第1章-巡り会いて-

第1話-とりあえず、さん付けで-

 ここは風の神イェティスを守護に持つクリミナード公国。その随一の名門校、クォディリオ王立学園は、幼稚部から大学部までのエスカレーター式で、国中の貴族の子女が在学している。

 長い夏休み明けの9月の初日。高等部の入学式兼進学式がこれから講堂で行われるところだ。新高等部1年生が一堂に集う。


「ねぇ、進学生代表の挨拶って誰がすると思う?」


「例に漏れずまたシンシア様じゃない?中等部の頃もそうだったし。あれって学年主席がやるってお決まりのパターンでしょ?」


「確かに、中等部でもシンシア様が常に学年首位の座を独占してたものね。ほんと、性格はどうであれ、頭だけは良いからあの人。さすが一国の公女殿下だわ」


「もぅ、言い過ぎだよ。おかげで面倒なことはいつもシンシア様が全部引き受けてくださるんだから、文句ないでしょ」


「アッハハ、ほんとシンシア様がいてくれて助かるわ」


 近くに座る同級生の言葉が否応なく耳に入り、少女は、嗚呼またか———とキュッと下唇を噛み、目を閉じて静かにやり過ごそうとしていた。

 

 少女の名前は、シンシア・ロゼ・ル・クリミナード。周りが “ シンシア様 ” と呼ぶその人だ。


 領主クリミナード公王の一人娘で、この国の公女殿下だ。ターコイズブルーの美しい瞳で、髪は白にも近い淡い金色の髪をしている。


 少女の膝の上に置かれた手はいつしか固く握られていた。その呼吸も次第にリズムを崩しだし、苦しそうに小さく表情を歪める。



 ———そんな時だった。



【大丈夫。貴女はこんな雑音聞かなくていい】



 声が聞こえた。



 それはこの上なく優しい優しい声だった。こんなに騒がしい中にも関わらず、何よりも心地よく心臓にピロピリと響いた。不思議な安心感に包まれていた。

 少女はただ声に応えるように音もなく小さく頷く。するとそのすぐ後に、


 “ パチンッ! ” と指が一つ鳴った。


 その瞬間だった。


 彼女の鼓膜は途端に仕事を辞めてしまった。周りの声がスッと遮断されてしまったのだ。正しくは喧騒が全く消えたわけではない。彼女の胸をチクチクと刺す鈍痛にも似た言葉に関しての一切は、だ。なんとも不思議な感覚だった。まるで鼓膜の手前にフィルターでもかまされたかのように、誰かが手でそっと耳を塞いでくれたかのようだった。


 でも、一体誰が———?


 心当たりがまるで見当たらない。首をかしげながらも、少女はふとあることに気がつく。

 あんなに固く握られた少女の手はいい意味で力が抜けて、ゆっくりと解かれていた。乱れた呼吸は次第に落ち着きを取り戻そうとしていた。下がっていた口角は人知れず少し上向いているのだった。


 だがしかし一難去っただけでは内心はまだまだ穏やかではなかった。それもそのはず。周りが噂していた新学生代表の挨拶のことが、彼女の頭から離れない。だってまさかそんなこと一言も聞かされていなかったのだ。まさに寝耳に水状態なのである。


(どどどどうしよう。代表の挨拶だなんて急に思いつかないよ。一体何を喋ったら———)


 そう思いながらガクガクと小刻みに打ち震えていた。普段口下手で誰と喋るにもあわあわしてしまう彼女だ。今だって頭が真っ白になり一言も良さげな言葉が出てこない。


 そんな不安しかない思いもさることながら、式は順調に進んで行くのだった。



「新入生代表、挨拶」



 司会進行を務める教員の言葉に、うわっきた、とシンシアは肩をビクッと一つ跳ねさせる。どうか自分の名前を呼ばないでくれ———。シンシアは目を固く閉じ、祈るように両手の指をガッチリと組んだ。その手にはいよいよ汗が滲みだした。


 静まり返った空間で、その名前は呼ばれた。



「新入生代表、 “ キーファン・ヘウン ” 」



 はい。とどこからか返事が飛んでくる。名前を呼ばれたその人は席を立ち、壇上へ向かう。


「…ぇ?」


 思わず小さく声が漏れた。いや、そもそも


 ———ダレ?!


