第4話 偽りの笑顔

 そのはったりは思った以上に彼女たちには効果があったようで、青い顔をさらに青くして小さく悲鳴を上げる。

「わっ、私は、何も知りません!」

 悲鳴にも似た声を上げるのは、そばかすメイドのクロエだ。一刻も早くこの場を離れたいという空気が出ている。

「勘弁してよ……なんで出てくんの……」

 消え入りそうな声で恨み言を吐き。

「だ、旦那さまとユアンさま、そして屋敷の者に報告をして参ります」

 逃げ出す口実を見つけたとばかりに、割れたティーセットの欠片もそのままにその場を後にした。ユアン……ユアン……。さっきも会話の中に出てきていたような。

 その背中から視線を外し、母と妹を見る。視線が合うと、アイラは小さく悲鳴を上げ、の目からぼろぼろと涙をこぼし始めた。

「なんで……なんで死んでないのよ! お姉さまが死ねばユアンさまとの婚約はなくなって、私を選んで頂けたかもしれないのに! お母さまにだって……」

「アイラ!」

 母の叱責が飛び、アイラがびくりと肩を跳ねさせる。ぼろぼろと大きな瞳から涙をこぼしながら口をつぐむ。

「やめなさい。あなた、混乱しているのよ。あなたにとっては、半分とはいえ血の繋がったお姉さまでしょう? こうして帰ってきてくれたのだもの。そんな風に言われたら、ユーニスだって悲しいわ。ねえ?」

 先ほど見せていた憎悪の色はなりを潜め、穏やかな笑顔すら浮かべている。しかしその暗灰色の目は笑っていない。その変わり身の早さに、少しばかりぞっとした。

 『あなたにとっては半分血の繋がった』。つまり、アイラとは異母姉妹で、この人はユーニスの継母なのだろう。

「え、ええ。お母さまの言う通りです。……そんなことを言われたら、悲しくなってしまいます」

 とりあえず、この場は話を合わせておこう。

 話し言葉が丁寧なのは、身を守るための癖のようなものだ。ユーニスにとっては妹なのかもしれないけれど、わたしにとっては他人。どうしても出てきてしまう。

「……わかりました」

 母に諫められたことでアイラも口をつぐみ、先ほど出てきた部屋に戻っていく。扉を閉める間際、肩越しにわたしを睨みつけて。

 廊下には、わたしと義母だけが残された。

 気まずい沈黙が、流れる。

「わたしも……混乱しているみたいです。目が覚めたばかりで……その、色々とものを忘れてしまっていて……部屋に戻りたいのですけれど、どこだったか、分からなくなってしまって」

 言い回しが不自然だったかもしれない。だけど、とにかくひとりになりたい、という気持ちが勝った。

「あら……そうなのね。ユーニスの部屋は、この突き当り。少しゆっくりなさるといいわ」

 深くは追及せず、義母はユーニスの部屋を告げる。

「廊下は、クロエに片付けさせましょう。何か困ったことがあったら、遠慮なく頼って頂戴。私はあなたの、母なのだから」

 取ってつけたような言葉に、わたしの感情が冷えていくのが分かる。

 わたしが姿を見せた時の表情が、彼女の本性だろう。それでも、誰が味方で誰が敵かわからない以上、その言葉に従うほかない。

「ありがとうございます、お母さま」

 たとえ、上辺だけだったとしても。



 教えられた部屋は、まだ片付けられてはいなかった。ユーニスの私物と思われるものがそのままになっている。

 廊下に並ぶ扉の間隔から推測するに、屋敷の中でも大きな部屋が与えられているのだろう。二間続きで、手前の部屋には本棚や机が設えられ、奥の部屋にはベッドやクローゼット、それに――。

「鏡だ」

 身支度を整えるための姿見に、化粧をするための鏡台がある。吸い寄せられるようにして、わたしは奥の部屋に向かった。

 わたしは、「わたし」の顔すら知らないのだ。

「…………」

 姿見の前で一呼吸つき、銀色のガラスの前に立つ。

「……きれいな子」

 鏡に映っているわたしは、ほっそりとした美しい少女だった。思わず、感嘆の声が漏れるほどに。

 十代後半くらいだろうか。しわもしみもない透き通るような白い肌。月の光を集めて流したような銀糸の髪。意志の強そうな瞳はエメラルドの色。そして――

 細い。

 というか薄い。

 ちゃんとご飯食べられているのか、他人事ながら心配になってしまう。

 いや他人事じゃなくなったんだけど。

「……ユーニス。あなた、どうして死んだの?」

 もちろん鏡は答えない。

 鏡はガラス製で、ゆがみも少なく、触ればひんやりとしている。

 音、痛み、感触、匂い、疲労感……そのどれもが、とても夢とは思えない。

 わたしはあの時――階段から落ちた時に死んで、ユーニスの身体の中に入り込んでしまったのだろうか。荒唐無稽な話だが、そう考えるのがしっくりきてしまう。

 もし、これが異世界転生の類だったとして、いわゆる『天の声』というものは聞こえてこないし、湧き上がってくる最強の力というものも感じないし、この細腕で武器が扱えるとも思えない。

