第7話

                               

 「・・・・・・」

 「・・・・・・」

 「・・・・・・」

 「・・・・・・さっきから何だよ、姉貴」

 朝日に照らされたリビングのテーブルで、朝食を取っている西山東輝の向かい側には、ムスッとした表情でコチラを睨みつけている姉の西山卯(うさぎ)の姿があった。

 黒髪のショートカット、赤い縁のメガネに黒スーツ姿の彼女は、一見すると学校の美人女教師だとか、ファッションモデルだとか色々噂が上がるのだが、その実は東輝の住む街にある、図書館の司書の仕事をしているのだった。

 そんな普段は、真面目を絵に描いたような硬い人なのだが、こう見えてかなりのブラコンであり、二人きりになると人格が変わったかのようにイチャついてくる。

 「ふんふふ〜ん」

 幸いなことに、現在キッチンでは母親が鼻歌交じりに皿洗いをしているので、今の姉は、完全なよそ行きモードだ。

 「食べずれぇから、ずっと見てくんのやめろ」

 「見ていないわ、自意識過剰よ」

 「嘘つくな。リビングに俺が入ってから、視線が外れてねぇんだよ」

 そう言って、イチゴジャムを塗ったトーストを頬張りながら、姉を睨みつけてやると、彼女は右手に持っていたフォークを皿の上に静かに置いた。

 「最近、部活から帰ってくるのが遅いんじゃないかしら?」

 「は?」

 可愛らしい犬の絵が描かれたマグカップに口をつけた卯が、やっと口を開いたが、質問の内容が東輝には、よく分からなかった。

 「そうか? いつもと変わんねぇけど」

 「いいえ。二ヶ月ほど前から比べると平均35分程、帰宅時間が遅くなっているわ」

 「・・・・・・」

 ————もうストーカーの域だ。

 という言葉をコーヒーと共に飲み込んだ東輝が、なんとなく部屋の隅に置かれた時計を確認すると、そろそろ登校しないとマズイ時間になっていた。

 「それに以前までは、よくサボっていた休日の部活にも、最近は毎週のように出ているようだしね・・・・・・お姉ちゃん、すごく寂しい」

 「弟離れしろ」

 「無理。離れるくらいなら、死ぬ」

 「そんな事で死ぬな、ボケ」

 姉の今後の人生が心配になる東輝だったが、このままでは遅刻しそうなので、話の途中だが席を立つことにする。

 七月に入ってからは、気温はぐんぐん上がっており、窓の外に見える通勤通学者たちは揃ってハンカチやタオルで、額の汗を拭っているのが見える。

 自分も今から、あそこのお仲間になると思うと、エアコンの効いた、このオアシスから出る勇気が少し萎えた。

 とは言っても、サボるわけにはいかない。

 「そろそろ行く」

 「あっ、待ってよ。とう君————コホン。待ちなさい東輝」

 すでに、キャラを保てていない姉を無視して立ち上がった東輝は「ごちそうさま」と母親に食器を渡し、椅子にかけていたカバンを肩にかける。

 「一応部活動だから、真面目に取り組まねぇと、顧問の先生に迷惑がかかんだよ」

 リビングを出る前に鏡で、衣服のチェックを行う。夏服に変わり半袖のシャツになった事で、かなり涼しくはなったが、学校の校則で必ずネクタイはしなくてはいけなく、首元だけが暑苦しかった。

 そんな様子を眺めながら、姉である卯は、お気に入りのピーナッツバターを塗ったトーストに噛り付いている。

 「顧問の先生に迷惑、本当かしらね。はっ! まさか————」

 「?」

 「あのチビ猿娘と、付き合ってるとかじゃ!」

 「は?」

 その昔、姉は東輝の所属する読書部の後輩である北野南と、ある事件で初顔合わせをしているのだが、その時から何故かお互い、親でも殺されたのか? と思うほどの犬猿の仲なのだ。

 何故かは、分からないが。

 と、左手に巻いた腕時計の針が、いよいよ遅刻ギリギリを刺し始めているのに気が付き、話を遮るように、無理やり扉を開ける。

 「あるわけねぇよ。勝手な妄想すんな、じゃ」

 「あっ、ちょっ————」

 半ば強引に家から飛び出したが、確かに最近の自分は、よく読書部の活動場所である化学準備室によくいるなとは思う。

 以前までは、どこで本を読んだって一緒だと思っていたが、何となく最近は、あの場所だと落ち着けるようになっていた。

 ————あんなに、うるさい後輩がいるのに、何故?

 そんな疑問に答えを出せないまま東輝は、痛いほどの太陽光が降り注ぐ、通学路という名の地獄を歩き出した。

 



 「ようやく完成したなぁ」

 「きつかったよねぇ」

 「めっちゃ良いもんが、出来たんじゃないっすか?」

 ほとんどの生徒が、まだ到着していない早朝の学校内で、演劇部の部室内だけは、異様なほどの活気に満ち溢れていた。

 それもそのはず、今回演劇部は『全国映像演技コンクール』というコンテストに応募するための短編映画の制作に、ここ何ヶ月間、すべての労力を注いでいた。

 ある者は寝ずに台本を書き、またある者は編集作業に追われ・・・・・・などなど、部員総出で作り上げてきた作品が、今日めでたく完成を迎えたのだ。

 「小松さんも、お疲れ様。すごく良い芝居だったよ」

 「あぁ、どうも」

 そんな賑わいの中、同級生の部員に賞賛された小松菜々だったが、部室中央のテーブルに置かれた二枚のディスクを見て、そっと溜息を吐いた。

 ある事件で、この学校の読書部にいる幼馴染の後輩を騙してまで手に入れた今回の役。

 どんな形であれ、役を手に入れた者の勝ちだと、そう思うようにしていたのだが、あの事件以来、南の悲しげな顔や、その先輩の西山という人の顔が、頭から離れなくなってしまっている。

 ————私のした事って。

 そんな風に、毎日毎日、自問自答を繰り返していた。

 「みんなぁ、部長から大事な話があ・る・か・らぁー、聞いてねぇ」

 「!」

 副部長の海老原麻世先輩が、いつものようにお色気たっぷりに言葉を発したので、全員そちらに注目する。

 部屋の中央、会議机に静かに座る、演劇部部長の剛田豪先輩は、その名前がぴったり似合うほどの筋肉隆々の大男で、外の気温に負けず劣らず、暑苦しさが半端ないのだが、そんや見た目に反して冷静に物事を見極める、いわゆる頭脳派で、今回のコンテスト用に書き上げられた台本も、そんな部長の手によるものだった。

 「今回は、皆、よくやってくれたな」

 副部長の隣に座っていた部長は、低く響く声で全員に労いの言葉を送った。

 まるでヤクザ映画のボスみたいな見た目と話し方に、最初は戸惑う生徒もいるのだが、ここにいるメンバーは、もう何ヶ月もこの男に付いて行ってるので、もうとっくに慣れている。

 「特に小松菜々。初めての演劇部での芝居だったが、悪くなかったぞ」

 「あっ、ありがとうございます」

 「今後も期待している」

 突然、自分が褒められたので動揺してしまった菜々だったが、部長の方は、あまり気にした様子はなく、編集担当や音響、カメラマンなどにも労いの言葉を掛けていた。

 芝居中などは物凄く厳しい人だが、こうゆう言葉を最後に掛けてくれる面もあるから、みんな頑張れるのだろう。

 「それでだが・・・・・・」

 全員への労いの言葉を終え、椅子から立ち上がると、部長はテーブルに置かれた二枚のディスクを手に取り、全員を見渡した。

 「来週の月曜日、全校生徒参加のオリエンテーリングの時間に、今回の作品を体育館で上映する事になった。コンテストに送る前だが、せっかくだから本校の生徒に見てもらわないか? という校長からの図らいだ」

 部長のその発表で、部員たちは騒めいていた。

 恥ずかしいような、でも見てもらって反応を見たいような、そんな感情がそこら中から溢れている。

 演劇をやっている者ならば、誰だってこうゆう反応になるだろう。

 かくゆう菜々も、先程から、胸のワクワクが止まらなかった。

 「た・だ・ねぇ、普通に上映するだけだと勿体ないからぁ・・・・・・一つ、面白い事を考えたのよぉ」

 海老原副部長が、腰をクネクネとさせながら言った言葉に、騒めいていた部員たちの声が一瞬で止む。

 ————面白い事?

 その不気味な笑みを見ていると、何だか急に嫌な予感がしてくる。

 演劇部の他のメンバーが、何事かと騒めき始めるのを、部長の大きな手が制する。

 「一人は、俺が最も欲しい人材。そしてもう一人は・・・・・・」

 副部長の言葉を引き継ぐように、ゆっくりと話し始める。

 その異様なまでのオーラに、思わず菜々は息を飲んだが、勇気を振り絞って口を開いた。

 「何をするんですか? 部長」

 菜々の質問をかき消すように、勢いよく机を叩く剛田部長は、ニヤリと笑っていた。

 「やられっぱなしは、俺の流儀に反するんでな」




 ————キーンコーンカーンコーン。

 会社や学校が始まってしまう憂鬱な月曜日。

 「ふぁー、眠いぃ」

 「俺、ぜってぇ体育館で寝る自信あるわ」

 「俺も俺も」

 「なっははは!」

 お昼休みでエネルギーの補給を終えた生徒達は、ぞろぞろと体育館に向けて歩を進めていた。

 そんな大名行列の一団の中には、昼食で満腹になり、どこか眠たそうにユラユラと歩く者も多く、かく言う北野南も、あまりの睡魔に先ほどから、そこら中の柱や壁に激突して、隣を歩く同級生に心配されていた。

 「ふわぁ〜、今日のオリエンテーリングは、映画鑑賞会だっけ〜 宇佐美ちゃん」

 「そうだよ————って、危ないよ、南ちゃん」

 「おっとと」

 また壁に激突しそうな南を、クラスメイトの宇佐美弓月が、必死に受け止める。

 「ふわぁぁぁぁ、あんがとぉ〜」

 「顔とか怪我しないでね。南ちゃん、可愛いんだからさ」

 「そう? 宇佐美ちゃんもそう思う?」

 「うっ、うん」

 「なっはー! ありがとっ!」

 苦笑いをしている宇佐美の肩をポンポンと叩いた南は、スマホを取り出して時間を確認した。

 「あと、10分くらいだねー」

 「そうだね。あっ、南ちゃん。私、お手洗いに行ってくるから、先に体育館へ行ってて」

 「ほ〜い」

 女子トイレの方へ向かう宇佐美に手を振りながら、一人で廊下を歩き出すと、ちょうどすぐ近くの通路から現れた人と、ぶつかりそうになり慌てて避けた。

 「ごめんな————」

 「あっ、南」

 「あっ」

 そこにいたのは、幼馴染で一つ年上の先輩である、小松菜々だ。

 彼女は、ぶつかりそうになった相手が、南だという事に気がつくと、急に俯いてしまう。

 「・・・・・・」

 「南・・・・・・あの」

 以前、菜々に頼まれて、ある事件に巻き込まれたのだが、その時、結果的に彼女に利用されていたのだと知ってから、気まずい関係になっており、あれ以来まともに口もきけていなかった。

 「・・・・・・」

 「えっと、その」

 流石の南も、何かを言い出そうと、モゴモゴと口を動かしている菜々をこの時ばかりは、黙って見つめるしか出来ない。

 「・・・・・・」

 「・・・・・・」

 そんな二人の横を急ぎ足で通りすぎる生徒達の声と、外の近くの木に止まった蝉の鳴き声だけが、妙に耳の奥で響いていた。

 「————何立ち止まってんだよ、南」

 「!」

 しかし、突然背後から聞こえてきた声で、南の表情は一瞬で笑顔に戻る事になる。

 「東輝せんぱ〜い、むぎゅ!」

 「だ、抱きつくな! 鬱陶しい! 暑苦しい! 邪魔だ!」

 制服が夏服に変わり、半袖の白シャツと紺のネクタイ姿の読書部先輩、西山東輝は強力な磁力のように引っ付く南の体を、必死に引き剥がそうと踠いている。

 「なぁっ、ひどいぃ! こんな可愛い女子に抱きつかれて喜ばないなんて、この、ラノベ主人公!」

 「ラ? ラノベ主人公?」

 「そうですよ! そうゆう鈍感な————あっ」

 愛しの先輩との会話でつい忘れていたが、今もまだ小松菜々が隣にいたのだった。

 「!」

 南の態度が急変した事で東輝も、そこにいる人物を認識すると、急につまらなそうな表情になり、溜息混じりに二人の間を黙って抜けて行ってしまう。

 「あっ、東輝先輩」

 慌てて追いかけた南に一瞬目配せした後に、東輝は小さな声で背後の菜々に声を掛けた。

 「この状況は、お前が・・・・・・だけ、じゃねぇな。まぁ演劇部が作り出した事だ。後悔するくらいなら、最初からすんな」

 「・・・・・・」

 「ちょ、先輩」

 いつもはクールで本を読む事以外、興味がなさそうな東輝だが、たまにこうゆう顔をする事があり、こうなると流石の南でも茶化せなくなってしまう。

 「・・・・・・」

 「行くぞ」

 「え、あ、はい」

 捨て台詞のような言葉を言い終えた東輝は、スタスタと体育館に向けて早足に動き出したので、南も菜々のことを気にしつつも東輝の後を追いかけた。

 「・・・・・・」

 「東輝先輩、あのぉ」

 「悪い」

 「えっ」

 「余計な事言ったから」

 「そっ、そんな事ないです! ありがとうございます、先輩」

 「・・・・・・」

 南から顔を背けた東輝は、頭をガリガリと掻きむしっている。

 それが何だかちょっと可愛く見えてしまい、思わず南は彼の腕にしがみ付き、笑顔一杯で再び感謝の言葉を述べると、いつものクールな表情に戻った東輝が「うざい」と抵抗してくる。

 そんなやりとりをしていたら、いつの間にか体育館の入り口が目の前まで迫ってきていた。

 南達の学校の体育館はかなり大きく、運動部の地区大会などは毎年ここで行われるほどで、フロアはバスケットのオールコートが三つ分あり、二階の部分は他校の応援団が入っても全然余裕なほどの観客席になっている。

 「そろそろ時間だ、急ぐぞ」

 「はーい」

 間もなく上映会になりそうなので、スピードを上げて進んで行くと、体育館の入り口横に、二人の男女が立っていて、その姿を見た南の口からは思わず「うえ〜」という声が漏れていた。

 筋肉隆々の大男、演劇部部長の剛田豪。

 無駄に気持ち悪い色気を常に垂れ流す女、演劇部副部長の海老原麻世。

 入学当初より、この二人の演劇部員の勧誘を受け続けてきたせいで南は、すっかり苦手意識が出来てしまった。

 「フン」

 「ふっふ〜ん」

 二人して妙な笑みを浮かべる、その横を通りたくはないが、入り口は今はここしか開放されていないようなので仕方がない。それに隣には東輝もいるので大丈夫だと、本日はその愛しの背中に隠れさせてもらおうと、彼の制服のシャツをそっと掴む。

 そんな南の事など特に気にした様子もなく、東輝が堂々と二名の隣を抜けようとすると、剛田の暑苦しいほど低い声が、その行く手を阻む。

 「西山東輝」

 「何だよ、剛田」

 すると剛田豪は、その大きな体を寄せてきて、東輝に何か耳打ちをしている。

 「————という事だ。ではな」

 「どういう意味だ?」

 「じゃぁねぇ、西山く〜ん」

 ————東輝先輩に色目使いやがってぇ、ぶち殺すぞ、あの女ぁ。

 という怒りを何とか握った拳に抑え込んだ南は、二人が去った後、東輝に声を掛ける。

 「先輩。今、あのゴリラ何て言ってたんですか?」

 「ゴリラ?」

 「あれは、絶対小学校からジャイアンとか、ゴリラとかキングコングとか、あだ名を付けられていた見た目じゃないですかぁ————じゃなくて、何て言ってたんですか?」

 「・・・・・・」

 顎に手を当て、少しの間、何かを考えている素振りをしていた東輝だったが、体育館入り口を潜る直前、小さく口を開いた。

 「『今から上映される映画を、しっかりと見ておけ』」




 体育館内全ての窓には暗幕のカーテン。ステージ背後の壁には、すでに巨大なスクリーンが設置されており、まるで映画館のような雰囲気を醸し出していた。

 会場内フロアには、沢山のパイプ椅子が並んでいて、全校生徒は各々好きな場所に座ってよい事になっていたので、東輝は適当な椅子に腰掛けると、南も忍者の如き俊敏さで、隣の席を確保してきた。

 「さっきの、どういう意味なんですかね?」

 「剛田が言ってた言葉か?」

 「はい。あいつら、また何かしようとしてるんじゃ」

 「・・・・・・」

 東輝もその事は気になっている。以前の事件でおそらく南、そして自分も剛田や海老原には目をつけられているだろうから。

 ————剛田って、確か相当負けず嫌いだって、クラスの奴が言ってたな。

 体育祭でも定期試験でも、とにかくどんな事でも、常に一位でないと機嫌が悪くなると言う話を聞いた事があるのを思い出し、面倒臭いのに目を付けられたなぁ、と若干萎えているのが伝わってしまったのか、南が何やら心配そうに顔を覗き込んできた。

 「東輝先輩、気分でも悪いんですか?」

 「いや、ただ面倒だなーと思ってよ」

 「面倒? あぁ、確かに面倒ですよね! 何でわざわざ演劇部の映画なんて!」

 南は元々中学では演劇部に入っていたらしく、小、中の全国大会で優秀な成績を出すほどの実力者なのだから、演劇自体は嫌いではないのだろうが、この高校に入ってからというもの、演劇部の執拗な勧誘を受け過ぎたせいで〝うちの〟演劇部が嫌いになったのだろう。

 などと考えていると、突然室内が暗転してステージ中央にスポットライトが当たる。

 そちらに視線を動かすと、まるでこれから舞台が始まりそうな様子で仁王立ちする剛田豪の姿があった。

 「何ですかぁ、あの偉そうな態度は!」

 「性格なんだろ、諦めろ」

 「東輝先輩こそが、スポットライトに相応しいのに!」

 「いらねぇよ、スポットライトなんて」

 しばらく間を置き、生徒達が鎮まるのを待って、剛田が口を開く。

 「————みなさん。今日は我々演劇部が開催する映画祭に、ようこそお集まりいただきました」

 そのよく響く声に圧倒された生徒達は、深く下げられた頭に向かって、パラパラと拍手をしていた。

 「今度行われる『全国映像演技コンクール』のために制作した、我々の映画をまさか、このような場で、みなさんにお披露目できる事を本当に嬉しく思う。提案をして下さった校長先生には深く感謝の言葉を述べたい————」

 ステージ下手に用意されている教員用の席で、のんびりお茶を飲んでいた校長は、剛田が深々とお辞儀する姿を見て、ゆっくり手を振り返していた。

 「では、今回上映する作品について軽く触れたいと思う。今回我々が制作したのは、『ミステリー映画』だ」

 ————へぇ、ミステリか。

 推理、ミステリー小説好きの東輝は、その言葉に若干興味をそそられた。

 「ほぉ〜」

 隣に座った南もミステリーは嫌いではないのだろう、この反応から、自分と同じように興味を惹かれているようだ。

 「————あるペンションで開かれた誕生日パーティー ・・・・・・その中で起こってしまった、殺人事件!」

 まるで台詞のような、その説明に東輝は暑苦しさを感じたが、他の生徒は違ったようで「おぉ」とか「面白そぉ」などと小さな歓声を上げている。

 「と、あまり長話をしすぎるのも興が削がれるからな、そろそろ上映会を始めよう!」

 全校生徒の盛大な拍手に見送られて、ステージ上手に剛田がはけていくと、全ての明かりが消え、ステージに設置されたスクリーンに、壮大なBGMとともに、大きく映画のタイトルが浮かび上がってきた。




