002
「────……世界の夢?」
ユグはマリスの抱いた疑問に答える。
《お主は何故生き物が夢を見ると思う》
「そりゃあ、脳が記憶を整理してるとか、思考整理の一環だとか、何かそんな漠然とした説があったような……」
生き物にとって睡眠とは疲労をとるだけのものではない。身体の方は生命維持活動をやめたりはしないのだ。むしろ睡眠を必要としているのは肉体よりも脳の方で、最低でも五時間以上、また七時間程の睡眠時間が適切だとされている。
《では、此処もそういう場所なのだろう》
「……世界樹なのに分からないことがあるんだ?」
答えになってないと、マリスは不満げにユグを見上げる。
《わしは世界の記憶を覗き見ているだけの老木だ。過去から現在、この世界に起きた事象を観測しているに過ぎん。夢魔が夢を渡り、
「じゃあ何で僕はここに来られたの?」
《……恐らくは、知りたがったのではないか?》
ユグ曰く、夢魔とはそれ程賢い存在ではないのだ。生き物の夢を渡り歩くという生態を持ってはいるが、夢魔のそれは人の魂を包むエーテルを求めてのことだと言う。
《エーテルとは体内に流れる魔力のことだ。生き物の魂は目には写らぬアストラル体である。エーテルは肉体と魂を繋ぐ保護膜のような性質を持っていてな、夢魔はこのエーテルに触れ、生き物の魂に干渉することが出来るのだ》
干渉自体、微々たるものであるが。とユグは付け加える。
夢魔はヒト族の言うように夢を見せている訳ではないのだ。勿論、夢を自在に操るような真似も出来ない。ただ、その魂を包むエーテル──まるで揺り篭のような魔力を求めて生き物の見る夢に入り込んでいるに過ぎないのだそうだ。
「夢魔は人間の夢に入って何をしてるの?」
《エーテルをほんの一匙得ているに過ぎん。奴らは選り好みするのだ。気に入った生き物に寄り添い、無意識の中に潜んでおる》
「そんなに美味しいんだ、エーテル」
《本来の夢魔は精神体のみで漂うものだ。肉体を持たぬが故にエーテルに包まれる心地よさに抗えぬのであろう》
食べている訳ではなかった。前世の知識では人間の生気を食らうなんて情報があるせいか、マリスは我がことながら夢魔を好意的にはみられないようだった。
「何で精神体と人間の間に僕が生まれたんだろ……」
《では何故、ハイエルフなぞという種が生まれたのだと思う》
「……世界には不思議なことがあるもんだ!」
即ちは、ただの事象なのだ。マリスは投げ槍に両手を挙げた。
人間は物事全てに理由をつけたがるが、結局のところそれらは妥当性のある推論でしかない。歴史然り、生物の進化然り、生命の誕生然りである。しかもこの世界には魔素という魔力の源となる元素が存在している。不確定要素ばかりでは結論など出せる筈もなかった。
「向こうの世界の夢魔は淫夢を見せる化け物とか、悪魔的な存在だったけど……」
《それはどのような者達に見せていたのだ》
「聖職者とか、処女の女の人とか……、あっ……」
《であれば、身分や立場も関係しておるのだろう》
つまり抑圧された性に対して、何らかの願望を持っていたから
「何か可哀相だな、夢魔。勝手にエロいイメージにされてる」
《……昔は子宝の神として崇められていたこともあるのだぞ?》
「まじで?」
《農村などでは、若い夫婦が初夜を迎える際に夢魔を降ろす儀式をしておった。子沢山であれば働き手は増えるからな。それがヒト族の為になるのだと理解する者もおるだろう》
所変われば品も変わるとは、まさしくこの事だろう。
しかし、それを聞けば余計に夢魔が哀れに思えた。良かれと思って淫夢に潜んだ夢魔はずっと覚えていただけだ。人が最初にそれを望んだから一途に叶え続けていた。
きっと
《人は忘れる生き物だ。全を見ずに一で語る悪い癖まで持っておる。されど、だからこそ、己の知らぬことを知りたいと渇望するのであろう》
