004
「────……、あれ、醒めた?」
見渡す限りの青空だった世界はもう何処にもない。
覚醒する意識で見上げている岩肌の天井は、薄暗く湿った洞窟の中だった。淡い光を放つ鉱石が所々に露出していて、意思もなくただそこにあるだけ。
何と懐かしき我が家だろうか。家財道具など一つもないけれど。
洞窟の中は噎せ返るほど濃い魔素は不快感を伴うが、不思議とそれがあの心地の良いエーテルの世界──夢の世界の出来事に現実味を持たせた。
自身は間違いなく、あの場所でユグと出会った。
「あの、嘘つきお爺ちゃん! 追い出さないって言ったのにッ」
そんなことは一言も言っていない。アダムとイヴの話をしてそう解釈しただけである。マリスは裏切られた怒りに染まり、癇癪よろしく思い付く限りの罵倒でもってその身を起こした。
「何が知恵の実だ! やっぱり僕のことが邪魔だったんだ! そりゃそうですよね、樹木になっても何億万年世界の記憶を覗き見するのに忙しかったんだから、ぽっと出の夢魔なんてさっさと追い出したかったんでしょうね! ちくしょう、絶対許さねぇ」
被害妄想である。だが、ひとり心の思うままに叫んでいた。
「一人にしないでって言ったのに! 何だよ、やっぱり耄碌葉っぱなんかに僕の気持ちは分からないんだ。……だったら、狼の話なんかしないでそのまま追い出せば良かったじゃん」
じんわりと涙がにじむ。
気を持たせるだけ持たせて最後は裏切るなんて、あの世界樹、どれだけ性根が腐っているんだと老木に慰められた恩義も忘れてマリスは地面に突っ伏した。
《誰が耄碌葉っぱだ。まったく、黙って聞いておれば好き勝手に罵りよって。……そなた、聊か口が過ぎるのではないか?》
頭の中に声が聞こえる。
それも、しっかりと、不機嫌そうなそれは、皺がれたあの声である。
「……ユグ爺?」
《如何にも》
「……幻聴じゃない?」
《そなたの方が耄碌しておるのではないか? 若い時分でご苦労なことだ》
「この言葉使い、この口調、この嫌味……ッ」
その何れもに聞き覚えがあった。マリスは歓喜に顔を上げる。
「ユグ爺、何処! 何処にいるの?」
これがライトノベルであるなら、あの世界樹は自身の化身──トレントなどの木の魔物か精霊の幼体みたいな存在になって一緒にいてくれる筈だ。そして始まるのだ、ネット小説っぽいチートな現代知識無双が。何故かマリスは疑いようもなく、そう思って辺りを見回した。
《わしは何処にも行かぬ。変わらずアカシアに根を張っておるわ》
「ですよね~」
世の中、生まれ変わってもそう都合よくとはいかない。
既にユグとの対話でこの世界が単純なテンプレ通りの世界でないことは理解していた。視線というカーソルを合わせただけでテキストが表示されたりはしない。ステータスウィンドウもない。自分の出来ることが何なのか、可視化されない世界で生きるのは心許ない。
だが、世界樹ユグドラシルがいる。
あの雄大な大樹の姿は見えないが、確かな存在を感じてマリスはほくそ笑んだ。
「ひきこもりの俺が言うのもなんだけど、ユグ爺も大概出不精だよね」
《初めから怠惰であると言っておろう》
「だから僕たち、気が合うのかも」
《抜かしおる》
夢の中で交わしたように、二人は現実でも笑い合った。
ユグは今、マリスの五感を通して世界を見ているらしい。
本体の大樹は相変わらず世界の事象を観測していて、人間でいうところの毛細血管か、末端神経の先っぽを繋げているようなものだそうだ。例えるならデスクワーク中に隣の席から声を掛けられ、気もそぞろに生返事をしているような感覚だろうか。もっと本気で相手をして欲しい。
とにかく何かか細い糸のようなものでマリスと感覚を共有している。
「それが知恵の実の効能なの?」