 【ハッピーバースデイの悲劇】




 北関東の奥地、森に囲まれた小さなペンション。

 豪田林力(りき)は、自らが所有する数々の別荘の中で、ここが大のお気に入りだった。普段は東京の高級マンションに住んでいるのだが、たまの休みや大型連休など暇さえあれば愛しの妻、豪田林静(しずか)と、ここに来ては日頃、疲れた心を癒している。

 赤色の屋根に、煙突が付いている木造の二階建ての建物は、まるでおとぎ話に出てくるようだと妻も喜んでくれている。近くには他に建物は無く、スーパーに行くのすら片道車で30分もかかるような田舎だが、子供の頃から都会育ちの力にとっては夢のような環境だ。

 「雨、よく降りますわね」

 「そうだな」

 庭が見える大きな窓の前に立って外を眺めていた力の隣に、気が付くと静が立っていた。

 切れ長の目と薄い唇。腰まである長い黒髪はとても綺麗で、力と結婚する前の若い頃に、モデル事務所にスカウトされるほどの容姿であり、自慢の妻だ。

 「せっかく、あなたの誕生日パーティーなのに」

 空を見つめながら、残念そうに呟く静の細い肩に、力は、そっと手を置く。

 「まぁ、一週間前から大雨の予報だったんだ、仕方がないだろ。それより客人達は大丈夫か?」

 本日は豪田林力の46回目の誕生日を、このペンションで知人を集めて祝おうと計画したのだが、生憎の大雨になってしまっていた。

 ————ゴォォォォ。

 雨だけではなく風も強くなってきており、お昼に見た天気予報では、女性アナウンサーが「台風並みの天気」と言っていた。

 そんな荒れ模様の中、パーティーに招いた客人達が森の奥地に建てられたペンションまで、無事に辿り着けるか若干、心配になる。

 「恐らく、大丈夫だと思いますわ。山奥ですが、一応道は舗装されていますし、みなさんお車でいらっしゃるようなので」

 「そうか・・・・・・ん、何とか到着出来たようだな」

 森の木々が雨風で激しく揺さぶられている道の先から、車のヘッドライトがこちらに向かって、だんだんと近付いてくる様子を力は黙って見つめた。




 「————まったくひどい雨だなぁ。土砂崩れとか起きないよな」

 必死に悪路を進むため、愛車のハンドルを大事に握りながら、豪田林五郎は、心配そうに灰色の空をフロントガラス越しに見つめた。

 今年の春、大学二年生になって初めて購入した車で、まさかこのような田舎道————いや、獣道を走行するなんて夢にも思わなかった。

 本当なら可愛い彼女でも女子席に乗せて、綺麗な海辺にでも行きたいのは山々なのだが、生憎と、そんな彼女はいない。

 「くぅぅぅ、怖いな」

 山奥の道だが、一応コンクリートで舗装されており、安全の為に、ガードレールも設置されている。

 「さて、そろそろかな・・・・・・」

 長くなってきた前髪が、目にかかって若干鬱陶しく感じていると、先の方に暖かそうな光が見えてきた。

 どうやら、あそこが目的地のペンションらしく、以前写真で見せてもらったものと同じ煙突が、赤い屋根から生えている。

 「おし、何とか着けた。それにしても叔父さんも叔母さんも、こんな辺鄙な所に別荘なんて買わなくたっていいのに」

 誰にも届かない愚痴を車内で吐き終えると、建物の前に二台の車が止まっているのを発見する。

 「青いワゴンタイプのは、叔父さんのだよな。もう一台は誰のだろう?」

 こんな田舎には似合わないほどの、真っ赤なスポーツカーの横の空いたスペースに自分の愛車を止めると、五郎は荷物と傘を持って車から飛び出した。酷い雨なので傘をさしてもいいのだが、目の前に入り口が見えているので、五郎は地面の泥を蹴りながら、ダッシュをすることにする。

 ————ガチャ。

 車が到着するのが見えていたのだろう。玄関前にたどり着く直前、扉が開き叔父と叔母が二人で出迎えてくれた。

 「ごめんごめん、叔父さん。途中道が分からなくてさ。ちょっと遅くなった」

 「良かった。心配したぞ、五郎」

 五郎の父親の兄にあたる力は、小さい頃からよく一緒に遊んでもらったり、勉強を教えてもらったりと、昔は何かと可愛がってもらっていた。

 相変わらず大きくて、がっしりとした体格で、ガリガリの自分とはえらい違いの叔父と握手を交わす。

 その隣には、綺麗な黒髪と切れ長の目が特徴的な静が、白エプロン姿で立っていて可愛らしい笑顔を向けてくれていた。

 「五郎さん、いらっしゃ————あらあら、ずぶ濡れよ」

 叔母の言葉で、自分の全身がグシャグシャになっているのに気がついた、

 しかも地面がぬかるんでいたせいで、白のスニーカーが泥で汚れてしまっている。

 「うわぁー、買ったばかりなのに、やっぱ山奥に来るのに白はマズッたなー」

 「まったく。ほら、中に入れ。お前の部屋に案内するが、その前に静、何か拭く物を貸してやれ」

 「はい。じゃあ玄関で少し待って下さいね」

 「はい、すみません」

 そう言って靴を脱いだ静は、玄関から見てすぐ左手に並んでいる二つのドアの内の、一つに入っていく。

 「————左手の二つのドアは、トイレと風呂場だ。向かいの右手のドアが、リビングに繋がっている」

 ここに初めて来た五郎に力は、家の構造の説明をしてくれるようで、それぞれのドアを丁寧に指を差していってくれている。

 「廊下が真っ直ぐ長いね。途中に二階への階段があって・・・・・・ん?」

 まだ続く廊下の先を見ると、右手に再び扉が見えたが、その前には大きなダンボールが置いてあるのに気が付いた。

 「あぁ、見苦しくてすまないな。今度リビングに棚を増やそうと思って頼んでいた荷物が今日届いてな、仕方なくあそこに置いてるんだ」

 「随分重そうだね。あれじゃ、あのドアが開かないじゃないか」

 「あそこはキッチンに繋がるドアなんだ。まぁ、リビングとキッチンは一体になってるからな、手前のドアから入ればいい————」

 そんな話をしていると、左手にあるお風呂場から、静がタオルを持って出てきた。

 「どうぞ、五郎さん」

 「すみません、静さん」

 「いえいえ。では二階のお客様用のお部屋に、ご案内いたしますね」

 そう言い終わるなり、「お部屋までお運びします」と五郎が持ってきたバッグを、静が手にしようとするので、片手で制して遠慮する。

 「————では、荷物を置いたらリビングに降りてこい。他にも今日は、客人がいるから紹介する」

 「客人?」




 叔父の誕生日パーティーは、午後7時きっかりに始まった。

 先程荷物を二階の部屋に置かせてもらった後、そのままリビングに降りて来ると、そこには叔父の力以外に、三名の男女が二十畳ほどの部屋の中央、コの字に置かれたソファーに座ってくつろいでいた。

 一人は七三分けに派手な上下の白スーツで、常にニタニタと笑みを浮かべている男。

 もう一人は、ウェーブのかかった髪を弄りながら、ヒラヒラの短いスカートから見える足を何度も組み替える女性(若くて可愛い女子じゃなく、明らかにおばさん)。

 最後は、そんな二人の間で小さくなっている、眼鏡をかけた小学生くらいの男の子だ。

 「————来たか五郎。では、紹介します。私の甥っ子で、東京の大学に通っている豪田林五郎です」

 「あっ、初めまして。五郎と言います」

 入っていきなりの紹介で慌てて頭を下げると、七三分けの男がソファーから立ち上がり、こちらに近付いてくる。

 「どうもっす、俺は沖田一(はじめ)。豪田林さんは会社の上司っす、以後よろしくっす」

 「あぁ、よろしくっす」

 やたらと会話に「〜っす」と入れてくるので、つい移ってしまった。

 何がそんなにおかしいのか、ずっとニタニタしている男から、差し出された名刺を受け取ると、握手も求めてきたので握り返す。そのまま振り返って一が、ソファーに残った二人を紹介してくれた。

 「俺の嫁さんで、八美(はつみ)っす。姉さん女房っすけど可愛いしょ?」

 「ちょっとぉ〜、姉さん女房ってババくさいじゃんアタシィ。あんたと十しか歳違わないのにぃ」

 ————充分、姉さん女房じゃん。

 「なははは! あっ、最後に、あのちっこいのが、俺らの愛の結晶で新一(しんいち)っす。まだ小学生なんで口の聞き方がなってないかもしれないっすけど、勘弁ね」

 七三分けの髪型を直しながら、ぺろっと舌を出す一の横に歩いて来た新一という少年は、五郎に向かって深くお辞儀をしてくる。

 「沖田新一と言います。よろしくお願いします」

 「よろしく、新一君」 

 ————トンビが鷹を産むって、この事だな。息子の方が親より何倍もしっかりしてそうだ。




 そんな沖田一家を交えたパーティーは、終始賑やかだった。

 ソファー前のテーブルには、叔母お手製の数々の料理が並んでおり、お酒の方も新一君以外は、みんな飲める年齢なので、ウイスキーやワインなどが用意されている。

 「力さん! マジで今日は呼んでもらっちゃってあざっす! いやぁ飯はウメェし、酒は高級な物ばっかだし、最高っすよ!」

 みんなが座っているソファーから、少し離れた場所に置かれた椅子に座っている力は軽く微笑んで、それに応えている。

 「あ〜ぁ、アタシもぉ、こんな別荘を持てる男と結婚すれば良かったなぁ」

 「ば〜か。俺が直ぐに、力さんよりもガッポリ稼いで、ここなんかより、もっとバカデケェの建ててやんよぉ! ねぇ? 奥さ〜ん」

 「えっ、あぁ。そうですね」

 面倒臭い酔っ払いの典型のように静に絡み出した一を見て、小さく五郎は溜息をついた。自分の会社の上司がいる前で、あのような言動をしてしまう人間は、例え酒のせいだとしても、あまり出来た人間だと思えなかった。

 「いやぁ〜、奥さんって相変わらず色っぽいっすねぇ」

 「そんな、私なんて」

 「俺、ガチでタイプっすもん! 今度デートしましょうねぇ、こいつには内緒で!」

 「はぁぁぁ? 堂々と浮気すんなしぃ」

 「やっべ! バレた! あっはははははは」

 ————今度は上司の奥さん口説こうとしてるし、救いようがないな。

 そんな両親の光景を黙って見ている新一少年を横目で見ながら、五郎はたまに振られる会話に適当に合わせていた。




 午後8時20分。

 料理もだいぶ食べ終わったので「そろそろ誕生日ケーキでも」と静が一度リビング奥にあるキッチンスペースに歩いて行く。

 「————ゴホッゴホッ」

 「んっ? 大丈夫、叔父さん」

 急に力が激しく咳き込んだので、五郎が心配して駆け寄ると、軽く手を挙げ小さな声で「大丈夫だ」と言った。

 「マジで大丈夫っすか? 最近会社でも、よくゴホゴホしてるっすよね?」

 右手にワイングラス、左手に静特製の二種のチーズバケットを手にした沖田一が、赤ら顔で質問してきた。

 「あぁ、すまない。風邪が長引いててな」

 「いやぁ、今死なれると、俺に掛かる仕事量ヤバイんで気をつけて下さいねぇー」

 「・・・・・・」

 「あ? どうしたっすか? 五郎君」

 「いえ」

 自分の勇気のなさには本当に嫌気がさす。大好きな叔父さんが、こうまで言われてるのに、何も言い返せないなんて・・・・・・。

 旦那のそんな言動にも、隣の妻八美は気にしていないようで、一心不乱にスマホを弄りながら欠伸をしていた。

 「みなさん、ケーキですよ。暖かい紅茶も良ければどうぞ」

 「おぉ、美味そうっすねぇ」

 「ヤバ、本当だ。 新一もケーキ食べるでしょ?」

 「あっ、うん。食べる」

 スマホに集中してた八美も、甘い物には目がないようで食いついてくる。かくいう五郎も甘い物は大好きなので、静がケーキを切り分け終わるのを、今や遅しと待っていた。

 「————はい、切り終わりました。皆さんどうぞ」

 どうやら、このケーキの方も静のお手製のようだ。

 白い生クリームで全面をコーティングされているスポンジのサイドには、チョコレートソースやイチゴのソースで花模様が描かれ、上にはイチゴ、ブルーベリーなどの沢山のフルーツが乗っている。そんなまるで「買って来ました」と言わんばかりの完成度に素直に驚いてしまい、思わず静に向かい拍手をすると、彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめて笑っていた。

 「五郎さんも、紅茶はいかがかしら?」

 「ありがとうございます。いただきます」

 差し出されたティーカップに口をつけると、鼻から抜ける茶葉の良い香りと、口に残る甘さと仄かな苦味が心を穏やかにしてくれる。

 「新一君は、何かジュースがいいかしら?」

 「えっと、僕も紅茶をお願いします」

 「紅茶が好きなのね。分かったわ」

 にこりと微笑みかけた静は、新一の前にもティーカップを差し出した。それを受け取ると丁寧にお辞儀をした彼は、テーブルの端に置かれていた角砂糖の山から、二つほどカップに入れてスプーンでかき混ぜ始める。その姿は全くもって両親とは正反対に落ち着いていて、どっちが子供か分からないと思った。

 「————すまんが、少し席を外させてもらうよ」

 突然、今まで静かだった、力が立ち上がり申し訳なさそうに短く切り揃えられた髪を掻いていた。

 「えぇー、パーティーの主役がどうしたっすか?」

 「あなた、お身体でも?」

 静が慌てた様子で立ち上がったので、五郎も気になり力のそばに近寄る。

 先程、風邪気味のような事を言っていたので、そのせいかと思ったが、力が静の肩に手を置き、安心させるような声色で「大丈夫だ」と言っているのが聞こえた。

 「少し飲みすぎたようで眠くなってしまってね。体調は大丈夫だ。心配掛けて申し訳ないな」

 「な〜んだ、歳っすね! 力さんも!」

 「あんたもよく飲み過ぎると、寝るじゃん」

 「うっせーよ! あっはははは」

 そんな酔っ払い二人に微笑み掛けて、力はゆっくりした足取りでリビングを後にした、午後8時30分ちょうどの事だった。

 「ぐごぉぉぉ、ぐごぉぉぉぉ」

 力が出て行ってから直ぐに、散々しゃべっていた一が、ソファーで寝息を立て始める。

 せっかくのピシッとした白のスーツも、あれではシワになるなと、思った五郎だったが、本人の自己責任なので気にしない事にする。

 そんなリビングには、相変わらず強い雨風の音と、一のイビキだけが響いていた。

 先程から静の姿が見当たらないが、キッチンの方から水の流れる音が聞こえるので、大方、皿でも洗っているのだと思いながら、少しカップに残っていた冷めた紅茶を飲み干す。

 「あぁー、ニコチン切れてきたわー ねぇ奥さ〜ん」

 「はーい」

 キッチンからエプロン姿の静が顔を覗かせると、短いスカートを翻しながら歩く八美がタバコの箱を指し示した。

 「ごめ〜ん、コレ吸いたいんだけど」

 「それでしたら、勝手口から出て直ぐの場所で、お願い出来ますか」

 静がそう言って、キッチン奥の扉に目を向けると八美は、眉間にシワを寄せて溜息を吐いていた。

 「えぇー、すげぇ雨降ってんのにぃ?」

 「すみません。主人がタバコの匂いが苦手で、来客された方にはいつも外で、とお願いしていまして」

 「ったく」

 小さく舌打ちをし、ダルそうに歩きながら、八美はキッチン奥の勝手口から外に出て行った。

 「・・・・・・」

 その様子を、黙って見送っていた静。

 「すみません。お手洗いをお借りしたいのですが」

 「えぇ、どうぞ。場所分かる?」

 「はい」

 すると今度は、八美の息子の新一に声を掛けられる。一瞬驚いた表情を見せた静だったが、すぐにいつも通りの優しい笑顔で頷く。

 丁寧にお辞儀をした新一が、お手洗いに向かうのを見送ると、静は溜息混じりに空いているソファーに腰を下ろした。

 「大丈夫ですか? 静さん」

 「えぇ。五郎さんは、楽しめていますか?」

 「料理やお酒は最高です・・・・・・他の客人に、難ありですけど」

 静は申し訳なさそうな顔を見せながら、ポットから新しい紅茶を五郎のカップに淹れてくれる。

 「どうして、あんな人達を呼んだりしたんですか? 大きなお節介かもしれませんけど」

 「不快にさせているのはお詫びするわ。前々から沖田さん達は、ここに来たがっていたのよ。ずっと何かしらの理由を見つけて断っていたんですけど、でも今回は、力さんが————」

 ————ガチャ。

 話の途中だったが、新一がトイレから戻って来たので、二人とも「おかえり」と言って話を中断した。それとほぼ同時に八美も喫煙から戻って来たので、静は新しい紅茶を二人にも淹れ直し始める。

 



 ————プルルルル、プルルルル。

 午後8時50分頃、突然電話の着信音がリビング内に響き渡った。

 どうやら一のスマホからだったようで、ビックリして変な奇声を上げながら、彼は飛び起きていた。

 「うぃーす、どうしたんすか? 力さん」

 電話の相手は、今は部屋で休んでいるはずの力からのようだ。

 「————はーい、了解っす」

 電話を終えた一は、大あくびをしながらフラフラとした足取りで、リビングのドアへ向かって歩き出した。

 「どうかしたんですか?」

 気になった五郎が声を掛けると、酔いのせいで滑舌が甘くなっている一が、片手を上げながら応えてくる。

 「なんか知らないっすけど〜 呼び出しっす」

 ————ガチャ。

 一がリビングから出て行くと、一気に場が静まり返り、外の激しい雨音だけが妙に耳に残った。

 「・・・・・・何かあったのでしょうか?」

 不安そうに一が出て行った扉を見つめて、静が小さく呟くのが聞こえる。

 それから5分ほど経って、ヨレヨレの白スーツ姿の一が帰って来たのだが、様子がおかしかった。

 「一さん、主人はどうしたんですか?」

 「いやぁ、それがっすね。呼び出されたんで部屋に行ったんすけど、ノックしても返事してくれないんすよ」

 「えっ?」

 先程、一のスマホが鳴ってから5分程しか経過していないのに、寝てしまったという事はないだろう。ということは、力に何かあったのではないだろうかと、静が心配でソファーから立ち上がった、その時だった。

 ————ドゴッッッッ。

 何かは分からないが、突然の大きな物音がリビングにいた全員の耳を貫いた。




 「きゃっ」

 「おわぁ! な、なんだぁ?」

 「何の音よ!」

 どうやら、この家の中で起きた音らしいが、発生場所が正確には判断できない。

 ただ、二階ではなく一階のどこかというのは感覚的に分かった。

 ————ダッ!

