五話【特訓開始よ】
翌日の五月四日(土)は、稲井との特訓に備えてたっぷり寝たおかげで体調はすこぶるいい。今日はいくらお金を使うかわからないので、ありったけの貯金を財布に詰め込むとパンパンに膨らんだ。
一日中ゲーセンに行くなんて言えないので、適当な理由をでっちあげて家を出た。案の定、兄さんだけは俺の魂胆を察していたようだが何も言ってこない。
九時前にライスボックスに着き、いつものように自転車を停める。開店は十時なので当然入り口は閉まっているが、入り口の自動ドアに手書きの張り紙が出ていることに気が付いた。
「都合により、本日は休業させていただきます。お客様にはご迷惑をおかけしますが、ご容赦ください」そのように書かれていた。休業なんて俺が知る限り初めてのことだった。
俺が呆然としていると、背後から重厚なエンジン音を響かせる車が近づいてきた。振り返れば、予想通り正輝さんの運転する赤い高級車だった。
後部座席のドアが開き、降りてきたのはもちろん稲井――なのだが、ブライトのコスプレ姿だった。ゲーセンの外で見ると違和感が強い。手にしているのはタブレットだろうか。
正輝さんも駐車場に車を停めてついてくるのかと思ったが、降りてくる様子はなく、稲井に「遊治さんによろしく」と言伝をして、ついでに俺を睨んで走り去っていった。
「それじゃあ、中に入るわよ」
やはりコスプレすると性格が変わるのか、店内を指差す
「残念だけど、今日は無理そうだぞ」
「どうして?」
「張り紙があったんだ。今日は都合により休業するって」
「ああ、そのこと?」稲井は表情を変えずに言う。「あれなら大丈夫。私が遊治さんに頼んで休業扱いにしてもらっただけだから」
「はあっ?」
「今日は一日ここで特訓するの。だったら、他のお客さんは邪魔になるでしょ?」
「それはそうだけど、なんでそんなことができるんだ?」
「詳しいことは省くけど、ここの店長の稲井遊治さんは私の叔父なの。ほら、店名の『ライス』って『稲』って意味もあるでしょ? ライスボックスの開業には私の家からも出資してたから、色々融通が利くの」
「はあ……すごいな」やはりお金持ちはスケールが違う。
「表は閉まってるから裏口から入るわよ。こっち」
稲井は俺の前を歩き、裏手の小さな扉から中に入る。これが初めてというわけではなさそうだ。
俺も中に入ると、遊治さんが「ようっ!」と迎えてくれた。今日は完全にプライベートモードなのか、上下スウェットと緩い格好だ。色合いが派手なのは相変わらずだが。
「『一日店を貸して欲しい』って聞いたときは驚いたが、他ならぬ光亜ちゃんの頼みだ! 俺は一階で適当に時間潰してるから、好きに使っててくれよ~」
どうやら、稲井が優遇されているのは出資だけが理由ではないようだ。
「しっかし、いいのか? デート場所が貸し切りのゲーセンって?」
「デートじゃありません!」
顔を真っ赤にしてむくれる稲井は、トップランカーには見えないほど子供じみて見えた。
それにしても、速攻で全力否定されると事実とはいえちょっとへこむ。
「あっ、そーなの? おじちゃん、てっきりそうなのかと」
「話を聞いていなかったんですか? クラスメイトに頼まれて、仕方なく特訓に付き合ってあげるだけなんですってば!」
「そーいやそうだっけ? それにしても、光亜ちゃんと君がクラスメイトで、大会で偶然対戦するとはねぇ」
遊治さんがほんのりタバコ臭い顔を近づけてニッと笑う。
「店長じゃなく、叔父としてのお願いだ。光亜ちゃんと仲良くしてやってくれよ?」
「……はい。俺なんかで良ければ」
「うん。ありがとな」
礼を言いながら俺の頭を我が子のように撫でる。不躾だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
「筐体の設定を変えたから金を払わなくてもプレイできるようにしてある。とはいえ、ぶっ続けで何時間もプレイすると疲労が半端ないからこまめに休憩を挟むんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
「何か困ったことがあったらいつでも連絡してくれ。それじゃ、ごゆっくりどーぞ」
ニヤニヤしながら手を振る遊治さんをスタッフルームに残し、俺たちは二階に上がる。
「正輝さんといい、遊治さんといい、稲井さんは随分好かれてるな」
「そうかな? 他の家庭のことは知らないけど、私が好かれてるのは親戚に女の子が少ないからだと思う。私のいとこも男兄弟ばかりだし」
「俺も女の子に生まれてたら、もっと違う人生を歩めたかもな……おい、そんな目で見るなよ」
「女の子だって楽じゃないわよ?」
「誤解するなよ。女の子に憧れてるんじゃなくて、違う人生に興味があるだけだよ」
少し躊躇したが、俺は兄さんとの確執について話すことにした。ここまで協力してくれる稲井に対して心を許していたせいだろうか。
彼女は笑ったり茶化したりすることなく、終始目をそらすことすらなく静かに聞いてくれた。
「そっか。だからお兄さんへのリベンジに燃えているわけね」
「個人的な執着なのに、今回協力してくれて本当に感謝してる。改めて、ありがとうな」
「別に……人にものを教えるのは自分のためにもなるし、私も高校が始まって練習不足気味だったから。それに、ゲームで強くなりたい理由なんて人それぞれ自由でしょう?」
「それも、そうかな」
二階はいつもとはだいぶ様子が違った。
いつもは薄暗いフロアにミラーボールの光線とラジオのBGMが乱舞しているが、今日は蛍光灯が煌々と白い光を放つだけで、普段より比較的健康的な空間に見える。明るい分コンクリート壁のグラフィティ・アートが一層禍々しく見えるが。休業中なのに俺たちが入っているのがバレてはいけないので、窓には分厚いカーテンが閉められている。
俺たちはそれぞれ筐体の傍に荷物を下ろすと、さっそく筐体の扉を開いた。
「さあ、特訓開始よ」
「おう」
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