 と、聞き慣れない名前に思わずツッコんでしまっていた。それはその場にいる生徒たちも同じだったようで、


「誰?聞いたことない名前なんだけど」


「ヘウンって、どこの貴族?」


「まさか転校生?」


「外部進学者ってこと…?」


 などと一斉に場内がざわめき出す。


「それより何でシンシア様じゃないの?中等部の学年末試験はあの人がトップだったのに」


 グサッ!


「まさかその後の進学試験で、シンシア様の成績を抜いたって言うの?」


 グサグサッッ!!


「え〜ありえないでしょ。シンシア様は中等部でずーっとトップに君臨されてたんだから。進学試験だって相当難しかったし、並大抵の勉強をしたくらいじゃ———」


 グサグサグサグサッ———


 容赦ない声がリアルなSEとなり脳内再生され、心臓を乱れ突きする。


 思わず、ぐはぁっ、とその場に倒れ込んでしまいそうな攻撃力に、シンシアは恥ずかしそうに顔を伏せる。



 ———そう、違ったのだ。


 自分の名前が呼ばれなかったことに少女は少しホッとはしたが、それと同時に一度伏せた顔をなかなか上げることができない。名前を呼ばれなかったということは同時に、今まで守り続けてきた学年首位の座を、明け渡したことを意味するのだから。


 シンシア自身全く期待していなかったと言えば嘘になる。周りの生徒達が口々に言うように常に成績は学年首位の秀才で、学力で彼女の右に出る者はいないほどだ。今回の試験も万全の体制で臨んでいたのだから。


 それは一重に、


 一国の姫君なら成績トップは当たり前


 そんな周りの勝手なイメージを気にしてのことだった。自分の存在価値を示す唯一の手段がそれしかなかったのだ。


 ざわつく会場の声を切り裂くように、暗闇からライトが灯る壇上への通路を颯爽と進む生徒が1人いた。彼こそ難題な進学試験をトップで通過したキーファン・ヘウンその人だ。


 たまたま通路側の端っこに気配を殺して座っていたシンシアは、壇上に向かうキーファンが隣を通り過ぎる際、


「…っ?!」


 ポンっと一瞬何かが頭に軽く触れた気がして、やっと慌てて頭を上げた。


 視線の先には背の高い後ろ姿が闇から光へ吸い込まれていくのが見えた。


(さっきの手、あの人が———?)


 それからだ。シンシアの目はもう彼から離せなくなってしまった。


 暗闇から灯りに照らされた壇上に姿を見せたキーファンは、高身長で容姿端麗、金色の髪に、シンシアと同じターコイズブルーの右眼が見えた。その姿はまるで女性と見まごうほどに美しく、ここにいる女子生徒はおろか男子生徒までもが一目で釘付けとなり、あんなに騒がしかった場内の音は無に帰した。


 そして、皆に心の中でこう呟かせたのだ。


 綺麗———と。


 それはシンシアも例外ではなかった。


 静まり返った会場で、ブレザーの内ポケットから封筒を取り出し、それを仰々しく広げて粛々と挨拶文を読み上げていく彼。それを見てシンシアはふと思う。


(この人、声も綺麗だ…。聞いててとても落ち着く。それに、何故だろう?とても、


 感じがする)



 シンシアは先ほど一瞬だけ聞こえた優しい声を同時に思い出していた。どこか、その声にも似ている気がしたのだ。


 その時のシンシアには、自分が成績トップの座を彼に明け渡してしまったことなど、本当なら自分が代わりにそこに立っているはずだということなど、もはや1ミリも頭にはなかった。そんな時だった。


(あれ、こっち見て、る…?)


 壇上の彼とやけに目が合うような、いや、まるで自分だけに向けて挨拶文を読み上げているかのように思えてしまうシンシア。


(いやいや何考えてんの、落ち着け私! 自意識過剰が過ぎるでしょ!気のせいだから。そんなの私だけじゃなくて、きっとここにいる女子全員が同じこと考えてるから!)