 慌てた様子で静が駆け出したので、五郎もその後に続く。

 「静さん! どこへ?」

 「しゅ、主人の部屋へ! あの人の部屋は一階なので!」

 静も発生場所が一階だという事には、気がついているようだ。他の部屋の可能性もあるが、まずは一人でいる力の部屋に行くのが当然だと思い、五郎も静と共に走る。

 「————五郎さん、こちらです」

 力の部屋は、玄関から入って真っ直ぐ廊下を進んだ突き当たりに位置していた。

 「あなた、大丈夫ですか?」

 「叔父さん! 大丈夫?」

 「・・・・・・」

 到着した二人が、木製で出来たドアを何回かノックしたが、その部屋にいるはずの力からは何の返事も返ってこない。

 「あのぉ、大丈夫っすか?」

 「何? 何かヤバイの?」

 静と五郎から少し遅れて、沖田一家も揃って力の部屋の前に集まってきたが、その質問には答えずに五郎はドアノブを回す。

 ————ガチャガチャ。

 内側から鍵を掛けられているらしく、ドアが開かない————と思ったら。

 ————ギィィィ。

 「開き、そうだ・・・・・・」

 「えっ!」

 五郎が内開きのドアを強く押すと、徐々にだが扉が開いてきた。隣の静が、その光景にビックリした表情をしているのが横目に見える。

 「ぐっ!」

 一応鍵は掛かっているので、このまま押し続けるとロックする金具の部分が壊れる可能性があったが、力の身が心配なので、気にせず五郎は力いっぱい踏み込んだ。

 ————バンッ!

 閉ざされていた扉が開き、五郎達は中に飛び込んだ。

 「うっ!」

 「何ですか、これ?」

 「おいおい、ヤベェすよ」

 力の部屋は、十畳ほどの広さで、部屋の両脇には壁一面を覆い尽くす本棚。右側奥にデスクと椅子。さらに奥の窓辺にベッドが置かれているだけのシンプルな部屋だった。

 ただ、今は様子が変だ。

 まず一つは、奥にある窓は全開になっていて、強い雨と風が室内の床半分ほどを濡らしている事。そしてもう一つは、ベッドの上に横たわる大きな本棚。

 「叔父さん!」

 「あなた!」

 五郎と静は、慌ててベッドに倒れている本棚を二人でどかし始める。チラリとだが本棚と、そこから散らばった本の山の中に力らしい足が見えたのだ。

 こんなに大きくて重いものが降ってきたら、大怪我をするのは当然、とにかく1秒でも早く力を助けなくては、と二人は必死に本棚をどかした。

 「叔父さん! 叔父・・・・・・さん?」

 「あ、あなた?」

 「あの! どうしたんすか? 力さん大丈夫っすか?」

 「ちょっとぉ! 静さん、何? どうしたのよぉ?」

 「大丈夫ですか?」

 部屋の前で待機している沖田一家には、この光景はどうやら僕らの陰になっていて見えていないらしい。

 うつ伏せになって倒れている力の、その大きな背中に刺さった、無機質なナイフが・・・・・・。

 「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・・」

 数秒後、外の豪雨の音をかき消すような豪田林静の悲鳴が、ペンション中に響き渡った。




 ————バツン!

 「えっ! 何? 真っ暗ぁ」

 「はっ? 故障か?」

 「おーい! 何も見えねーけど! 電気つけろって!」

 演劇部の映画が、突然終わった。

 その影響で、スクリーンに何も映し出されなくなったために、体育館内は暗闇に包まれ、全校生徒は、半ばパニック状態で騒ぎ始めた。

 北野南も、少しびっくりして必死に辺りに目を凝らしている最中、頭の中に、あるアイデアが浮かんんでしまい、思わずニヤケてしまう。

 ————はぅ! チャ、チャ、チャ、チャンスよ、南!

 「せんぱ〜い、こわ〜い!」

 隣に座っているはずの西山東輝に思い切り抱きつこうと、目にも留まらぬ速さで両腕を伸ばした南だったが、その手が捕まえたのは・・・・・・空気だけだった。

 「グヘェ!」

 情けない声を上げながら床に倒れ込んでいると、ステージ上にのみスポットライトが当たり、薄っすらと周りが見えるようになる。

 「ぐぅぅぅぅぅ、東輝先輩酷いですよー あなたのその腕は、愛しい女を抱き止めるための物でしょ!」

 「いや、読書とイチゴ牛乳のための物」

 「くっそぉぉ! 本とイチゴ牛乳以下かぁぁぁ!」

 先程まで座っていた席から、この南の行動を予知したかのように、東輝は少し離れた場所に立っていて、涼しい顔を向けている。

 「————驚かせてすまないな。みんな」

 いつの間にか再びステージ中央には、剛田豪が仁王立ちしていて、南がそれに気付き、元の位置に戻ると東輝も、サッと席に腰を落ち着けた。

 「おーい、剛田! 映画まだ途中だぞ!」

 「早く続き見たいでーす!」

 「続き! 続き!」

 周りの生徒達は、催促の声をパラパラと上げていた。

 南も最初は「演劇部の映画なんて————」という言葉を口にしていたが、見ているうちにどんどん引き込まれ、今では自分も「続きを早く見せろ!」と叫びたい気持ちでいっぱいだったが、その小さな体に収まっている、大きなプライドがお口にチャックをしてくれていた。

 「・・・・・・」

 そんな生徒達の声を目を瞑り、黙って聞いていた剛田は、いきなりその大きな両手を「バチンッ!」と強く合わせ、体育館中に静けさを取り戻させる。

 「悪いが、今回の映画上映会は、ここまでだ」

 その剛田の言葉で、今度は戸惑いの声が全生徒から上がり、ブーイングまで上がる始末だった。

 「何考えてんだ、あいつは」

 隣の東輝が眼鏡の位置を直しながら、不思議そうに呟いたのが聞こえたので、南もそれに同意する。

 「あんないい所で止めるなんて、アホなんですかね? あのゴリラは」

 「聞こえてるぞ! 北野南」

 「うやぁっ!」

 ステージ上で黙って腕を組んでいたはずの剛田が、真っ直ぐコチラを睨んでいた。

 その視線から逃れるように、南は身を縮めながら隣の東輝に、今度はもっと小さく耳打ちした。

 「何なんですか! あのゴリラは! どんな耳をしているんですか!」

 「さぁ、ゴリラの耳の良さなんて、知らねぇ」

 「おぉー、先輩でも知らない事があるんですね? 分かりました! 今度一緒にイチャイチャしながら調べましょうね!」

 「イチャイチャはしねぇよ」

 「そこの読書部二人ッッッッ!」

 雷でも鳴ったのかと疑うほどの怒号が、南達の体を貫く。それが今ステージに立っている剛田の声だと理解するまで、南は若干時間が掛かった。

 「・・・・・・西山東輝、そして北野南。俺と勝負しないか?」

 「!」

 「は?」

 その問い掛けに、体育館中にいる生徒達が一斉にこちらを向いたと同時に、いきなり自分達にも天井に設置されたスポットライトが向けられる。

 「なっ! ま、眩しっ!」

 どうやら始めから南達の位置を把握して、照明に頼んでいたのだろう。

 「・・・・・・」

 東輝は静かに剛田を見つめていたが、南はこの状況を理解出来ず、とにかく席を立ちステージに向かって叫んだ。

 「こ、こんな時にしょ、勝負って! いきなりなんだぁ! 前回も挑んできて負けてるだろぉ!」

 あの苦い経験を味わった事件は、今でも根に持っているのに何を言っているのだと、南は叫びながら、だんだん頭にきていた。

 「————前回の件については、海老原に一任して、勝負の内容も方法も何もかも、俺はノータッチだからな。実質、初めての勝負というわけだ」

 「はぁ? 何を無茶苦茶な事言って! 何回やっても私は演劇部には入らない!」

 「ん〜、まぁ確かにお前には、我が部に入ってもらいたいが・・・・・・」

 剛田は南から視線を動かし、隣の東輝の事を睨みつけていた。

 その目つきは、正に獲物を狙う野生の動物そのままだ。

 「どちらかと言うと、今回はお前だ! 西山!」

 「・・・・・・」

 「間接的とは言え、俺に負けという名の泥を塗ってくれたな」

 「知るか」

 ずっと黙って、この状況を観察していた東輝も、さすがに無視できないと、ステージに向かって言葉を返した。

 このやり取りを見て生徒だけでなく、先生までも動揺している様子がチラッと見えて、この学校の教師は、何かトラブルとか起きた時、大丈夫か? と若干心配になってしまう。

 「今回、改めて読書部にこの俺、演劇部部長の剛田豪から挑戦状を送ろう!」

 「いらねぇから、持ち帰れ」

 「お前達が勝てば今後一切、北野南には干渉しない事と、俺が卒業するまで演劇部は何かあれば、読書部に無条件で力を貸してやろう!」

 「東輝先輩! あいつ人語が理解出来てないですよ。ゴリラ語で話さないと!」

 「ゴリラ語?」

 勝手に話を進める剛田は、南達の事などまるで無視している・・・・・・いや、そうゆう性格なんだと思い直した。

 「お前たちが負ければ、今度こそ北野南は我が部に頂く!」

 「勝手に決めるなぁー 誰がゴリラの檻に一緒に入るかぁ!」

 「ハァ、もういい。行くぞ、南」

 呆れて溜息をついた東輝が席を立ち、入り口に向かって歩き出したので、それに続くように慌てて後に続く。

 「北野! お前の、その演技力を眠らせておくのを・・・・・・神が許しても、俺が許さん!」

 「何なんですか、あの人! なんかヤバいです!」

 「無視するぞ」

 なおも訴え続けている剛田を無視して歩く二人は、他の生徒や先生達からの視線を浴びながら、出口まで辿り着き、東輝は扉に手を伸ばした。

 その時、悪あがきのように放たれた言葉が、二人の背中に突き刺さる。

 「読書部などという、お前の力を全く活かせない。ただ本を読むだけ。などという無駄な部活にいる意味など無いだろ!」

 「はっ? この————」

 「上等だ、受けてやるよ」

 南の言葉を遮るような、静かに発せられたその言葉に、剛田だけでなく、周りでこの状況を傍観していた生徒達も、目を見開いて静かになってしまう。

 かくゆう、南もビックリして言葉を失ってしまい、目の前に立つ彼を見つめる事しか出来なかった。

 「・・・・・・」

 この人は、こんな挑発になど絶対に乗らないと思っていたのに、今はステージを睨みつけ、誰がどう見ても敵意むき出しで立っている。

 一体、何が起こっているのだろう。

 ————東輝先輩?

 



 無性に腹が立っていた。

 もう勝負の理由なんてどうでも良かった。ただ目の前で噛み付く木偶の坊が、自分の聖域を侵した————そんな感情に、包まれたのだった。

 隣で驚いた表情を見せる南には、本当に悪い事をしているのは分かっている。勝手に勝負を受けて、もし負ければ一番ダメージを負うのは彼女なのだから。

 ————でも。

 「東輝先輩、あの」

 「悪い、でも心配すんな。負けねぇから」

 何の根拠もないそんな言葉を掛けられ、呆れられるかと思ったが、彼女は今まで戸惑っていた事など忘れたかのように、いつも通りの満面の笑みで大きく頷いていた。

 「西山、お前普段はクールなように見えて、意外と熱い男だな! 気に入ったぞ!」

 ————テメェなんかに、好かれたくねぇんだよ。

 「それで、さっきから言ってる勝負の内容は何だ?」

 「あぁ、そうだったな。だが勝負内容を聞いて、やはり降りるなんて事は————」

 「しねぇから、早くしろ」

 「よし」

 不敵な笑みを浮かべた剛田は、背後に設置されているスクリーンをゆっくり指差した。

 その動きに東輝だけでなく、全校生徒が注目している。

 「読書部の二人と言えば————謎解きが、得意という事だったらしいな」

 「?」

 「いや、海老原との一件以外にも、学校で起きた事件を度々解決していたようだな」

 どうやら、色々と嗅ぎ回っていたらしく、剛田は太い両腕を組みながら、不敵な笑みを口元に浮かべている。

 「ちょうど良かった。いや、まさに運命の悪戯とでも言うべきか————この映画が、ミステリーを題材にした映画だという事がな!」

 「・・・・・・」

 「げっ! まさか!」

 南は今更気付いたようだが、この木偶の坊が吠え始めてから、東輝は何となくだが勝負の内容を予測していた。

 そう、上映会前に剛田が耳打ちしてきた言葉のおかげで・・・・・・。

 「お前達には、この『ハッピーバースデイの悲劇』劇中に登場した豪田林力を殺害した犯人と、そのトリックを推理してもらう!」

 「えぇ!」

 「やっぱり、か」

 他人事の生徒達は、剛田の、この一言に非常に盛り上がっており歓声を上げていた。

 そんな中、読書部の事を知っている事務員の山田一郎さん、東輝のクラスメイトの前田優香や大島豊などが、心配そうにコチラを見ているのには気付いたが、もう止められない————。

 火蓋は切って落とされたのだから・・・・・・。

 「期限は二日後、水曜日の放課後! 再びこの体育館で、後編の上映をする予定になっているのだが、その時に、お前たちの推理を発表してもらう! 思う存分楽しんでくれ、北野南! そして、西山東輝!」

 





   

 演劇部から、挑戦状を送られた上映会。

 その翌日の火曜日は祝日で、学校がちょうど休みの日だった。

 外は相変わらずの熱気で、出来ればエアコンの効いた涼しい部屋で読書でも楽しみたいのだが、額に汗した西山東輝と北野南の二人は、現在、地元の駅から三つ先にある街の駅前から、バスで30分程の小さな山の中にある建物の前に立っていた。

 「おぉー。映画に出てきたのと、まるで同じですね」

 「だな」

 赤い色の屋根に煙突がついている木造のその姿は、まさにあの映画に出てきたペンションそのものだった。

 「————よぉ読書部。よく来たな」

 背後の林から南達の到着を待っていたかのように、制服姿の剛田豪が片手を上げ、近付いてくる。

 その外の熱気にも負けない暑苦しい図体を見て、南はつい溜息が出てしまう。

 「俺達に、実際に捜査をさせるために、わざわざ呼び出したのか?」

 「後編では、登場人物達が証拠を集め、ある人物が探偵役になり、事件の真相を解き明かすのだが————映像だけだと、不公平だと思ってな」

 「なるほどぉー 中々ワクワクす————じゃなくって、コホン。あっ、ちなみにぃ〜 その探偵役になる、ある人物って誰ですか?」

 「教えるわけないだろ。容疑者を一人減らす事になってしまう」

 「チッ」

 南の淡い思惑は、見事に看破された。

 ゴリラのくせに、中々鋭い。

 「本当に証拠などは、全て残したままなんだよな」

 東輝がメガネの位置を直しながら、赤い屋根のペンションを見上げて、剛田に問いかけると、彼は筋肉で太い両腕を組んで、大きく頷いた。

 「もちろんだ。〝正々堂々〟が、この俺のポリシーだ! 映画の後編に映像として残している証拠などは、今もこの建物にしっかりと残してある、約束しよう!」

 「・・・・・・」

 「ふ〜ん。東輝先輩、ちょっと————」

 気温が一気に上がるかと思えるほどの熱量で、こちらを見つめる剛田から、少し距離をとって東輝と二人だけで話を始める。

 「信用できますかね? あれ」

 「おそらくは、信用しても大丈夫じゃねぇかな。あいつ普段から曲がった事は、本当に嫌いなタイプって話は有名だからな」

 「でも、この前の海老マヨさんは、汚い手でしたよ」

 「あの一件には、剛田は絡んでなかったようだし、もし今回の勝負も、海老原絡みだったのなら、俺ももっと警戒してる」

 「そうですか」

 制服のシャツの胸元をパタパタとしながら、南は剛田の方をチラリと確認する。

 まぁ、見るからに【熱血】【真っ直ぐ】【正々堂々】が似合う男なので、信じてみてもいいが・・・・・・何だか演劇部というだけで、つい疑いの目で見てしまう。

 「それよりも、本当に悪かった」

 「はい?」

 「・・・・・・」

 隣に立つ東輝が、何か言いづらそうに、足元に転がった小枝を踏み砕いているので、小首を傾げて待っていると、ようやく彼は、ゆっくりと話し始めた。

 「いや、勝負を・・・・・・勝手に受けちまったから、今更だけどよ」

 「あぁ、全然ノープロブレムですよぉ」

 「お前の事なのに、そんなノー天気な」

 確かに、勝負を受けたのは意外すぎて最初はビックリしてしまったが、別にそんな事はどうでもいいと思っていた。

 「不安が無い。と言ったら、嘘になっちゃいますけど、それでも、なんか大丈夫な気がするんです! 東輝先輩がいるから!」

 「でも」

 「先輩は負けません! 必ず謎を解きます! 今までも、これからも! 私を救ってくれるヒーローだもん!」

 「・・・・・・」

 「うにゃー! 隙あり!」

 少し目を見開いた表情の東輝が、何だか油断してそうだったので、その胸に飛び込もうとダイブをしたが、いつも通り跳ね除けられた。

 「ちっくしょぉ、今の流れだったら、少しは惚れると思ったのにぃ」

 「・・・・・・少しは、惚れた」

 「えっ」

 何かとんでもないセリフを聞いた気がしたが、山を吹き抜ける風のせいで、よく聞こえなかった。

 「くそ、弱気になった。絶対に解くぞ」

 「いや、いやいやいやいやいや! その前、先輩なんて?」

 「?」

 「『?』じゃなくて! 今回の勝負が、どうでもよくなるレベルの発言が聞こえたような————」

 「じゃ、行くぞ」

 「ちょぉっとぉぉぉぉぉぉぉぉぉおお!」

 周りの森の木々に隠れていた鳥達が、南の絶叫に怯えたかのように一斉に飛び立った。




 剛田豪は、「俺は俺の役があるのでな、先に入らせてもらうぞ。制限時間は、2時間後の18時00分だ。お前たちは10分ほど経過したら中に入れ、そこから捜査開始だ」と偉そうな捨て台詞を吐いてから、家の中に姿を消していった。

 山の中で木々の影が沢山あり、自然に発生する風も中々心地よいのだが、先程から二人は手で顔を仰いだり、ハンカチで汗を拭くのに余念がないほど、やっぱり外は暑かった。

 「ふへぇー暑いぃ〜 ・・・・・・あっ、そろそろ時間ですね。最初は何から調べます?」

 「んー」

 左腕に付けた時計を確認した東輝は、先ほど剛田に手渡された、A4サイズほどの紙を広げる。

 