「……確かに
《であれば、その求めに世界が応えたのであろう。そして世界は、わしの願いも聞き届けてくれた》
「ユグ爺の願いって?」
《叡知を得た老木は、代わりに全てを失った。己が欲のために親も兄弟も友でさえ、自由に身動きする肉体さえも捨てたのだ。しかし、幾ら知識を得ても語り合う相手さえおらぬ。……わしは寂しかったのであろうな。そなたと会うて己が孤独に初めて気が付いたのだ》
静謐な孤独は大樹の心を蝕んだのか。
彼が樹齢何千年の巨木なのか分からない。元々死の概念も持たずに生まれた種族だと言っていた。ならば何万、何億という時間をたった一人で生きてきたのかも知れない。
「……気が付くの、遅すぎない?」
《はっはっはっ! それだけ怠惰であるから身体に苔まで生えたのだ》
僅かに悠久の翳りを見せた世界樹だが、やはりユグは明朗な性質であるようだ。快活な笑い声と共に自虐までしてみせた。
二人は時間を忘れてただ語り合った。
ユグはこの世界の話を、マリスは異なる世界の話を、代わる代わるに聞かせ合った。双方の世界は似通うところもありながら、まったく別の世界であると認識させる、だが、やはり似ているのだ。それがまた面白く、二人を楽しませていた、
「ユグ爺ってオーディンみたいだよね」
《北欧神話の主神であったか》
「詳しくは覚えてないけど、確か、叡知を得るために片目を差し出しちゃうところとか。吊るされて死にかけても全然オッケーみたいな精神性が似てると思う」
《ふははははっ! 片目ひとつで事足りるなら差し出さぬは大馬鹿者ではないか。いや、羨ましい限り。そのオーディンとやらの目玉には相応の価値があったのだからな》
「……微塵も後悔してないな。そうやって躊躇なく言いきるところ、見てて惚れ惚れするよ」
ユグの身の上話はこうだった。
余りの年月が過ぎ去ったため、大まかにしか覚えていないのだと言うが、ハイエルフは始まりの民であったそうだ。
この世界で初めて知性をもった生命体。まだ、ヒトも獣も生まれる以前の話だ。──地球で例えるなら、やはり彼らは神様なのではないかと思う。創生神話の、概念的成り立ち。
秩序立つ前の揺籃とした世界。
ハイエルフの他には巨人族が存在した。巨人達は知能は低いが狂暴で、日がな一日同族同士で争い合うことを止めなかった。地上の起伏が激しいのも彼らが長い年月争い続けた名残りなのだそう。つまり山や谷、河や湖なんかの地形の基礎を造ったのが巨人なのだ。
いやまじ何してんだ、巨人。と、話を聞きながらマリスは戦々恐々とした。
「この世界って、ユグ爺が九つの世界を支えてたりしない?」
《それでは丸きり北欧神話ではないか》
「ですよね~」
《だが、大陸は九つあるぞ》
「まじで? そんなにあるの?」
地球でも四大陸だ。この世界はそんなに広いのか。
《ああ、しかし、ヒト族が棲める環境は三つ。他には魔族が住まう大陸があるにはあるが、残りは森に覆われて久しい》
「開拓すればいいんじゃないの? ローマ帝国とか、ヨーロッパどころかアフリカまで禿げ山にして作物作らせてたよ」
《そのような暴挙は異なる世界であったから可能であったのだ。──この世界の森林は無尽蔵に増殖する。先程話して聞かせた巨人族がおったであろう。
マリスの脳裏に浮かんだのは、前世の記憶だ。
以前ネットで見たことのある廃墟の写真だった。何らかの理由で人が捨てた建築物に蔦や草木が侵食して、灰色のコンクリートが瑞々しい緑に彩られ、まるで大昔の遺跡か何かのように幻想的な風景が広がる。僅か十年足らずでそうなると言うのだから、尚更感慨深かった。
だが、この世界の森はそこに人が暮らしていても関係なく、否応なしに侵食する。地球では植林しないと砂漠化が広がると危惧されているのにも拘わらずだ。