《果実そのものの効能というよりは、その中にある種子の効果である。ハイエルフには個の概念が薄く、全でものを見る。その精神性は植物との相性が殊の外良かったのであろう。肉体が樹木になった今も種を植え付けた相手と意思の疎通が叶うのだ》
「なるほど、全然分からない」
《ならばそういうものと心得ておけ》
テンプレ通りではないが、まったくのファンタジー世界である。マリスは自分なりに納得しようと考えるけれど、地球出身が故の弊害に悩まされただけだった。
「いや、待って? 種子ってことは、俺もユグ爺みたいに樹木になるってこと? 種だから芽吹くよね? 俺の余命は、あと何年くらいなんですかっ」
《そなたに種を植えたところで芽吹きはせぬよ。土壌に養分がなければ種は種のまま眠りに付くだけのこと。寿命を案ずるより種まで飲み込む己の卑しさを誇るべきである》
「あ、そうだ。俺の身体、魔素で出来てるんだった」
聞こえた嫌味を聞き流し、マリスは改めて自分の肉体の儚さに気が付いた。とりあえずはヘソからスイカの蔓が伸びてくるなんて事態にはならなさそうで安堵する。
「あれ? じゃあ人狼は?」
《奴らが森の民と呼ばれる所以であるな。……ミネルヴァから果実を与えられた獣は、己が死する時その肉体は森へと還るのだ》
「土に還る的な?」
《確かに肉は腐り土地に還るが、亡骸からは種が芽吹き、時をかけて大木へと育つのだ。人狼らにとってそこは先祖を祀る霊廟となる。聖樹同様に守らねばならぬ故郷だ》
「魂は?」
《さてな。魂の循環はこの世界の事象の範疇にはなく、わしでも観測が出来ぬ源流に戻されるのであろう。ヒト族の中では夜空に瞬く星になると言い伝えられることもある》
「ハイエルフは精霊になるのにね」
《それを精霊と呼んでおるのはヒト族だ。我らに死の概念はなく、我らの魂は、自ら結んだ太古の契約に縛られておる。もはや輪廻の枠からは外れておるのだ》
やっぱりそれは神様なんだよなぁ、とマリスは何度目かになる心境を心の中で呟いた。
なまじ肉体が大樹に変わってしまったから、人間のいう神という概念を理解していても自己認識に繋がらないのでは? とも思う。一方でマリスは現代社会に生を受けたとはいえ、生粋の日本人なのだ。日本の神様というのは何も人や獣の姿をしているだけではない。
御神木という、樹木さえ神と祀る文化がある。それは神様の宿る木でもあるし、樹齢何百年、千数百年という植物の生命力に敬意を抱いて神格化されている。
信仰心の薄れた現代に於いても台風の被害などで何処かの御神木が倒壊したとなれば、全国区のニュースになる程だ。知らない土地の御神木であるのに何となく胸が詰まったりする。怪我人がいなければ『神様が代わりに受けて下さった』と、ご利益まで感じる。以上のことから殊日本人に対して、樹木であるから神様じゃないなんて理屈は通用しないのだ。
《殊勝な民族性であるな。だが、信仰に関してはどの民族より寛容であるのに、同族に対してここまで不寛容になれるとは、まことちぐはぐな連中だ》
「それは社会からはみ出した人間の記憶だからそう見えるんだよ。多分、実際は言うほど悪い社会じゃなかったと思うよ。現に俺は二十七年も生きられた訳だし、適応出来なかった方が悪いんだって、……ってユグ爺、お爺ちゃん俺の思考まで覗けるの?!」
《告げておらんかったか?》
「初耳ですけど!」
個の概念が薄く、全でものを見る。その真髄を垣間見た気がした。
「隠し事、出来なくなってる?」
《共にいてくれと、そなたが泣いて望んだではないか》
「そういう融通が利かないとこ、ほんと神様っぽい!」
