九話【空に浮かべば】
* * * 天宮翔 * * *
「あっ」
奈雲の不意打ちから逃げ切って見つけたのは、何の変哲もない浴室だった。俺の家とほぼ同じ、清潔的で無個性な白いユニットバス。
その浴槽に穂先を入れ、インクが出るように念じた。インク残量は少しずつ自動で回復するが、全部使い切って無防備にならない程度のペースで浴槽を満たしていく。
十分ほどで浴槽の半分は溜まった。残り時間を考えるとここらが潮時か。
「ここに奈雲を落とす」
浴槽にインクを満たしている間、小学生時代に奈雲から殴られる璃恩を助けた時の光景を思い出していた。
あいつは倒れた璃恩に馬乗りになって殴りつけていた。思えば、あいつはいじめる対象に詰め寄り、身長の高さを活かして相手を見下すのが好きな奴だった。
そのせいか「奈雲が本気で攻めてくるとしたら上から」というイメージが出来上がっていた。つまり子供時代の記憶を頼りにした賭けだったが、窓の外にサーチドローンの影を見つけた時に予想は確信に変わった。
やがて家全体がきしみ始めた。いよいよ奈雲の攻撃が始まったのだ。浴槽蓋を頭上に掲げて傘にし、崩壊する天井で浴槽の仕掛けと俺自身が埋もれないように踏ん張った。アバターの高い身体能力がなければ無理な芸当だ。
やがてすべてが崩れ落ち、積もり積もった瓦礫の山の上で奈雲は大筆を構えながら俺を探している。
ガシャッ!
わざと音を立ててやると、狙い通り奈雲は「見つけたァ!」と歓喜しながら歩み寄ってきた。足音は俺の前方から時計回りに背後へ移動し、やがて止まる。俺に敗北の恐怖を与えるための猶予だろうが、おかげでタイミングを計りやすくなった。
――今だ! 瓦礫の積もった浴槽蓋を捨て、大量のインク溜まりに飛び込んだ。
インクの量が多い影響か、一回目のワープよりも吸い込まれる力が強い。一瞬の体が引き伸ばされる感覚の後、
ブワッ!
俺は町全体を見下ろす高さに出現した。高さは百メートル近い。
この時味わった感覚をどう表そうか――それは未来の自分に託すことにした。今は戦わなければ。
百メートルの高さでも、地面に達するまでの時間はほんの数秒。眼下にはミニチュアのように小さな家々が並ぶ街並みと、豆粒のように小さな奈雲の姿。見下ろすべき相手に見下ろされた屈辱か、俺に一杯食わされた恥か、奴の顔は赤黒く染まっていた。
勝負だ、奈雲!
高所から落下する恐怖を押し殺し、右手で筆を強く握りしめながら頭から落下していく。風に髪と顔面の皮膚が引っ張られ、耳元で重い風切り音が轟く。
落下先で奈雲が大筆を下段に構える。ゴルフのスイングのように俺をかち上げるつもりか。奈雲の武器とアバターの力で正面から迎え撃たれれば、落下の力を借りている俺もただでは済まないかもしれない。
だから俺は、もう一つ準備しておいた。
腰のベルトに軽く結び付けておいた即席のサポート装備を左手に取り、奈雲に向けて放り投げた。かなりのスピードだろうに、反射的に大筆で防いだ奈雲には素直に感嘆した。しかし駄目だ。それは避けるのが正解だ。
野太い悲鳴と共に、奈雲の両腕に空色のインクが付着した。腕の力が弱まったのか、頭上に掲げた大筆を支え切れずによろめく。
俺が投げたのは、浴槽のインクを汲んで口を結んだだけのビニール袋だ。袋はキッチンに何枚もストックされていたので数枚拝借したのだが、俺のインクが入っていると悟られないよう、念のために不透明の袋を選んだのが功を奏した。実際に〈Colorful Bullet!!!〉には手榴弾のようなサポート装備もあって、それを参考にさせてもらった。
「天宮……てめっ!」
風切り音に奈雲の怒声が混ざって聞こえる、その距離まで迫った。
「奈雲ォ!」
「天宮ァ!」
まっすぐ振り下ろした筆と、下からかち上げた大筆がぶつかり合う。手には落雷のごとき衝撃が伝わり、つま先まで痺れが走る。
それでも筆は放さない。体重と落下のエネルギーを全て筆に乗せ、俺を睨む鉛色の男に叩きつける。
「ウオオォォォォォォッッ!!」
二人の咆哮が混ざり合い、本当に自分の喉から出された声なのかも分からなくなる。
一瞬の均衡が酷く長く感じる。しかしそれは、実際には一秒で崩れた。
「ウオオ……アァッ⁉」
奈雲が足元からくずおれ、浴槽のトラップに片足を突っ込んだ。寸刻を置かずに巨体がインク溜まりの中に吸い込まれ、直後にいびつな影が瓦礫の上に現れた。
前転しながら受け身を取り、空を睨んだ。大筆を頭上に構えた姿勢のままの奈雲が落ちてきた。
二回空から落ちてみてわかったことがある。たとえ痛みも怪我もない体でも、高い所から落ちるのは怖い。そして、空中では体の自由がほとんど利かないということだ。
「覚悟していてもそうなんだ。無理やり空に飛ばされたら、なおさらだろ?」
腰のホルスターから拳銃を抜く。おもちゃの水鉄砲のように軽い。これで決着がつくとは思えないほどに。
「クソッ! クソォッ!」
空中でわめきながら足掻く奈雲に銃口を向ける。
パン! パン! パン!
