4-4
—— 一方、部屋に戻ったシンシアは、
「はぁ、鳴ってよかった…」
(風の神様、ありがとうございました。あの方の傷を癒してくださって)
部屋に足を踏み入れると、ホッとしたように笛を取り出してキュッと握る。
…と、
「——っ」
「お嬢っ!!」
バランスを崩してそのまま床に崩れ落ちる所を、慌てて駆け寄ったフィーゼに抱き抱えられる。
「大丈夫かよ、何があった?!」
「うんん、大丈夫、ありがとう、フィーゼ」
シンシアは力なく微笑んだ。
「ちょっと失礼」
フィーゼはそう言うとシンシアをそっと抱え上げ、ベッドへ向かった。
「ちょっ、フィーゼ、下ろして!?もぅ大丈夫だから、別にベッドに横にならなくたって———」
「そんな状態で言っても何の説得力もない。…もしかして、吹いたのか?笛」
「ふぇ?」
「さっき触ってたから」
「——っ、うん。話したことあったっけ?この笛を吹くとね、その後、とっても良いことが起こるの」
フィーゼに強制的にベッドに下ろされて丁寧にシーツを掛けてもらうシンシア。フィーゼに笛を見せるが、彼はその小さな手を自分の手に優しく包み、そのままふかふかのシーツの中へゆっくり導く。
「いいことがあったとしても、当の貴女が立っていられないほどになってりゃ、本末転倒じゃねーか」
「えへへ…本当だね。でも良かった…」
「どんな良いことがあったんだ?」
優しい口調で問うフィーゼは、ベッドに腰掛けてシンシアの柔らかい髪にそっと触れる。
「あれ、聞いてくれるの?珍しい…」
「あーもぅいいです」
「あ、待って、ごめんなさい、お願いだからめんどくさがらないで。嬉しくて、つい…。キー、あ、いや、友人の怪我が治ったの!」
“ 友人 ”。主のその言葉に、ピクッと反応し、毛先を弄んでいたフィーゼの指はピタッと止まる。
「皇子殿下、怪我したのか?」
「ちょっ、誰もキーユさんのことだなんて」
「お嬢の友人なんて、アイツしかいないだろ?」
「酷い…。ま、事実だから何も言い返せないけど」
楽しく話すシンシアとは裏腹に、フィーゼは面白くなさそうにさりげなく視線を逸らす。
「…ごめん、フィーゼにとっては、詰まらない話だね」
「っ…、あ、いや、違っ、」
寂しそうに笑うシンシアに、やってしまったと罰が悪そうに慌てて取り繕うフィーゼ。
「フフッ、なぁんて。…ビックリした?泣いたと思った?」
「…はぁ、マジでめんどくせぇ。今度こそもぅいい。後は一人でごゆっくり」
悪戯っ子の笑みを見せるシンシアに、フィーゼは大きく溜息をつくと、スッと立ち上がった。
「あ、待って、ごめんって…。フィーゼ、ほら、顔見せて」
「は?」
「いいから、こっちを向いて?」
シンシアはもう一度座れと言わんばかりに、先程フィーゼが座っていた所をポンポンっと叩いた。
「…。」
主が言うことにはとことん逆らえない性分の彼は、黙って渋々従う。
「フィーゼは、
「あぁ。だから何?」
一直線上に2人の視線が交差する。一点の穢れさえも知らないような真白な雪色の瞳が、シンシアのターコイズブルーの瞳に映り込む。
「いつ見ても本当に綺麗だね。雪がそのまま、貴方の瞳になったみたい…」
優しい目で囁かれる主の言葉に、
「ハッ、気色悪いの間違いでしょうよ」
フィーゼはどこか申し訳なさそうにフッと嘲け笑う。
「もぅ、せっかく褒めてるのに。…ねぇ、フィーゼは氷の魔法を使う時、いつも詠唱しないよね?指を一つ鳴らすだけで」
「…ま、これは魔法じゃないからな」
シンシアに言われるがままにフィーゼは、“パチンッ”と一つ指を鳴らした。すると、