 ・事件についての補足

 豪田林力 死因 心臓を背中からナイフで一突きにされた事による失血死。

 死亡推定時刻 20時55分前後。

 その他 体内からは薬物などの反応は無し。

 被害者の額、右肩、左膝に打撲痕あり。

 犯行に使用されたと思われるナイフには、指紋は無し。


 追記

 外部の人間が犯人なんて、つまらないオチにはしない。

 犯人は、登場人物の中に必ず存在する。



 「————何ともご丁寧なメッセージだが、これだけでは何ともな」

 「ですね。あとは自分たちで、証拠を集めろって事ですか」

 「そうなるな」

 隣からヒョイと紙を覗いている南も、東輝と同じく難しい表情をしている。

 まぁ、始まったばかりだ、と二人は気合を入れ直し、事件の起きたペンションのドアをノックする事にした。

 ————ガチャ。

 中から女性の「はーい」という声が聞こえ、しばらくすると扉がゆっくりと開く。

 「!」

 「ふぇっ! な、菜々さん?」

 そこに現れたのは、映画内で登場人物の一人、豪田林静を演じていた、南の幼馴染で先輩の小松菜々で、何故か映画そのままの格好で立っていたのだ。

 白のブラウスに、紺のロングスカート。そして長い黒髪(おそらくウィッグだろう)は昨日、廊下でばったり出くわした彼女とは、まるで違う印象を受ける。

 読書部二人が驚いた表情をしている中、菜々はゆっくりとお辞儀をして挨拶をしてきた。

 「夫の事件を捜査しに来て下さった、探偵の方達ですね。お待ちしておりました。私、妻の静と申します」

 「え?」

 「ん? な、菜々さん?」

 そのしゃべり口調なども、完全に映画に出て来たキャラクターそのものだった。

 「さぁ、どうぞ中へ、パーティーにいらっしゃった、他の皆様も揃っていますので————」

 そう言うと菜々は、丁寧にスリッパを並べて二人を招き入れた。その様子を見て、なんとなく状況を理解した東輝は、南にそっと耳打ちをする。

 「南」

 「あぁん。耳は弱いので、もっと優しくぅ〜」

 「真面目に聞け。おそらく、今この家にいる人達は全員、あの映画の登場人物になりきってると思うぜ」

 「ですねぇ、菜々さんの反応を見て、私も気付きました。これは私達も〝探偵〟として接しないと、ダメって事ですね」

 「俺まで演技しないと、いけねぇのかよ」

 「でも、そうしないと多分情報とかを聞き出せないと思いますよ! 任せて下さい! 演技なら私も得意なので!」

 ————全く、剛田の野郎。

 まぁ、演技の上手い南がいれば、何とかなるかと思った東輝は、小松菜々もとい豪田林静が出してくれたスリッパを履き、その案内に従った。




 ————ガチャッ。

 案内されたリビングに入ると、そこもまさに映画に出てきていた様子そのままで、自分が何だか、本当に映画の登場人物になったような気分になってしまう。

 二十畳ほどの広さの空間の中は、床、壁、小物に到るまで殆どの物が、木材で出来ており、木の優しい香りが一気に鼻の奥を抜けていく。そして何よりクーラーがよく効いていて、外の熱気を徐々に冷ましてくれるのがありがたい。

 「将来は、私こんな家に住みたいわ。あなた」

 「あっそ」

 「冷たっ! 体が一気に冷えましたよ!」

 天井にぶら下がった、おしゃれなシャンデリアや、壁に掛かった絵画などを横目に読書部二人は、ゆっくりと歩を進める。

 「————皆さん。今回の事件を捜査して下さる探偵さんが、いらっしゃいました」

 静がそう言うと、リビング中央に置かれたコの字型のソファーに座った四名が、一斉にコチラに目線を向けてきた。

 沖田一家と、力の甥っ子の五郎(役の演劇部の生徒)だと映画を見てた二人には分かってはいたが、静が丁寧に一人一人の紹介をしてくれたので黙って聞く事にする。

 「海老マヨめぇ〜、役でも、うざったいですねぇ」

 南が歯ぎしりをしながら向ける視線の先には、沖田八美役の海老原麻世が、髪の毛をクルクルと指に絡ませながらソファーに座っている姿があった。

 豪田林力役は、剛田豪。

 豪田林静役は、小松菜々。

 そして、沖田八美役を海老原麻世が演じている事は、東輝にも分かったが、他の役の生徒は全校集会などで顔を見た事がある程度で、名前までは知らなかった。

 謎だったのは、沖田夫妻の子供役の男の子は、どこから連れてきたのか? という事だが南の話だと、うちの演劇部は作品によって子供役が必要な場合、近くの小学校などから演劇に興味がある生徒などを引っ張って来るそうだ。

 などと南と、こっそり話していると、いつの間にか自己紹介が終わっていたようで静が「あの」と声を掛けてくる。

 「あっ、えっと————」

 「どうも皆さん、私たちは、今回この事件を依頼された探偵の、こちらが西山東輝。そして、この麗しい美少女の私が、その助手の北野南です。どうぞよろしくお願い致します」

 突然の事で動揺した自分に代わり、隣の南が進行してくれたので、東輝は頭を下げるだけで終わった。

 ————相変わらず、こうゆうのは凄いな。

 演劇部が南を欲しがる気持ちが何となく分かったが、今はそれを阻止するために謎を解かなければならないのだ。

 「東輝探偵、初めは何を?」

 すっかり役に入り込んでる南が、急に顔を覗き込んできたので、東輝は一度、大きく深呼吸をした後に、全員に目線を向けた。

 「じゃあ、事件当日に行われていたパーティーでの出来事を詳しく話してもらっていいですか?」

 一応映画は見ているので、大体の流れは分かっているが、当人達の口から改めて確認する事にしよう。

 この東輝の質問に対し、みんなは目配せし合って「誰が話す?」という雰囲気になったが、その反応を見て被害者の妻である静が口火を切って話し始めた。

 「————事件があった日は、夫の誕生パーティーをここにお集まりの皆様と一緒に行っておりました」

 「パーティーが始まったのは、何時頃ですかぁ?」

 「えっと確か、19時きっかりに始めたと思いますわ」

 「ふむふむ」

 隣の南は、持っていたトートバッグから小さなメモ帳を取り出して、情報を書き込んでいる。

 「そこからは、夫も含めてお食事やお酒、お話なんかを楽しんでいましたわ」

 「その間、被害者の力さんに変わった事はありましたか?」

 「いえ、特には」

 「力さんも含めて、その間、このリビングから一度でも皆さん出ましたぁ?」

 「当たり前っすよ。トイレだって行きたくなるし。でもみんな5分足らずで戻ってたっす」

 能天気な表情で、沖田一がソファーに踏ん反り返り答え、それにみんなが同意するように頷いていた。

 「その後は、20時20分頃だったかな? 静さんが一回キッチンにケーキを取りに行って、みんなで食べました」

 「確かぁ、そのくらいじゃなかったっけ? 力さんが調子悪いって出てったのぉ」

 八美の鬱陶しい喋り方に南だけでなく、東輝まで不快感を顔に出してしまった。

 ————まぁ、普段からこんな感じだが。

 と同時に、一人で納得してしまった。

 「そうでしたね。最近はずっと体調が良くなくて、心配はしていたのですが・・・・・・」

 妻である静の言葉に頷きながら、南が質問をする。

 「なるほどぉ。力さんが出て行った後、皆さんは?」

 「私は、キッチンで軽く洗い物をしていましたわ」

 「一さんは、ソファーですぐ寝てましたね」

 「ちょい、ちょい! 恥ずかしい事言わないでよぉー 五郎君!」

 慌てた一に対して五郎は、軽く頭を下げながら話を続けてくれる。

 「後は、八美さんがタバコを吸いに勝手口から出たり、新一君が、トイレに行ってましたね」

 「それは、何時頃ですかぁ?」

 「ん〜と、20時35、40分くらいだったと」

 話を聞きながら東輝が何気無くソファーの方を見ると、そこに座っていた新一君が、何か口をパクパクさせている様子だったので、「何か言いたい事でもあるのか?」と思っていると、目が合った瞬間に慌てた様子で逸らされてしまった。

 何となく気にはなったが、話が進んでいたので集中力をそちらに戻す。

 「————その後っすよ、俺のスマホがいきなり鳴り出したの! 力さんからだったんですけど、マジでビビったわ」

 「ダッサイわねぇ、あんた」

 「るっせーよ」

 「その時の電話の内容って、覚えてますか?」

 この二人だけだと、話が脱線しそうになるので、東輝はすぐに軌道修正する。

 「えっと、『一君に少し話したいことがあるから、今から部屋に来てくれないか?』みたいな感じだったっすね」

 南のメモする物凄いスピード音を気にしながら、東輝は質問を続ける。

 「んで、部屋に向かったという事ですか?」

 「まぁ行ったんすけど、何回ノックしても反応がなくて、面倒になって帰りましたよー もうあん時は死んでましたね、きっと」

 両手を頭の後ろで組み、軽い調子で話す一に、役だと分かっていても苛立ってしまいそうになる。それと同時に、流石は全国大会に出場するだけはあるなと、役を演じている生徒に感心もした。

 「で、一さんがリビングに戻ったとほぼ同時に、大きな物音が聞こえて来たんです」

 「時間って分かりますかぁ?」

 「21時・・・・・・えっと、5分前くらいかと」

 「分かりましたぁ」

 五郎にペコっとお辞儀をした南は、再びペンを動かし始めた。

 自分の命運も掛かっている勝負なので当然かもしれないが、彼女がこんなに几帳面にメモを残している姿に、少し驚いてしまう。

 「その音を聞いて皆さんで、力さんの部屋に向かったという事ですね?」

 「はい。ただノックをしても反応がなく、扉を開けようとしても鍵が掛かっていまして————」

 五郎が静の方へ顔を向けると、肯定するように小さく頷いている。

 「ただ、力強く押したら鍵が壊れ気味だったらしく、扉が少し開いたので、そのまま無理矢理・・・・・・」

 その状況は、東輝も映像で見ていたので分かったが、鍵が壊れているように確かに見えた。

 この点に関しては、もっと詳しく知る必要があるなと思いながら、東輝は気になった事を質問してみる。

 「部屋の鍵は、前からそんな感じだったんですか?」

 これに対して、静は少し悩む素振りを見せてから、口を開いた。

 「すみません。普段は鍵を掛けていないので、いつから、あのようになっていたのかは」

 「そうですか」

 色々分からない事が、まだ残っているが、死体発見までの流れは、これでおおよそ聞き終えたはずだろう。

 映画を見ていたが、全てを丸暗記していたわけではなかったので、こうゆう機会があって助かった、これに関しては絶対に言わないが、剛田にお礼を言いたくなった。

 「探偵さぁ〜ん、他に聞きたいことはぁ〜?」

 八美が、何ともいやらしい仕草でコチラを見つめてきている。

 ただ明らかに、その挑発的な態度は役というより、今回の演劇部vs読書部に対してのように感じてしまうのは、少し考えすぎだろうか。

 「東輝探偵、バカが質問していますが、何かありますか?」

 「誰がバカよぉ! このチビッ子ぉぉ!」

 「あんたのことじゃ! この若作りババァ!」

 「カァァァァァァァァ! 表へ出なさいよぉぉぉ!」

 猿のように吠え合う二人のやり取りを聞き流して、とりあえず現場が見たいと思い。静以外の全員に、リビングで待機してもらえるように指示を出して、東輝はドアに向かって歩き出した。




 「うひゃー、これはぁ」

 「凄げぇな」

 驚きの声を上げている読書部二人がいる死体発見現場である力の部屋は、今まさに犯行が行われたのではないか? と疑うほどの再現度だった。

 開かれた窓、びしょ濡れになっているシーツや床、そしてベッドの上に倒れこむ本棚の下には、さっきまで南達と話をしていたゴリラこと剛田豪が、うつ伏せで口から血を垂れ流し、白目を向いた状態で死んでいる。

 演技に関しては結構うるさい南だが、流石は演劇部部長を名乗るだけあって、素晴らしい死体役だと拍手を送りたくなった・・・・・・とても地味だが。

 「この勝負に、これだけの熱意を注げるコイツの、こうゆう所は尊敬すんな」

 「そっ、そうですかぁ?」

 東輝の言葉に賛同しそうになったが、目の前で死んでるコイツは、自分達の会話を今聞いているのだと思い出し、途中で無理矢理、言葉を飲み込んだ。

 「とにかく! 時間が勿体無いので、部屋の中を調べましょう!」

 「あぁ」

 頷いた東輝がベッドに近付き南も、メモ帳を片手に後に続く。

 床も木造なので、二人が歩くと微かに軋む音が聞こえた。

 「うわぁー、リアルですね。血のりって」

 「背中から心臓を一突き。それから確か外傷が、額と右肩、左膝に打撲痕があるらしいな・・・・・・」

 力の死体のそばに到着した東輝が、顔を寄せて観察を始めたので、南も真似してみる。確かに事前に渡された事件に関するメモ通り、被害者の体には、何かで殴られたような紫色の痣が、付いているのが分かった。

 「死体の状況は、さっきもらった紙に書かれていた事と、一致してるようですね」

 「・・・・・・」

 ある程度調べ終え、顔を上げると、東輝が隣で片眉を上げており、人差し指をこめかみに当てている。

 「この紫色になってる、打撲痕、どう思う?」

 「え、そうですねぇ・・・・・・状況から考えると、本棚が倒れてきた事が原因だと思いますけど」

 「だよな、本棚もデケェし、かなりの数の本が入ってたみたいだから、相当な重さになってたっぽいしな」

 そう東輝が呟くベッド周りの床には、何冊もの本が乱雑に散らばっており、ベッドの上には、今も被害者の半身を潰すような形で、本棚が倒れていた。

 「んっ?」

 「どうしました?」

 しゃがみ込んで、床の本を調べていた東輝が、再び何かに反応を示した。

 「ここ」

 「およぉ?」

 その手にある本の背表紙には、何かで擦った跡が付いていた・・・・・・いや、それよりも。

 「おぉ! 京極夏彦先生の【絡新婦の理】じゃないですか!」

 「なかなかセンスの良い本棚だな・・・・・・おっ、これも懐かしいな」

 いざ本の事になると、読書部二人は興味を抱かざるを得なかった————。

 「これも面白かったやつだぁ、また読もうかな」

 「んっ? あぁ、綾辻行人先生か。それは名作だな」

 「南、こっちもオススメだぞ」

 「どれですかぁー」

 事件の捜査の事なんか忘れ、散らばった本を楽しげに眺めていると、背後から声が掛かった。

 「あの」

 「「あっ」」

 この部屋に豪田林静も、一緒に連れてきた事をすっかり忘れていた二人は、慌てて姿勢を正す。

 「コホンッ。えー東輝探偵、ここを見て下さい」

 「ど、どれどれ」

 照れ臭そうにする東輝は、南が指し示した部分を確認しようと身を屈めた。

 そこはベッドの足元側の床で、元々は倒れた本棚が置いてあった場所らしいのだが、その部分には、他の場所とは違い小さな水溜りが出来ていたのだ。

 「水はおそらく、窓から入り込んだ雨が原因なんだろうけど、何でこんなに溜まっているんだ? ここだけ」

 「多分、この部屋の床が少し傾いているからですよ」

 東輝と南の丁度真後ろから、様子を伺っていた静が疑問に答えてくれた。

 「なぁるほどぉ、単純な理由ですね」

 まぁ見た目は綺麗だが、木造建築で出来たペンションだし、ある程度は仕方がないだろうなと、南がボーと水溜りを眺めていると、隣の東輝が何かを発見した。

 「ん? 何か、床が傷ついてんな」

 「あ、本当ですねぇー。いっぱい傷付いてますね」

 「んー、何か引きずった跡か?」

 「あ、東輝先輩! このベッドのヘリとかにも、何かを叩きつけたような傷がありますよ!」

 「ん」

 本棚があった位置の床には、確かに複数の傷跡が付き。南が気付いた木製のベッドの方にも傷が複数付いていた。

 一体これは、何なんだろう。

 「何か、後々ヒントになるかもなので、写真撮っておきますね」

 「あぁ、頼む」

 そうやって南が、何枚かシャッターを切っていると、東輝は床の水溜り近くに落ちていた、小さな猫の置物を手に取り、しげしげと眺め始める。

 「静さん。これは、この部屋の物ですか?」

 「そうです」

 「いつも床に置いている————わけないですよね?」

 「もちろんです。いつもはあそこに・・・・・・」

 静が指差したのは、ベッドが置いてある方とは、正反対の入り口すぐ横にあった、小さな木のテーブルだった。

 「・・・・・・」

 何で入り口付近から、こんな離れた場所に? という疑問を南は抱いたが、東輝はチラリと目線を動かしただけで、直ぐに窓付近を調べ出したので、その事についてはメモするだけにする。

 「それから、この窓だな」

 ベッドの真横の壁にある窓は犯行当時、全開であったのは映像で確認してる。

 そこから大量の雨水が、侵入していた事も。

 「換気、なわけないですよねぇ? あんな大雨なのに」

 「そうだな、ん?」

 「先輩どうしました?」

 急に、ベッドに上がり豪田林力の死体を跨いで、窓の外を覗き始めた東輝が、何かを発見したようだったので、南も同じ位置に移動して顔を出してみた。

 「これは」

 窓を開けたすぐ真下の地面は、大雨で土がぬかるんでおり、そこには足跡らしき物が点々と残っていた。

 「うひゃ〜、アホな犯人ですね。くっきり残ってますよぉ」

 「だけど、この足跡・・・・・・一方通行だぞ」

 「へ?」

 そう言われて、よくよく足跡を見てみると、入り口方面から真っ直ぐコチラに来て窓の前で切れていた。これは————と顎に手を当てて南が思案していると、「ちょっと、ここで待ってろ」と言い残して足早に東輝が、部屋を出て行く。

 しばらく窓の前で待ってみると、彼が靴を履き替えて、外側に現れた。

 「先輩、どうでした?」

 「さっきは気付かなかったが、玄関から出て右手側から、ぐるっと。ここまで足跡が続いていた」

 つまり、外部犯の可能性はない。という事なので、犯人は玄関から出て、外から現場に向かったという事になる。

 「同じ足跡の上を歩いて戻ったというのは・・・・・・なさそうだな」

 地面にしゃがみ込んだ東輝は、くっきり残っている足跡を見ながら頭を掻いている。

 念のため写真とメモを残した南だったが、謎が増えていくメモに思わず溜息が出てしまった。そんな南に「今は情報を集めるんだ」と言って、玄関の方に歩いて戻る、東輝の後ろ姿は、何とも頼もしく見えた。




 犯行現場を見終わった二人は、玄関から入って直ぐ左手の風呂場とトイレも確認したが、特に変わった所はなく、強いて言うなら自宅にある物よりも、広い空間が広がり羨ましいと感じたくらいだ。

 もちろん犯人が移動に使えそうな窓も調べたが、人が通れないほど小さかったり、格子が付いていたりした。

 その後、廊下奥の段ボールで塞がれたドアに辿り着く。

 「このドアの先って」

 「キッチンに繋がっています」

 「これだと段ボールが邪魔で、開けられないですねぇ」

 言いながら南は、段ボールを指でつついている。

 一応確認で、東輝はダンボールを持ち上げようとするが、男でも結構頑張らないと、簡単には動かせなさそうな程の重さだった。

 「————リビングに棚を増やそうと夫が買ったのですが、組み立てるまで置き場所に困ってしまって、とりあえずここへ」

 「・・・・・・」

 ————事件に関係あるのか、ないのか・・・・・・分かんねぇな。

 南が段ボールを実際に持ち上げようとして、「んにゃ〜、重いですよぉ、せんぱ〜い」などと無駄な非力アピールをしていたが、それを無視しキッチン側に移動して、沖田八美がタバコを吸いに行ったという、キッチン奥の勝手口を確認しに行く事にする。

 そこへ移動するためには、一度容疑者たちが集まっているリビングを通り過ぎなければいけなく、全員がソファーに座ってコーヒーなどを飲んでいる横を、何となく気まずくなりながら早足で移動した。

 ————ガチャ。

 そうして、ようやく辿り着いた勝手口を開けると、そこは家の裏手になっており、大きな木々が生い茂っているせいで、昼間なのに何だか薄暗い印象を受ける。扉を開けた直ぐ横には、おそらくゴミを入れるための青いポリバケツが二つと、八美がタバコの灰を落としたのであろう、小さな灰皿が足元に置いてあった。

