八話【好機】

「ハア……ハア……」


 家の中に身を隠したことで、奈雲を目の前にして忘れていた疲労感が一気に押し寄せてきた。とことんよくできたゲームだ。自分がゲーム世界の中にいることを忘れそうになる。


「家の中まで細かいな。誰も使わないだろうに、家具一式が揃ってる」


 コンロのスイッチを押せば火が点くし、水道のレバーハンドルを起こせば蛇口から勢いよく水が出る。試しに蛇口の水に左腕を差し出してこすると、鉛色のインクが水に溶けて落ちていく。胴体に付着したインクは走るうちに乾燥してほとんど落ちていたので、ゲーム開始直後のように体が軽い。


「さて、ここからどうしたものか」


 奈雲は既にCB弾を二発消費しているので残り一発。まだ三発温存している俺のほうが有利だが、最後の一発で仕留めるべく奈雲は慎重に確実な方法でヘッドショットを決めに来るに違いない。

 まるで殺し屋に狙われている気分だ。やり場のない心細さにじっとしていられない。

 そもそも、なぜ俺の色は『空色』なのだろう? 優秀な兄を持ち、兄の威光から逃れるようにこそこそと生きている俺こそ重苦しい『鉛色』にふさわしいのではないか? 〈Colorful Bullet!!!〉の色診断が不正確だったのではないか? 負けた時の言い訳を考え始める自分に嫌気がさす。

 しかし同時に、思考を埋める不安のせいで考えがまとまらないが、何か別の感情が芽生えている気もする。それがあるからこそ、経験者である奈雲との戦いにも希望を捨てずに足掻こうとしている。


「あいつに土下座なんてするわけにいかないしな。何か使える物は……」


 外から見つからないように姿勢を低くしながら家の中を物色する。これが現実世界の戦いなら、少々物騒だが包丁なり金属バットなりを使えば相手にダメージを与えられる。しかし痛みや傷をほとんど与えられないこのゲームでは「いかにインクを相手に浴びせられるか」が重要になる。その視点がなければ勝つことはできない。

 不意に璃恩の言葉を思い出した。「翔ちゃんの広い視野は、そんな優しさの表れだよ」とあいつは俺の視野の広さを褒めてくれた。それを戦いに活かせればいいのだが。


「あっ」


 その一室を見つけた瞬間、俺の頭の中で電気が走った――ような気がした。小さな電流は脳を駆け巡り、自分の成功イメージを瞬時に視界に映し出す。しかしそれは俺の都合のいい妄想でもあり、確実な予測とは異なる頼りないものだ。それでも――


「他に案はない。少し時間がかかるけど、この作戦に賭ける」


 俺は意を決して筆を振り上げた。



 戦闘開始から十五分ほど経過していた。残り時間は五分を切っている。このまま行けば引き分けだが、格下の俺相手に引き分けなんて屈辱を奈雲は受け入れないだろう。

 仕掛けと呼べるほど凝ったものではないが、必要な物は既に作り終えた。じっとしていたとはいえ、息を潜めながら作業するのは精神が削られる。


「あれはなんだ?」


 窓の外に目を向けると、庭に丸い影が落ちていることに気付いた。窓から身を乗り出して空を見上げると、俺が今いる家の上空にドローンが浮かんでいた。

 嫌な予感と共に思い出した。俺や奈雲が持っている筆は『メイン装備』にカテゴライズされるが、ゲームプレイによって貯まるSPショッピングポイントでプレイヤーの支援をする『サポート装備』を購入することができる。

 そしてあのドローンは、相手にインクが付着している間頭上に浮かび続ける『サーチドローン』というサポート装備ではなかったか。つまり、俺がこの家に隠れているのは最初から奈雲に筒抜けだったということか?


 バキッ!


 俺がいるのは一階だが、二階から何かが折れる音が聞こえた。ちょうど、木製の塀が破壊された時と同じような。


 バキ――バキバキッ――!


