四話【俺を鍛えてくれ】
俺は稲井光亜の家の前に来ていた。璃恩と一緒にブライトの正体を確かめに行ったとき以来だ。
インターフォンはすぐに押せた。二度目だからか、とっくに覚悟を決めたからか。俺が危惧していたのは稲井が不在だった場合。そして――
「はい、どちら様――ああっ? てめえはッ!」
あの男が出てこないこと――だったのだが、遅かった。玄関の扉から顔を赤くした男が姿を見せる。
この男に話は通じない。それなら一旦逃げるべきか――そんな算段を立てていると、男は何かに引っ張られるように扉の奥へ引っ込む。そしてしばらく後、むすっとした仏頂面で親指を家の中に向ける。入れと言いたいらしい。門から庭に踏み込み、玄関に立つ男の横を通り過ぎる際に「お邪魔します」と言うが、何も聞こえなかったようにまっすぐ外を見つめていた。
男に代わって俺を出迎えたのは、艶のある板張りの床が眩しいエントランスホール。レトロな造りはともすれば重苦しさを感じさせるが、シャンデリアの暖かな光が心地良い重厚感のあるムードに変えている。アンティークの調度品の数々が空間にマッチし、百年前の時代にタイムスリップしたような感覚に陥る。
「あの……こんにちは」
異世界のような光景に目を奪われていると、横から女の子の声が聞こえた。
「稲井さん、こんにちは」声の主の方に向き直る。「突然来てごめん。本当は事前に連絡したかったんだけど、連絡先知らなかったから……でも、入れてもらえて良かったよ」
「うん。驚いたけど、何だか思いつめた顔してたから。とりあえず、お茶でも飲む?」
「ありがとう。お言葉に甘えるよ」
俺は稲井に連れられて応接室に入った。部屋の中央には自然の風合いが漂う無垢材のテーブルが置かれ、革張りのふっくらしたソファーがそれを囲む。季節柄しばらく使われていないようだが暖炉まで備え付けられているのは仰天した。
俺と稲井はテーブルを挟んで座る。物珍しそうに部屋を見回していると、先ほどの男が湯気の立つティーカップを二つ持ってきた。微笑みながら稲井の前に置き、俺の前には中身がこぼれそうなほど乱暴に置かれた。
「じゃあ、ごゆっくり」
男が応接間から出る。言外に「さっさと出て行けよ」というニュアンスを感じたが、ようやく落ち着いて話せる状況になった。
「……あの、ごめんね。お兄ちゃんが失礼なことして」
「あっ、稲井さんのお兄さんだったの?」
執事にしては雰囲気が刺々しいなと思っていたが、実の兄なら納得だ。名前は
「大事にされてるんだな」俺と違って――とまでは言えない。
「うん。たまにちょっと鬱陶しいけど、私の一番の味方だから」
苦笑交じりで静かに笑う稲井の表情に、不覚にもドキッとして胸を押さえる。俺が今まで接してきたどの女子ともタイプが違うせいで免疫がないのだろうか。大会後に投げた言葉が蘇りそうになる。
しかし、俺は女子との時間を過ごしに来たんじゃない。俺が本当に用があるのは、稲井光亜ではなくブライトなんだから。
「頼みがある。明日一日、俺を〈Colorful Bullet!!!〉で鍛えてくれないか?」
「えっ?」
「ろくに話したこともない俺に突然こんなことを言われて困るのはわかる。でも、お前しか頼れる奴がいないんだ!」
テーブルに手を突き、つむじが見えるほど頭を下げる。
国内有数のトッププレイヤーであり、クラスメイト――璃恩を除けば稲井ほど頼れる相手はいなかった。実力も実績も申し分ない。
しかし、俺と稲井は教室の席こそ隣同士だが、一か月も経つのに会話らしい会話なんて一度もない。数日前に稲井が『ユーレイ』と蔑まれたときだって助けたのは璃恩だ。
「……別に、いいけど」
だから、稲井が了承してもすぐに受け止められなかった。
「……えっ? いいの?」
「うん。出かける予定もないし、どうせ読書してるかゲームしてるかどっちかだったから」
「そうか……ありがとう! 本当にありがとう!」
思わず身を乗り出して彼女の手を握ろうとするが、仲良しでもない男子にそんなことをされれば怖いだろうし、何よりお兄さんがすっ飛んでくるかもしれない。
「それで、具体的にどれだけ強くなれればいいの?」
「ああ、ごめん。色々説明不足だった」
俺は稲井に説明した。対戦相手は兄さんで、〈Colorful Bullet!!!〉初心者であること。にもかかわらず、既に十回以上の実戦を経験した俺が負けたこと。兄さんが俺と同じ能力持ちで、さらに東大生で学習能力に優れていること。
稲井は俺の話を聞き終えると、眼鏡のテンプルに触れながら所感を述べた。
「凄いお兄様ね」
「それは、昔からわかってる」
「正直、勝つのは難しいかも。対応力に優れるなら対応される前に勝つのが一番だけど、それには大きな力の差が必要になるから。もっと時間を取れないの?」
「兄さんは月曜日、つまり明後日には東京に戻るんだ。それまでにリベンジしないと、意味がない」
カレンダーの五月五日(日)には丸印と共に「東京」と書いてあった。確認すれば、案の定東京に戻る日だった。
次に兄さんが帰ってくるとしたらお盆だろう。三か月越しでリベンジを果たしても気は晴れないだろうし、そもそも〈Colorful Bullet!!!〉をやる気も起きず引退する可能性が高い。
「どうしても明後日までには勝ちたいんだ。だから、稲井さんが嫌じゃなければ明日一日付き合って欲しい」
「……本気で勝ちたいの?」
「本気だ!」
俺たちの視線がピタリと合う。コスプレ時のカラーコンタクトを着けていないが、レンズの奥にある瞳の力強さはブライトのそれと同じだった。とても「ユーレイ」なんて呼ばれる女子の目じゃない。
「わかったわ。明日は一日、天宮君に付き合ってあげる」
「本当か? ありがとう!」
今度こそ我慢できず、俺はついに身を乗り出して稲井の両手を握りしめた。
その瞬間――おそらくずっと扉の隙間から見られていたんだろうが――応接間の扉が弾けるように開け放たれた。
「この野郎! とうとうやりやがったな!」
「お、思わず手を握っただけで……!」
有無を言わさず正輝さんに襟首をつかまれ、引きずられるように追い出されそうになる。
「明日九時にライスボックス集合ね!」
既に姿が見えない稲井の声が聞こえる。
「わかった! 遅れず行くから!」
「ええい、黙ってろエロガキ!」
随分慌ただしかったが、稲井の助力を得られたのは僥倖だ。兄さんにリベンジする算段が立ったことで、闘争心が一層熱く燃えてくる。
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