「……もしかして魔素?」
《如何にも。ヒト族にとって魔素は魔法や魔術を使うに必要な得難き隣人であるが、それは他の動植物にとっても同じことだ。────ただ、草木にそれを律する知性や自我はない。育ち増えることのみに費やされておる》
植物は大気から二酸化炭素、大地からも水や養分を吸い上げる。そして同時にそこに含まれる大量の魔素を絶えず吸収していた。それは人や獣の比ではない。単純な魔力量だけで考えれば、この世界に君臨する支配者と言っても過言ではないのだ。
《我らハイエルフは意思ある樹木として、この世界に根を降ろしたのだ。我らも草木同様、いや、我らは己が肉体に魔素を取り込まずとも自在に操ることが出来たのでな》
「それは所謂、最強チートなのでは?」
《だが、それ故に皆が怠惰であった。唯一興味を持ったのは世界の理、真理というものだ。事象を観測することがどれ程の叡知をもたらすか、発露する先も持たずにただ追い求めた》
この世界の森林は大量の魔力を含むため、炎にもある程度の耐性を持つという。
無論、嵐や洪水など物理的な衝撃にも非常に強く、天敵といえば巨人のように圧倒的な力を持つ存在だけだ。つまるところ地形を変えてしまうような大地震や地殻変動が起きて初めて森林深部、また全体に打撃を与えられる。
ただ、森林が広がり過ぎれば土地に含まれる魔素も枯渇する。そうなっては生き物が住める環境ではなくなり、森林自体も自壊するように崩れていくそうだ。
しかし、土地に魔素が溜まれば草木もまた甦る。
それも尋常ではないスピードのサイクルで栄枯盛衰を繰り返しているそうだ。広大な森林に住む獣や昆虫は軒並み巨大化し、ヒト族が開拓しようと集落を構えても魔獣たちとの攻防で疲弊し、あっという間に滅ぶのが常だとも言う。
マリスの目覚めたあの洞窟のある場所──大陸も、たった数百年という短い間に幾つもの国と文明が滅び、既に四分の一が未開の森林に飲み込まれているとユグは語った。
「いや、無理ゲー。そりゃ文明レベル上がらないって」
《であるからこそ、我らが叡知と引き換えに大樹となったのだ》
あちらの世界でもこちらの世界でも、植物の役割は変わらない。
森を切り拓くことで農耕のための土地を確保し、燃料資源となる薪を得る。その過程で森が育む実りや豊かな土壌を必要とするのは人間の方なのだ。幾ら人にとって厄介な性質をしていたところでそれを滅ぼそうとすれば手痛いしっぺ返しを食らう。──自然とはそういうものだ。
あらゆる意味で前世に生きた地球という環境は、絶妙なバランスの上に成り立っているのだと確信を持つ。
「
《そこまでヒト族本位な役割ではないがな。……ただ、魔素の性質上、あれはより強い魔力の流動には抗えぬのだ。砂鉄のようなものよ、磁力が高い方へと集まるであろう?》
「ああ、なるほど!」
《我らはただそこに在るだけで魔素を汲み上げる。樹木同様に光合成をしながら、己が魔力にはせず汲み上げた魔素を大気へと放出するのだ。無論、生き物らや土地にも魔素は必要であるからな、草木が過剰に吸収せぬよう余剰分を引き受けておるだけのこと。言う程に大した行いでもないのだ》
「いや、全然大したことあるよ。ハイエルフが世界樹になってくれなきゃ、この世界は植物たちの楽園だったじゃん」
《我らが選ばずとも、他の何かが代わりを務めたであろうよ。我らは我らの為に自ら進んで大樹となったのだ》
「……アカシック・レコードのため?」
《うむ。……アカシアとでも呼ぶか。互いに同じものを異なる名詞で呼んでもつまらぬからな》
「いいね、アカシア。呼びやすい」
ユグからの提案にマリスは素直に頷く。
《────これはある種の、謂うなれば契約のようなものなのだ》
ハイエルフと
