第8章-十六夜の月が照らした姿-
第32話ー少し、浮かれ過ぎていただけー
「では、キーユさん、また明日」
「…はい、また明日」
そう言って、キーユはシンシアが寮の中へ入って行くのを見送ると、自分も部屋へ戻るために踵を返して歩き始めた。すると、
————ドクンッ
「…っ!!」
突如キーユの心臓が激しく脈打つ。
「嘘だろ?まさか、今宵は————」
騒がしい胸を押さえながら慌てて夜空に浮かぶ月を仰ぎ見ると、
「そうか、今宵は “
十六夜の月がそっと遠くの天高くから、何も語ることなく、そこにいる生き物を暗闇から浮かび上がらせた。
「ハッ、らしくないな…」
彼はため息混じりに吐き捨てる。今の今まですっかり忘れていたと、力なく笑った。それからサッと前髪をかき上げる。そこには濁っていたはずの左目が、コバルトブルーの美しい色と光をちゃんと取り戻していた。
最近どうもおかしい。こんなこと今までなかったことだ。そう、あの子とこうして共に時を過ごすまでは。
あの子といると、あまりにも楽し過ぎるから、あまりにも幸せ過ぎるから、つい、緩んでしまうのだ。今までピンと張り詰めていたものが、全て。
つい、忘れてしまいそうになる。自分の身の程というやつを———。
そっと瞳を閉じて、これまでシンシアと一緒に過ごしてきた淡く儚い時間に想いを馳せた。
「エス——、…嗚呼そうだ、今日はいないんだった。けど、不幸中の幸いか。その上、お嬢様が帰られた後でよかっ———」
「キーユ、さん…??」
「っ?!」
ホッとしていたのも束の間。突然空気を切り裂くようにして呼ばれた名前。その声に心当たりがあるがために、余計に振り返れない。
なぜ戻ってきた…?
少年は混乱の最中でそれ以上頭が回らない。なぜ今なのだと。ダメだ、今は。今、この姿を見られては———。
咄嗟に無視を貫くことで、人違いだったのかと声の主が早くこの場を立ち去ることを切に願う。しかしそんな思いとは裏腹に、
「キーユさん、ですよ、ね?」
声の主は少し躊躇いながらも、歩みを止める気配はない。
「キ———」
「来るなっ!!」
「っ…?!」
こうするしかなかった。いた仕方なく声を荒らげると、その人はビクッと身体をこわばらせ、やっと足を止める。きっと驚いたはずだ。こんな強い口調を投げかけたことは今までなかったから。けど、今はそれでいいと思った。その人がこの場から立ち去ってくれるなら、それで———。
だが、その願いはあっさりと打ち砕かれてしまうことになる。
「キーユさん、私です、シンシアです!刺客ではありません」
暗闇で誰かわからず警戒していると思ったのか、その人はそう言って名乗り出た。そんなことしなくても、声の主が誰なのかは初めからわかりきっていた。月明かりが無情にも照らした先に、今一番会いたくないその人は立っていた。
「…。」
(何だろう、ヒト、だよね?でも目が光って…?それにあの姿———)
シンシアは月明かりに照らされたソレに一つ息を呑んで、ただただ目を奪われた。確かに人間の姿をしてはいるが、その眼は翠と蒼にギロリと光り、その頭には立派なツノが生えている。耳はエルフのように長く尖り、口元には牙がちょこんと顔を覗かせている。
それは、懸命に人間に姿を真似ようと足掻く、まるで、
「…龍??」
「っ?!」
一匹の龍のようだった。
「…貴方は、キーユさん、なのですよ、ね?」
もう一度確かめるように彼の名を呼んでみる。が、
「…。」
相手からの返事はない。いや、相手からしてみればそもそも返事なんてできるはずもなかった。油断していたとはいえ、人ならざる姿を、見られてはいけない姿を、一番見られたくないその人に惜しみなく晒してしまっているのだから。
じわりじわりと確実に距離を詰めてくる足音。普段は胸を高鳴らせるそれが、今は不協和音他ならない。思わず耳を塞ぎたい衝動に駆られるが緊張で硬直した身体は言うことを聞いてくれない。