 あるものと言えば、アラサーオタクのうろ覚えの雑学と、コスプレ衣装づくりで磨いた裁縫技術くらいだ。あとは、強いて言うならば社畜生活で培った理不尽への耐性。

 それでもこの状況は、あまりにも理不尽すぎる。

「……参ったなあ」

 インターネットもSNSもサニアもない世界で、生きていけるのだろうか。この世界の常識すらわからないのに。

 窓辺に置かれたベッドに、身体を投げ出す。マットレスのスプリングは硬く、身体を支え、受け止めるような感触はない。寝心地だけでいえば、アパートに置いてきたわたしのベッドの方がいい。……カバーやシーツの肌触りは、こちらの方がずっと上だけれど。

 それでも疲労感が、じんわりと溶けていくのが分かる。

「……帰りたい」

 しかしそう願ったところで、帰る方法など分からない。

 ベッドの上で寝返りを打つと、硬いスプリングがきしむ。

「……そういえば、本、あったっけ」

 手前の部屋に本棚があった。その中に、この世界に関することが記されている本がないだろうか。帰る方法がわからないといって寝転がっているくらいなら、今やれることをした方がいい。どうせスマホもなくて手持無沙汰だし。


 ベッドから起き上がり、隣の部屋に戻る。机の後ろに設えられている作り付けの本棚には、ハードカバーの本がずらりと並んでいた。

 本のタイトルだろうか。背表紙には知らない文字が並んでいる。しかし、何故か理解することができた。

「この世界で生きていくには、文字も覚えなきゃか」

 幸い、脳に残っているユーニスの記憶で会話と読みは出来そうだけど、全く文字を書かないというわけにもいかないだろう。

 並んでいる本の多くは、学問の入門書のようだった。数学や科学の分野は、中学や高校で習った内容に似ている。この世界における原理は、およそ地球と変わらなそうだ。例えば計算式。たとえば化学反応。例えば動植物のつくり。例えば天候や気候の流れ。例えば物理法則。

 つまり、幻想動物の類はいないし、魔法や異能の類もない。そして、これらの原理が理解され、学問として確立しているくらいには文化が発展しているということだ。

「社会学、ないかな……。歴史とか経済……」

 一つ一つ指でさしながら背表紙を辿っていき、それらしき本のところで指が止まる。古い本なのだろうか。表紙を覆う革が擦れ、色も褪せている。中を開けば、紙のふちも褐色に変わっていた。

「母神ステルラ……」

 そこには、この国の歴史書――いや、神話だろうか。『母神ステルラ』による天地創造の話が書かれていた。

 しっかりした造りの机の上に本を開き、なめらかに仕上げられた椅子に腰を掛ける。すっかり脆くなった歴史書のページを、ゆっくりとめくっていく。

「ステルラは最初に島を産み、次に川と山を産んだ。豊かな大地から男女の泥人形を作りだし、命を分け与え、日の神マーネと夜の神ノクスの名を与えた……」

 義母やアイラの着ていた衣服も併せて考えると、近代のヨーロッパに酷似した世界という印象だけれど、神話を読むとまるっきりそっくりという訳でもないらしい。特に、マーネ神とノクス神はこの国――ステルテルラ王国の最初の人間で、彼らの子孫が王家に繋がっている、というくだりを読むと、妙な親近感を感じなくもない。

 ステルテルラ王国は、島国で、王政。

 しかも、この国にはいわゆるアニミズムが根付いており、万物に神が宿るという信仰のようだ。そのあたりも、日本によく似ている。


 神話の時代が終わり、ページを繰る。マーネとノクスの子とされる人物を中心とする、社会の始まりが記されていた。初代国王と思わしき人物が登場したところで、ふっと紙面に影が落ちる。

 ――誰かいる。

 慌てて顔を上げると。


「……嘘」


 『サニーサイド・アップ』のアスマと同じ顔が、そこにあった。

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