三発の空色の弾丸は、空に還るように宙を貫いて天へと吸い込まれていく。そのうちの二発は奈雲の筆と肩に、残る一発は額に命中した。
「あっ……」
短い悲鳴を上げた奈雲の体が額から空色に染まっていく。やがて空色一色のマネキンのような体になり、地上に落下するとパシャンと弾けた。大量の空色のインクは瓦礫の中にしみこんでいき、この箱庭の戦場に立つ人間は俺一人になった。
しばし静寂に包まれたデジタル空間の空から、ささやかなファンファーレと共に懐かしさすら感じる無機質な女声のアナウンスが降り注いだ。
『ランクマッチ勝者、プレイヤー1「空色のショウ」おめでとうございます。これにて対戦を終了します。次回も良い戦いを』
足元から伸びる青い円柱の光に包まれ、俺の初めての〈Colorful Bullet!!!〉は勝利で幕を閉じた。
* * *
目覚めると、そこは筐体の中だった。筐体の熱か、俺の熱か、ゲームを始める以前にはかいていなかった汗でシャツがじっとり湿っていた。
ヘッドセットを備え付けのタオルで拭き、かばんを手に鍵を開けて筐体の外に出ると、奈雲が腕を組んで仁王立ちしていた。ゲーム世界の
薄暗さと派手なミラーボール照明のせいで奈雲の表情は読めないが、明らかに初プレイだった俺なんかに負けて心穏やかでいるわけがない。
しかし約束は約束だ。再び訪れた緊張感に耐えながら、毅然とした態度で奈雲に向かい合った。そして口を開こうとした時、俺を突き飛ばしてぷいと背を向けてしまった。
「このゲーセンはツキがねえ! 頼まれたって二度と来ねぇよ!」
捨て台詞を吐くと、床を踏み抜きかねない足取りで一階に姿を消してしまった。周囲にいたプレイ待ちの客たちが奈雲の後ろ姿と俺を交互に見ていた。
「つまり、一応約束は守ってくれるってこと……だよな?」
筐体から離れると、俺はフロアの隅にへたりこんだ。現実の体はただ座っていただけとはいえ、とにかく疲れた……。
しばらくしてライスボックスの外に出ると、黄金色に街を照らす夕日が眩しい。十時間以上たっぷり寝た時や、二時間を超える大作アクション映画を観終わった後に近い感覚で、自分の体がまだ現実世界に戻ってきていない気分だ。
奈雲の姿がなくて安堵する。待ち構えていたら厄介だった。
自転車の施錠を外し、入れ替わりにライスボックスに入っていく学生を横目にサドルにまたがった。
自転車は賑やかな市街地を抜け、田畑が点在する住宅街の坂道を駆け上がり、俺の通学路の大半を占める堤防上のサイクリングロードに出る。夕日を遮るほど高い建築物が街中にほとんどないので、北に向かって走る俺の左側から西日が体を包み込む。右側に視線を向ければ、川を挟んで広がる街並みの向こうに紫紺の夜空が忍び寄っている。紅から群青にグラデーションを描く空の色が、俺は好きだ。
だけどこの時、俺の目にはもう一つの空が映っていた。俺にしか見えない空が。
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