「うわぁ!」
何もない空中から、はらはらとゆっくり粉雪が舞い降りてきた。
「これは加護だ。俺自身の力なんだから、詠唱なんて必要ない」
「やっぱりすごいな、フィーゼの力は」
シンシアは嬉しそうに宙に消えていく雪のカケラに手を伸ばす。
「力を使うには、詠唱の代わりに指を鳴らすの?」
「あぁ。神や精霊といった、見えないものと契約した場合、契約者だって指を鳴らせば契約した神や精霊の力を使うことができる」
「じゃあ、私にもフィーゼみたいに雪や氷が出せるってこと?」
「できるだろうけど、お嬢はそんなことしなくていい。俺がこうしてそばで護ってやってるだろう?今までだってそうしてきた。貴女は何もせずに、ただ俺に護られていればそれでいい」
(っ、ああ、そうか。これがアイツが言ってた、過保護ってやつか)
フィーゼは以前キーユに指摘された言葉をふと思い出していた。
「うん。ありがとう、フィーゼ」
(…ということは、さっきキーユさんといる時、目を閉じていた時に聞こえたあの音が、指を鳴らす音だったなら、キーユさんもフィーゼみたいに目に見えない存在と契約しているってことだ。そして指を鳴らした後に大怪我を負ったと言うことは、あれは、代償を負ったと言うこと。私が目を閉じている間、キーユさんは一体何をしたんだろう?)
シンシアはフィーゼの話から、改めてキーユが何か魔法とは違った、加護や祝福といった、契約者しか使うことが許されない特別な力を使ったということだけは推測できたのだった。
「ねぇフィーゼ、代償って、そんなに苦痛を伴うものなの?」
「え?…そりゃ、力を正しく使わないヤツへの、一種の天罰みたいなもんだからな。お嬢はまずそんなことにはならんから安心しろ」
「ふぇ、なんで?」
不安そうな顔の主を安心させるように、従者は幼子を宥めるように優しく彼女の頭を撫でる。
「俺の力を使うか使わないかは貴女じゃなく、俺自身の裁量に委ねられているから。代償を受けるのは契約者が力の使い方を間違えた時。自分で自分の力を使うのに、正しいも間違いもないだろう?」
「あ〜、なるほど。さすがフィーゼ、頭いいね…」
(ちょっとズルい気もするけど。 そうか、それが貴方のやり方。私は最初から、貴方と契約したあの時から、もうずっと、貴方に護られていたんだね)
シンシアはそう思いながら、心に温かいものがじんわりと広がっていくのを感じた。
「フィーゼが従者になってくれて、よかった。いつもありがとう。」
改めてシンシアはフィーゼと契約したことにそっと感謝するのだった。
「本当、あの時、師匠に拾われて良かった」
「フィーゼ…」
フィーゼが言う師匠とは、クリミナード公国の公王、シンシアの父親の従者である、ダルク・セライドのことだった。
「俺は北の国、モントレー王国で、たまたま俺の師匠、ダルク・セライドに拾われて、それからは血反吐を吐くような執事の英才教育を叩き込まれた。俺は人一倍物覚えが悪いから、毎日のように鞭で打たれながら———」
「それは、執事になるためには必要なこと?そうやって毎日痛めつけて、逆らえないようにして…」
フィーゼの話にシンシアは苦しそうに笛と一緒に胸の辺りを握りる。
「この前フィーゼの眷属紋を見た時、フィーゼの身体、いっぱい傷があったから」
「なんで貴女がそんな顔…。言ったろ?あれは俺のせい。物覚えが悪い俺への罰だ。貴女が気にすることじゃない」
(…はぁ、だから過去を話すのは苦手だ。今まで何度か聞かれたことがあったが、いざはなすと、ほら、やっぱり貴女はそうやって、泣きそうな顔をする)