一緒にいて欲しいとはあくまで物理的にであって、精神を繋いで思考まで共有してくれと言う話ではないのだが。しかし、ユグは怠惰が過ぎるハイエルフ──もとい世界樹であるからして、恐らくはマリスが死にかけていようとアカシアから離れることはないのだ。きっと瀕死の重傷を負った際には頭の中で、頑張れ、負けるなと応援してくれる筈である。
マリスは仕方なし、あまり変なことは考えないようにしようと思うに留めた。
《変なこととは何だ。異なる世界の夢魔にあやかり、自ら己が
「くっ、ただの黒歴史じゃん! やりづらいからスルーして!」
この先、存外お茶目なお爺ちゃんに振り回されそうな予感がしたが、今はまず目先のことだけに集中しようと、洞窟から出る方法を考えることにした。
一頻り再会の喜びを分かち合った後、マリスは徐に立ち上がって、ユグに洞窟の中を案内しようと歩き始めた。案内と言っても詳しくはない。本当に薄暗くて、ぽわっとした光る石の結晶が岩肌から覗くだけだ。それが魔鉱石であることもユグから教わって初めて知ったくらいだ。
だが、感覚を共有しているのだから、マリスが見落としていた何かを見付けられるのではないかと思い立った。しかし、
《そなた、魔鉱石に触れることは出来るか?》
暫く奥へと進んだ後、ユグはマリスに訊ねる。
「……俺、この石にあんまり触りたくないんだよね。なんか、大事なものを持っていかれそうな感じっていうか、歩いてるだけで貧血みたいに頭がクラクラするし」
夢を見る前、洞窟内の探索を早々に諦め不貞寝するように寝ることを選んだのは、何もひきこもりのニートだからではない。いや、心が折れかけていたのは本当だった。
体調不良自体は慣れたものだ。生前は毎日のように心因性の頭痛や吐き気、不眠に悩まされて学校やバイト先、とうとう心療内科にすら通えなくなっていた。
精密検査をしても身体の方に異常はなく、何度もカウンセリングを受けて薬も増やし、何軒か病院も変えたけれど一向に改善しなかった。呆れた兄が金をドブに捨てるようなものだと両親に話していたのを聞いて、結局はその治療も途中で止めてしまったのだけれど。
だが、夢魔の身体で感じる不調は前世のそれとは違うような気がしていた。しかし、何せ根っからの社会不適合者なのだ、すぐに現実からは目を逸らして逃避する。
《やはりそなたの身体は脆弱が過ぎる》
「精神じゃなくて?」
《例え強靭な精神力を持つ者であっても、先の見えぬ暗闇に閉じ込められていては正常な精神や判断力など保てるものか。ここは風の流れも感じぬ、仮に入り口が完全に塞がれているのなら、酸素も殆ど残ってはおらんだろう》
「それ、
通りで生き物の気配すらない筈だ。出入り口が塞がっていて密閉状態なら、動物なんかが入り込める隙間はない。もしも自身の肉体が夢魔でなく純粋な人間であったなら、精神力の有無など端から関係なく、言わずもがな酸欠で既に死んでいた。
《たわけ。その夢魔を殺すためにわざわざ魔鉱石の眠る洞窟に閉じ込めておるのだ》
「……なんで、そんなハードな人生からスタートなの」
衝撃の事実だった。いや、薄々はそんな予感はしていた。
だが、認められなかったのだ。
「やっぱり前世の行いのせい? 自分なりに虫も殺さぬ人生だったよ? 毒にも薬にもならないような! 働かなかったから? 働かないことがそんなに悪かったの? 確かに親不孝だったかも知れないけど、こんな目に遭うほどの悪行だったの?」
《少しは落ち着かぬか。前世の業などでこのような目に遭いはせぬ》
「ほんとに?」
《今し方この世界に生まれたようなそなたが何か罪でも犯したか。前世にしても特段何かした訳ではあるまい。この夢魔でさえ何もしておらぬやも知れんのだぞ》
「……確かに」