 「こっちには足跡ないですねぇ。犯行現場まで移動出来そうなのに」

 確かに、ここから移動した跡があれば、犯人は一気に絞れるかもしれないが、そんなに甘くはないだろ。

 「何とか移動出来ないかなぁ? あっ! 幅跳びで」

 ————無理に決まってんだろ。

 というツッコミ入れるのも面倒なので無視して、東輝は勝手口の扉や、ポリバケツの中などを一応確認し、何も無いと分かるとキッチン内に戻った。




 その後は二階に上がり、そこにある三部屋を一つ一つ調べてみる事にしたが、ここも特にこれと言った物は見つからなかった。

 もしかしたら、二階からロープなどを使って現場の窓まで行ったのでは? と南が世紀の大発見をしたと言わんばかりの大声を上げていたが、力の部屋は離れのような位置にあるため、そこだけ二階がなく、しかも屋根部分にロープを掛けられるような場所は、無さそうだった。

 「うううううぅうう」

 隣で唸りながら、南はまだ二階からの移動方法を考えているようだったので、東輝は、グチャグチャになった頭をリフレッシュさせる意味も含め「お手洗いを借ります」と静に断ってから、先に一階に降りる事にした。




 二階の各部屋では、事件に関する手掛かりを見つけられなかったらしい西山東輝が、お手洗い、と言って部屋を出て行く姿を見送り、小松菜々と北野南は、二人っきりで部屋に残される事になった。

 八畳程の広さの部屋の奥、裏庭が見える窓を未だに念入りに調べている南の姿を見ながら、菜々は、この気まずさに心が潰れそうだった。

 前回の事件の時以来、彼女を騙した罪悪感から、まともに話せていない。

 今更、関係を修復したいなんて、そんな馬鹿な事は言えないのは、自分でも分かっている。もう、元の仲の良い関係になるのは無理だろうとも・・・・・・それでも、一言。たった一言だけ伝えたかった。

 「ふぅー、やっぱり窓から移動するのは無理かー。むぅぅぅぅぅー、難しいなー」

 「・・・・・・」

 「あのー、静さん! もう二階の部屋は、ここで全部ですよね?」

 「・・・・・・」

 「ん? 静さん?」

 ドアの横に立つ菜々の方へ、振り返りながら南が質問してきたが、今は、とても豪田林静として、接する事は出来なかった。

 「あ、あのさ・・・・・・み、南」

 小松菜々として、震える唇を何とか動かして、たった一つの言葉を伝えたい。

 ふざけるな! と罵倒されたとしても。

 「そ、その・・・・・・この前は、騙して本当に、ごめ————」

 「こら、ダメですよ。菜々先輩」

 「え」

 いきなり目の前に近付いてきた南が、人差し指を菜々の鼻先へ向けてきた。

 ほっぺを膨らませ、下から見上げてる彼女の行動に動揺して一歩後退り、背中が壁にぶつかる。

 「ふぅー」

 少しの間、その体勢で固まっていたが先に南が、ほっぺに溜まった空気を抜きながら、両手を背中に回し、一歩引いた。

 「まだお芝居中なんですから、最後まで役に集中しなくちゃ、ダメですよー! なーんて!」

 ニコッと、微笑みながら頷く南を見て、菜々はさらに動揺してしまう。

 あんな事をされても、何故? という疑問が頭を行き来するせいで、全く次の言葉が口から出なかった。

 そんな動揺を隠せない菜々とは逆に、南はそっと東輝が出て行った扉へ向かって静かに歩き出した。

 「久々に菜々さんのお芝居を見て、素直に感動したんですよ! 昔より格段に台詞回しも、体の動きも上手になってて」

 「・・・・・・」

 扉のノブに手を掛けながら、横に立つ菜々へ目線だけ動かしながら、再び彼女は笑った。

 「全部、菜々さんの努力の成果ですね! 本当にお芝居が大好きなんだって、あの映画を見て伝わりましたよ! 以上!」

 ————ガチャ!

 扉を開けて南が、先へ外へ出たのを確認した菜々は、その場にしゃがみ込み両手で顔を抑えた。

 心の奥に突き刺さった、ナニカ。

 とてもとても鋭く、それは痛かったが・・・・・・最後に、暖かい物を感じた。

 扉を閉める直前のノブにかけられた、その小さな手が震えている瞬間を目撃した時、彼女の大きな強さを初めて知った気がした。

 「はぁ、はぁ、はぁ」

 胸の奥でジンジン響く、それを感じながら、菜々は一人、部屋の中で、しばらく蹲っていた。




 玄関前のトイレで用を済ませた東輝が「さて、あとは何を調べるか」と考えていると、リビングから沖田夫妻の息子、新一が出てきた。

 軽く会釈だけして、二階にいる南の所へ戻ろうとも思ったが、先ほど関係者に話を聞いていた時に、少し気になる事があったので、目の前の少年に聞く事にする。

 「————悪い、少しいいか?」

 「は、はい。何でしょうか?」

 昔から目つきが悪いせいなのか、子供から好かれない事は分かっていたのだが、やはり新一も何だか緊張した様子で返事を返してきたので、ちょっと凹んだ。

 「勘違いならいいんだが、さっき全員から話を聞かせてもらっていた時に、君、何か話したかったんじゃないのか?」

 出来るだけ優しい声色で質問したつもりだったが、威圧感を与えてしまっていた。しかし新一は、プルプルと震えながらも頑張って、口を開いていた。

 「え、えっと、実はその、力さんがお部屋に戻って、僕がトイレに行った時なんですけど」

 「あぁ」

 声色だけでなく、笑顔も頑張ってみるかと口角を上げようとするが、なんか顔がツった。

 「実は、さっき言いそびれてしまったんですけど、僕ここで力さんを見ました」

 「えっ」

 その発言に東輝の表情は、一転して鋭くなる。

 これは重要な情報を手に入れたかも、と自分を褒めたくなったが、この子が言ってる事が本当か判別しないとならないと思い直す。

 「力さんは、トイレに入っていたのか?」

 「いいえ。僕がトイレから出たら、お部屋に戻られる背中が見えました」

 「部屋に戻るか。それは間違いなく、本人だった?」

 「す、すみません。後ろ姿だったので、多分です」

 自身がなさそうな新一を見つめながら、東輝はゆっくりと、今手に入った情報を頭の中で整理してみた。

 ————それが本人だとしたら、風呂にでも入っていた? いやいや、客人がまだリビングで盛り上がっているのに、主役がいきなり、そんな場所に行くわけないか・・・・・・だとしたら、二階? 他には・・・・・・。

 「って、あれ?」

 集中し過ぎていたせいで、目の前に立っていたはずの新一が、いなくなっていた事に今頃気付いた。

 「せんぱ〜い。二階は、とりあえず調べ終えたので降りてきました〜」

 ピョンピョンと元気良く南が階段から降りてきたので、東輝は先ほどの情報を話しメモをしてもらう事にした。




 その後、静をリビングに帰し、再び現場に戻ってきた読書部二人は、今までの情報を頼りに事件の推理を始めた。

 「まずは、被害者が殺されたと思われる時間帯の、容疑者達の動きをまとめましたぁ」

 


 20時30分   力がリビングより退出。

 20時35分   沖田八美が喫煙のため勝手口へ。

          沖田新一がトイレへ。(この時、力が部屋へ戻る姿を目撃)

 20時50分   沖田一のスマホに力から着信、退出。

 20時55分   一が、リビングに戻って来ると同時に大きな物音。

 21時00分   死体発見。



 南が自分なりに書いた時系列を東輝は、静かに眺めながら顎を手でなぞっていた。

 その表情は、いつにも増して真剣で、南は思わず口を半開きしたまま見入ってしまう。

 「お・・・・・・おい・・・・・・おい、南。聞いてるか?」

 「ぐにゃっ! き、き、聞いてま、ま、ますよぉ」

 「・・・・・・」

 「ほ、ほ、本当ですよ。こんなに可愛い私が、嘘をつくとでも?」

 「ヨダレを拭け」

 「いっけね、ジュルルルルル」

 慌てて拭った南を見て、目の前の先輩は溜息をついている。

 「まぁいい。とにかく、まずはおれが気になった点を、いくつか話していくから、意見をもらえるか?」

 「了解です!」

 そう言うと彼は、部屋の中央に立ち、ぐるっと室内を見回した。

 「第一に、犯人は、この半密室状態から、どうやって抜け出したのか?」

 「部屋のドアには鍵が掛かっていたとすると、犯人は窓から侵入するしかないですけど」

 「あの大雨で風も強い中、力が窓を開けて換気なんてするはずはない」

 映画の中では、台風か、と思うほどの雨風だったのは覚えているので、それはあり得ないと南も考えてはいた。

 「んん〜、でも外には玄関から、この部屋の窓の辺りまで一方通行の足跡があったということは、外から誰か来たのは絶対ですよね? だったら外から窓をノックされて知ってる顔なので、そのまま招き入れた!」

 「そんなの不自然すぎるだろ」

 「まぁそうですねぇ、やっぱり普通にドアから入るのが正しそ————あっ!」

 「ん?」

 「分かりましたよ! 簡単ですよぉ!」 

 自信満々に鼻息を荒くした南が、人差し指を立てている様子を見て、東輝の片眉が上がった。

 「犯人は、普通にドアから侵入してから犯行を行います。そして扉に鍵をしたのちに、窓から後ろ歩きで玄関に戻ったんですよ! これで足跡の謎も解決! どうですか? 今回こそは当たりでしょ!」

 中々に冴えた推理だと、東輝に詰め寄った南だったが、目の前の彼はスルっと、それをかわして窓の方へ寄っていく。

 「あの大雨の中、傘を差していたとしても、ズボンの裾とかビショビショにならないか?」

 「!」

 天候のことなどすっかり頭から抜けていた南は、返す言葉が見つからなかった。

 「映像の中だから絶対とは言えないが、犯行時刻の前後で、そんな感じの登場人物はいなかったろ?」

 「げ、玄関まで戻った後、そのままリビングに戻らず着替えに行ったんじゃ」

 「力を殺して、窓から玄関まで後ろ向きで歩いて、そして着替えに行くのは、時間的に無理がないか?」

 確かに先ほど見せた時系列を見ても、だいたい全員5分ほどでリビングに戻って来ている。それでは間に合わないのは流石の南でも分かった。

 「じゃあ、この案は」

 「却下だな」

 結構いい線をいってると思っていただけにショックが大きく、思わず八つ当たりで今尚、死体役に徹している剛田に踵落としでも食らわせてやろうかと、南が本気で思っていると、いつの間にか東輝が、腰を屈めて扉の鍵の部分を凝視していた。

 「どうしました?」

 「いや、この扉を外から閉められる事が出来れば、犯行方法も一気に分かりそうなんだが・・・・・・」

 力の部屋の扉は、内側からしか鍵が掛からないタイプだ。

 何か糸のような物を使って鍵を掛けたのではないか? と二人で調べてみたが、特に痕跡は残っていなかった。ただ映像でも確認したが、この扉は少し壊れていて鍵を閉めた状態でも力を込めて押せば、数センチ開くという点がある。

 しかし、そこから先に考えが全く進めなくなった二人は、同時に首を振った。

 「ドアのことは、とりあえず後回しだ」

 「オッケーです。次に気になる点は?」

 「あれだ」

 東輝が指差した方向には、ベッドとそれに倒れこむ本棚があった。

 「本棚が倒された理由だ。お前も分かると思うけど、こんなに重たい物が勝手に倒れたりしない」

 「分かりますよぉ。明らかに故意に倒されていますよねー」

 頷いた東輝が、急に倒れていた本棚を起こし始めたので、南も慌てて手伝い、二人で一気に元の位置に戻す。

 「さて、これを普通に押せば倒れるのは分かるけど」

 「20時55分に全員が揃っている所で、おそらく本棚が倒れていますね。となると」

 「何かトリックを使って、時限装置的に倒したって事だな」

 すると東輝は、足元の床に置かれていた、小さな猫の置物を、斜めにした本棚の下に噛ませ始めた。

 「ダメか。これだと角度がつき過ぎて、すぐに倒れちまう」

 「さらに前方に散らばっている本を、挟むのはどうですか!」

 南の意見を実践してみたが、今度はバランスが取れてしまい中々倒れなくなってしまった。その光景を見て頭をガリガリと掻いて思案している様子の東輝は、ブツブツと何か口にしているが、よく聞こえなかった。

 「倒した方法より、理由! 理由ですよ!」

 「んっ、あぁそうだな。まずは死体発見を促すため。それから、この本棚を凶器として利用した。自然に倒れた。って所か」

 東輝の三つの案の内、自然に倒れたのはないとして、発見を促すという理由が、一番今回ではありえそうだった。

 「本棚を凶器にしたっていうのは?」

 「ナイフを本棚にくっつけて、背中目掛けて倒せば刺さるだろ」

 「おぉ! 出来そうじゃないですか!」

 「ま、発案しておいて何だが、この案はありえないけどな」

 「何でですか?」

 直ぐに否定してしまった東輝は、初めに剛田が渡してきた事件の補足説明を書いた紙をポケットから取り出した。

 「被害者が身動きが取れない状態なら可能だが、ここに記載もあるように、薬類は使用されていないし、ロープなどで縛った痕跡も無いんだ」

 「元気百倍の状態じゃ、簡単に避けられてしまうって事ですか」

 被害者の寝込みを襲ったのなら、わざわざ本棚を利用して刺すのは不自然過ぎるし。

 「・・・・・・」

 「ふぇ〜」

 一向に謎が解ける気配すらないまま、時間だけが刻々と過ぎている。

 しばらく外の木々が風で揺れる音だけが、室内に響いていたので、今度は南から話を始める。

 「逃走経路とか殺害方法とか、色々分からない事がありますけど、とりあえず置いておいて! 目ぼしい犯人を出しませんか?」

 「謎を置いてばっかりだな・・・・・・まぁいいけど。それで、目ぼしい犯人?」

 「そうです! もしかしたら、そっちから攻めた方が、事件を解きやすいかもしれませんよ!」

 その南の言葉に「分かった」と返事をした東輝は、本棚付近に溜まった水を避けつつ、部屋の中央に移動してきた。

 「死亡推定時刻と、さっき私が見せた時系列を照らし合わせると、一番怪しいのは」

 「沖田一だろ?」

 「さっすが、せんぱ〜い! 愛してますよぉ!」

 「あぁ」

 ツッコミを返す余裕がないほど、追い込まれている様子だったので、しばらくはふざけるのをやめようと南は思った。

 「だが動機が分かんねぇな。むしろ力の方が、一に恨みを持ちそうだったんだけどな」

 「でっすねぇ、あんな鬱陶しくて、礼儀も知らないおバカさ————あっ!」

 「どうした?」

 頭に電流が走るというのは、まさにこんな感じなのだろう。突然、南の頭にある考えが浮かんだ。

 「ふふふふ、分かりましたよ。先輩」

 「?」

 ————ついに、私も名探偵の仲間入りという事ね。ふっ、美少女名探偵・・・・・・なんて良い響き。

 必死に笑いを抑え込み、咳払いをした南は、大きく息を吸い込んだ。

 「本当に殺される予定だったのは、一だったんですよ! 力から電話で呼び出されて、この部屋に一が来た時に、力がナイフで襲いかかった! しかし寸前で避けて、ナイフを奪った一は、逆に力の背中を刺した!」

 興奮のあまり、一気にまくし立てた南の勢いに押されて、東輝は数歩後ろへ下がっていた。

 「本棚を倒したのも、争った時に荒れた室内を誤魔化すため。争った物音などは、リビングにいた人達には、雨や風の音が酷くて届かない・・・・・・どうですか? この案はありですよね?」

 「ん? あぁ」

 「よっしゃあああああぁあぁぁぁぁあ」

 「・・・・・・」

 南の雄叫びは、ペンション中に響き渡り、リビングで紅茶を飲んでいた関係者達は、驚きのあまり噎せ返っていたらしい。

 そんなゴリラの雄叫びが如く、喜ぶ後輩の前で、東輝は腕を組んで黙って目を瞑っていた。




 色々話し合っている間に、外は夕焼けのオレンジ色から、どんどん黒い闇に染まりつつあった。

 そんな外の様子に気付き、南はカバンからスマホを取り出す。

 「そろそろ捜査終了の時間ですね」

 「・・・・・・」

 しかし、まだ事件の謎は解けてはいなかった。

 一応時間的にも動機的にも、沖田一犯人説が濃厚にはなっているが、証拠と部屋を密室にする方法などが、まるで分からずにいる・・・・・・つまり、ただの当てずっぽうだ。

 他の登場人物についても考えてはいるが、事件発生直後、女性陣は現場には近付いていないし、子供の新一君にも犯行は難しいのでは? となっていた。

 「五郎さんも、現場には近づいていないようだったので、シロですよね?」

 「だけど、もし扉に鍵を外から掛けるトリックが、力強く押すと少しだけ開く、部分にあるのなら、一と五郎にしか無理そうなんだよな」

 先ほどから苛立ち気味に東輝は、部屋中をグルグルと歩き回っていたが、ふと部屋から入って右手側に置かれていた机の前で立ち止まり、その引き出しを開け始めた。

 そういえば、まだ調べていなかったなと思っていると、彼が中から一枚の紙を取り出したので、南も隣に立って覗き込んでみる。

 「およ、これは・・・・・・旦那さんの生命保険ですね」

 「あぁ。しかも半年前に、かなりの額で加入しているな。受取人は・・・・・・豪田林静」

 重要な書類の発見に興奮した南は、慌ててスマホで写真を撮り、さらにメモを残そうと、ペンを取り出したが、誤って床に落としてしまった。

 「あわわわわ、待ってぇ! 私を捨てないでぇ! おねがぁ〜い」

 などと、彼氏のペン君を追いかけ回す重い女を演じながら、ベッドの方まで行くと、そこで南は悲鳴を上げてしまう。

 「いやぁ! きもっ!」

 「どうした」

 「あ、あ、あ、あ、あああああああ、蟻です!」

 「蟻?」

 南の横に駆け寄ってきた東輝にも分かるように、目の前の床に群がる、黒い小さな生物達を指差した。ちょうど元々本棚があった位置で、今は水溜りと置物だけがあるスペースに、沢山の蟻たちが元気に動き回っている。

 「窓から、入って来てるな」

 「うぃぃぃぃぃぃぃ、き、きもいぃぃぃぃぃ」

 急いで自分のペンを拾い上げた南は、一気に入り口付近まで下がったが、東輝の方はしゃがみ込んで、まだその姿を眺めていた。

 「と、東輝せんぱぁ〜い、とりあえず出ましょうよぉ」

 「・・・・・・」

 その震えた声に反応してか、無言で立ち上がった東輝が、こちらに歩いて来るのとほぼ同時に、力の部屋の扉が開いて豪田林静が入って来た。

 「18時になったので、お声掛けに参りました」

 「うわっ、タイムリミットだぁ・・・・・・先輩、大丈夫ですかね?」

 「時間なんだから仕方ねぇだろ。帰るぞ」

 「ううう、はい」

 正直に言うと、まだ何かのピースが欠けている気がしてならないので、南は帰りたくないのだが、こればっかりはどうしようもないと諦め、先導する静の後を大人しくついて行く。