だが、別に世界に意思があり、ユグ──ハイエルフの探求者達の呼び掛けに応えたというファンタジーでロマンチックな話ではない。一方的に対価を支払っただけとも言える。
地形を変えるほどに暴れまわった巨人族が滅ぼされた後、彼らが最初にこの世界の植物たちに起きた異変に気が付いた。ユグ曰く、元々は地球にある植物らと然して変わらない、毒素や薬効などを除けば殆どは無害な存在だったという。
しかし、彼らは魔素に適応した。
ハイエルフ達が知覚した頃には巨人族の残した爪痕を覆い尽くすように増殖していたのだ。幾ら怠惰なハイエルフといえども目まぐるしく変わっていく景色に当初は困惑した。だが、よくよく観察していけば、まるでそこに意思が宿っているようにも見えたそうだ。
育ちきった大木は次々に倒壊し、斜面は土砂により押し流される。
大岩も積み上がった巨人の亡骸も関係なしに、今まで理不尽に虐げられていた者達が怒り狂い、猛った本性を晒け出すが如く。破竹の勢いとも言うべきだろう。原生林は瞬く間に姿を変え、土砂と共に大地が崩れる度に勢力を拡大していったのだ。
《今となってはお笑い草だが、当時は神と等しき者が存在するかのように思おたものよ。やはり無知であるからこそ神は生まれるのだ》
北欧神話の神オーディンも元を糺せば暴風雨か何かの自然現象を神格化したものだった。
それが北方ゲルマン人を含むゲルマン民族の間で戦が頻発するようになり、戦いの神という側面を持ち──いつか来る
《だが、彼の出来事は我らに世界の意思という概念をもたらした。そなたがアカシアの入り口に辿り着いたように、わしもこの場所へと到達した。……まぁ、そなたの場合はあくまで夢渡りではあるが》
奇跡だな、とユグは目配せでもするかのように微笑む。
「僕からしたら、現実で辿り着いちゃうユグ爺の方が奇跡や神秘を背負ってる気がするけど」
《否定はせんが、あの頃は今よりもずっと揺籃とした時代だったのだ。全てが曖昧で、互いを隔てる境界なども希薄であった》
「どういう意味?」
《例えるならば赤子の眠る揺り篭だ。望めば抱き上げられて機嫌を窺われる。腹が空けば乳を与えられ、粗相をすればおしめを変えられる。独り立ちするまではうんと世話を焼かれるのが世の常であろう》
「世界が助けてくれたの?」
《そうせざるを得ない理由があったのだ。そなたが異なる世界より魂だけこちらに喚ばれたのも同じことだ》
「ああ、そうか。それぞれの世界は人間の魂が一定になるよう割り振られてるから、こっちの世界も人の住める環境にしなきゃいけなかったんだ」
《多すぎても少なすぎても駄目なのだ。そなたとて純粋なヒト族に生まれ変わっておれば、前世の記憶など消え失せていたかも知れぬぞ》
半分は夢魔であるから、本来は魂だけの精神体であったからこそ記憶がそのままなのか。恐らく地球からの転生者は他にも沢山いて、けれど記憶は肉体──脳の記憶領域に依存するから生まれる頃には皆が忘れてしまうのだ。
ユグに諭され、自身の存在が奇跡だという理由を理解した。
「ユグ爺たちは世界樹として生きる代わりにアカシアから知識を吸い上げることにしたんだ?」
《結論だけを語るとすれば、そうなるであろうな》
この相互作用を利害関係の一致と捉えるなら、これも契約のひとつなのだろう。なるほどなぁと、マリスはひと息つく。
「……あれ、ちょっと待って? 確か最初にユグ爺の仲間って、次々伐り倒されちゃったって言ってなかった?」
《うむ。であるから、大陸の半数は森に飲まれておるのだ》
いや、それって、この世界の人間、既に詰んでませんか?
あっけらかんとしたユグの言い草にマリスは硬直し、顔を青褪めさせた。
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