自身の前世に関しては一先ず脇に置いておくとして、夢魔という存在はこちらの世界でも人間に忌避感を抱かれやすい生態をしている。単純に悪いことをしたから閉じ込められたというのは早計だった。ただそこに夢魔がいたからという理由でこうなっている可能性もあるのだ。
何かしらの罪を犯していたとして、それはヒト族の社会通念や宗教観に基づく善悪の観念であり、それらは基本的に同族を裁くための法である。と、呆れを滲ませたユグは語る。
「鬼退治とか竜殺しとか、そりゃ本能的に暴れてるだけなんだから、鬼や竜にとっては別に悪いことじゃないよね……」
《鬼は山や廃寺などを根城にした野党や人攫いであったという説もあるようだがな。竜に関しては農耕のために森を開墾し自然と戦った、あるいは侵略者から土地を守った部族の逸話などが英雄歌謡として成立し広まっただけのようだが……》
「でも、この世界の夢魔にしてみれば理不尽そのものだ」
《然り。そなたの生まれた世界にも似たような事例はあったであろう。熊が餌を求めて人里に降りてきただけで街中が大騒ぎになり、眠らせて帰すならまだしも、撃ち殺して安堵するような者たちが大半ではなかったか?》
「そりゃあ、熊には可哀相なことだけど……」
原因を質せば、考えなしに開墾したり木材の為だけに植林した昔の人と政府が悪い。
そして現代人もまた人口の増加に伴い森や里山近くに住宅地を建て過ぎていた。農家や牧場主にしろ生産性を上げるために土地を拡げ過ぎたのである。
山や森林の生態系が崩れて久しい今、登山客のゴミの投棄、観光客の餌付け問題も含まれるが、開墾時に憂慮されて然るべきだった問題が表層に浮き彫りとなっただけである。
だが、野生動物や森林を守る側である環境保護団体だって、殆どが感情論で土地の植生なども考えず、やれドングリをばら蒔こう、実の生る木々を植えようと明後日の方向を見ている。被害を食い止める為に猟友会が出向くと聞けば、県外から役所に苦情の電話が殺到する有り様だ。そんな迷走状態なのだ。実際には誰も確実な解決策など持ってはいない。
だから熊に悪いと思いながら怪我人が出ないことを祈るばかりだった。
《身を守るためだ、否定はせん。だが、今はそなたがその熊なのだ》
「人間断固許すまじッ!」
ユグは人間の行いがどうだと言いたい訳ではないようだ。要するには自身の身に起きていることを認識し、こんな状況でも呑気におどけるマリスに危機感を促したいだけだった。
「このままだと、俺、……死んじゃうの?」
何時から閉じ込められたのかも分からない洞窟の中で、太陽や月が見られる訳でなし、時間の感覚すらないのだ。夢の中で何日過ごしていたかも分からない。
ユグの話では、どうやら魔鉱石は夢魔の天敵でもあるようだった。少しずつだが実感が伴い、マリスは堅い表情で問うた。
《ようやく自覚したか。まったく、老木を焦らすでないわ》
どうやら本気で心配していたらしい。
理路整然と、悪く言えば冗長な話し方であるから分かりづらい。馬鹿! 死ぬぞ! くらい端的に切羽詰まりながら言ってくれたらもう少し早く自覚出来たのだ。夢の中ではさほど種族の差異を感じなかったが、実体があるとではその隔たりが大きくなる気がする。
「……どうすればいい? さすがにこんなところで死にたくないんだけど」
せめてベッドと布団のある場所で眠るように死にたい。なんて前世の死に様を思い出しながら言える筈もなく、ただ縋るような気持ちで訊ねた。
《一先ず、肉体を再構成を試してみるか。その脆弱さでは何をするにも身動きが取れん》
随分と簡単に言い放つユグに、マリスはやはり格の違いを感じた。世界樹──ハイエルフって何でも有りなの? と茶化す余裕もなかった。
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