 「明日には推理を発表しなきゃいけないのに、どうしよぉ————って、先輩?」

 事件の真相にまるで辿り着けていない事に不安を感じて、愛する先輩に話しかけようと、隣を向くとそこに彼はいなく。何故か部屋から出て、すぐの場所でしゃがみ込んでいた。

 何事かと思って自分も近付くと、廊下の隅の方に真新しい乾いた土が落ちているのが見えた。

 「ありゃりゃ、掃除し忘れかな?」

 「・・・・・・土か」

 南に、この土の写真も撮影するようにお願いした東輝は、ブツブツと何かを口にしながら、人差し指を唇に当てていた。




 西山東輝は、ひどく苛立っていた・・・・・・自分に。

 もしかしたら、という〝ある一つの仮説〟が頭には出来ているのだが、まだ決定打に欠けており、謎も残っている。

 今回の勝負は、自分が勝手に受けて南を賞品にしているようなものだ、絶対に負けることは許されないのに。

 「んしょ、んしょ」

 玄関で靴を履きながら、ふと隣に目を向けると、南が可愛らしいリボン付きのブーツを一所懸命履いている姿があった。

 「ん、はい? どうしました?」

 「・・・・・・いや、何でも」

 「? そうですか」

 そんな彼女から視線を動かすと、玄関内には、他にも沢山の靴が並べられていて、ほとんどは至る所に乾いた泥が付着していたが、二足ほど汚れていない男女の靴があったので、ふと気になり「誰のですか?」と背後に立つ静に尋ねると、自分と力のものだと丁寧に教えてくれる。

 事件に関係あるか分からないのに失礼だが、念のため靴箱の中のチェックもさせてもらうが、そこにあるのは、豪田林夫妻の綺麗な靴だけだった。

 何だか、情けない悪あがきをしている気分になり、小さく頭を下げつつ東輝は、玄関の扉を強く開け放った。

 外に出ると、昼間のような熱気は嘘のように消え去っており、涼しい風が体をすり抜け、火照った脳みそを冷やしてくれているようだった。

 「本日はありがとうございました。夫を殺した犯人を必ず見つけて下さいね。よろしくお願いいたします」

 「はい」

 お前達は知っているんだろ。という言葉を言ってやりたがったが、目の前に立つ豪田林静役の小松菜々に言っても意味がないと、軽く会釈をして、南と帰ろうと百八十度体を捻る。

 「あ、あの!」

 「「?」」

 急に後ろから静が、声を掛けてきたので二人で振り向くと、一瞬逡巡した表情をみせたあと「少々、お待ち下さい」と言って、彼女は駆け足で家の中に入っていってしまう。

 「・・・・・・なんですかね?」

 「さぁな」

 しばらく家の前で待っていると、玄関から静が再び出てきて、いきなり南に小さな紙袋を渡してきた。

 「へっ? これは?」

 「お土産です。よろしければお持ち帰り下さい」

 「は? え、えっとー」

 「少し苦めですが、とても美味しいですので。砂糖でも入れて下さい」

 「?」

 「では、失礼します」

 ————ガチャン。

 困惑している読書部を置いて、静はペンションに戻ってしまった。

 何が何だかよく分からない同士で目が合い、そして手元の紙袋と玄関を交互に見てしまう。

 「お土産って、遊びに来たわけじゃないのに」

 「何もらったんだ?」

 渡された紙袋に南は手を突っ込み、中から茶色の缶を取り出した。

 「ん〜と、なになにぃ・・・・・・これはぁ、紅茶ですね」

 「紅茶?」




 ————キーンコーンカーンコーン。

 ペンションを捜査した翌日、茹だるような暑さが続く水曜日のお昼休みに、読書部の二人は、薬品の匂いが漂う化学準備室に集まっていた。

 あれから家に帰って、お互いに事件について必死に考えを巡らせていたのだが、未だに解けていない謎がいくつもあり、これでは埒があかないと、再び意見交換するために来たのだが、すぐに行き詰まってしまう。

 今は二人とも口を開くのすらやめ、東輝は室内中央に置かれた机に頬杖をつきながら窓の外を眺め、その向かいに腰を下ろしている南は、昼食後のデザートかよく分からない、バナナを無心で頬張っていた。

 沈黙が続く室内には、暑さを凌ぐため読書部顧問の本田ミヨ先生が、どこからかパクっ————頂いてきた、古い扇風機の風を送る音だけが聞こえていた。

 「もごもぐ・・・・・・ごくっ。先輩どうですか?」

 「あと一押しって所だな。まだピースが足りてねぇ」

 「まずいですねぇ。放課後まで時間がないのにぃ」

 そう言うと半分程になったバナナを一気に飲み込んだ南は、机にグデっと突っ伏した。

 ————あと一つ、あと一つだけでいい。

 昨夜から頭をフル回転させてはいるが、ぽっかり空いた穴が中々埋まらず、ほとんど八方塞がりになっていた。

 「くっそ」

 「・・・・・・」

 聞こえるか聞こえないかの、小さな呟きを東輝が口にすると、南はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に設置されてる電子ポットを弄り始めた。

 ちなみに、この電子ポットも本田先生が、どこからかパクっ————頂いてきた物らしい。

 「お茶でも、どうですか?」

 「え?」

 「外は暑いですけど、温かい物でも飲んで落ち着きましょう! 大丈夫ですよ! 先輩なら解けますよ。私も微力ながらお手伝いしますし!」  

 自分が一番追い込まれているはずなのに、いつも通りの満面の笑みを向ける北野南。この後輩の笑顔を奪わせるなんて事は、読書部の先輩として・・・・・・それに、男としても絶対に許されるわけがなかった。

 ————絶対に、謎を解く。

 気合を入れ直して、南のメモ帳を読み返す東輝のすぐ側に、茶色の液体が注がれたマグカップが置かれた。

 「・・・・・・紅茶か」

 「はい、昨日のお土産ですよ。菜々さんがくれた」

 「そっか・・・・・・ごくごく」

 鼻に抜ける茶葉の香りと、口いっぱいに広がる仄かな甘みと苦味が、確かに東輝の心を癒してくれ、気分が少しだけ落ち着いた。

 そんな東輝の表情に満足したように頷くと、向かいの席に座った南も、マグカップに口をつけたが、何故か急に顔を歪ませている。

 「んにゃ〜、苦いかなぁ? 砂糖かミルクでも入れようっと」

 「苦いか? そんなに」

 「苦いですよぉー。先輩は大人だなぁ」

 そう言って、部屋の隅にある棚の中から、スティックシュガーとミルクを取り出し始めた南の背中をボーッと眺めていた時。

 ————あれ、そういえば。前に何かの推理小説を読んだ時に。

 「待てよ、まさか・・・・・・」

 「ん? 東輝先輩何か?」

 もしかしたら、自分が考えていた〝ある一つの仮説〟それは決して、見当外れでは無かったのかもしれないと、顎に手を当てながら思った。

 そして、それが正解なのだとしたら、事件の真相は。

 ————ガタッ。

 「!」

 「うわぁ! な、な、何ですか先輩! 突然立ち上がって!」

 南が椅子に座るのと、ほぼ同時に椅子を引き、立ち上がった東輝は、自分でも分かるくらい興奮していた。

 「ナイスだ。南」

 「はい?」

 「結論が出たぞ」

 「へ」

 たった今、揃った最後のピースを、頭の中に描いていた推理に慎重に繋ぎ合わせて、間違いがないか再び見直す。

 冷静に、丁寧に、焦らないようにと、自分自身に言い聞かせながら、一つずつを見直した。

 そして————。

 「・・・・・・俺は、少し外に出てくる」

 「えっ、ど、どこにですか?」

 こうなると、あのペンションで、一つだけ確認しなければならない事があるが、放課後まであまり時間がない。午後の授業はズル休みになるが、背に腹は変えられない。

 ————キーンコーンカーンコーン。

 昼休み終了のチャイムが校内に鳴り響く中、東輝は廊下を駆け出した。




 演劇部の、全国映像演技コンクール出展作品『ハッピーバースデイの悲劇』の後編上映会は、放課後の体育館で再び行われた。

 前回と違って今回、生徒達は自由参加だったのにもかかわらず、全校生徒の内の約七割程が、今や遅しとフロア中に置かれたパイプ椅子に座っていて騒ついている。

 「凄い人の数だね、大丈夫? 南ちゃん」

 「任しときなって、大丈夫大丈夫!」

 などと同級生の宇佐美弓月を相手に、ドヤ顔をしているが実際問題、南には今回の映画の犯人は、まるで分かってはいなかった。

 唯一の希望である西山東輝も、昼休みの終わりに飛び出して以来、姿が見えなくなっていて、先ほどから電話を掛けまくってはいるのだが、一向に繋がらない。

 間も無く上映会が始まるのだが、その前に読書部の推理発表の時間がある、その結果によっては自分は・・・・・・。

 「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや!」 

 「み、南ちゃん? どうしたの!」

 弱気になる自分を必死に振り払うように、首を左右に激しく振る南を見て、隣に立つ宇佐美は心配そうにしていた。

 「————北野さん。そろそろ時間なので、ステージ袖に待機をして下さい」

 「!」

 演劇部の一年生らしい男の子が、そんな南に声を掛けてきたので、両手で頬を力一杯叩いて気合いを入れる。

 その衝撃音で、何人かの生徒がこちらを不思議そうに伺っているのが見えた。

 「ぶばっ! いっでぐるびょ!」

 「南ちゃん、強く叩き過ぎ! 顔が真っ赤に腫れてるよ!」

 「ばいぼーぶ! ばいじょーぶ!」

 叩き過ぎた頬を撫でながら、宇佐美にウインクをして演劇部の男子に続いて歩き出した。

 すでに薄暗くなっている体育館内の端をゆっくりと進み、ステージ袖に繋がる扉のノブを、前を歩く演劇部男子が握り回した。

 ・・・・・・もしも東輝が現れなかったら、自分が謎解きをする事になるな。と一瞬考えた南だったが、きっと大丈夫だとも思っていた。根拠などないが、自分が愛する読書部の先輩、西山東輝は今までも、これからもピンチになったら助けてくれる、ヒーローみたいな存在だ。

 だから、きっと・・・・・・。

 ステージ袖に到着すると、体育館内は、完全な暗闇に突如包まれた。

 「————今日は、よく集まってくれたな」

 いつの間にかステージ中央に現れた剛田豪にスポットライトが当たると、会場全体に歓声がこだました。

 「皆も知っての通り、今回は我々演劇部が制作した映画『ハッピーバースデイの悲劇』後編の上映前に、我が校の読書部の二人、西山東輝と北野南により、この映画の被害者である豪田林力が、誰に、どのように殺されたのか————彼らが導き出した推理を発表してもらう事になっている!」

 剛田の言葉に会場内の熱量が、再び上がるのを肌で感じた南の手の平に、薄っすらと汗が滲む。

 「やっばいなぁー 緊張してきたわー」

 中学生の時は、この倍の人数の前で演劇をしてきた南だったが、さすがに今回は勝手が違った。自分の今後の部活動の運命が決まる。そう思うと、嫌でも心臓の鼓動が大きくなった。

 「北野さん。そろそろ呼ばれますから準備して下さい」

 「うっ、東輝せんぱ〜い。もう出番ですよぉ」

 南の必死な祈りを他所に、剛田の低く響く声が、こちらに向けて発せられた。

 「では、読書部の入場だ! 皆、拍手を!」

 生徒達の拍手とともに、体育館内に設置されたスピーカーからは、壮大なBGMが流れている。なんとも大げさな演出に覚悟を決めて、堂々と袖から歩き出すと、そこかしこで歓声が上がった。

 「北野さーん! 可愛い。頑張ってー!」

 「北野! ファイト!」

 「南ちゃん! 結婚してくれ!」

 「ふざけんなっ、テメェ! 俺と結婚して! 南ちゃん!」

 「俺だよ! 俺!」

 「いや、俺だって!」

 我ながら凄い人気だとビックリしながらも、投げキッスなどで声援に応え、南は剛田の前に立った。

 「うむ。逃げずに、よく来たな」

 「ゲームのラスボスですか、あなたは!」

 「ところで、西山はどうした?」

 「うっ、それは・・・・・・」

 苦い表情で俯く南の顔を見て、剛田はニヤリと笑い、筋肉隆々の太い両腕を組んだ。

 「なんだ、結構熱い男だと気に入っていたのに、逃げ出したか」

 「はぁ? 東輝先輩は逃げません! ふざけた事言わないで下さい、このゴリラ!」

 「だったらなぜ、この場にいないんだ? 謎が解けていないからではないのか?」

 「くぅ」

 今回の事件には、東輝もかなり苦戦しているのは、南も分かってはいる。

 でも、あの昼休みが終わる直前に、この耳で確かに聞いた。

 「・・・・・・結論が出たんですよ」

 「んっ?」

 「来ますよ。絶対に」

 大勢の生徒の前で言った、この一言は、自分に言い聞かせたものでもある。

 ————きっと来る、あの人は。

 誰も信じてくれなくても、私は信じている。そう思いながら、目の前に立つ大男を睨みつけてやった。

 「まぁいいがな。だが皆もいるんだ『1時間待て』などは、さすがに困るぞ、あっはははは」

 大声で笑う剛田の声が、体育館中にビリビリと響き、生徒達もそれに吊られて笑い出した。そんな中、南はただ目の前の大男を睨み続ける事しか出来なかった。

 「————1時間後には、余裕で事件が解決してるぞ。剛田」

 その一言と共に、ステージ袖から歩いてきた人物は、学校指定の半袖の白シャツに紺のネクタイをして、肩にはカバン、そして黒縁メガネを掛けていた。

 「!」

 「ん!」

 その姿を見つけた南の目頭は、つい熱くなってしまい、涙がこぼれ落ちそうになってしまう。

 「東輝先輩!」

 「・・・・・・西山」

 ゆっくりとステージ中央に歩いてきた西山東輝は、南の肩をそっと叩き小さく耳元で「悪い。遅れた」と囁いた。

 その安心する彼の声で、体の力が抜けて、その場にへたり込みそうになるのを南は、何とか堪えた。

 「待っていたぞ。西山」

 「悪かったな。遅れて」

 「いや、こうゆう展開にも、俺は燃えるぞ西山」

 「テメェの趣味に、合わせたつもりはねぇけどな」

 二人の男の睨み合いに、会場の生徒達も盛り上がっている。

 そんな中、ステージ全体が明るくなり、背後のスクリーンに『ハッピーバースデイの悲劇』という文字が映し出された。

 「では、探偵の推理発表という事で、今回の映画のキャストにも出てきてもらおう」

 剛田が手を叩くと、ぞろぞろと役の衣装に身を包んだ演劇部員達が袖から歩いてきた。その中にはもちろん副部長の海老原麻世や小松菜々の姿もある。

 全員が揃った所で、ステージ中央に仁王立ちした剛田は、両手を大きく広げた。

 「さぁ、始めようか読書部! お前達の導き出した真実を聞かせてくれ!」




 「まずは、これを見てくれ」

 東輝がステージ背後のスクリーンを指差したので、南はそれに従って目を向けると、そこには自分が書いた事件発生時の容疑者達の行動をまとめた時系列メモと、こちらもお手製の現場の見取り図が表示されていた。

 どうやら、ここに来る前に体育館入口上部にある、映写室に行きお願いしていたようだ。

 「被害者、豪田林力は、玄関から入って突き当たりにある自室にて、背中を刺されて死んでいた。現場唯一の扉には鍵が掛かっていたが、奥の窓は大雨だったのにも関わらず全開、というのが事件当日の現場の状況だ」

 腕を組んで黙って聞いている剛田に、一度目を向けると、話を続けた。

 「それから、開いた窓の外の地面には、玄関から歩いてきた足跡が残っていた」

 「つまりぃ〜 犯人の足跡ってことぉ?」

 急に役柄のままで話しかけてきた海老原麻世こと、沖田八美がイヤらしく体をくねらせている。

 そんな彼女を一瞥すると、東輝は質問の返答をする。

 「いや、そうじゃない。なぜならこの足跡は、玄関から一方通行で、戻る足跡がなかったからだ」

 「ちなみに、同じ足跡を使って後ろ向きに戻った————というのも、ありえないですよぉ!」

 「なぜですか?」

 南の補足説明に、五郎が質問をしてきた。

 「第一に、その足跡は靴の裏の模様が分かるほどはっきりしたものだった事。第二に、あの大雨の中、もし往復なんてしていたら、例え傘を差していても足元などがビショ濡れになってしまうでしょう? でも、それぞれリビングから出て戻ってきた皆さんには、そんな様子は一切無かった・・・・・・ですよね?」

 南のその問い掛けに、リビングにいた面々が顔を見合わせて頷いている。

 ちなみに南が出して却下された、着替えるなどの案も話すと、驚いた表情をそれぞれが見せてくれた。

 演技だと分かってはいるが、なんだか気持ちがいいな・・・・・・。などと思っていると、再び東輝が口を開く。

 「こうなると、犯人の侵入経路が不明になる。仮に窓から入っても内側からしか鍵を掛けられない扉に、どうやって外から鍵を閉めたのかが分からない」

 横に首を振る東輝に対して、全身白スーツ姿で七三分けの男が手を上げる。

 「糸とか使ったんじゃないっすか? ほらっ、映画とかドラマでよく見るやつ!」

 「俺もそれは疑った。あの部屋の扉は、鍵を締めても力を込めれば微妙に開いたしな。ただ、それが本当だったら、一番疑われるのは、あんただけどな」

 「ファッ? お、俺っすかぁ?」

 焦っている沖田一だが、東輝の方はそんな彼のリアクションなんか、あまり気にしていないようで涼しい顔をしている。

 「五郎さんが嘘をついて、実はそんなに力を入れなくても扉が開いた。という事なら女性陣にも可能だが、確認されたらすぐにバレるし、それは無いだろう。そうなると被害者の死亡推定時刻に一番部屋に近付いたのは、一さんだ」

 「お、俺じゃないっすよ! マジですって!」

 動揺して冷や汗までかき始めた一に、東輝は首を再び横に振った。

 「安心しろ。これは単純な理由で、あんたじゃないと証明出来る。そして、この単純な理由こそが、今回の犯人の正体も示してくれる」

 その言葉に、会場内にいた生徒達がざわつき始める。

 それはそうだ。南だって、この理由は知らないので、同じように騒ぎたいほどなのだ。

 「は、犯人は誰なんですか? 夫を殺したのは・・・・・・」

 豪田林静が詰め寄るように足を踏み出してきたので、東輝はそっと右手を上げて制止させる。

 「待ってくれ。犯人の名前を言う前に、俺と南が見つけた〝二つの不自然な点〟を話す」

 「不自然な、点?」

 すると背後のスクリーンが突然切り替わり、現場の色々な写真が映し出された。

 「一つ目は、大雨の中、開け放たれていた窓。二つ目は、被害者に倒れ込んでいた本棚」

 右手の指を二本上げた東輝を全員黙って見ている中、八美がダルそうに長い髪を、クルクルと指に巻きつけながら質問をしてくる。

 「窓が開いていたのはさぁ、力さんが開けたからじゃないのぉ? ほらぁ、空気が悪かったとかさ」

 「お母さん、それはないよ。あの日は雨も風も酷かったのは知っているでしょう? 換気なんかしたら、部屋がビショ濡れになるよ」

 「おぉ、新一! あったまいいな! じゃあ外から犯人に「開けて」ってお願いされたんじゃないか?」

 「例えば僕らの誰かが大雨の中、わざわざ窓から来たら、力さんも流石に怪しむと思うし、探偵さんもさっき言ってたけど、外から入っていたら服が濡れてしまうのは避けられないと思う」

