな結果にはならなかったとルドルフは思うのだ。 

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