頼む、来ないで。どうかこれ以上近づかないでくれと、キーユはキュッと目を固く閉じて俯くことしかできなかった。こんな醜い姿、貴女には、貴女にだけは見られたくない———。
「キーユ、さん?」
「———っ?!」
彼の願いも祈りも虚しく、背後からちょこんと顔を覗かせる無邪気な少女。思わず肩をビクッとさせて慌てて距離を取った。
「キーユさん、ですよね?」
「…申し訳、ございません」
何を答えるよりも先に謝罪の言葉が出たその龍人に、どうして謝るんですか?と、なおも距離を詰めようとする少女。
キーユは罰が悪そうに片腕で顔を隠してシンシアから全力で表情を隠す。
「キーユさ———」
「来ないでください!」
「っ———」
拒絶の言葉に少女の足がまたすくんだのがわかった。
そもそもあの子に近づいたのは自分からだった。紆余曲折あったが、やっと自分に心を許し始めてくれている。なのに…あの子から近づこうとすると今度は遠ざけようとするなんて…。
なんとも虫がいい話なのは自分がよくわかっていた。わかってはいた。でも———、
「見られたくないんです!こんな姿」
貴女には絶対にと、心の中で静かに付け加えた。
「キーユさ———」
「お願いですから、少しは察してください…」
目を合わせずに放たれた言葉。
嗚呼、我ながら最低だな…と、せっかく歩み寄ってくれている彼女に苛立ってしまう自分を責めながら、最後の方は声が尻すぼみに消えて行った。
「…。」
キーユの言葉に、シンシアは口をつぐんでしまった。誰かの心を察する、汲み取る…。いつも空気を読めない発言をしてしまう自分には一番苦手な分野だと。
それ以降急に少女の声が聞こえなくなり、気になってそちらの方を見てみると、彼女はただぼんやりと空に浮かぶ月を眺めていた。
「今宵は十六夜の月、なのですね。部屋に向かう途中、階段の踊り場の窓からこの月が見えて、キーユさんと一緒に見たくなって…」
「…。」
それで、わざわざ追いかけて来てくれたのか…?と、改めて目の前の少女を見た。そんな可愛いことをサラッと言うものだから、いまだ揺れ動いているはずの心が、別の方向に揺れだしてしまいそうになる。
キーユは慌てて頭を左右に振って、今度は空を仰ぐのだった。シンシアはそんな彼の姿を柔らかい顔で盗み見る。
「本当に、綺麗…」
「そうですね」
シンシアの言葉に寄り添うように、そのままぼーっと月を眺め続けるキーユ。
「貴方のことですよ?キーユさん」
「ぇ?」
不意に囁かれた言葉に動揺するキーユに、言った本人であるシンシアは、懸命に平静を装ってはいるものの、実は手も足も小刻みに震えていたのだ。
「…。」
まったく、貴女という人は本当に嘘がヘタなお方だと、言葉とは裏腹な様子の少女に、何も誤魔化しきれていないその人に、キーユは一つ息をついた。
「申し訳ございません、ひどいお目汚しをしてしまいました。僕のことなど気にせず、もうお部屋へお戻りください」
キーユは弱々しく言葉を紡ぐ。
きっと、今すぐにでも逃げ出したいはずなのだ。こんな醜いバケモノが急に目の前に現れて、それがさっきまで一緒にいた相手だなんて…、普通の人間ならこんな平然といられるはずがないのだから———と、うまく少女を見られず申し訳なさげに深々と頭を下げる。
「キーユさんはそう言いますけど、今の貴方の姿はとっても綺麗ですよ」
「やめてください」
思ってもない言葉をさも当然に口にされることほど、胸糞の悪いものはない。わかっている。知っている。人間はこの姿を見た途端、皆口を揃えて “ バケモノ ” だと罵り恐れおののくことを。事実、先ほどこの少女も自分のことを “ 龍 ” だと言ってのけた。
そんな化け物が辿る末路は———
「排除されるだけ」
排除…?と首をかしげるシンシア。
「…でも、どうしてそんなお姿を?」
その姿に少女は覚えがあったのだ。
