第3話 知らない世界
「わ……」
石段の最上段にある木製のドアに鍵はかかっておらず、押せば簡単に開いた。
その先に繋がっていたのは西洋風のお屋敷で、床にはマーブル模様の入った淡いクリーム色のタイルが敷かれ、真っ白な漆喰と煉瓦を組み合わせたような壁にはアンティークなランプが並んでいる。いつだったか、観光で行った異人館と雰囲気が似ているけれど、それよりも規模が大きく感じた。窓枠もサッシではなく、木製だ。ガラスにも少しゆがみがあり、時代を感じる。しかし材質そのものは新しく見えた。
そしてその向こうに見える景色は――
見たこともない場所だった。
丁寧に整えられた、色とりどりの花が咲く庭園。しかしその木々も花も、覚えのないものばかり。
その片隅にあるガラス張りの建物は、温室だろうか。中には果物のようなものが生っているのが見える。
煉瓦の塀が庭園を囲み、その向こうにはいくつもの西洋瓦の屋根が見える。見通しは良く、高層ビルの姿はない。電線もない。
空を見れば雲は厚く、天気はあまりよくない。その割に湿度は高くなく、どこかからりとしている。
「日本じゃ……ない?」
それどころか、現代ですらないかもしれない。
いや、困るんですけど。
年末にサニアのライブあるんですけど。
そのために社畜してお金を稼がなきゃなんですけど。
ここはどこで、わたしは誰で、なんでどうしてこうなった?
『それじゃ、みんな。おやすみなさい。またね』
あどけない顔でおやすみの挨拶をするアスマの声が、顔が、蘇る。
推しが『またね』って言ったんだ。ここがどこかわからないし、なんでわたしがいるのかも分からないけど。わたしは、帰らなきゃいけない。
そのためには、ここがどこなのか、わたしが何者なのかを知らなければ。
綿の寝間着の裾を翻し、裸足のまま、タイルの床を歩いていく。こんなに立派なお屋敷なのだから、どこかに人がいるだろう。会ったところで何を話せばいいのか分からないけれど、向こうは「わたし」の事を知っているだろうから。
一階部分に、人の気配はなかった。いないということはないのだろうけれど、少なくとも廊下を歩いている人はいなかった。食事時の合間なのか、ダイニングらしき部屋にもひとけはない。
「上かな……」
これだけ掃除が行き届いていて、使用人のひとりもいないということはないだろう。壁伝いに廊下を行き、木製の階段を見つけて登っていく。
一階部分の建材は煉瓦と漆喰のようだったけれど、二階部分は木造だ。タイルを踏んでいたあとだからか、足の裏に当たる木の感触が柔らかく、温かく感じる。
ぜえ、はあ。
ぜえ、はあ。
一階分上がっただけで、息が切れる。
この身体、あまりにも体力がなさすぎる。
しばし息を整え、窓から外を見ると、先ほどよりも遠くまで外を見ることができた。やはり高層の建物はなく、眼下に見えるのは西洋瓦を葺いた街並みだ。それほど大きな街ではないようで、視線を先にやればすぐに家々はまばらになり、田園風景が広がっているのが分かる。お屋敷の裏手には雑木林もあるようだ。
陽の差し具合から推測するに、廊下はいわゆる北向きで、各部屋に陽が入る造りになっているのだろう。寒いというほどではないけれど、少しひんやりする。
「まだあるの……」
建物は三階建てのようで、もう一階分、階段が続いていた。
ここから先の手すりには、意匠が施されている。おそらくこのフロアは使用人部屋で、この上が家の主たちの居室だろう。
身体を預けるようにして手すりにつかまりながら、一段づつ、上がっていった。
階段を登りきると、ふと、どこかの部屋から人の声がした。聞きなれない言語なのに、なぜか頭が理解している。「わたし」の脳に刻まれた、記録としての記憶のせいだろうか。
どの部屋だろう。
漏れ聞こえる声を頼りに廊下を進み、二つ先の扉の前で立ち止まる。
『本当に死んだのね。本当に、ユーニスは死んだのね』
少し、年を重ねた女の人の声だ。その声色は悲観とは真逆の――喜びを含んだ声。
『ああ、私のかわいいアイラ。あの子が死んだ今、あなたがこのヴェストリス公家の跡継ぎとなった』
『お母さま……これで良かった?』
どこか舌足らずな、可愛らしい女の子の声がする。この子が「アイラ」だろうか。そしておそらく、「ユーニス」は「わたし」で……公家? 跡継ぎ?
なんか、急にきな臭い話になってきたぞ?
『私に、お姉さまの代わりが務まる? ユアンさまも、振り向いてくださる?』
『ええ、もちろんよ。母の言うことを聞いていれば、なんだって叶うわ』
「母」の言葉は、どこかねっとりとしていて、言い聞かせるようにも演技がかっているようにも聞こえる。
聞いてはいけない話を聞いている気がする。しかしそこから離れることができずにいると――
がちゃん、と背後からモノが割れる音がした。
『何事です!』
部屋の中から、咎める声が聞こえる。
まずい。
慌てて振り返ると、ダークカラーのメイド服を着た癖のある赤毛の女の子が、真っ青な顔をしてこちらを見ていた。まるで、そう。オバケでも見たような。青くなりすぎて、そばかすが浮いて見える。
その足元には、手元から落ちたであろうティーセットの破片が紅茶の海の中に散乱していた。
「ユ……ユーニスさま……おば、お化け……」
やはり、「わたし」は「ユーニス」というらしい。
騒ぎを聞きつけ、部屋の中から年かさの女性と愛らしい少女も出てくる。どこか狐を思わせながらも美しく年を重ねた女性は編み上げた黒髪を纏め、クリノリンが入っているのか腰の後ろが膨らんだドレスを纏っている。一方、人形のようにかわいらしい少女は、ふわっふわの金色の巻き毛を耳の下で二つ結びにし、パニエが入っているのだろうか、膨らみすぎない程度に丸く広がったピンク色のドレスを纏っていた。
「何事です、クロエ……」
メイドさんを咎めようとした、年かさの女性の声がかすれて消える。わたしの顔を見て、その表情が驚愕と絶望と怒りの入り混じったものになっていく。
一方の少女――アイラといえば、白い肌に射したばら色の頬が、みるみるうちに青く、白くなっていた。サファイアを思わせる真っ青な瞳は恐怖に潤み、揺れる。ガチガチと歯を鳴らしながら、ぺたんと座り込む。
「おね、お姉さま、なんで……」
それはわたしが知りたい。
どうしてわたしがここにいるのか。
どうしてわたしはこの身体になっているのか。
わからないことだらけだけれど、分かったことを繋ぎ合わせて言葉を紡ぐ。
「わたしは」
――この世界の言葉を、正しく発せているだろうか。
「わたしは、ユーニス・ヴェストリス」
少したどたどしく紡ぎながら、クロエ、アイラ、母と順に見ていく。どうやら伝わっているらしい。
彼女らの表情から、わたしが蘇ったことへの喜びのようなものは微塵も感じられない。だから、精一杯の強がりとはったりで言葉を放つ。
「この通り、死地より戻ってまいりました」
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