 こういう役の設定と分かっていても、息子よりアホすぎる夫婦に若干呆れてしまった南だった。

 おバカな夫婦の会話もノーリアクションで、東輝は説明を続ける。

 「実は、この二つの不自然な点も、今回の犯人を見つけ出す鍵になってくれる」

 その一言でステージ上の人物だけでなく、フロアにいた生徒達も息を飲むような雰囲気に包まれたような気がした。

 「今まで話した現場の状況全てが、犯人の作り出したものだとすると、力が20時30分にリビングを出てから、死体発見の21時00分の間に犯行は行われたはず————」

 いつの間にかスクリーンの隅っこに、容疑者達の行動の時系列が表示されていることに気が付いた。

 「20時35分頃、沖田八美さんは勝手口でタバコを吸っていた。確認したところ勝手口から、力の部屋まで足跡を残さず移動するのは不可能だと思われる」

 「壁なんかをよじ登って移動なんかもぉ、時間的に無理がありますよね」

 南の言葉に頷いた東輝は、静に目を向ける。

 「豪田林静さんは、リビングから見えずらいキッチンの奥にいた、ですね?」

 「は、はい」

 「あっ、確かリビングの奥ってぇ〜 廊下に通じる扉が無かったぁ? そっから旦那を殺しに————」

 「扉は犯行当日の朝に届いた荷物のせいで、塞がっていたので開きませんよぉ・・・・・・ばか」

 「あんたぁ! 今ちっさく「ばか」って言わなかったぁ!」

 「?」

 「可愛く、とぼけた振りをするなぁぁぁぁぁああ」

 南と海老原のこのやり取りに、会場内から笑いが上がって脱線しかけた雰囲気を、剛田が引き戻した。

 「という事は、静にも犯行は不可能だな」

 「えぇ。これで残りの容疑者は、沖田一、沖田新一、豪田林五郎の三人になりましたが、五郎さんは、20時30分以降はリビングから一歩も出ていない事が分かっている」

 「はぁ? じゃあ、やっぱり俺か新一っすか? ちょっ、ちょっと! 勘弁して下さいよぉ」

 「・・・・・・」

 大人しくしている新一君とは対照的に一は、その場でアタフタと体を動かし慌てている。

 その対照的な二人を交互にゆっくりと、東輝は観察していた。

 「確かに、死んだくらいの時間に俺、部屋に行ってますけど、マジで呼び出されただけなんで! 違うんっす!」

 「先ほども言ったが、あんたは犯人じゃない」

 東輝の言葉に全員が動揺している、それは謎が解けていない南も同じだ。

 なぜなら、最後に残っている容疑者は・・・・・・。

 「う、嘘でしょ? し、新一」

 「た、た、探偵さん! ちょっと待って下さいよ! 新一君は、まだ子供ですよ!」

 「そ、そうっすよ! 俺じゃないけど、さすがに新一が犯人なわけ」

 周りの人達が騒ぐ中、新一君は真っ直ぐ東輝を見つめている。

 その時、東輝の右手がゆっくりと動き出し、新一君の方を指差した。

 「犯人は、お前だろ?」

 「・・・・・・」

 その指が差した人物は、腕を組んで立ったまま、何も言葉を発さない。肯定とも否定とも取れない表情で、こちらを睨みつけるだけだった。

 「・・・・・・豪田林・・・・・・力」

 ニヤリと微笑んだ東輝が指摘した、新一君の背後に立っていた剛田豪に、全員の視線が刺さった。




 「えっ、どうゆう事?」

 「分かんねー。難しいー」

 「しっ、静かに!」

 フロアの生徒達のざわめきが、東輝の耳にもしっかり届いていた。

 まぁ、当然の反応だろう。自分も初めて、この推論を導き出した時は正直、まさかと思った。

 「・・・・・・」

 犯人と指摘された、剛田豪。もとい豪田林力は、特に騒ぎもせず、静かに東輝を見つめていた。

 「ふむ。俺————いや、つまり豪田林力は〝自殺〟という事か? その根拠はあるんだろうな?」

 「当たり前だ」

 そう言うとスクリーンに、力の死体に本棚が重なった所を捉えた写真が映り出す。

 あらかじめ、今回の推理のために用意した映像を映写室にいる同級生にお願いしたのだが、タイミングが先程からバッチリで、大変説明がしやすかった。

 「さっきも話した、この本棚だが、自然に倒れるなんて事は、まずありえない」

 「あぁ」

 「つまり、故意に倒されたという事。だったら何のために? この疑問がずっと引っかかっていたんだが、〝力が自ら死を選んだ〟と仮定した時に、一つの案が浮かんだんだ」

 「?」

 「自分では、背中にナイフを刺す事は出来ない————だとすれば〝刺してもらうしかない〟だろう?」

 そう言って東輝は、すぐそばに立ててあったマイクスタンドを横に倒した。

 ————ガタンッ。

 体育館内に大きく響き渡った音は、まさしくあの映画で聞こえた物音と似たようなものだった。

 その様子を黙って見た剛田は、鼻で小さく笑っている。

 「お前の言いたい事は分かったぞ、西山。だが本棚を利用してナイフを刺すにしても、倒す者がいなければ、無理ではないのか?」

 「もちろん仕掛けをして、一人でも倒せるようにしたに決まってるだろ。その証拠も、ちゃんと見つけてる」

 二人の会話を全生徒が聞き入っているせいか、シンと静まり返ったフロア内には、外で部活動中の野球部のバッティング音だけが、やけに大きく響いていた。

 「あの写真を見てくれ。あれは元々本棚が置いてあった場所の床を撮影したものなんだが、おかしな物が色々あるだろ?」

 「・・・・・・」

 ステージ上の人物達も言われて、スクリーンに映った画像を見始める。

 「えっと、本がたくさん散らばっているって事っすか?」

 「まぁ、それもあるが————南」

 「は〜い! まずは入り口付近に置かれていたはずの、小さな猫の置物が何故か落ちています! それから、やけにこの場所の床に水溜りが出来ている! こんな所ですか、東輝探偵!」

 「あぁ、それでいい」

 「やったー! ちゅっちゅっ! おーい、分かりましたか? ばか」

 「あれ? 俺もばか認定されてる」

 重要なポイントを南に説明してもらっている間に、一旦床に下ろした自分のカバンの中から、ある物を取り出した。

 「二つのおかしな点の理由を今から説明するぞ。まずは、このイチゴ牛乳が、現場にあった本棚だと思ってくれ————」

 右手に掲げたイチゴ牛乳の紙パックを見て、至る所で事件とは全く関係が無い、変なざわめきが起こった。

 「え、何? 何でイチゴ牛乳?」

 「あぁ、そういえば西山君って、イチゴ牛乳好きなんだって」

 「そうなんだ、なんか可愛い」

 「・・・・・・」

 トリックの説明に用意したのに、失敗した。と一度咳払いをした東輝は、次にいつも使用してる消しゴムを取り出し、それを床に置いたイチゴ牛乳の下面の片方に挟んだ。

 するとイチゴ牛乳のパックは斜めになり、東輝が手で支えていなければ倒れてしまう状態になっている。

 「なるほど、つまり消しゴムは、あの小さな猫の置物の代わりという事ですね? でもそれだと角度がつき過ぎて、すぐに倒れてしまいますよね?」

 五郎がステージ床に置かれた、それらを見て意見を出してきた。

 「そうだな、これでは被害者がベットに寝る前に倒れてしまう。そこで〝コレ〟を使う」

 そう言うと東輝は、カバンから出した透明な袋から、登壇している一人一人に、その中に入っていた、白い塊を手渡していく。

 「これは」

 「えっ?」

 「先輩、これって〝角砂糖〟ですか?」

 そう言うと南は、早速その白い塊を口の中に放り込んで「あま〜い」とニコニコしていた。

 他の登場人物も舐めたり、口の中でガリガリと噛んでいる様子をしばらく見て、東輝は小さく微笑んだ。

 「この角砂糖を置物とは逆方向に、いくつか置く事でバランスが取れる。一応先ほどペンションでも確認もしてきた。映像も撮ってきたから、確認したい方は、どうぞ見てくれ」

 「・・・・・・」

 剛田が手の中の角砂糖を見つめたまま黙っている横で、静が質問をしてくる。

 「ですが、今度はバランスが取れてしまうのでは————」

 「静さん。スクリーンに映っている本棚のあった場所を写した写真には、置物以外にも何かありましたよね?」

 「えっ、えっと、確か水溜りが————」

 「あああああああああああ、まさかぁぁぁぁぁあああああ」

 南の絶叫に登場人物のみならず、フロアの生徒、そして東輝までもビクッと体が反応してしまった。

 「だ、だ、だ、だから力さんは、窓を開けっ放しにして雨を入れてたんですねぇ! 東輝先輩は、本当に天才!」

 南が両手の平をパンッと合わせて、目を見開いている横で、沖田八美は口をポカーンと開けたまま止まっている。

 「えっ、はっ? ど、どうゆう事ぉ?」

 「よし! 教えてやるから、よく聞いておけ! ビッチ!」

 「小娘ぇ! 表出ろぉぉぉぉおお!」

 吠え合う二人を無視して、他のみんなにも分かるように東輝が代わりに説明を始める。

 「砂糖は、水で溶ける」

 砂糖は、分子の中に水とよく馴染む部分(親水基)を持って降り、そこに水分子の水素結合の力が作用して、水分子とくっつき、塩などと同様に均一に分散して溶け込む。

 この事を東輝は、昔読んだ推理小説から得ていた。

 「あぁ!」

 「えっ! マジっすか! すげぇなぁ!」

 「探偵さん。つまり雨水が窓からどんどん中に入ってきて、徐々に床に置かれた角砂糖が溶けて無くなり、均衡を保っていたはずの本棚が————」

 その五郎の言葉に頷きながら、先程倒したマイクスタンドを立て直す。

 「倒れる、という事」

 「でも、わざわざ窓を開けて雨を待たなくても、自分で水を流した方が早い気も・・・・・・それに、この日に雨が降らなかったら、このトリックは使えませんよね?」

 相変わらず五郎の指摘は的確だな、と感心しつつ東輝は、そろそろ仕上げだと気合を入れ直した。

 「劇中での、力と静さんの会話の中に前々から〝誕生日当日は天気が悪い〟という言葉が出てきていたから、天気予報などを確認して、晴れになる可能性は低いと予想出来たのだと思う。自分で水を流さなかったのは、窓が開いていないのに不自然に床に水が溜まっていたら怪しまれて、成分を警察に調べられたら、トリックがバレてしまう恐れがあるから。それでは、被害者は体が拘束されたわけでも、薬類を使用されたわけでもないから他殺はないと判断されかねない・・・・・・。外に足跡をわざわざ残したり、一さんを呼び出したりしたのも、全て自殺ではなく〝他殺と思わせたかった〟力さんの工作なんだ」

 ————カーン。 という野球部が、長打を出した音が響く中、先ほどから黙っていた剛田がやっと口を開いた。

 「そこまでして、他殺と思わせる理由はあるのか?」

 「推測になるが、力は重い病気にかかっていたんじゃないか? 劇中でも体調が悪いという話が出てきてたしな。それにこれだ————」

 東輝が夏服の胸ポケットから紙を出すと同時に、背後のスクリーンにも同じ物が表示された。

 「半年前に加入した生命保険の書類を、力の部屋で見つけた。受取人が豪田林静になっていたから、おそらく奥さんに保険金を残してやりたかったんじゃないかって思ったんだ」

 生命保険が自殺ではもらえないという事は、これまた、以前読んだ推理小説に書いてあったので知っていた。この事から、力の部屋で書類を見つけた時点で、自殺説を疑っていたのだ。

 「だが待て。まだ力が自殺とは、それだけでは決められないだろ。保険金目的の妻の犯行の可能性だってまだ————」

 「いや、それは絶対にありえない。むしろ静さんだけは疑われない工夫をしていたしな」

 「え、夫が? どうゆう事ですか!」

 「ふなぁ!」

 驚いた静が東輝の腕にしがみ付いてくる。その姿を見て背後から、嫉妬の炎が上がったような気がしたが、無視する事にした。

 「キッチンからは普段だったら、力の部屋の前に通じるドアがあった。それを使えば皆さんが見ていない内に移動する事も出来たが、当日は無理だったよな?」

 その言葉に静は、手の平で口元を抑えた。

 「もしかして・・・・・・あ、あの段ボール」

 あの事件当日の朝に届いたという荷物は、今回の事件の計画をした力が、妻を疑われないようにするための処置だったのだろうと話すと、剛田は鼻で東輝を笑う。

 「ではナイフは、どうやって刺したというんだ! 本棚にくっ付けたとしても心臓を正確に狙うなんて————」

 「誰が本棚に、くっ付けたなんて言った?」

 「何?」

 東輝は再びカバンの中に手を突っ込み、二冊の本を取り出した。するとその表紙を見た南は、両目をキラキラさせて近付いてくる。

 「おぉ! それは捜査の時に見つけた『絡新婦の理』! もう一冊は東野圭吾先生の『白夜行』ではないですか!」

 他の生徒達にも分かるように掲げたあと、その二冊を剛田に手渡した。

 「まぁ、ここまですれば事件の全貌を知っているお前には分かるよな? どちらの背表紙にも付いている、この擦った跡」

 「えっ! 『白夜行』の方にもあるんですかぁ!」

 慌てたように南は、剛田の手の上にあった二冊の本の背表紙を手でなぞり始める。

 「見て分かるように、この二冊は、小説の中でも、かなりページ数の多い作品で有名なんだ。力はこの二冊の間にナイフを挟んで、それを背中の心臓付近に設置した。あとは角砂糖が溶ければ、本棚が倒れ、その重さでナイフが刺さるってわけだ」

 まぁ、それでも何度かテストはしたのだろう。自分と本棚の位置、砂糖の解ける時間、何冊ほど本を本棚に残せば、砂糖が砕けずかつ、自分の背中に刺さるか————など。その証拠に本棚の置いてあった位置の床やベッドには、何かを引きずった跡や叩きつけたような跡が、沢山残っていた。

 「ページ数が多い本は、それに比例して厚くなりますからね。支えにするには丁度よかったって事ですかぁ」

 「・・・・・・」

 何か反論でもしてくるかと思って待ってみるが、黙り続ける剛田だった。そこで東輝は、今回の事件のシメに入る事にする。

「ちなみに今回の事件は、他の者の犯行は、絶対にありえない。なぜなら今回の自殺に使われたトリックは全部、〝この家の内部の事情を知る者〟以外出来ないからだ」

 「・・・・・・」

 「これも映画の中で話してたろ? パーティー参加者、沖田一家、豪田林五郎は〝今回初めてペンションを訪れた〟って、それなのに、力の部屋の床が少し傾いている事を、何で知っている。角砂糖を雨水で溶かすトリックは、いきなり思い付いて出来るわけがない」

 「・・・・・・」

 尚も沈黙を続ける、剛田の握り締められた拳が、プルプルと震えたのが見えたので、東輝は黙って次の言葉を待っていたが、いきなり南が彼の前にテクテクと歩いて行った。

 「どうだ? この推理は正解か?」

 「・・・・・・」

 「黙ってちゃあ〜 分かんねぇぞ、ゴラァ!」

 「南、ヤンキーになってんぞ」

 「おっと、おっと。にゃんにゃん」

 ————ガタッ。

 突然、剛田がその場に膝をつき、悔しそうに強く呼吸を繰り返していた。

 「く・・・・・・そ・・・・・・」

 「で、どうなんだ?」

 東輝も一歩踏み込んで、演劇部部長に近付こうとすると。

 「読書部の勝利だよ」

 「!」

 いきなり、低めのしゃがれた声が聞こえてきたので、振り向いてみると、ステージ袖から、この学校の校長先生が、ゆっくりとしたテンポで歩いて来ていた。

 「校長先生?」

 「豪田林力は自殺。本棚と角砂糖のトリックも、見事に的中しているよ。西山君」

 そう言うと校長は、東輝と南に向けてパチパチと小さな拍手を送ってくる。

 それに対して、何が何だか分からない読書部の二人は、目を合わせるしかなかった。

 「剛田君に頼まれてね、映画の後編を先に見させてもらった後、そのディスクを、私が預かっていたんだよ」

 「なんで校長先生が?」

 南が顎に人差し指を当てながら尋ねると、顔いっぱいに皺を作りながら、クシャっと笑う校長が、膝をついて頭を垂れている剛田の肩を優しく叩いていた。

 「〝正々堂々〟別のオチで、製作した映画を出すなんて卑怯な真似はしないという、誠意の現れだね。なっ、剛田君?」

 「・・・・・・」

 「剛田」

 コイツのこういった熱量や、誠意、演劇部に対する思いっていうのは、素直に凄いと思うし、別の出会い方だったら、この場で拍手を送っていたろうな、と東輝は思った。

 最後の校長の発言をきっかけに、演劇部VS読書部の推理勝負は読書部の勝利という事になり、会場中の生徒達から盛大な拍手が巻き起こった。

 「えっへへへ〜、どうもぉ! どうもどうも!」

 「・・・・・・」

 スタンディングオベーションをする生徒達の声援に応えるのに夢中の南は気が付いていないが、ステージ上の登場人物達も、いつの間にかこちらに拍手をしている(海老原はムスッと腰に手を当て、そっぽを向いているが)。

 その中の一員である豪田林静役の小松菜々に対して、東輝が軽く頭を下げると、彼女はビックリした表情で固まっているのが分かった。

 「さて」

 室内の歓声に簡単にかき消されるくらいの、ため息をつきながら、まだ膝をついて落ち込んでいる剛田に歩み寄る。

 「剛田」

 「お前の・・・・・・いや、お前達の勝ちだ。悔しいが約束は守るぞ。今後は、北野南を勧誘するのはやめ————」

 「それも、そうだけどな・・・・・・」

 一呼吸置いて、少し目を瞑った東輝は、剛田の前にしゃがみ込み同じ目線になると、その手にあった二冊の本を回収した。

 「例え映画のトリックに使うためとはいえ、本を絶対に傷つけんな。これは作者一人一人の魂が込められている、大切な物だ」

 真っ直ぐ、目の前で膝をついている彼の瞳を見つめると、何かを察したかのように息を吐き頭を下げてくる。

 「・・・・・・あぁ、すまない」

 「それと」

 ————これで、本当に終わりだ。

 カバンを肩に掛けて立ち上がった東輝は、南の背中を押してステージ袖に移動しながら言い放つ。

 どうしても許せなくて、必ず言ってやろうと思っていた言葉を・・・・・・。

 「読書部は、無駄な部活じゃねぇ————お前には分からねぇ大切な物が、いっぱい詰まってんだ。覚えておけ」

 「・・・・・・」

 「東輝先輩」

 「南、帰るぞ」

 生徒達の盛大な拍手の中、唇を噛み締めたまま剛田は、立ち去る男女の背中を静かに見つめていた。




 ————キーンコーンカーンコーン。

 演劇部との推理勝負に見事勝利した翌日の放課後。北野南は教師に怒られると分かっていながらも、全力疾走で廊下を駆け抜けていた。

 「いつまでも追ってくるなー、警察————いや! 保健所に電話するぞぉ、ゴリラぁ!」

 「何故逃げるんだ! 待つんだ北野!」

 帰りのHRが終わり、さぁ部活動の時間だ! と意気込でいた南を廊下で待っていたのは、愛しの西山東輝ではなく、演劇部部長の剛田豪だった。

 「くっ、もう! 勧誘はしないって、約束ですよね!」

 廊下の突き当たりに追い込まれた南は、振り向きざまに文句を言うと、足を止めた剛田は首を横に振ってきた。

 「勘違いするな。我ら演劇部に何かしてほしい事はないか、と聞きに来ただけだ」

 「してほしい事? ・・・・・・あぁ!」

 息を整えながら自分達が、もし勝負に勝った場合、北野南の勧誘をやめるとは他に、演劇部が今後、読書部に何かあれば協力するみたいな事を言っていたのを思い出した。

 「だったら、初めに言って下さいよぉ」

 「いや、お前が逃げ————」

 「まぁ、いいですよ。てか、そうゆう事は、東輝先輩に聞いて下さいよ」

 早々に話を切り上げて早く部活に行きたい南は、適当に返事を返しながら、剛田の横を通り抜けようとする。

 「西山には先ほど聞きに行って、奴の頼まれ事は達成してきている」

 「へぇ、何を頼まれたんですかぁ?」

 ゴリラとの会話を、これ以上長引かせたくは無かったが、愛しの西山東輝がしたお願い事の内容は気になったので、その場で足を止めた。

 「あいつには————」




 「ナイスバッティング!」

 「あと三週だよー ファイオー!」

 「ねぇ、帰りどっか寄らない?」

 「あっ! あそこのパフェ美味しいよね」

 放課後の化学準備室で、一人机に乗ったイチゴ牛乳を飲みながら、読書を楽しむ西山東輝の耳には、様々な生徒達の声が聞こえている。意外と読書をする時は、全くの無音より、こんな感じに少し音が聞こえている方が返って物語に集中出来るので東輝は、この場所が最近居心地が良くなっているのは、そういう理由なんじゃないかと考えていた・・・・・・そう最近までは。