 シンシアは必死に心の中で自分に言い聞かせながら、首を左右にぶんぶん振って慌てて彼から目を逸らすのだった。



 ————————



 式は無事に終わり、生徒たちはクラス表と成績順位表が張り出された掲示板に向かう。周りが新しいクラスメイトに一喜一憂しているのをよそに、シンシアは一人、成績順位表に目を向けていた。そして一番上の名前を見上げる。


 1位 キーファン・ヘウン 497点

 2位 シンシア・クリミナード 493点

 3位 フィーゼ・セライド —————

 

「500点満点中の、493点」


 あともう少しだったのにと、シンシアは落胆したまましばらくの間その場から動けないでいた。



「あのシンシア様が、2?!こんなこともあるんだな」


(あ〜、みたい、ですね…)


「万年学年首位が信じられない…」


(えぇ、そりゃもぅこの私が一番…)


 周りはシンシアが学年首位から陥落したことが所々で取り沙汰していた。それらの声に心の中で一つずつ返事をするたびに肩が下へ下へと下がっていく。そんな悲壮感漂う背中越しに、



「もしかしてあなたが、

  “ シンシアお嬢様 ” 、ですか?」



 どこからかそんな声が、あれほど騒がしい周りの喧騒の間を丁寧にすり抜けて、全く掻き消されることなく、真っ直ぐに彼女の耳に鮮明に届いた。


(だ、誰?こんな私なんかに直接話しかけてくる変わり者さんは!?)


 突然のことでビクッと肩を大きく跳ねさせながら、心の中で呟くシンシア。そして懸命に平静を装いながら恐る恐る振り返る。きっとその時の顔は剥き出しの警戒心でさぞかし強張り倒していたことだろう。


「す、すみません、そんなに驚かせるつもりでは…」


 顔を見た途端、声をかけたその人はなんとも言えぬ戸惑った表情を浮かべる。


「いえ、私の方こそすみません。人に話しかけられるの、慣れてなくて…」


 そこまで酷い顔をしてたのかと、シンシアは苦笑いで慌ててその人に謝罪したのだった。


 無理もない。シンシアは人一倍大人しい性格で、その上公女殿下という立場も相まって、周りからは特に距離を置かれており、ここ数年、他人とまともに話すことはおろか、話しかけられることすら皆無に等しかったのだ。おかげで彼女には友達と呼べる人物は、今のところ誰1人としていない…。


「ぁ、貴方はさっき講堂で挨拶してた人…?」


「ぇ?」


「あ、いや、すみません」


 私、なんて無礼な物言いを———と、ポロッと口をついて出た言葉に思わず頭を抱えるシンシア。


「フフッ。はい、おっしゃる通り、この僕が、先ほど講堂で新生の挨拶をした人、です」


 少女の失言をそう言って笑ったその人は、

 

「改めまして、キーファン・ヘウンと申します。シンシア・クリミナード公女殿下にご挨拶を申し上げます。お会いできて光栄です。以後お見知り置きを」


 と、深々と丁寧に一礼した。


「こ、こちらこそ、よろしくおねが、いた、ます」


 よかった、笑って流してくれたみたいと、シンシアはやっとホッとしながらも、久々の公女殿下としての扱いに思わず声が裏返ってカミカミになってしまった。


「…フフッ、可愛ぃ———」


 思わず口元にこぶしを当てがい、クスッと溢してしまうキーファン。そんな聞こえるか聞こえないかで消えた声に、ぇ?と思わず彼を見るシンシア。


「ぁ、いぇ。さて、教室へ移動しましょうか、


 誤魔化すように慌てて話を逸らすキーファンは、その場から移動するようにシンシアを促す。それから周りの流れに紛れて、2人は新しい教室へ向かうのだった。


「…ぁ、あの」


 そんな中先に口を開いたのはキーファンだった。シンシアはやはりビクッとしながらそちらを見る。


「その…、お、お嬢様は———」


 改めて言葉を発する彼はどこか緊張気味で声も上擦り、カタコトになっていた。


「そんなかしこまらないでください、


 “ 私は貴方のお嬢様ではありません。 ”


 だから———」


「っ…、ハハッ、そ、それも、そう、ですね」


 シンシアの言葉に少年は笑って返すものの、その笑顔はどこか切なさを隠して消えていったのだった。


「では僕のことはへウン卿ではなく “ キーユ ” とお呼びくださいませ、公女殿下」


「わかりました。それなら貴方こそ、公女殿下ではなく、…と」


「はぇ…?!」


 いきなり名前呼びだと?そう思いながら一国の公女殿下からの思わぬ発言に一瞬時間が止まる。再び動き出した頃には、胸がどんどん高鳴っていくのを一人感じていた。


「どうかされましたか?キーユ


「っ?!」


 そういう貴女はさん付け———?!不意打ちのように名前を呼ばれて、さらに早鐘のごとく胸を打ち鳴らすキーユ。今度は加えて頬がじわじわと赤くなっていく。


「では僕も、シンシアと、お呼びしても?」


 必死に冷静を装いつつも顔を逸らしながら言葉を発した。



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