第五夜

第30話 残る謎

「九死霊門という話は聞いたことがあります」

 といって、将臣はティーカップに口をつけた。

 ここは奈良県内のとある喫茶店である。店自慢の和紅茶に舌鼓を打つこの青年は、昨日起きた夢のような騒動などものともせずに涼しい顔で二つ目のパスタセットも完食したところである。


 ──昨日は散々であった。

 あれから、剛は泡沫の夢と消えた妹を想って神社にもどってからもしばらく半狂乱に泣き続けた。

 麓で一行を待っていた黒須景一は何事かと動揺したが、将臣と恭太郎は沈んだ顔でそのすがたを見つめるばかりであった。

 三橋は警視庁の刑事という立場上、一刻も早くこの子どもたちを安全な場所に帰したかった。突如出現した草薙を名乗る翁の正体について問い詰めたい気持ちもあったが、その必要はないと将臣から諭されたために翁とは村にて別れ、すべては現実世界に帰ってから整理することに。

 泣きじゃくる剛を引きずって車に乗せ、少々荒い運転で下界へ帰還。

 まるで何日も離れていた感覚だが、この村に来てから半日程度の出来事であったとあとで気付いたものだった。

 義実家に預けられていた幼いわが子の顔を見たとき、意図せずあふれ出した涙に戸惑いながら、改めて、いのちがこの世に誕生する尊さに感謝した。


 翌日、新幹線の時間まで猶予があったため、近くのホテルに滞在していた浅利将臣を呼び出した。当然ながら藤宮恭太郎と古賀一花もついてきたが、並木剛と槙田泰全のすがたはなかった。どうやら新幹線の出立時刻まで、友人や妹の追悼のために思い出巡りと称した市内観光をしているらしい。黒須景一はホテルチェックアウトの時間ギリギリまで寝るとのことだから、自由な旅程である。

 がちゃん、とテーブル上のフォークが床に落ちる。

 三橋のとなりでベビーチェアから身を乗り出した息子が、次々にカトラリーを床に落としているところだった。

「あ、こらこら」

 フォークを取り上げて手のひらをぱちん。

 息子はムッとした顔をしたが、こちらの意図を汲んだかおとなしく手を引っ込めて、手近にあったナプキンを引き抜く遊びに変更したので、三橋はカバンから図鑑を取り出して息子の気をそらす。

 一花はキャッキャとわらった。

「なにその図鑑。かわいー」

「お花が好きなの。とくに梅」

「渋ーい」

「それで? 九死霊門ってのはいったいなんなの」

 話を戻す。

 対する将臣は、タブレットからデザートを注文したところだった。

「都市伝説ならぬ伝承ていどの話だとおもっていましたけど、本当にあるんですねえ」

「有名?」

「さあ。山に携わる仕事をされている方とかは聞いたことがあるんじゃないですか。九死霊門──冥界へ繋がる巨大な霊道で、その名の由来はいくつかあるみたいです。八人の死霊と一人の門番によって開けられるからとか、出くわした人間の魂を抜き取るので急に死をもたらすからとか──。とはいえどちらの説でも伝承のなかではありとあらゆる生命体の魂を引きずりこむ門だというところは共通してます」

「たしかに、風はすごかったけど……」

「噂では開門する条件があるみたいですが、あの山の霊門に限って言えば鎮魂祭の成功が鍵だったようですね」

「あの山のって、山によってちがうの?」

「知りませんよ。でもつながる先は同じなんじゃないですか」

 と、適当に流す将臣。

 三橋はすこしいらだった口調でつづけた。

「じゃあ九死霊門っていうのはその──分野的にはオカルトってことでいい?」

「その質問はむずかしい話ですね。たとえば、古代や中世では魔法も学問として捉えられていました。科学信仰の強い現代でいうと魔法だって分野はオカルトに属するでしょうが、かつては手引書が存在していましたし──」

「あーあーごめんなさい、科学的でない事象ってことでいいかってこと。たとえば気象現象とかそういう」

「気象現象に見えたんですか?」

「いいえまったく」

「であれば、そういうことなんでしょう。だいたい死者が還ってくる祭って話自体、おれからしたらおかしな話ですよ。一花からすりゃあなんでもないかもしれませんけど」

「んなこたア、ないよ」

 と、息子の図鑑をのぞき込みながら一花がつぶやく。

「死んじゃったひとは視えないだけで──いつもそばにいるし。ああいうのはあたしも初めてだったわ」

「そばにいるってことは、あの世ってないの?」

「違うのよオ。なんていうのかなー」

「死んだらわかるんじゃない」

 恭太郎がさらりと言った。

 たしかに。

 三橋は妙に納得して、将臣に視線をもどす。

「で?」

「で、とは」

「納得できないわよ。なんで実加ちゃんがその霊門から出てきたわけ?」

「おれに聞かれても──たしか、九死霊門はあの世の死霊たちが門の前に待機しているそうで。山中に生者が迷い込むと、その命と引き換えに死霊がこちらの世に戻ってくることができる──という話もあったような。等価交換みたいな」

「なんか似たような話なかったっけ」

「日本中にありますよ。たとえば七人みさきとかもそういう類の話です」

「シチニンミサキ?」

 こてんと一花が首をかしげた。

「なあにそれ」

「海難事故とかで死んだ人間の死霊集団のことらしい。水辺に現れて、遭遇した人間をひとり取り殺すと七人みさきの内のひとりが成仏して、取り殺された人間があらたに七人みさきのひとりになる──っていう。妖怪の一種だな」

「なるほどね──九死霊門との違いは、成仏するかこっちの世界に文字通り戻ってくるかってことか」

「ぢぢぢんみちゃき?」

 息子が上機嫌に復唱する。

「変なことばおぼえないの」

「つまり、死霊の立場であったカオリさんが意図せずして実加さんを門のなかに引き込んでしまって、代わりにこちらの世に出てきてしまった。だからいま一度来迎祭を呼んで自分を帰してほしいと願っていたんでしょう。だから今回、ふたたび門が開かれたことで、カオリさんのいのちと引き換えにふたたび実加さんをこっちの世界に戻すことができた。──その肉体は現世で生きられる状態ではなかったみたいですが」

「どういうこと? たしかに生きているように見えたのに……」

「だからア。山の神様がおまけくれたんだよ。ホラ、やさしいオッサンだったもんねーっ」

 一花はわらう。

 やさしいオッサン?

 三橋は眉をひそめた。

「なんの話?」

「綾さん、もう忘れたの。お面もらったんでしょ?」

「────」

 嗚呼、翁面の男。

 三橋はエッと声を上ずらせる。

「あの人が、なんて?」

「山の神様でしょ。あの神社の神様」

「えっ?」

「あたし、神様なんて初めて見たわアハハ」

 アハハとわらう神経がうらやましい。

 三橋は目を細めて、背もたれに身を預ける。

 あのとき、面を貸してくれた男の顔を見た。あれは──。

「あれが山の神様? だってあのひとは──」


「うん。あたしにはお父さんに見えたのよ。綾さんはだれに見えた?」


 といって一花はティーカップに口をつけた。

 三橋は眉を下げる。

 正面に座る恭太郎はふたりを見比べ、


「山の神様ってのは、そういうものらしい」


 フフッとわらった。

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