十話【空色の空】

 翌朝。

 1年A組の教室に入った俺は、登校初日以来の注目の視線を浴びることになった。理由は明白で、俺が再びずぶ濡れになって現れたからだ。幸い今日は雲一つない快晴だったので、学校に着く頃にはほとんど乾いていたが。


「おはよー翔ちゃん!」


 数人の女子を置き去りにして璃恩が挨拶に来る。彼のマザコンは早くも周知の事実となったが、「恋人にならない分には、イケメンで優しいから一緒にいるのも悪くない」と割り切った女子が出てきたようだ。中学校でもよく見たパターンだが。


「おはよう。悪いけど、タオルかハンカチ貸してくれないか?」

「うん、いいよ」


 そう言って差し出されたハンカチには平仮名で「さおとめりおん」と書かれていた。


「今日も猫を助けに川へ?」


 髪を入念に拭く俺に向かって、璃恩は眉を八の字にしながら訊ねた。その言葉の裏に「まだ翔ちゃんは〈善活〉に縛られてるの?」という一言が隠れていたのは明白だった。

 だから俺は、笑顔でこう答えた。


「助けたのは犬だよ。それにさ、璃恩。俺、なんだかちょっと吹っ切れたんだ」


 俺の視界は目の前の璃恩を通り過ぎ、昨夕の帰り道に飛んだ。



 奈雲との対戦後。堤防の上で俺は夕日を見ながら、その実青空を見ていた。〈Colorful Bullet!!!〉の中で見たデジタルの青空だ。

 空色のインク溜まりに飛び込み、高さ百メートルの跳躍を果たした俺の目には抜けるような青空が飛び込んできた。空なんて毎日視界に入ってくるのに、泣きたくなるほどの感動を覚えた。

 俺を象徴する色は『空色』。俺を、この世界の全てを包み込む空の色が俺自身なのだと〈Colorful Bullet!!!〉は己がシステムで教えてくれた。それは、教師にテストの出来を褒められたり、両親に優しい言葉をかけられたり、助けた人に感謝されたりするのとは比較にならない甘美な体験だった。

 一日経って、なぜ俺はあれほど心を動かされたのか、なぜ敗北した奈雲はあっさり引き下がったのか理解できた気がする。

〈Colorful Bullet!!!〉はただのゲームじゃないからだ。『色』という形で表されたむき出しの個性のぶつかり合いなんだ。だからこそ、勝てば酔いしれるほどに嬉しく、負ければ自分の存在を否定されるほどに悔しい。

〈Colorful Bullet!!!〉の上位ランクに位置する猛者たちは、その他のプレイヤーとは一線を画す実力だと聞いたことがあるが、きっと中毒のように魅了されてしまった連中なんだろう。その一方で、一度の敗北で引退したプレイヤーも多いと聞く。

 果たして、俺はどちらになるのだろうか?



「翔ちゃん」


 璃恩の声で、俺の視界は1年A組の教室に戻ってきた。ほんの数秒意識が昨日に飛んでいたのだが、いつの間にか目の前の璃恩は泣きそうな笑みを浮かべていた。


「よかったね、翔ちゃん」


 そう言いながら、璃恩は大胆にも抱き着いてきたので悲鳴を上げそうになった。その代わりに、離れた所で見ていた女子たちがキャアッと黄色い悲鳴を上げた。こいつと一緒にいるとこんな展開が多い気がする。


「お、おい! 早く離れろよ! マザコンにホモ疑惑まで追加されるぞ!」

「何があったか知らないけど、今の翔ちゃん、すっげえいい顔してたよ! 僕まで嬉しくなっちゃってさ!」

「よく見ろ! 今はすっげえ迷惑そうな顔してるからっ!」


 力づくで引き離そうとするが、引き締まった体躯にすらりと長い手足を持つ璃恩の抱擁はガッチリ離れない。巨大な蜘蛛に捕まった気分だ。

 まあ、いいか。俺は璃恩にウエストを絞められたまま、借りたハンカチで頭を拭く。

 俺の高校生活は『鉛色』ではなく『空色』なのかもしれない。そう考えると笑みが浮かびそうになるが、俺たちを遠巻きに見るクラスメイトにホモ疑惑をかけられそうなので、努めて迷惑そうに振る舞った。

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