「もしかしてですけど、それは “ 精霊の姿 ” 、ですか?」
「———っ?!」
その言葉に耳を疑い、どうしてそれを…?とキーユは思わずパッと彼女を見た。
やっとちゃんとこちらを見てくださいましたねと、ホッとするシンシアは、私の知り合いに、似た姿をする子がいるものでと続けた。
「———っ、」
…あぁ、そう言うことかと、キーユは少女の一言から様々を察した。だから恐れないでいてくれたのかと。精霊の姿を晒す自分に恐怖せず、いつもと変わらない彼女でいてくれたわけに、やっと腑に落ちたのだった。
「その知り合いとは、“ フィーゼ ”、ですね?」
すぐに答えを言い当ててしまうその人に、シンシアは照れ臭そうに頷く。
「フィーゼと契約した時に一瞬だけ、今のキーユさんと同じような姿を見たんです。とても美しくて、思わず
シンシアは当時を思い出すように、当時の彼を今目の前のその人と重ねるように、どこか遠い目をしていた。
「この姿が美しい、だなんて…。フィーゼの精霊の姿をご覧になったのは、その一度きりですか?」
落ち着きを取り戻しつつあるキーユに胸を撫で下ろしながらシンシアは口を開く。
「10年前の眷属契約の契りを交わしたあの日に。以来、一度も見ていません。また見られたらな、とは思うんですが」
「フィーゼにそのことは伝えたのですか?」
その言葉には静かに首を左右に振った。
「フィーゼはきっと私が彼の
「…。」
だから、あえて触れないでいると?と、キーユは改めて目の前の少女を見据えた。
———嗚呼、そうだった。
貴女はそういう人だった。気づいていても、気づかないふりを決め込む、相手が打ち明けるまでちゃんと待ってくれる。例え打ち明けなくとも、それならそれでいいとも思っている…。
全く、貴女と言う人は———
キーユは心の中でそう言うと、小さく息をつく。
「相変わらず優しすぎる…」
ため息に似た息と共に、ポツリと言葉が零れ落ちてしまった。
目の前の小さな少女の寛大さや優しさに、キーユはただ、感嘆していたのだ。
「だからあの時フィーゼに伝えられなかったことを思わず口走ってしまいました。綺麗だ、って…」
キーユさんにはフィーゼに言えないことも言えてしまう。ほんと不思議ですと、シンシアはまた少し照れ臭そうに笑うのだった。
「…失礼ながら、
その言葉に目を丸くしてシンシアを見た。思わず答えに迷う。少し間を置いて、やっと言葉がまとまり、ゆっくりと口を開く。
「なぜ、そう思われましたか…?」
その言葉に、え…、と言い淀む少女。
「そもそもどうして貴女はこの姿を、僕だと思ったのですか?」
質問に質問で返され、戸惑うシンシア。言われてみれば確かにそうだ。普段と姿形も全然違うこの人を、なぜ彼だと確信していたんだろう…?と、すぐには答えが出せないでいた。
「普段の僕は、人間の僕は、何かおかしな所がありましたか?何か、
貴女の目には、初めから僕は人間には映っていなかったのですか———?
キーユは言葉をグッと呑み込んで苦しそうに消化する。
一体いつ、どこでバレたのか。これまで完璧だった。ボロなんて出していないはず。ちゃんと人間として立ち振る舞えていたはずだ。なのに、どうして———?
考えても考えても答えが導き出せない。
少ししてキーユはハッと、顔を上げる。まさかあの時か?と、目線は手のひらに移された。
(普通の人間には高難度な、転移魔法を使ったから、それで———?)
ため息と共に目を閉じた。不安と焦りで嫌な汗が滲み出す。
そんな彼に、シンシアは、
「なんとなく、そんな気がして」
そう一言、柔らかく言葉を紡いだのだった。
「なんと、なく…?」
その時キーユが見た少女の顔は、なんの迷いも伺えなかった。嗚呼全く、この子には敵わないと言ったように、キーユはそれ以上は何も追求しなかった。
「さっき、フィーゼが真の姿を一度しか見せたことがないとおっしゃっていましたよね?