フィーゼは心の中でそう言いながら、困った顔でシンシアの頬に触れる。
「もぅ全然痛くも痒くもねーよ。…確かめてみっか?」
「ぇっ!?」
フィーゼはシンシアの手を掴み、自分の傷に触れさせる。
「ほら、この通り、何ともないだろう?」
「っ…、」
「あぁ、だからもぅ泣くなって」
「…だって」
シンシアの目からは次々と雫が溢れ出す。
「俺は、別にこの傷を憎らしく思ったことなんて一度もない。これは従者になるための修行の賜物だ。この傷があったからこそ、こうして貴女と出会えたし、貴女の従者、フィーゼ・セライドとしての俺でいられるのだから。だからこれは、俺が俺でいられる証。お嬢が泣くことなんて、何一つとしてないんだ。…って、お嬢、何して?!」
「…っ」
ふと気がつくと、シンシアはむくっと起き上がり、突如笛を咥えて息を吹きかけていた。
プス——っ
「あれ、何で鳴らないの? どうして?」
「…。」
シンシアは何度も何度も笛に息を吹き込むが、先ほどキーユの怪我を癒す時になったあの綺麗な音色は、一切聞こえない。
「ねぇ、鳴って?…お願い、鳴ってよ」
「それを鳴らしてどうする気だ?」
「お願いするの!風の神様に。フィーゼの傷を消してって」
「風の神? おいおい、とうとう気でも触れたか?」
「っ?!違っ、さっきだってこれで、キーユさんの怪我を治していただいたんだから!」
懸命に言うシンシアに、俄には信じがたいことでフィーゼは困惑の表情を浮かべる。
「確かその笛を吹いたら、良いことがあるって言ってたけど———、…それ、氷翠石か?」
「うん。お婆様の形見なの。
「風の神が、笛に宿る…、か」
(見えない存在がモノに宿るなんて、ましてや契約もなしに人間に力を貸すなんてこと、聞いたこともない)
フィーゼは心の中でそう言いながらシンシアの胸元で輝く氷翠石の笛を不思議そうに眺める。
「とはいえ、さっき鳴らなかったよな…?」
「ゔ…、お婆様が言うには、その時じゃないと鳴らない、って」
「“ その時 ”…⁇」
「本当に助けを必要とする時。私だけじゃ、どうにもならない時。きっと今の場合はもうフィーゼの傷は治ってるから、風の神様は応えてくれないのかも。私はその傷が消えることを願ったけど、それは、叶えられないみたい」
シンシアは残念そうに俯く。
「そうか。一筋縄では行かないんだな、風の神ってのは」
(いや、違うか。イェティスの風は癒しの風。傷は治せても、消せない、ということか。
傷を無かったことに出来るのはきっと、この世の
フィーゼはそんな考えを一人、頭の中で巡らせていた。
「キーユさんの時は確かに鳴ったのに…」
「仕方ねぇよ。いくら神様でも、出来ないことだってあるってことさ」
フィーゼはそう言いながらシャツを着直す。
「ごめんね、フィーゼ…」
「よせ、お嬢が謝ることじゃない。むしろ、ホッとしてる。だってこれは、努力の証だから。それが消えるってことは、あんなに過酷だった時間が全て無かったことにされるってことだ。まぁ、コレ見てお嬢がさっきみたいになるのはそりゃヤダけど、やっぱ、惜しい…」
「フィーゼ…」
フィーゼは力無くフワッと笑って見せるのを、シンシアただ見つめていた。
それからだんだんとシンシアの瞼は重たくなってきて、静かに眠りに落ちたのだった。
「…お休み、お嬢。もぅ何も気にせず、ゆっくり眠れ」
フィーゼはシンシアの髪を撫でると、
その額に一つキスをして、部屋を後にしたのだった。
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