 理解した時には遅かった。

 おそらく奈雲は屋根の上から鉛色のインクを大量にまき散らし、重みで家を倒壊させて俺を生き埋めにする気だ。アバターの体はそれでも傷付かないだろうが、瓦礫の中から這い出してきた所を狙い撃ちにする気だろう。


「くそっ……!」


 瞬く間に家を覆う鳴動。逃げ出す間もなく、崩れ落ちる天井に体は自由を失った。


*  *  *  奈雲重己  *  *  *


 空色のインクで飛ばされた奈雲は着地後、背後からの奇襲前に隠しておいた『サーチドローン』を回収した。ドローンの欠点は脆いことで、携帯しながら戦ううちに壊れてしまうおそれがあったからだ。このようにサポート装備にはなんらかのデメリットを抱えているものが多く、必ずしも装備すれば有利になるわけではない。

 電源を入れたドローンは自動的に翔の居場所を探知する。バトルフィールドの端に近い、赤い切妻屋根の一軒家の上空でピタリと止まった。


「よしよし、いい子だねぇ」


 下卑た笑みを浮かべながら、奈雲は屋内の翔に気付かれないよう塀に隠れながら忍び寄り、死角の多い家の裏手から屋根の上に登った。足音を立てないように靴を脱いでおき、屋根の四隅から順に薄くインクを塗っていく。インクは無限に使えるわけではなく、また偏って塗ってしまうと中途半端に屋根が崩れるのみで翔を生き埋めにすることができないからだ。

 相手に少量でもインクを付け、サーチドローンで隠れた場所を特定し、生き埋めにした相手が這い出してきたところでCB弾を撃ち込む。これは奈雲が市街戦において得意とする戦法の一つだった。付け加えれば、惨めに這いつくばる相手を見下しながら銃弾を撃ち込むという行為に嗜虐心を満たしていた。


「――っし! 準備完了っと」


 建物の構造に応じてちょうどいい塩梅を見極めている奈雲は、赤い屋根の家に倒壊寸前の負荷をかけていた。

 仕上げに、靴を履き直して大筆を振り上げ、穂先から滴らせた大量のインクをぶちまける。赤から鉛色に塗り替えられた屋根材は、それを支える壁や柱ごと悲鳴を上げながらあっけなく砕け、大量の埃をもうもうと立ち上らせる。十秒と経たないうちに、木造二階建ての一軒家は巨人に踏みつぶされたかのごとくぺしゃんこになった。


「さて、天宮ちゃんはどこかなぁ?」


 奈雲がドローンを仰ぎ見る。相手に付着したインクが全て剥がれたり洗い落とされたりすると「探知不可」を表す赤色のランプが点灯するが、「探知完了」を表す緑色のランプを点灯させて変わらず上空でホバリングしている。翔はまだ脱出していない。

 ガシャッ!

 右から瓦礫の崩れる音。奈雲が音の方向へ首を向けると、瓦礫の下から自分の姿を盗み見る二つの瞳。翔の姿がそこにあった。


「見つけたァ!」


 先ほどと同じ失敗はしまいと反撃に警戒しつつ、翔の背後に回り込みながら距離を詰める。

 アバターの身体能力が優れているとはいえ、厚く積もった瓦礫に動きを封じられては力を発揮できない。翔もそれを理解してか、瓦礫から出るのではなく逆に潜って身を隠した。


「無駄だ! ほんの数秒の時間稼ぎにしかならねェ!」


 奈雲は翔の銃口が自分を狙っていないことを確認しながら大筆を振り上げ、渾身の力を込めて叩きつけた。鉄槌のごとき一撃は周囲に衝撃を放ち、直下にいる翔にも多大なダメージを与えた。そのはずだった。


「――天宮がいねえ?」


 大筆の下から現れたのは、大量の空色のインクをたたえた浴槽だった。

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