彼は僕と違って完全な精霊ですから、もう一度その姿を見るには、通常なら彼が自分の意思で変化を解かない限り、見ることは叶わないかと。あとは彼自身の魔力が制御できなくなった時くらいにしか…」
「完全な、精霊…?」
彼の言葉に首をかしげた。それではまるで、彼は “ 不完全 ” だと言ってるように聞こえてならなかったのだ。
「さぁ、早くお部屋へお戻りください。遅くなってはフィーゼが心配します」
「でも、キーユさんは?」
「僕は夜が明けるまで物陰に身を隠します。こんな姿、誰かに見られるわけにはいきませんから」
この学園の生徒は量に関係なく魔力を有した者ばかり。つまり、普通の人間には見えないはずの精霊の姿さえ見えてしまう可能性が高いのだ。
「じゃあ私、ケルティさんを呼んで来ます。それか、精霊のエストさんなら———」
「やめてください!!」
「っ?!」
余計なことはするな、とでも言いたげに突然声を荒らげたキーユに、シンシアは動きを止める。
「すみません…。
2人は僕がこの姿になることは知りません。そしてこれからも言うつもりはありませんので」
その言葉にどうして?と首をかしげる少女に、
「危険を伴うからです」
一言だけ投げかけられた重々しい言葉。
シンシアはスッと押し黙ってしまう。
「わかるでしょう?帝国の皇子が、それも皇太子が、十六夜の月が昇る夜にだけ、こんなバケモノの姿になってしまうだなんて、あってはならぬことです。決して誰にも気づかれてはいけないのです。
秘密は、隠し通さないと」
笑いながら口の前に指を1本立てるキーユ。
そんな彼を見て、
バケモノだなんて、自分をそんなふうに言わないで———と、ただただ少女は苦しそうに願う。
「それに、この秘密を知った2人のどちらかが誰かにバラさないとも限らない」
そんな言葉を、キーユはこうもあっさりと吐き捨てる。
「そんなこと———?!」
本気で言っているのかと、思わず耳を疑うような発言だ。あたかもあの2人が裏切るとでも言いたいような口ぶりに、シンシアは目を見張る。まさかこの人は2人のことを、いや、むしろ、誰のことも信用してはいないのだろうか?できないのだろうか?と、そんな思いを頭の中に巡らせる。
「これでわかったでしょう?私は誰も信用してはいない」
と平然と言ってのける彼。その顔はどこからどう見ても、誰から見ても、確かに微笑みを浮かべているはずなのに、どこか愁を帯びているようにシンシアには見えたのだった。
彼が時々見せる笑顔の一つだ。心に蓋をした時に、それを誰にも悟られないように、この人はそっと仮面を付けるようにそんな表情をよくする…と、シンシアはじーっと彼の顔を見る。
「まぁ2人以外にもたまたまこの姿を見てしまった誰かが、バラしてしまうかも知れない。どちらにしろ、私にとっても側近である彼らにとっても、命の危険は免れない。結局は2人にも迷惑をかけてしまう」
キーユはそっと目を伏せる。
「っ…」
嗚呼、そっちが本音か。と少女は小さく息をついた。
口では信用していないだの言っているが、本当はむしろその逆。誰よりも大切だから…。先ほど言っていた “ 危険を伴う ” というのは、彼のことではなく、きっと2人のことを指していたのだろう。
嗚呼、この人は、やっぱりお優しい方なんだと、シンシアは心から思った。
この人は今までどうやって、こんなにも大きな秘密を、誰にも知られることなくたった1人で隠し通してきたのだろう…?と、切ない眼差しで、今まで彼がどのようにして生きてきたのか、その壮絶さにそっと想いを馳せるのだった…。
「キーユさん、もしかして怖い、ですか?」
と試しに問いかけてみた。
ぇ?と彼は首をかしげる。
「その姿をケルティさんやエストさんが見て、恐怖されてしまわないかと」
シンシアの言葉にキーユはゆっくりと目を逸らす。
「大丈夫ですよ。お2人ならきっと———」
「貴女以外の人間が、全て貴女と同じだと思わないでいただきたい!」
「っ!!」
シンシアの言葉を遮ってまで声を荒らげるキーユに、シンシアは目を丸くしてビクッと体を跳ねさせる。とても珍しいことだったのだ。キーユがこんなにもシンシアにはっきり感情を見せるのは。
「ぁ、す、すみません、また大きい声を出して…」
「い、いぇ、私の方こそすみません…。軽率でした」
お互い気まずそうに顔を背ける。
「…でも確かに、貴女のおっしゃる通りかも知れませんね。本当は怖かったのかも。2人がこの姿を見て、恐怖、というよりは、失望してしまうことが」
「失望?!…どうしてですか」
シンシアは思わず聞き返す。
「これまで嘘をついてきた罰、とでも言いましょうか…。ケルティもエストも、人間の僕に忠誠を誓い、今まで仕えてきてくれた。その主の正体が、実はこんなバケモノだっただなんて、完全なる裏切りでしかない、でしょう?」
「…、」
そう言ってどこか寂しそうに笑ってみせるキーユに、シンシアはゆっくりと口を開く。
「キーユさんは、本当にお優しいんですね」
「ハッ、僕なんかのどこが?!ただ、意気地無しの臆病者なだけです」
「臆病者だからこそ、他人の心の痛みや恐れも分かるのでは? きっと、そんなキーユさんだから、お2人もそばにいらっしゃるのかもしれないですね」
「っ———、」
キーユはひとつ息をつくと、それ以上は何も言わなかった。
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