 ————ガラガラ。

 「あなたぁ、帰ったわよぉ」

 「おぅ」

 「帰った妻にす・る・こ・と! 忘れているわよぉ、ほらっ! チュー」

 「おぅ」

 「ちょっとぉ! 本の世界から出てぇ! リアクションしてぇ!!」

 向かいの席に飛びつくように座った南に、一度目を向けると、やけにボサボサな髪が気になったので質問してみる。

 すると、溜息混じりの答えが返ってきた。

 「あのゴリラに追い回されましたぁ・・・・・・最悪です!」

 「ゴリ————あぁ、剛田の事か。何で追い回されてたんだ?」

 「あれですよ、負けたら演劇部は読書部に今後力を貸す云々・・・・・・あっ、そういえば先輩、それっ!」

 いきなり南が、机の上のイチゴ牛乳を指差したので、何事かと思っていると。

 「聞きましたよ。あのゴリラに「イチゴ牛乳を買ってこい」なんてお願いをするなんて、そうゆうドSな所も、凄くいいですねぇー。あぁぁぁ、私もこき使われたい!」

 「やめろ、人聞きの悪ぃ」

 うっとりした表情で体をクネクネとさせている、目の前の気持ち悪い生き物から手元のページに目を映しながら、一応返事は返してやることにする。

 「あいつ昼休みの時からしつこくてな。仕方ねぇから、これだけ買ってくれば、しばらくは頼みたい事はないからって言ったんだよ。もちろん金は払ってる」

 そう言ってイチゴ牛乳を手に取り、ストローに口をつけると、南も今後は用がある時は、こっちからお願いに行くから、その時まで近付くな! と宣言してきたと熱弁していた。

 そのあとは、一方的に今日あった学校での出来事を楽しそうに話していた南も、少し経つと自分の持ってきた本を読み始めていた。

 「・・・・・・」

 「・・・・・・」

 大人しくしている彼女は本当に〝清楚なお嬢様〟という言葉が似合うなと素直に思い、思わず見入ってしまった。

 「あっ、そういえば」

 「な、なんだ?」

 突然本をパタリと閉じた南が、いきなり話しかけてきたので、ビックリして不自然な反応を返してしまった。

 そんな東輝に対して、特に気にした様子もなく、彼女は人差し指をピンと顔の前で立てている。

 「昨日解き明かした『ハッピーバースデイの悲劇』で気になってる事があるんで、質問していいですか? お礼にチューしてあげるので!」

 「チューはいらないが、どうぞ」

 「酷っ! まぁいつも通りで安心しますが・・・・・・では、まず一つ! 先輩は何で本棚を倒したトリックが、角砂糖だって分かったんですか? ぶっちゃけ、氷でも大丈夫なんじゃないかと私は思っていたんですけど」

 「あぁ」

 手の中に収まった本の世界へ早く戻りたかったので、早口でこの質問に対する答えを返してやる事にする。

 「捜査終了直前に現場で、お前がペンを落とした時、本棚のあった位置に沢山の蟻がいたろ」

 「うわぁ、いましたねぇ。うっ! 寒気が!」

 思い出してしまったのか、両手で自分を抱きしめながら震えていた。

 「あれを見た時、何故ここに集まっているんだろう? って思って床を触ってみたら、ベタベタして仄かに甘い香りもしてたんだ」

 「そっか! あの時、先輩がすぐに離れなかったのって、それを確認していたからなんですね! にゃるほどぉ〜 あの水溜りには角砂糖が溶け出していたから蟻が————」

 このように、明らかに水以外の物が含まれていたし、それに氷では溶けるまでの時間が、予測しづらいなどの理由から可能性は低いと踏んでいた。

 東輝の細かい説明を聞きながら「ウンウン」と頷いて腕を組んでいる南に、机の端に置いてあった茶色い缶を指差す。

 「ん?」

 「でも、角砂糖のトリックに気が付けたのは、間違いなく小松菜々のお陰だな」

 「えっ、菜々さん?」

 ビックリして缶と東輝の顔を交互に見比べている姿が、若干小動物に見えて可愛く感じてしまったので、心を落ち着かせるためにイチゴ牛乳を一口飲み説明を再開した。

 「俺達が、あのペンションから立ち去る前に、渡してきたお土産の紅茶。どう考えてもおかしかったろ」

 「まぁ、確かに」

 実はお土産をもらって家に帰ったあと、何かのメッセージじゃないかと考えて東輝は色々と紅茶について調べていたりしたのだが、そこでは何のヒントも得られなかった。

 「推理発表当日のお昼休みに、お前が紅茶を飲んだ時「ミルクか砂糖を」みたいな発言をした時に、映画内で静が、みんなに紅茶を出すシーンを思い出した。あの時、新一が机の上の角砂糖を入れるシーンが映ってたろ」

 「なるほど・・・・・・って! そんな事で、あのトリックに気づいたんですかっ? どんな脳みそしてるんですか!」

 「どんなって・・・・・・閃いただけだ」

 確かにヒントとしては、かなり難易度は高く。もしかしたら出したかったヒントは、もっと別のものかもしれないが、小松が南の幼馴染で、味の好みなども熟知している、さらには『この紅茶は苦い』と渡す直前にわざわざ念押ししてきた事から、概ね当たっているのではないかと、個人的には思っている。

 「んん〜、まぁ今までも化物じみた閃きをしていたのは確かですけどね。んん〜、菜々さん、私たちを助けてくれたんですかね?」

 「・・・・・・おそらくはな」

 前回と今回の事で、彼女は酷く悩んでいたのだと思う。大切な友達を傷付けてまで勝ち取った今回の映画の役を演じながら、演劇部員としては、きっとダメな事だったのに、それでも彼女は俺たちにヒントをくれた・・・・・・。

 「・・・・・・」

 嬉しいような、悲しいような、複雑な表情をした南は夕暮れに染まる空を眺めていた。その姿は、さながら映画のワンシーンのようで、思わず東輝はまた見入ってしまう。

 「・・・・・・うん」

 しばらく沈黙が続いたあと、いつも通りの笑顔に戻った南は、再び質問をしてきた。

 「新一君がトイレに行っていた時に見た、力さんは何していたんですかね? 何かの作戦?」

 「あれは、足跡をつけた帰りだろ」

 「?」

 「最初にリビングから出た力は、まず玄関から一の靴を履いて出て、自分の部屋の窓の前まで足跡をつける」

 口の説明だけだと分かりづらいかもしれないので、机の端に置いてあった紙とペンを手に取り、簡単な図を書いてやった。

 「一さんの靴を履いたのは、疑いの目を向けるためですか?」

 「あぁ、多分足跡を警察が調べたりしたら、一の靴の裏と、一致したと思う」

 さすがに東輝も見ただけでは分からないので、これはあくまで想像しただけだが。

 ちなみに、力と静の靴には泥も何も付いていなかった所も、妻に疑いの目を向けさせない工夫だと思う要因になった。

 「そのあと、窓から自分の部屋に入ると、靴を持ったまま部屋から出て、再び玄関に靴を戻して部屋へ帰るというわけだ」

 「その時に新一君に見られていたんですね!」

 「あぁ」

 頷きながら、手元のペンを回した後に、机の上に放り投げた。

 「な〜んだ、どうやって扉に外から鍵を掛けたのか楽しみにしていたのに、単純に自分で、中から締めただけなんですかぁ〜、つまんな〜い」

 「真実なんてものは、そんなもんだ」

 つまらなそうに口を尖らせる南は、紅茶の缶を手に取ると電子ポットの方へと歩いて行った。

 「先輩は、イチゴ牛乳があるから要りませんか?」

 「おぉ、大丈夫だ」

 「は〜い。あっ、あの廊下に落ちてた土も————」

 南が自力で気付いたので説明は省いたが、捜査が終わり部屋から出る時に廊下で見つけた土は、おそらく力が泥だらけの靴を持って玄関に行く時に、偶然落ちて、それが乾いた物だったのだろう。

 こうゆう細かい所にも、きちんと証拠を残しているあたり剛田の〝正々堂々〟の精神が、あの映画には現れていた。

 「ありがとうございます先輩! これで疑問に思っていた事は全部聞けましたよぉ!」

 淹れたての紅茶をマグカップに注ぎ終わった南が、全ての疑問が解消されスッキリした表情で、向かいの席に腰を下ろした。

 「本当に、東輝先輩は名探偵ですね! 格好良すぎますって! 今回の一件で、全校生徒から『よ、名探偵』って言われそう!」

 「・・・・・・」

 「?」

 満面の笑みを浮かべる南を一瞥した東輝は、読んでいた本を閉じて机に置き、頭を深く下げた。

 「え、え、え、え、どうしたんですか、先輩?」

 驚いてアタフタしてる南に頭を下げたまま、東輝は今回の件を改めて詫びた。

 南は気にしていないようだが、やはり・・・・・・ケジメだ。

 「今回は本当に、俺の勝手に巻き込んじまって、悪かった」

 「い、いえいえ! そんな頭下げないで下さいよぉ」

 「もっと冷静になるべきだった」

 ————そうだ、俺が憧れる名探偵達は、いつも冷静沈着だ。なのに、俺は・・・・・・。

 「もういいですよぉ。気にしないで下さい」

 「もし負けていたら、お前の今後の生活を変える事態になっていたかもしれなかったのに」

 ある意味、南を危険な目に合わせていた。俺が憧れる名探偵なら、絶対もっと上手くやれるはずだ・・・・・・。

 「俺は、名探偵なんて器じゃない。頭に血が昇って、剛田の挑発に乗って、無駄な勝負を受けるなんて、本当に馬鹿だ」

 「無駄じゃないです!」

 東輝の独白に対して、突然「ダンッ」と机を両手で叩きながら南が立ち上がったので、驚いて思わず顔を上げてしまった。

 「あのゴリラは私の、私達の大事な部活を侮辱したんです! あそこで、あの喧嘩を買わないなんて選択肢は、ありえませんでしたよ!」

 「・・・・・・」

 そう叫んで、鼻息荒く、顔を真っ赤にして怒る南を、ただ見つめるしか出来なかった。

 「東輝先輩が勝負を受けてくれて、最初は確かにビックリしましたけど、でも、それと同時に嬉しかったんです! 先輩もこの部活の事、私の事を大切に思ってくれてるんだって!」

 「!」

 何かが、砕ける音が聞こえた。

 そして、じんわりと暖かい何かに、自分が包まれているような感覚に、全身が満たされていく。

 ————あぁ、そっか。

 「・・・・・・」

 以前、姉に最近熱心に部活動に勤しんでいる事を言及された時、自分の中で直ぐに答えを出せなかった。いや、気付いていたのに、気付かない振りをしていたのか・・・・・・。

 「そして。演劇部との対決の時も、菜々先輩との時も、河童池の時も、社会科準備室の時も、宇佐美ちゃんの時も————いつもいつも先輩は、私に力を貸してくれた! そして、私の事だけじゃなく、事件に関わった人達も救ってきた!」

 「・・・・・・南」

 「困った人を助けるヒーローであり、名探偵! ・・・・・・他の誰がなんと言おうが、例えあなたが、あなた自身を認められなくても、あなたは、名探偵なんです! 私は、信じています! よく覚えておいて下さい!」

 目の前で、大きな瞳で必死に訴えかけてくる読書部の一年生、北野南。

 彼女の一言一言が、ズシンッと胸に響いた。


 『名探偵だって、西山君また言ってるよ』

 『いつまでも子供じゃないんだから、漫画の読み過ぎだろ』

 『実際に殺人事件とかに遭遇するわけねぇじゃん。馬鹿みてぇ!』


 ————少しは、信じてみても・・・・・・自惚れてもいいのだろうか・・・・・・自分が憧れた、あの名探偵達に、少しは近付いているという事を。

 「南」

 「はい」

 「・・・・・・」

 「・・・・・・」

 「・・・・・・・・・・・・ありがとう」

 「!」

 東輝は静かに椅子から立ち上がり、ぐるりと南が座る反対側に回ると、彼女の小さな頭にそっと手を置いた。

 「えっへへへ」

 嬉しそうに頬を赤らめる南。この子の真っ直ぐさに、東輝自身が救われた。

 そして、自分にとって北野南という女子もまた、憧れのヒーローの一人になった。

 「・・・・・・」

 「んふー んふー」

 「?」

 ふと気付くと、南はニヤニヤしながら東輝の胸元に頬をスリスリとしていた。

 「・・・・・・何してる?」

 「いや、だってこれはもう・・・・・・そういう事ですよね?」

 その表情は、まるで獲物を狙う女豹のようだ————。

 「なんだ?」

 「いや〜ん! しらばっくれちゃってぇ! 先輩、私に惚れちゃったでしょお! えっへへ〜」

 「は? な、何言って————」

 「ま、ま、積もる話もありますが、とりあえず・・・・・・ほら、どうぞ」

 椅子から立ち上がり、南が両手を広げて徐々に近付いてくるので、東輝は慌てて手を引っ込め、ゆっくりと後ろに下がった。

 なんだか、とても嫌な予感がする。

 「何故、近寄ってくる」

 「だってぇ〜 ・・・・・・抱きたいでしょ?」

 「抱きたくねぇ」

 「んん〜、ええい! 強行突破!」

 「来んな!」

 さっき出した答えを、もし今のコイツに口にしようものなら、もっと酷い事になるな————と、その小さな頭を押さえつけながら東輝は思った。




 片手にブックカバーをつけた一冊の本を手に、宇佐美弓月は、放課後の廊下を歩いていた。

 この本は同級生の北野南に借りた物で、読み終わったから部活に行く前に返そうと思っていたのだが、帰りのHRが終わった途端に、三年の剛田豪先輩に追われて彼女は、どこかへ走って行ってしまったので、とりあえず彼女の所属する読書部の活動場所まで届ける事にした。

 「昨日は南ちゃんも、西山先輩も凄かったな」

 演劇部VS読書部の推理勝負。

 宇佐美は、どうしても読書部に勝ってほしかった。

 あまり普段関わり合いはないのだが、以前に一度だけ、自分が遭遇したある事件の謎を解いてくれた事があり、そこから南とはさらに仲良くなり、話す頻度も今では増えている。

 そんな彼女が話す事といえば、読書部の事で、そこにいる西山先輩の話が大半なのだ。新しい本を買った。顧問の先生の話。たまに舞い込む謎解きなど、本当に毎日部活を楽しんでいるのが分かった。

 だから彼女が読書部をやめる事にならなくて、本当に良かったと宇佐美も、心の底から安堵したのだ。あんなに毎日幸せそうな彼女の悲しむ顔なんて見たくはない————。

 友人が救われて良かったと、昨日は自分の事のように宇佐美もはしゃいでしまった。

 「よし、着いた。南ちゃんいるかな?」

 【化学準備室】と書かれたドアの上のプレートを確認した宇佐美は、扉をノックしようと右手を上げると、そこから男女二人の大声が聞こえてきた。

 「だってぇ〜 ・・・・・・抱きたいでしょ?」

 「抱きたくねぇ」

 「んん〜、ええい! 強行突破!」

 「来んな!」

 いきなりでビックリしたが、何だか微笑ましい、その掛け合いに思わず笑ってしまう。

 ————良かったね、南ちゃん。

 今日のところは出直そうと、上げた右腕を下ろし、肩に掛けていたカバンに本を大切に仕舞った宇佐美は、二人の男女の声を背中に浴びながら、夕暮れに染まる廊下を静かに歩き出した。

 「あー、補習だりぃー」

 「あんたが馬鹿だからでしょ!」

 「いや、お前もな! 今から一緒に補習だろ!」

 「二人ともうるさいから、早く行こうよ」

 すると、廊下の向こうから複数人の男女が歩いてきて宇佐美とすれ違った。1年生では見覚えがないので、2.3年生だろう。

 「————あれ、ここってさ、あれじゃん。名探偵の」

 「ん、何? 化学準備室がどうしたの?」

 「あれだよ、この前の演劇と対決した読書部って、確かここで活動してんだよ」

 ふと聞こえてきた会話に、思わず宇佐美の足は止まり、そっと振り返ると、すれ違った男女グループが化学準備室の前で立ち止まっていた。

 「あの子、可愛かったよなー、えっと、北野南ちゃんだっけ!」

 「いや本当にアイドルみたいだったね。同じ女として自信なくしたわ」

 「ギャハハハ、お前じゃ、レベル違い過ぎ!」

 「はーん? ぶっ倒すよ、あんた!」

 流石は、一年生中でもアイドル化してる南だ。上級生にも既にファンが出来てそうだと、宇佐美は思った。

 「もう一人の男子って、あれ3年の先輩だよね? 名前何て言ったかな?」

 「あの人、格好良かったよね。眼鏡姿が秀才って感じで」

 「そうかぁ? 俺の方がイケてねぇ?」

 「全然」

 「なっははは・・・・・・名前、忘れたなー。2年生の間じゃ〃名探偵〃って、あだ名だもんな」

 「そうそう。私も、それで覚えてちゃった! 何て名前だっけなー」

 「今度、何かあった時は、相談しに来てみようよ」

 「いいねぇ————って! やばっ、そろそろ補習!」

 スマホの時計を見て慌てた、男女グループはその場から駆け出した。

 一気に静けさを取り戻した廊下に一人佇む、宇佐美はチラリと目線を上に上げる。

 【化学準備室】

 扉の上に取り付けられた、その白いプレートを一瞥し、再び男女グループが走り去った廊下奥に目を向けると、小さく微笑みながら呟いた。

 「読書部の名探偵・・・・・・西山東輝ですよ」

 



 諦めかけていた存在に、彼はようやく近付いた。

 ただそれは、彼一人の力ではない。

 様々な事件が・・・・・・

 そこで出会った人々が・・・・・・

 最高のパートナーがあっての事だ。

 そんな彼が、真の名探偵となるのは、もう少し先の物語。

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読書部の謎解きディスカッション くろすけ。 @kurosuke3

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